八咫の巫女は草薙の君に愛でられる

湊波

第令話 桜花の頃、君に逢う

 暦の上では四月も終わろうかという頃。その日の神社は、少しばかり騒がしかった。


「いやぁ、助かった助かった~。ほんまに、ありがとぉな」


 石畳に尻もちをついた僧服の青年は、桜花を見上げてヘラリと笑う。それに毒気を抜かれ、神社の境内で彼女は白い息を吐いた。

 高校から帰って、一息ついて。そして悲鳴が聞こえたと思ったらこれだ。

 冷たい夜風に煽られた黒髪が、桜花の頬にまとわりつく。鬱陶しいそれを右手で払い、指定よりも丈の短い制服のスカートを左手で押さえた。頭上では、膨らみかけた桜の蕾が寒さに震えている。月明かりに照らされて、神社の鳥居が黒ぐろとした影を落とす。

 その中で、桜花は顔をしかめる。


「……おじさん。こんなところで何してるわけ。参拝の時間はとっくに終わってるんだけど」

「いやぁ、いやいや。花見でもと、思うたんやけど……この辺はまだなんやな」


 青年はひらりと手を振った。桜花の刺々しい視線を意に介するでもなく禿頭を傾ける。


「というか、お嬢ちゃん。さっきの台詞、そのままお返ししたいなぁ……助けてもらってなんやけどな。お嬢ちゃんみたいに若い子が、なんでこんなところにおるの」

「……だってここ、私の家だもの」

「おん……! ほうかぁ……道理で、俺に憑いとった妖魔を簡単に祓えたわけや」


 のんびりと青年が頷く。桜花は眉根を寄せた。

 。その言葉は全くの真実だが、だからこそ奇妙だ。一般人には妖魔は見えない。桜花のような、妖魔が見えて祓うことの出来る神社の人間が特殊なのだ。


「あんた……」桜花は目を細めた。嫌な胸騒ぎがする。「……何者なの」

「嫌やなぁ。そないに警戒せんでもええよ?」


 青年はゆっくりと立ち上がった。桜花よりも頭二つ分背の高い彼は、僧服についた土を払って、手を差し出す。


「菫に道と書いて、菫道きんどう言います。フリーランスの和尚兼陰陽師をしとるんよ。どうぞよろしゅう」

「……ちょっと待った」

「おん?」

「フリーランスの? 和尚兼陰陽師?」


 胡散臭さ満載の言葉に、桜花は顔をしかめた。菫道は弱ったように頭を掻く。


「檀家を持たない和尚さんのことをフリーランス、言うんよ。あ、安心してな? ちゃあんと協会に登録しとるし。人手が足りん時に、電話一本で駆けつける以外は、普通の和尚様とおんなじやから」

「……陰陽師ってのは?」

「あ、それは趣味」


 ……趣味ってなんだ。桜花は思った。思ったが、ぐっと言葉を飲み込む。額を押さえ、何とか言葉を吐き出した。


「…………じゃあ、おじさんは何しに来たの」

「依頼を受けとってなぁ」

「依頼?」

「十三さんから。『時代ときがわり』の儀式の手伝いをしてくれって」


 眉間を揉んでいた桜花は、さらりと飛び出した言葉に動きを止めた。

 夜風が吹き、桜花の制服と菫道の僧服を揺らす。


「……おじいちゃんなら、死んだわよ」

「……え」

「今年の1月に。寿命でぽっくり」


 菫道がぱちりと目を瞬かせた。



***



 桜花は、黙々と筆を紙に走らせていた。艷やかな墨が、複雑な紋様と意匠化された文字を描き出す。社屋の片隅の部屋に暖房はない。深夜独特の静寂の中で、桜花の纏う巫女服の衣擦れの音だけが響く。


