3話

 朝。保健室で学校保険医の飯田いいだがいつものように資料の整理をしていると科学担当の菅野かんのが血相を変えて部屋に飛び込んできた

「飯田先生、大変です。今すぐ来てください」

「菅野先生、そんなに慌ててどうしたんですか?」

「とにかく大変なんです、大至急―」

「一旦落ち着いて事情を説明してください。そうしないといくら急ごうにも準備が出来ません」

言って椅子をすすめる

「―そうですね。まず、事情をお話ししましょう」

椅子に腰かけて説明を始めた

「先生は、以前この学校で蜘蛛を観察する授業が行われたことをご存知ですか?」

「ええ、詳しくは知りませんが。確か南米の蜘蛛を観察する授業でしたよね」

「そうです」

「そのことがどうかしたのですか」

「実はあの蜘蛛は毒蜘蛛だったのです」

「何ですって!でも、あの授業が行われたのは数日前でしょう?それにあの日、体調不良を訴えて来た生徒はいませんでしたよ」

「はい、そこが問題なのです。調査の結果あの蜘蛛の毒の性質が判明しました」

「どういう性質です」

「落ち着いてよく聞いて下さい―あの蜘蛛に噛まれた人間は数日後に蜘蛛になるのです」

「まさか、そんな、SF小説のようなことが起こるはずが」

「私も初めはそう思いました。しかし現地スタッフから送られてきた写真を見て本当なのだと確信しました」

これがその写真です、と、1枚の写真を見せる

「これは―」

そこには見るもおぞましい服を着た巨大な蜘蛛が写っていた

「先ほども言いましたが、このような状態になるには数日かかります。授業を行った日から数えて今ならまだ間に合うはずです」

「しかし、どうすれば―」

「先ほど、この蜘蛛に対する血清が現地から届きました。これを打てば治るはずです。しかし私が治療しては怪しまれるでしょうし何よりも注射を打った経験がありません。なので先生にお願いしたい」

これがその血清です、と、カバンからビンに入った血清を取り出す。

「分かりました、治療する生徒は今どこに」

「彼は自分の教室で文化祭の準備を進めているはずです」

 「あー、だるい」

大きな段ボールに黒いペンキを塗ながら矢田は愚痴をこぼした。

このクラスでは文化祭の出し物としてお化け屋敷をやることになった。お化け屋敷は模擬店の中では花形だと思うし確実にお客さんは来るだろうからそれはいい。しかし、そのために必要な準備に人が来ない。文化祭開催日直前の準備期間は休日扱いであるため他の男子たちは当然のように作業を放棄。頼みの綱である女子達はと言えばみんな揃ってコンビニに肉まんを買いに行く始末。準備はほとんど終わっていて後は仕上げだけで、矢田が全力で準備することを心に決めているとはいえこうも連日まかせっきりにされては愚痴もこぼれるだろう。

