月蜘蛛
女神なウサギ
1話
エピローグ
昔々あるところに一人の娘が居りました。それはそれはたいそう可愛い娘で周りの人からかわいがられておりました。その娘は母の言う事をよく聞いていましたが一度だけ言いつけを破ったことがありました。ある日のことです。娘は母に決して行ってはいけないと言われていた洞くつに入ってしまいました。そこは古くから魔物が住んでいると言われ人々が怖がり寄り付かない場所でした。けれども好奇心を抑えきれなくなった娘は魔物とやらの正体を確かめてやろうと洞くつの奥へ奥へと入って行きました。すると、洞くつの奥は蜘蛛たちの住処でした。蜘蛛たちはみんな仲良く暮らしていました。いきなり現れた娘を蜘蛛たちは怖がりましたがやがて仲良くなりました。そうしていつしか娘は大きくなり蜘蛛の子を授かりました。蜘蛛の子を授かった娘は女王として蜘蛛たちに認められ、”
* * *
「それでは皆さん今から観察を始めますよ」
教師の言葉に元気よく返事をする生徒たち。どうしてこうも元気でいられるのだろうか。無邪気にはしゃぐ同級生たちを見て
不意に右肩をこつかれて我に返る。見ると友人の
「良平か。おはよ」
「おはよ。で?さっきから何いじけているの?」
「別に。いじけてないよ。ちょっと眠たいだけ」
「眠たいだけ、ね。お前が言うと説得力あるわ~いつも寝ているからな」
「うるさいよ」
矢田はもう一度顔を埋める。反論はできない。事実矢田はどの授業でも毎回寝ている。教師が注意しても何食わぬ顔で寝つづけるのでついには教師の方が音を上げた。つまり、完全にスルーすることにしたのだ。驚くべきことに矢田に対するこの対策は職員会議で満場一致だったという。そしてついた通り名が”考える矢田”。ロダンの考える人の頬杖をついている姿と名前を皮肉ってつけた名前らしい。だが、矢田に言わせると頬杖はついていないため不本意とのこと。どうしようもない男である。
「蜘蛛ってすごいよな。獲物がかかるまでずっと耐え抜くんだぜ」
「そうだね」
その、一見するといつもの適当な相槌に思える返事に含まれる微かな恐怖心に木場は気づいた
「お前、もしかして蜘蛛が怖いの?」
「なっそ、そんなわけないだろ。蜘蛛ぐらい平気だよ」
怠け者の悲しい性なのか。日常で感情を出さない分こういう時は喜怒哀楽がはっきりと分かってしまう。
「へえー本当に?」
「本当だよ」
得たりとばかりににやける木場。机を指す
「あっ蜘蛛」
「えっ何処⁉」
「ははは。嘘だよ。やっぱり蜘蛛、苦手なんだ」
「こいつー」
事実、矢田は蜘蛛が苦手だった。更に言うと蜘蛛だけではなくすべての昆虫が苦手だった。あの、腕などに上った時に感じるぞくぞくとした感覚や見た目、何を考えているかも予測できない動きが嫌だった。
「これはいいネタを拾ったな。女子達に知らせれば大革命が起きるぜ」
「それは流石にやめてくれ。頼むから」
矢田は確かにやる気のない男だ。だがそれは授業に限った話で文化祭などの行事では積極的に行動する。むしろクラスをまとめるリーダーのような存在だ。そのぐいぐいと引っ張っていく姿に憧れる女子は多く、クラスの中の誰かと付き合っているのではないかという噂もある。これはひとえに学校では授業より行事を思いきり楽しむべきという矢田の価値観によるものだった。
「勿体ないなーこのことを女子に教えたらお前のことを王子様だと思っている子はどう思うだろうな。失望するかねえ」
「お前、本気でやめろよ?」
「どうしようかなー」
本気でないと分かっていてもむきになってしまう。かくして取っ組み合い―のようなふざけ合いが始まった。同じ班の班員の白い目が痛い。そんな時だった。運命のいたずらか、教員が衝撃の一言を放った
「では、この蜘蛛を持ってみたい人は手をあげて下さい」
「はい!」
手をあげたのは矢田だった。いや、正確には木場に腕を掴まれて挙げさせられたのだが。
「じゃあ、矢田君にお願いします」
「お前ふざけんな!」
怒る矢田にそっと耳打ちする
「いいじゃないの。ここで蜘蛛を持っておけば女子の好感度が更に上がって王子様のイメージも保てるんだ。好都合だろ?」
「くっ・・・」
「じゃっ頑張れよ王子様」
「王子様って言うな」
そんなやり取りの末に矢田は仕方なく前に出る
”うわっ気持ち悪い”
新種の蜘蛛とやらはとても気味の悪い色合いをしていた。
本体が紫色で足は黄色。大きさは5センチ近くあるように思えた。以前、体色が鮮やかな虫は自分に毒があって危険だと言う事を伝えていると何かで聞いた。だとすればこの蜘蛛はどれ程自己主張が強いのか。横にちらりと目をやるとご丁寧にも立派な巣が虫かごの中に張ってあった。幻滅する。教師が虫かごのふたを開け蜘蛛を取り出す。
「では、持って下さい。両手をお椀の様にしてそっとね」
促されて手でお椀のような形をつくろうとした刹那。ここに来て矢田はようやく重大な事に気が付いた。この蜘蛛は毒蜘蛛ではないのか。毒の強さなど知る由もないが、噛まれたらまずいだろう。それを手で持つ?そんなこと
