2話

 浅田里香は朝に弱い彼女にしては珍しく6時に起きていた。

一人暮らしでアルバイトのシフトも午後からなので別段、急ぐ必要はない。しかし、昨夜の返済額を全額振り込んでくれた人が誰なのかを一刻も早く確かめたかった。確かめないと気になって夜も眠れない。あの時、確かに私は返済額が無かった。今日返済するはずだった。でも、何処の誰かは分からないが返済額を全額振り込んでくれた人がいて私は今もこうして生活できている。あの膨大な額を一体誰が?いくら考えても分からず謎は深まるばかりだ。それならいっそのこと銀行のATMで自分の口座を調べればいい。そんなことを考えているうちに朝食を食べ終わる。今の時間なら銀行に行ってもバイトのシフトの時間には間に合うだろう。行って来ます、と、誰に言うわけでもなく言い家を出る。

―本当に、振り込んだのは誰なんだ?もうすぐその答えが分かる。しばらく歩き銀行に着く。閉店してすぐの時間だからかATMはすいていた。番号を入力して振り込みの履歴を確認する。

「これは―」

 「最悪だ・・」

矢田卓は自分の身に降りかかった悲運を嘆き、もう何度目か分からない深いため息をついた。

「わーい、パンダさんだ!」

子供にタックルされ、よろけそうになる。だがそんなことをすれば色々な意味で大惨事になるので必死で耐える。悲しいかな、子供はそんな事とは梅雨つゆしらず無邪気にじゃれついてくる。更には一緒にいる親さえも「パンダだ、パンダ!」と興奮して触ってくるのだから手に負えない。今の矢田にできることは夢を壊さないようにただただ耐えることだけだった。

事の発端は今朝の早朝、開店作業に遡るさかのぼる。いつものように出勤した矢田はいつも通りに開店作業をしていた。商品の不足の有無を確認し、もうすぐ作業が終わるという時に店長に呼び出された。

「店長、どうしました?」

嫌な予感がする。自分では大きなミスはこれまで一度も犯していないつもりだがあるいは―

「おお、来たか。実は君に頼みたいことがあってな」

「何でしょうか?」

これなんだが、と横に置いてある大きな段ボール箱を指さした

「品出しですか?」

「そうじゃないんだ。まあ、見れば分かるよ」

そう言って段ボールのふたを開ける

「店長、これは・・」

中に入っていたのはパンダの着ぐるみだった。

店長は理解できずに困惑している俺の心中を察してくれて説明してくれた

「実はな―」

なんでも、昨日売り出したパンダの顔の餅が思ったよりも好評だったらしい。そのことを知った本社上層部がパンダの着ぐるみを着て販売することを思いつき急遽きゅうきょ用意されたらしい。で、誰に着せるのかという話になり、アルバイトに着せれば人件費が安く済むということになって俺が着ることになったらしい。うちは文房具店なんですけど?目玉商品を間違えていませんか?着ぐるみ用意するの早いな―言いたいことは山ほどあるが店長が相手では言い出せない

「という訳だから、矢田君頼むよ」

「はい・・」

行使て現在に至る。

「パンダさん、遊んで!」

ゆさゆさと着ぐるみを揺らされる。当然、声は出せないのでいかにも楽しそうに手を振って応じる。ううっ、どうにかならないのかこの負のスパイラルは。俺も決して夢を壊したいわけでは無いがこちらの苦労も察してほしい。何しろ暑い。着ぐるみの中は暖かいから冬場はいいよね、なんて話は外で着ぐるみを着る場合の話。暖房が効いた店内で着るのは苦行に他ならない。まるでサウナだ。親子の相手をしばらく続けてようやく立ち去ってくれると思ったその時、悲劇が起きた。

「石田文具店にお越しの皆様、ご来店ありがとうございます。本日、当店ではパンダとのふれあい体験を実施いたします。まもなくの開始となりますので皆さまぜひ、パンダ餅売り場へお越しください」

突然の放送に耳を疑う。ふれあい体験てなんだ?そんな話は聞いていない。不思議に思っているとすぐにその答えを知ることになった

「ご来店の皆様、こんにちは!」

なっ・・・

声をした方を見て唖然とする。そこにはつなぎを着て動物園の飼育員の格好をした浅田が立っていた。

なんだあの格好は・・

「お越しいただきありがとうございます、それではこれよりパンダとのふれあい体験を始めます。私は実況を務めさせて頂く浅田です」

ぺこりとお辞儀をして拍手が起こる。いつのまにかさっきの10倍以上のちびっことその家族が集まっていた。

「ふれあい体験と言っても難しいルールはありません。皆さん、思う存分パンダさんを触って下さい!」

わーい、と歓声が上がる。

「|」

言葉が出ない。もはや諦めの心境だ

「それでは、よーい、スタート!」

ピーっと笛が鳴り子供たちや親たちが一斉に着ぐるみにじゃれつく。まずい、よろけそうになる。でもよろけるわけには。

「さあ、いよいよ始まりましたパンダさんとのふれあい体験。聞くところによるとこのパンダさんは首の周りを触られるのが大好きなんだとか。ワンちゃんや猫ちゃんみたいですね、皆さんぜひ触ってあげてください!」

いや、わざとだろうお前。わざと首を触らせて着ぐるみを脱がそうとしているよな?

