一章 ゆゆしき入内は花嵐のごとく

その1


 料理をするひめというのは、平安の世において、ひどくかいに見えるらしい。

 ふじわらさくらこがそのことに気づかされたのは、数えで八さいかみぎのしきで髪をそろえたばかりで、びきらない前髪が少し目にかかるくらいの頃だった。

 美しい絹のころもを着せられて、つちかどにある広いしきから一歩も出ることなく大切に育てられた桜子は、めぐまれた暮らしをしていながら、どうしても一つ不満があった。

 毎日二回、朝と夕に出される食事についてだ。

「おいしくない」

 緑豊かな庭園が望める一室で、顔をしかめた桜子は、口をつけた白木のさじを下ろした。

 手元のうつわには、朝食として出されたかゆが、たっぷりと盛られている。

 白いもちごめを大量の水でいたもので、ちっとも味がしないし、どろどろしていてのどごしが悪い。飲み込むたびに、体の内側に張りついていく気がする。

 他におなかを満たせるものはないか探すが、皿にせられているのは、焼いたぶりや切っただけのこんうりかすけといったわりえのしないこんだてだ。

「また、いつもとおんなじ……」

 これらのおかずは、周囲に並べられた、塩、などの調味料を盛った小皿にひたして味を付けながら食べるのだが、これがまたおいしくないのだ。どんな材料も、しおからいか、っぱいか、味噌っぽい味になって、すぐに食べきてしまう。

「もう、やだ。ごちそうさま」

 桜子はうんざりして器をもどした。世話役の乳母めのとから「姫様、もったいないですよ」と注意されると思って首をすくめていたが、いつまでってもおしかりがこない。

 不思議に思って見れば、乳母は、重ねたうちきの間から竹の子のように顔を出して、うつらうつらとねむりしていた。昨夜、屋敷で行われた花見のうたげおそくまで続いたようだから、かししてしまったのだろう。

 規則正しく上下する額をながめるうちに、桜子の頭に悪い考えがよぎった。

「全部食べたことにして、自分でだいばんどころに戻してしまえばいいんだわ」

 善は急げとばかりに、桜子は、ほとんど手をつけていないぜんを両手で持ち上げた。

 そうっと自分の室を出て、足音が立たないようにろうを進んでいく。

 かべぎわではなく真ん中を通るのは、住居としてあてがわれた東のたいのあちこちに、父が集めたからものかざられているからだ。それらは、海の向こうにあるとうという国の品である。

 もうぎゆうの角にでんを貼った置物やみどりと金にり分けられたずいちようの像など、どれもきらびやかなそうしよくあざやかな色合いをした、美しい品ばかりだった。

 つぼにわにかかるわた殿どのを通ると、びんに放り込まれた枝ぶりが見事な木が目に留まる。

 ほうらいじゆという名前で、時が満ちると紅白のもちの実が成るらしいが、桜子が物心ついてから今まで、餅どころかまともな葉一つ生えたことがない。

 こんな調子で得体の知れないものばかりつかまされる父を、母は不毛だとなげく。

 けれど、桜子はきらいではなかった。

(だって、とってもおいしいお餅が成るのかもしれないもの)

 広い屋敷のはしにある台盤所をのぞき込むと、使用人は一人もいなかった。

 めずらしいと思いながら、桜子は裸足はだしのまま土間に下りる。

 細いけむりを上げてくすぶるかまどには、大きなひらなべが載せられていた。

 かたわらのたかつきには、洗いたてのしろねぎと、干し枝があごさった魚が。

 二つ区切りのわりには、八つ星形の黒い実とさらさらした白いつぶが入れられていて、実からはげき的な、粒からははちみつのようにかんかおりがただよってくる。

 独特なにおいをいだ桜子は、ぴんときた。おそらく、破子の中身は唐の食材だ。

 餅の木よろしく、父は、唐物の中でも特に食にまつわるものに目がない。

「父さまったら、また母さまにないしょで何か手に入れたのね……。ん?」

 ふうげんの火種をどうしたものかとうでを組むと、どこからともなく転がってきた巻物が桜子のつま先にぶつかって止まった。

 拾い上げると、あやおりの表地に金の糸でしゆうされた文字が読み取れる。

しよく?」

 桜子は、唐の文字である漢字が読めた。もんじよう博士はかせからかんせきを学ぶ二つ上の兄にくっついていたら、自然と分かるようになってしまったのだ。

 女の子は漢籍よりも和歌作りやことの演奏、さいほうなどを身につけることが教養とされているので深く学べなかったが、そのうわさを聞いた一族中が「もしも男子だったなら……」とらくたんするほど覚えがよかった。

 美食は『おいしい食べ物』。譜は『それにまつわる一連のもの』。

 つまり、これは『おいしい食べ物を一つに取りまとめた巻物』ということになる。

 巻きひもをほどいて開くと、いろせた紙に食材と調理法が記されていた。


 ──熱したなべに、包丁で刻んだ白葱と魚を入れ、水と八角の実を加える。二はいひしおと山盛り一杯の砂糖を入れてあまみをつけ、とろみがつくまでて、できたあんからませる──


 この手順で『照り焼き』という名の料理が作れるらしい。父は、破子の食材でこれを作ろうとしているのだろうか。

 読み取れはしたものの、桜子には、さっぱり意味が分からなかった。

 この京で出される料理といえば、主に、食材を洗って、切って、熱を通したものだ。

 たとえば、さけを調理すると、火の通った鮭の切り身になる。

 菜っ葉を調理すれば、しんなりやわらかくなる。

 この巻物に書いてあるように、あらかじめ複数の材料を鍋の中に入れて、味付けしてしまうなんて料理は、見たことも聞いたこともなかった。

(おいしいのかな?)