「はあ、後何枚だ」

数えたくはないが数えなくてはならないものを確認しようと振り向いた時、ガラガラと教室のドアが開いた

「あっ矢田君」

声がした方を見ると養護の飯田と科学担当の菅野が立っていた

「保健の先生までどうしたんですか」

「事情は言えないけど保健室まで来てくれないかな」

矢田はけげんな顔をした

「保健室?俺は別にどこも悪くないですよ―」

「自覚症状がないのでしょうか」

「もしかしたら日中は発症しないのかもしれない」

矢田はさらに顔をしかめた

「嫌だな、何ですかさっきから人を病人みたいに。俺は見ての通り元気ですよ・・」

「とにかく来て」

「―分かりました。行きます、行きますよ」

渋々教室を出る。保健室に到着

「じゃあ、そこに椅子に座って」

「はい・・」

「ワイシャツをまくって腕を出して。注射をするから」

「注射?さすがに何かの間違いでしょう」

「いいから早く!」

飯田の気迫に押されてしぶしぶワイシャツの袖をまくる

「じゃあ、治療するね」

机の上の血清を腕に打つ

「本当に何なんですか」

「よし、終わりだよ」

「いやあ、間に合ってよかった」

「本当ですね」

喜び合う二人を尻目に矢田は保健室を後にした

 一日の文化祭の準備の時間が終わり、矢田が片づけをしていると浅田に声をかけられた

「卓君」

浅田にファーストネームで呼ばれたこと二一瞬ドキリとする。今までそんな事は無かった

「浅田、どうしたんだよファーストネームで呼ぶなんて」

「ごめん、矢田君に伝えたいことがあってそれで緊張して」

「伝えたいこと?そんなに緊張するようなことなのか」

浅田とはバイト先も同じでわりと長い付き合いだ。今更そこまで緊張するようなことなんて

「うん、あのさ、今度、イルミネーションを2人で見にいかない?」

予想だにしなかった内容に言葉が詰まる

「えっ・・それってデー」

「行く、行かない、どっち?」

「行きます」

緊張と浅田の剣幕に押されて敬語になる

「じゃあ、華頂遊園地かちょうゆうえんちで明後日の18時、待っているから!」

そう言い残して浅田は何処かへ走り去っていった

「・・・マジか」

しばらくの沈黙の後、ようやくそれだけ言えた

あまりの出来事のせいでその日、教室を出てから就寝するまでのことはよく覚えていないが確か、いつものように夕食を食べて風呂に入り眠りについた気がする

             *夜5/7

 痛みがない。昨夜までの苦痛は嘘のように消えている。昼間、注射を打ったせいか。久々の安らぎの中で一人物思いにふける。正直、病気であることがばれた時は焦ったが結果的にはよかったといえる。またこうして安らかな眠りにつける。あのまま苦痛が続いたらどうなっていたのだろうか。もしかしたらーそれを考えるとまた眠れないような気がして考えるのをやめて瞑想するように呼吸に意識を集中させた

 矢田は起床してすぐに強烈な眩暈めまいに襲われた。意識がもうろうとして体に力が入らない。

”注射の効果が切れたのか?今までは夜だけに症状が出ていたのに・・”

部屋を出るのを諦めベッドへ戻ろうとしたその時

「卓、ご飯よ」

母の声で病状が回復する。回復してしまった。これは強制的に普通の生活をさせられることを意味する。病人ではなく、人間という皮を被って社会に溶け込む何か。それが今の矢田卓であった。

俺が外に出て良いはずがないのに・・馬鹿な話だ

小さくそう呟いて部屋を後にした。いっそのことこのまま隔離されれば良いのにと嘲笑しながら

              *夜6/7

思考がない。思考がないという言い方はいささか変ではあるがそうとしか言いようがない。まるで熟睡しているかのように意識が薄い。それでいて今自分が何をしていてこれからどうなるのかは分かる。矛盾している。例えるなら動物が本能的に自分が眠っていることを自覚しているような感覚だろうか。つまり、熟睡してノンレム睡眠に入る一歩手前でも、これは眠りではない。まるで、さなぎだ。体を1ミリも動かせない。金縛りにでもあっているかのように俺は体を埋めて固まっている。まるで何かの幼虫が羽化を待つように―嫌だ。俺は人間だ・・突如、生肉を食べたい衝動に駆られる。生肉を食べたい、獲物を襲いたい、食べたい・・嫌だ!嫌だ!!嫌だ!!!俺はそなことしたくない。狩りをして食べること自体は別段おかしい事ではない。でも、この衝動の狩の意味は明らかにおかしい。狩りをして調理するのではなく、飢えた獣のようにその場で肉にむしゃぶりつきたい。特に人肉に・・止めてくれ、誰か止めてくれ・・抵抗心は次第に薄れていき最後に残ったのは早く羽化を終えて獲物を食らいたいという野望だけだった