彼女のそんな企みを知るはずもない人々は我先にと首周りに手を伸ばす。だから、それはダメだって。

「私、首をなでなでする~」

「私も!」

「やったー、動物園に行かなくてもパンダを見られた」

「写真撮ろう、写真」

遊んでいるように振舞いつつも必死に転ばないように踏ん張る。俺がなかなか転ばないことに業を煮やした浅田が悪魔のささやきをした

「おっと、ここで新しい情報が入ってきました。なんとこのパンダさん、相撲を取るのが好きらしいです!金太郎になれるチャンス!皆さんぜひチャレンジを!」

ちょっと待て、それは流石に。お前、本当に確信犯だろ!

わーい、と一斉に両足に抱き着く。

だめ、それだけは!

平静を装いつつ格闘する俺を横目で見て満面の笑みを浮かべる浅田。魔女かあいつは・・

格闘に次ぐ格闘、激闘の末俺は後ろによろける。あっまずい。俺は自然と着ぐるみの頭を押さえて後ろに倒れ込んでいた

 ううっ、ここは・・

気が付くと俺はバイト先の休憩室で横になっていた

「目を覚ましたか」

声がした方を見ると店長が椅子に座っていた

「・・俺は、一体・・」

確か、着ぐるみを着て仕事をして、転んで・・

「子供たちに足を掴まれて転んだそうだね、浅田さんから聞いたよ。転んで頭を打って動かなくなった君を浅田さんがここへ運んだんだ」

「そうだったんですか」

「具合はどうだ?」

「大丈夫です」

「なら良かった。もうシフトの時間は終わっているから退社していいよ。家でゆっくり休むと良い」

「わかりました、ありがとうございます」

失礼します、と、お辞儀をして店を後にした

夜7/3

 頭が痛い。今日、バイト先で頭を打ったせいか。だがこんな痛みは毎夜襲われるあの激痛に比べればかわいいものだ。どうかこの痛みだけで終わってくれー無情。

両手、両足の痛みが再来する。

「|、|」

痛みは確実に毎夜強くなっている。それでもなんとか布団からはいずり出て部屋の外に出る。直後、痛みに耐えられずのたうち回る。

「|、」

心なしか頭痛が強まる。耐える事しかできずしかし耐えることの出来ない苦しみにもがき続ける。その夜、俺はもうろうとする意識の中で夜が明けるまで自室の前の廊下でのたうち回り続けた

 「えー、で、あるからして・・・」

「ふぁ~あ」

延々と続く教師の説明に矢田は大きなあくびをした。今は歴史の授業の真っ最中さいちゅう

ペリーの来航についてだ。幸い今日はこの授業で最後なので終わったら部活をして帰るだけ。しかしなればこそ講義を聞くことにけだるさを感じる。

「こら、矢田、あくびをするならせめて小さい声にしろ。全く、おまえと言う奴はいつも」

「すみません、眠くて・・」

「お前は俺をなめているのか?・・・ペリーが来航した理由を答えて見ろ」

「はい。えーっと・・質のいい枕を日本へ輸出するため?」

教室中からどっと笑いが起こる

「真面目に答えろ。やはりお前は俺をなめているな」

「なめていませんよ。俺がなめるのは授業中になめるのど飴だけです」

「うぐぐっ、いい加減にしろ!目が覚めるように廊下の水道で顔を洗ってこい」

「はい、行って来ます」

教師に一礼をして、教室のドアを閉める時に振り向いてもう一度一礼する。授業中のこの一連の流れは矢田にとってはどこかの飲食店で料理を頼むようなものだった。教室に入店し、一礼して席に着きそこからは休憩をむさぼる最高のフルコースだ。しかし今日はメニューが変更されているのかそうはいかなかった。トイレの前の水道で紫苑に声をかけられた。