 うずっとこうしんが芽生えると同時に、桜子のお腹は『ぐう』と鳴った。

 必要な食材は用意されている。竈の火も消えきってはいない。戸口から顔を出して外をうかがうと、晴れた春の空に雲はなく、ひとかげもまったく見えない。

 ──やるなら、今しかない!

 心を決めた桜子は、かべ沿いに積んであったまきかかえた。日頃から屋敷を探検しているので、使用人がこれを使って火をおこしているのを見たことがあった。

 竈に薪を放り込むと、くすぶっていた熱で火がともる。

 火力が強まるまでの間に、桜子はだるふたをひっくり返して作ったみ台に乗り、木のがついた包丁を持ち上げた。

(うぅっ、重い!)

 はがねきたえて作られたものは、見た目よりもずっしりと重量があった。

 ぷるぷるとふるえる手で、なんとかねぎを小さめに切り、干し魚も切り分ける。

 しかし、そもそも『刻む』とは、どのくらいの大きさにするものなのだろうか。

 なやみつつ手を動かしているうちに、まな板の上には大小様々な大きさの食材が転がっていた。ぶつ切り、という表現がぴったりだと、この時の桜子はまだ知らない。

 それらを鍋に放つと、じゅうっと小気味良い音が鳴った。

 美食譜では、ここで水と『八角』という実を加えることになっている。

 破子から星形の実をつまみ上げたが、食材にしてはかたい。そのわりにもろくて、さわっているうちにくだけてしまった。びっくりして鍋に入れると、鼻を刺激するこうがのぼる。

 いかにも異国めいたなぞの香りに、桜子の胸は大きくたかぶった。

(わわ、とってもてきな匂い!)