 ――出来るのか。


 ぽつんと胸中に響くのは、暗い大人達の声だった。


 ――ただの小娘だろう。先代ほどの力もない。

 ――今代の儀式は不安だらけだな……果たして良き時代は来てくれるのか。

 ――案ずることなどなかろう。八咫やたの名を冠する家系とはいえ、既に弱小の神社だ。封じておる魔などタカが知れておる。

 ――いざという時は魔物ごと祓ってしまえばいい。


 ――どうせ、失敗するんだから。


「……っ」


 胸が、つきりと痛んだ。淀み無く動いていた筆が止まる。桜花は小さく舌打ちした。仕損じた護符を乱暴に丸めて後ろに放り投げる。


「痛てっ」


 響いた間抜けな声に、桜花は弾かれたように振り返った。目を丸くする。


「……なにしてんのよ」

「おん? 鍵が開いとったから」


 昨日神社の境内から追い出したはずの菫道は、悪びれもせずに微笑んだ。鼻先を赤くしながら、大仰に体を擦ってみせる。


「それにしてもお嬢ちゃん。こんな寒いところで作業できて偉いなぁ」

「……出てって」

「巫女服、さむない? かくいう俺も、この僧服寒ぅて敵わんのよ」

「出てって!」


 ぺらぺらと喋る菫道に、桜花は丸めた紙を投げつけた。禿頭に当たった紙はころりと畳の上に転がる。

 菫道は怒るでもなく、それを拾い上げて開いた。


「明日の儀式で使う護符やろ? 粗末にしたら可哀想やないの」

「……それは失敗作よ」

「失敗作なんて、あらへんよ。どこにも」


 桜花は菫道を睨みつけた。彼は肩をひょいと肩をすくめ、護符を袂にしまう。


「それにしても」ぐるりと部屋を見回した彼は、部屋の入口に程近い床の間で目を留めた。「そこの花、綺麗やなぁ……お嬢ちゃんが生けたん?」


 のんびりとした口調に変わりはない。桜花は荒い息を吐いて、再び卓に向かった。


「……そんなに大層な物じゃない。花瓶に挿しただけよ」


 硯の上で墨を擦りながら、桜花は最大限ぶっきらぼうに返した。ところが菫道は、感心したような声を上げるばかりだ。


「なるほどなぁ……いやいや、十分やで。花を大切にしたいって気持ちがよう伝わるもん」

「…………」

「花のチョイスもえぇ。梅に菫。これで桜も揃えば、慶祝カラーやなぁ」

「…………」

「桜といえば、賭けをしよう思うんよ。桜が咲くのが先か、新しい時代が来るのが先か。面白いと思わん?」

「…………」

「世間じゃあ、平成最後の桜やって有難がっとるんやで? もし新しい時代が来るのが先やったら、この辺の人らにとっては、去年のが平成最後の桜になるわけや。なぁんも有難がらん間に最後が終わっとった……って、滑稽でしかあらんやろ」

「…………ねぇ」桜花は手を止めて、再び振り返った。「邪魔だから帰ってくれない?」


 菫道は何故か、花瓶を持ち上げていた。桜花の言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせている。昨日も同じような顔をしていた。癖なのかもしれない。あるいは、知っているのに知らんふりをしているだけなのか。

 桜花はため息をついた。


「……気に入ったんなら持っていっていいから。花」

「構わんの?」


 なら、もろて行こうかなぁ。遠慮の欠片もない返事と共に、菫道はいそいそと花を花瓶から抜き取った。花びらに唇を寄せ、さっと瞼を閉じる。えぇ子や。そう低く呟き、目を開いた彼は破顔する。


「おおきに、お嬢ちゃん」



***



 平成最後の夜は、これまでと何ら変わらない夜だった。

 桜花は新調した巫女服に身を包み、神社の裏手に一人立つ。眼前には視界いっぱいに枝葉を広げる神木があった。

 あと、九分四十三秒。桜花は腹の底で時間を数える。正確な体内時計は鍛錬の賜物だ。これだけは自信があった。空唾を飲み込んで、桜花は神木に歩み寄る。暗闇の中、幹に巻かれた注連縄しめなわの先で、幾つもの白い紙が夜風に揺れた。

 紙垂しでと呼ばれるその紙を、昨晩作った護符に取り替えればお終いだ。たったそれだけで、この神社に封じられた名もなき魔物の戒めは改められ、新たな平穏な時代を迎えることができる。


 『時代わり』の神事とはいえ、実に簡単なものなのだ。失敗などするはずがない。六分五十秒。叱咤するように時を数える。桜花は紙垂に手を伸ばし抜き取っていく。何も起こらない。

 僅かに安堵する。私にだって出来るじゃない。さらに一枚、抜いた紙垂を懐にしまう。失敗なんてするはずない。脳裏に響く暗い大人たちの声に、そう思って。

 最後の一枚に手をかける。その瞬間、ばちん、と桜花の手が弾かれる。


「っ――!」


 桜花は反射的に身を引いた。

 神木が不気味にざわめく。木の軋む音が響く。ひどく澱んだ臭いが鼻をつく。黒い靄が神木を蝕むように噴き出す。

 妖魔の気配だった。そうと分かった途端、桜花の体は愕然とする。


「なんで……っ」


 手順に間違いはなかったはずだ。じゃあ、何故だ。震える指先で懐を弄る。護符を探す。だというのに焦る指先は何も摑まない。妖魔の気配はぐっと深くなる。黒い靄が何かを形作る。桜花はやっとのことで護符を取り出す。指で挟んだそれを掲げる。定められた祝詞を口ずさもうとする。けれど。


 ――もしも、この護符も失敗作だったら?

 ――自分は、祖父には遠く及ばない。だからこんなに簡単な儀式も終えられないのだとしたら?