「先輩、さぼりですか?」

「・・・他の理由は思いつかないのか」

「前はいろいろな理由を考えていたんですけど、いつもさぼりなので考えるのを止めました」

彼女は水道の水で筆を洗いながらこちらを見ずにそう言った

「そんなことより文化祭の準備を手伝ってください」

文化祭の準備なら喜んで引き受けるが前回の部活で美術部の部室の飾りつけはほぼ終わっているはずだ。

「紫苑たちだけでも手は足りているだろ?俺が行っても逆に迷惑なんじゃないのか」

「足りてないですよ。前回の部活までで終わっているのは紙で作った花を飾り付けるところまでですよ。あれでは味気ないのでもっと飾りつけをします」

「そうなのか、俺はてっきり終わっている物と」

「―まあ、確かにいつもはあれでも良いと思いますが今回はクリスマスですから」

クリスマス。その言葉で忘れていた現実を思い出す。今日は㋋21日だからもうすぐクリスマスイブとクリスマスで、文化祭は25日に行われる。なるほど、クリスマスに向けての飾りつけとすれば確かにあれでは味気ない。

「分かった、手伝うよ」

「ありがとうございます」

授業と帰りの会を終えて部室へ行くと紺野達がすでに準備を進めていた

「お疲れ様です」

「お疲れ様、矢田も一緒か」

「はい、授業をさぼっていたので強制参加です」

部長は僅かに苦笑する

「なら、さぼったぶんまで働いてもらおうか」

「次は何をすれば良いんだ?作業はどこまで進んだ」

「ああ、あそこに折り紙で作ったサンタクロースやトナカイがあるからあれを適当に壁に貼り付けて」

「了解」

「じゃあ、私はクリスマスツリーを取ってきますね」

例年、この大学の美術部では何代か前に購入したクリスマスツリーを使いまわしていたが去年壊れてしまった。そこで新たに外部の業者にクリスマスツリーの発注を依頼したのだ。幸い、美術部はあまり部費を使わず購入できる余地はあった。

「いってらっしゃい」

「へえ、上手だな」

机に置かれた折り紙を見て矢田は感嘆の叫びをあげた

「美術部だからな。一応、こういった飾りつけにも気を使わないと。皆で作ったんだ。一番頑張っていたのは柏だ」

「柏が」

それはちょっと意外だった

「昔はよく折り紙を折って遊んでいたらしい。私たちが休んでいる間も黙々と作業していたよ」

「そうなのか」

人間、分からないものだな

「それじゃあ、早速作業を進めようか」

「ああ」

それからしばらくして作業はほとんど終わった。後はクリスマスツリーがくるのを待つだけだ

「紫苑ちゃん遅いな~」

弥生が腕に顎を乗せて寂しそうにつぶやいた

「確かに少し遅いな。様子を見て来るか」

「大丈夫ですよ部長。もうすぐ帰ってきますって」

柏がスマホをいじりながら答える

「お前は本当に楽観的だよな」

「心配性になるのが嫌なだけですよ。それに、授業をいつもなまけている先輩に言われたくないです」

「・・・」

返す言葉もない

その時、ガラガラと音を立ててドアが開き、大きな包みを抱えた紫苑が帰って来た

「遅くなってすみません。荷物が重くて。あっ後、良いお知らせがあります」

「ご苦労様。良い知らせとは」

これです、とツリーを置いて手に持っているチラシを宙に放り投げる。ひらひらと舞い落ちるチラシ、過剰演出だ。

「えーと、回転ずしのバイキング?」

なんでも、とある回転ずし屋が期間限定で食べ放題のバイキングを実施するらしい。常識で考えて一皿当たりの量と単価が安く、たくさん買ってもらう事で利益を上げる回転ずし屋でバイキング形式など行ったら赤字になり破綻しそうなものだが。それだけ自信があるという事か