 「ごめん、お待たせ」

華頂遊園地の入り口に着くと既に浅田が立って待っていた

「大丈夫、そんなに待っていないから」

そういってにこりと笑う

「良かった。じゃあ、もう行く?」

「うん」

受付を済ませて中に入るとさすがに家族連れやカップルで混雑していた

「うわっ、すごい人」

矢田が驚いて声を上げた

「さすがにクリスマスイブとなると混雑しているね。こんなに混んでいるのは久しぶだな」

「俺も」

唐突に手を握られる

「ちょっと、浅田さん、何を・・」

「混んでいるからはぐれないように。それと、今は里香って呼んで。その、学校じゃないから」

矢田は一瞬ポカンとした

「分かったよ、里香」

「じゃあ、早く行こう」

「うん」

イルミネーションは壮大で、綺麗の一言に尽きるほど非の打ちどころのないものばかりだった。

「あ、あそこにイルミネーションサンタクロースじゃない」

「本当だ!あっちはトナカイ」

その他にもアニメのキャラクターなど様々な形のイルミネーションがあった

「なあ、あそこにあるのは的屋じゃないか」

ふと見ると確かに的屋らしい建物があった

「そうみたい、行ってみる?」

「うん、行ってみよう」

「―ちょっと待って、里香、はやい」

走っているときも手を引っ張られるので転びそうになる

「頑張って王子様」

そんなこんなで的屋に到着。と、里香の目が輝く

「あの熊かわいい」

「・・かわいいか?」

それは木彫りでできた熊だった。といってもよくある鮭を咥えているものではなく木の皮を持ってそれを舐めている姿だ。顔は猫口で確かにかわいいがなんというかシュール。

「あれ、欲しい」

「分かった、取ってあげる」

「私もやりたい」

「おっけ、2人お願いします」

「2人で600円です。一人5発までね」

「どうする?どっちが先にやる」

「同時でいいでしょ、射的なんだし」

「それもそうか」

弾を込めて準備完了

まずは里香が打つ

「あっ外れた」

「俺も外れ」

こうして打っていき里香が先に弾切れになる

「あちゃー、弾切れか」

「俺は後一発か」

慎重に狙いを定める

よし、行ける

その時、里香が俺の手の甲に手を重ねた

さっきも手をつないだはずだが、その時とはまた違う温もりが伝わってきてドキリとする。

引き金を引くと熊の額に命中して落下する

「やったー!」

ほとんど同時に叫んでいた。ハイタッチ

店主にお礼を言って的屋を後にする

「次、どこ行く」

「私おなかすいた」

「そういえば俺も」

食べ物屋がないかと探すと少し離れたところにパンを売っている屋台があった

「あそにに行ってみない」

「パン屋さんか、良いかもな」

再び里香が駆けだして矢田が追いかける

「まっ、だから、速いって」

息を切らして追いつく

「いらっしゃいませ」

「里香、どれにする」

「うーん、あっこのパンおしゃれ」

指したころを見ると、抹茶だろうか。緑色の粉で覆われてラズベリーの実が二つ付いたパンがあった

「これはクリスマスパンです。期間限定なんですよ」

「へえ」

「ねえ、このパン食べてみようよ」

「うん、じゃあ、一つ買って半分に分ける」

「良いよ」

「決まり。このパン一斤ください」

「まいどあり」

「ありがとうございます」

里香がお辞儀をする

「どこで食べる」

「あそこのベンチでいいんじゃない」

「うん」

ベンチに腰掛ける

「あー楽しかった」

矢田が満足げに言った

「楽しかったね。また来たい」

言いながらパンを半分にちぎり感嘆の声をあげた

「すごい、このパンクッキーが入っている」

「えっ本当だ」

パンの中にサンタクロースの顔のクッキーが入っていた。半分に割れてしまったが良しとしよう

「さすがクリスマスパンだね」

おいしいと喜びながらパンを食べる里香。そんな彼女を見て改めて目を奪われる。今日の彼女はベージュ色のトレンチコートに若草色のマフラーを巻きやはり若草色の手袋をはめている。いつものジャージにジーパンと言うデート意識ゼロの自分の服装とは比較にならない。そういえば一緒にいる機会が多いわりにまじまじと見たことがない気がする。いや、あまりまじまじと見るのも問題ではあるが

「食べないの?」

思っている以上に見入ってしまったらしく返答に詰まる

「っ、食べるよ」

パンは思った通り抹茶の味がした。ラズベリーの実も甘くておいしい。クッキーもサクサクだ

「このパンおいしいね」

「だよね」

談笑しながらパンを食べ終える

「ごちそうさま」

「俺も」

その後、しばらく会話が途切れて何か話題がないかと考えていると里香が切り出した

「―この前、私の口座に借金残高分のお金が振り込まれていた」

「・・・」

「あのお金、振り込んだの矢田でしょ。名義がそうだった」

「・・・うん」

「どうして!自分で苦労して貯めたお金なんだよ、なんで私なんかのために・・」

「―お前のことが大切だから。俺は本当にお前のことが好きなんだ。だから、力になりたい」

「・・も・・き」

「えっ」

「私も矢田君のことが好き。別に借金を返してくれたから好きになったわけじゃないよ。前から心の中でずっと想っていた」

だからバイト中にちょっかいを出したりしてしまったんだけど、と、所在なさげに目を伏せて呟いた

「里香」

矢田は里香の体をそっと抱きしめた

「矢田、少し、目をつむって・・」

「うん」

2人はそっと互いの唇を―バリっという音がして矢田の顔の皮膚が破れて蜘蛛の顔が露わになる。矢田であった異形の怪物は躊躇ちゅうちょすることなく蜘蛛の白い糸を里香に吐き掛けた

         *プロローグ

どことも知れぬうす暗い洞窟の中を巨大蜘蛛は徘徊はいかいする。自分の寝床に土壁の間から差し込む月明かりに照らされた、わずかに見える髪の毛だけが面影として残る初恋の女性を吊るしたまま

―月蜘蛛・完







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月蜘蛛 女神なウサギ @Fuwakuma

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