 浮かんだ疑念が彼女の動きを止めさせる。怯えを察知したように黒い靄が吠える。獣のような形をとったそれは、にたりと笑った。近づく妖魔の瞳は、桜花の中の不安も疑念も恐怖も丸ごと映し出す。

 桜花は悲鳴を上げた。


「オン――」


 涼やかな声が響いた。同時に、桜花の前に僧服が閃く。決然たる足踏みの音が響いた。妖魔を退けるように、光の壁が現れる。


「大丈夫かえ? お嬢ちゃん」

「……おじ……さん……どうして……」

「どうしてって」首だけ振り返った菫道は、へらりと笑う。「神域に妖魔がおった……ちゅうことは、封印が解けかけとると思うんが普通やろ?」


 桜花は表情をこわばらせた。


「……失敗するって、分かってたのね……」

「おん? そういう勘違いしてしまいますん?」

「勘違いじゃないでしょ……っ!」


 桜花は拳を握りしめた。助かった安堵よりも、悔しさがこみ上げてくる。身勝手な己に視界が滲む。顔をうつむける。


「現に、私は失敗したんだから……!」

「……お嬢ちゃん」

「笑えばいいじゃない……! 私になんか出来ないって……!」

「なんや……悲劇のヒロインでも気取るつもりやの?」


 菫道の嘲笑に、桜花はぐっと息を飲み込んだ。彼は呆れたように続ける。


「失敗は、誰も責めへんよ。でも途中で放り投げて、何もかも遠ざけるんは最低やな」

「……っるさい……」

「悔しいんか? 逃げるくせに?」

「……逃げたくないわよ……! 私だって……!」桜花は手のひらに爪を立てた。「でも……っ! 私は失敗作なの……っ! おじいちゃんの代わりなんて……っ」

「桜花」


 名を呼ばれて、桜花は顔を上げた。妖魔を足止めする光の壁を背にして、菫道はじっと桜花を見つめている。


「俺らの仕事は信じることや。そないに己を否定したらあかん」

「……っ、でも……」

「安心しい。成功するまで挑戦すれば、失敗なんかあらへん。そのための俺やさかいの」


 リン――っ、と涼やかな音が鳴る。菫道は懐から何かを取り出して散らした。花弁だ。梅の白。菫の紫。菫道の唇が、桜花の知らぬ祝詞を紡ぐ。

 突風が起きた。それは菫道の僧服の袖を舞い上げる。顕になった逞しい腕で、入れ墨が輝く。花弁が風に巻き上げられる。矢の如く黒い靄に殺到する。妖魔を縫い止める。


「さぁ、選択の時間や! 桜花!」


 風舞う中で、菫道は振り返った。懐からくしゃくしゃになった護符を取り出し、桜花に差し出す。


「一回の失敗で逃げて終わるか! それとも、諦めずに挑戦して、自分で良い時代を掴み取るか! どっちがええ!?」

「っ……そんなの……っ……!」


 桜花は唇を噛み、目の前の護符を掴み取った。勢いのまま駆け出し、菫道の前に立つ。護符を指で挟む。構える。胸いっぱいに息を吸う。祝詞を紡ぐ。

 護符から光が弾け、妖魔を貫いた。



***




 結局、桜は平成の終わる間際に咲き、令和の始まる頃には花開いていたらしい。


「賭けは負けやなぁ……悔しいもんやで……」


 実に残念そうに呟いた禿頭の男を、桜花はじろりと見下ろした。


「……ねぇ」

「おん?」

「……なんであんた、まだここにいるわけ」


 神社の鳥居の下。朝の光の中で、石段に腰掛けた菫道が顔を上げる。


「なんでって……」へらりと笑った。「桜花が心配で、離れられへんって感じ?」


 桜花はきゅっと眉根を寄せた。


「昨日ちゃんと、儀式は終わったでしょ」

「せやなぁ。あん時の桜花はかっこよかったで」

「……あんたの方が凄かったじゃない。妖魔を片手で足止めとか」

「おお! 俺んこと褒めてくれるん?」

「っ……う、うるさい! もう用済みって言ってんの!」


 目を輝かせた菫道に、桜花は赤くなった顔を逸した。菫道は顔を緩ませる。


「桜花はほんに、愛らしなぁ」

「なんなのあんたほんと……っ! 黙って! とっとと消え失せてっ!」

「えぇ~。そないなこと言わんと。構ってぇな、桜花」

「さりげなく、私の名前呼び捨てにするのやめてくれない!?」


 へらへらと笑う菫道の首根っこを掴んで桜花は揺さぶる。

 暖かな、春風が吹いた。二人を祝するようなそれは桜の花弁を揺らし、駆け抜ける。

 新しい時代へと。

 あるいは、二人の恋の幕開けへと。




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