「あ、このお店高校のすぐ近くですよ」

弥生が目を輝かせる

「どうしたんだ、このチラシ」

「駅前で配っていたのでもらってきました。今晩皆で食べに行きませんか」

「すし屋か、良いかもね。皆はどう思う」

「私は行っても良いですよ、この後予定ないですし。柏ちゃんは?」

「行きたい。すしなんてしばらく食べていないからね。矢田先輩はどうですか?」

「行きたい」

「よし、じゃあ、ツリーの飾りつけが終わったら回転寿司だ」

やったー、と、一斉に声が上がる

こうして準備を終えた一行は近くの回転すし屋にやって来た。店の名前は海鮮王。

「いらっしゃいませ、5名様ですね。お席へご案内いたします」

程なくして席に到着

「わーい、お寿司なんて久しぶり」

弥生が目を輝かせる

「ごめんね弥生、家はお金が無くて・・」

「お姉ちゃん、大丈夫だよ」

親子かこの二人は。本当に仲がいいんだな

「それではみなさん、各自好きな物を頼みましょう」

そう言いながら紫苑がメニューを見る。

「私はこれかな・・」

「私はこれ」

「―私は・・これにしよう。お姉ちゃんは」

「これかな」

「俺はこれで」

「それにしても、今年もうちの部は平和だったな」

詩織がお茶をすすりながら唐突に切り出した

「そうだね、他の部活は大会だなんだで白熱していたけれどうちは相変わらずのんびりしていたね」

「平和で良いじゃないですか。私の場合、文化祭を運営する仕事もあるから部活まで血気盛んだと身が持たないです」

「私にとってもごろごろできるから好都合です」

「右に同じ」

「まあ、確かに平和であることに越したことはないんだが一度は大会にも出てみたい気がしてね」

「大会か~コンクールにでも出す?」

そんな事を言っているうちにすしが一斉に到着した

「おっ、来たな」

「このいくらは俺のだな」

「甘エビは私で、マグロはお姉ちゃんだっけ?」

「そうだよ、ありがとう」

「イカは私のだね。はい、紫苑ちゃん、あなご」

「ありがとう」

「それでは、手を合わせて」

部長の号令に全員が続く

「いただきます」

「やっぱり、いくら最高!」

ここのいくらは上物なのか噛むと口の中でプチプチと弾けて味が口の中に広がる。

感動している横で姉妹が更に感動している

「甘エビ美味しい、ああ、最後に食べたのはいつだろうか」

「マグロ、マグロ、大間のマグロ♪」

―いちいち突っ込みを入れるのは野暮だが、いつもはお堅く話す時も男言葉が多い詩織が目を輝かせてここまで女の子らしくなるとギャップに驚く。

「やっぱり、イカっていいな」

「柏ちゃん、イカ好きなの?」

「うん、イカというよりも軟体動物が好き」

「へえ、どうして」

「軟体動物ってぐにゃぐにゃしているじゃない?あれが気まぐれな感じで自分に似ているから。紫苑ちゃんはどう思う」

「・・・それはちょっとよくわからない・・・」

おそらく、柏が言いたいことは節足動物は体の形が固定されているから気まぐれなイメージがなく、軟体動物は状況により体の形が変化するからきまぐれなイメージがある、ということだろう

「そういえば、なんでうちの高校の文化祭はこの時期なんだろう。やることが嫌なわけでは無いけれどほかの高校の文化祭って秋だよね」

弥生が唐突に言った。確かに今更ではあるが気になる

「紫苑ちゃんは学園祭の運営もやっているよね、何か知っている?」

「うーん、実を言うと理由は知らない。前に私も気になって同じ運営係の先輩に聞いたんだけど、理由を教えると切腹しないといけないからって言われて。冗談だと思うけどね」

何故に時代劇風?

詩織が苦笑した

「そんなに大した理由じゃないよ。うちの高校はクリスマスイベントが一つもないだろう?それをごまかすためにクリスマスの時期に文化祭を持ってきてるだけの話さ。うちの教員はのんびりした人が多いからね。クリスマスぎりぎりまで授業をしないと終わらないんだろう」

大名が自分の怠惰が原因で人々を苦しめていたら確かに切腹者だが、と、お茶を飲んで続けた

「流石お姉ちゃん、物知りだね」

「イカを食べ終わった。次はタコだな」

「私の分も頼んで、いつものやつ」

「紫苑ちゃん、分からないから自分で頼んで」

こうして和気あいあいと食べ続け店を出た

「いやー、おなかいっぱい」

食べ過ぎちゃった、と、弥生がおなかをたたく

「弥生、はしたないよ」

「ごめん、お姉ちゃん。でも本当においしかったね」

「確かに。いくらも絶品だった」

「紫苑ちゃんには感謝だね。またいつか軟体動物のフルコースをしたい」

「じゃあ、今度サービス企画をやっている他の回転すしのチラシがあるか探してくるよ」

「いいね、また部員皆で行こう。私もマグロをまた食べたい」

それから、すしの駐車場でばいばーい、お休み、とみんなであいさつをして解散した。

家に帰ると美羽はもう寝ていた。皆で食事に行くことは伝えていたので親からのおとがめはない。風呂に入り眠りについた―

           * 夜4/7

 頭が締め付けられる。昨夜までは手足だけだった激痛はついに脳まで蝕み始めた。死に対する恐怖心は頭にない。このまま続けば死に至るかとも思える痛みだが、過度の激痛は思考を鈍らせその恐怖心さえも消し去る。やがて痛みに対する感覚も消えさり空白の思考だけが残る。

「お兄ちゃん・・」

美羽が唐突に言った

「大丈夫」

反射的に小声で答える。どうやら、今のは寝言だったようだ。だが狂った思考ではそれにも気づかずテープレコーダーのように「大丈夫」を繰り返す

「大丈夫、大丈夫・・・」

これは一体、誰に対して言っているのか。

朝までこの壊れたテープレコーダーが止まることは無かった








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