 桜子は、樽味噌のうわみであるしようを鍋にすくい入れてから、破子を見た。

 残っているのは白い粒だ。甘みをつけると書いてあるから、蜂蜜のような味がするのだろうか。小指の先につけてめてみると、みつよりも強い甘みがあった。

 ということは、恐らくこれが『砂糖』なのだろう。破子を逆さにして中身を鍋に入れて煮ていくと、つやを帯びたしるがぼこぼことあわを立てる。

 ちょうど薪がきて、なべぞこを舐めるように盛っていたほのおが収まった。

 ついに完成だ。わくわくと鍋を覗き込んだ桜子だったが、料理を見たら、ふくらんでいた好奇心がしゅんとしぼんでしまった。

「これは……料理、なのかな?」

 正直に言おう。見た目はとても変だ。焼き縮んだ白葱とまばらな大きさの魚に、うるしのように黒っぽい、とろりとした餡が絡んでいる。

 さいばしで持ち上げて匂いを嗅ぐと、甘そうで、しょっぱそうで、ほんの少しげくさい。

 これを食べて、お腹が痛くならないか不安だ。

「き、きっとだいじようよ。父さまが準備していたものだし、一口くらいならっ!」

 桜子は、弱気な心に負けじと、勢いづけて料理を口に入れた。

 料理を味見するというよりは、蜜が甘いかどうか分からない花のがくを、つっとい込む時のきようだめしのような気持ちだった。いちか、ばちか、である。

 舌に載せると、味を感じるより早く、こうばしさが口の中に広がる。

「うーん?」

 香りの次に、甘くも塩気のある味わいが、舌を刺激する。

 続けて、魚をみしめたしゆんかん、桜子の胸の奥がぱちりとぜた。

「これ、おいしいっ!」

 餡のこっくりとした味わいが、あっさりした魚の身を引き立てている。よもや食べ物と思えなかった香りも、葱の青々しい風味と混じり合って食欲をそそった。

 ──もっと食べたい。

 桜子は、生まれて初めてのしようどうき動かされて照り焼きをほおった。魚の端っこのカリカリした食感にうっとりしていると、戸口からひょっこりと顔を出す人物がいる。

「桜子、唐の料理を作ったのかい?」

「父さま!」

 じゆんぼくそうな顔つきのがらな男性は、桜子の父だ。出仕が休みなのでだんかりぎぬを身につけていて、もとどりった頭にはさえかぶっていない。

「食材を勝手に使ってごめんなさい」

 あわてて頭を下げると、父は「いいんだよ」と言いながら竈に近づいて、桜子が作った料理を口に入れた。

「これはい! 本当に一人で作ったのかい、桜子?」

「え、ええ……。おいしいのは、唐の料理がらしいからだと思うわ」

「いいや、料理は作り手の腕が重要なんだ。初めてなのにここまでの味を出せるなんて! 桜子にはてんの才があるにちがいない!」

 かんきわまった顔できしめられて、桜子はうれしくなった。きゃっきゃとさわいでいると、ていないつながる引き戸がすぱんと音を立てて開け放たれる。

「騒ぐ声が廊まで聞こえておるぞ。二人とも、台盤所で何をしているのじゃ!」

 現われたのは、からまつが刺繡された袿を着た母だった。桜子は、元気良く答える。

「料理をしたのよ、母さま! 父さまが準備していた唐の食材と『美食譜』なる巻物に記されていた調理法で作ったの。見た目は変わっているけど、すっごくおいしいのよ! 私は、いつものお粥より、こっちを食べたい。唐の料理を作って食べてもいい?」

鹿を言うものではない!」

 かんだかい声でられて、桜子はきゅっとかたを縮めた。

「台盤所に立つなんて、姫のやることではない! そなたが料理を作ったと知れたら、が藤原一族のはじさらしじゃぞ! 料理を作るのは使用人で、台盤所は使用人の働く場所じゃ。今後いつさい、作ったり口にしたりしてはならぬ!」

「はい、母さま。料理して、ごめんなさい……」

 桜子はなみだになって、父のふところに顔をうずめた。料理を作ったことで、ここまで強く叱られるなんて想像もしていなかったのだ。

 父は、桜子の頭をでつつ、母にうつたえかける。

さとさん、桜子の料理は本当に素晴らしいよ。この才能をねむらせておくなんてもったいないことだ。ぼくらが見守りながら料理を続けさせるべきだよ!」

「……あなたさま、ちょっとこちらへ」

 しんみような顔で手招く母のもとへ、父は、泣く桜子を抱えたまま器用に近づく。

「はいはい、なんです?」

「ふんっ!」

 鼻息あらく父の耳たぶを摑んだ母は、ようしやなく真横に引っ張った。

「あなたさまが唐の食材など集めなければ、桜子が料理することはなかったのじゃぞ! むすめに姫らしくない行いをうながしたこと、少しは反省なされよ!」

「はいぃっ! すみませんでしたっ!」

 父があっさり母にくつぷくしたことで、桜子と唐の料理との接点は断たれた。


「唐の料理、作って食べたいな……」

 ぼんやりとなんていを歩き回っていた桜子は、いきをついてしゃがみ込んだ。

 照り焼きを口にして以来、唐の料理にがれる日々を送っている。

『──台盤所に立つなんて、姫のやることではない!』

 欲望がき上がると、決まって母の叱る声が頭の中にこだまして、胸が苦しくなる。

 さらさらと流れるり水には、元気のない顔が映る。あれから一カ月、味のしない料理を形式的に飲み込むだけの日々で、丸かったほおはすっかり細くなってしまった。

 桜子が自ら台盤所に立って、唐の料理を作ったこと。

 そして、それを食べたことは、父と母と桜子、三人だけの秘密だ。

 使用人たちは、母に唐の料理のりよくを知ってもらいたい父が、わざわざひとばらいをして料理した──それを母に見つかっておこられた──と思い込んでいる。

 だから、桜子は、だれにも料理したなんて言えない。

 唐の料理はびっくりするくらいおいしいとも話せない。

 お腹はずっとすいていて、毎日が色褪せたように感じる。まるで生きごくだ。

「このまま、あきらめるしかないのかな……」

 つぶやいたその時、『ぐぅうぅうう』と派手な音が聞こえてきた。

「え、今の音はなあに?」

 立ち上がって見回すが、湖のように広い池がある庭園には、誰の姿もない。白い砂をいたはまも、中島にかった紅色の橋も、水鏡に映った像も全てひとめだ。

 岸辺に打ち寄せられた桜の花びらは、昨晩の花見の宴では庭園をれんいろどったのだろう。かんげんの宴で奏者を何十人も乗せたふねかべてゆうげんな光景へとへんぼうする池は、昔からこの場所にあったわけではない。住人の心をやす目的で屋敷と共に作られたものだ。

 庭の南側には、様々な木々を植えた林まであるので、子犬でも迷い込んで動けなくなっていたら大変だ。

 池を回り込んだ桜子は、伸びた下草をかき分けて林に入った。

 ふかふかしたようを踏みつけて、松とぎんなんの間をける。立ち止まってぐるりと見回すが、目に入る生き物といえばせいぜい飛んでいる羽虫くらいだ。

(どこかのかげにいるのかしら?)

 桜子は、葉と葉の間から差し込む日差しをたよりに、きのこが生えた折れ木のくうどうや、土が盛り上がったたぬきの巣、一列に伸びたひめざさの向こう側など、色々な場所を探していった。

「子犬ちゃん、どこにいるの……きゃっ!」

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