「矢田君、どうかしましたか?ほら、お椀の形を作って」
教師はなおもジェスチャーをして行動を促す。この人は馬鹿なのか。それとも忘れているだけ―それも十分に間抜けだが―それとも解毒剤があるのか。後ろをチラ見すると木場がにやけている。こいつも馬鹿なのか、気づけよ。仕方ないと覚悟を決めて矢田は蜘蛛を持つ準備をする
「はい。これが新種の蜘蛛ですよ」
両手に昆虫特有のちくりとした脚の感覚が伝わってくる。気持ち悪い。嫌悪、拒否、拒絶、錯乱、虚無。脳裏に次々とマイナスイメージの言葉が浮かぶ。思考の停止。明らかに拒絶しているはずなのに言葉が出ない。声が聞こえる。女子生徒達が何か言っている。まるでビデオテープを見てるように映像と声が伝わってくる。自分はまるで傍観しているだけ。何か行動を起こさなければ。でも何を。そうだ笑おう。笑えばきっと夢から覚める。そうして笑おうとしたとき
「痛い」
針にさされるような痛みで我に返る。見ると蜘蛛が自分の手の平を噛んでいた。
「すみません、大丈夫ですか」
そう言って教師は蜘蛛をゆっくりと手の平から引きはがして虫かごにしまう。
「矢田君ありがとうございました。席に戻って下さい」
班では木場が面白い物を見たような満足げな顔をしていた。
「お疲れさん。表情はガチガチに固まっていたな。でもまあ、それが逆に微動だにしない勇者に見えたりして」
そんな無責任な言葉をかける友人に腹が立った。自然、蹴りを入れる。ヒット、脛をけられて悶絶する。
「痛い何するんだ」
「いい加減、キレるよ」
その静かだが明確な怒りが込められた言葉と友人に向けるにはあまりに冷たい視線に木場は一瞬、微かな身震いをした。
「ごめん、調子に乗りすぎた」
矢田は小さく頷いていつものように腕の中に顔を埋める。
「しかし前から思っていたけどお前は感情の切り替えが早いよな―」
独り言のようにそう呟いた。
それからしばらくして4時間目終了のチャイムが鳴り昼休みが訪れる。
「矢田、食堂行く?」
「悪い。今は使いたくない」
友人の何度聞いたか分からない弁解に木場は小さくため息をつき眉を寄せた
「またかよ。もっと気楽に生きろって。お前には楽曲や本を買えるだけの貯金があるんだから」
矢田は守銭奴だ。音楽鑑賞と小説の購読を趣味としていてバイト代で定期的に新しい曲や小説を購入する。しかし一方でそれ以外ではめったに貯金を使おうとしない
「お金は大切だろ?」
「まあ、それはそうだろうけど・・・」
木場は再び小さなためいきをついた
「分かったよ。購買でパンを買おう」
矢田たちが通う学校は小学校から高校までの一貫教育が行われている。そのため校舎の敷地面積は県内でも随一だ。この特有の広大な敷地に加えて進路のような学業に関わることからトイレや階段のような日常的なことまですべて高水準で名門校として名高い。しかしそんな中にあって合って唯一問題なのは購買の場所。
「着いたな」
購買が設置されている場所、それは食堂の真横。食堂が閉鎖されているわけではない。縦90メートル、横30メートルの広さを持つこの食堂は設置されてから創立40周年の現在まで滞りなく営業している。にもかかわらず購買が食堂の真横に配置されている理由。それはこの学校の広さ故だ。さっきも言ったがこの学校の敷地面積はとても広大だ。そのため移動するのが大変だろうからと教員たちの配慮で元は離れた場所に設置されていた購買をこの場所に移動した。その反響はというと「購買が近くなってよかったね」「移動が大変だったからね「でも、何で急に安くなったのかしら」
いい迷惑だ。前二つの感想はともかく、最後の感想は完全に教員たちのせいだ。購買も当然のことながら商売だ。競争相手が生まれれば価格競争に巻き込まれる。購買の価格が急に安くなったのはそのせいなのだが、元凶である教員たちは他人事のように笑うだけ。
「矢田、何にする?」
「俺は桜アンパンとソーセージパン」
「じゃあ俺は、カレーパン」
「はいよ。200円と150円ね」
丁度の金額を支払い教室へと戻る。と、見知った顔がいた。
「あれ?
「何って、昼食」
食堂でテイクアウトしたのだろう。確かにミートソーススパゲティをつるつるすすっていた。
「ああ、そっか。というかそこ俺の席」
非難の眼差しを向けて近づくと相手は分かっているといわんばかりに頷いた。
「だって、卓の席以外に座るわけにはいかないじゃん」
いや、そういう問題ではない。自分の席に戻れ。居座りを決め込む相手を引きはがそうとさらに近づく。
「おお、矢田の弟じゃん」
振り向くと手を洗い終えた良平が立っていた
「こんにちは」
「えっと・・悪い、名前は何だっけ?」
「矢田隼人です」
「そうだった」
「良平、この子どうにかしてくれない?俺の席を取られているんだけど」
「はあ?自分で言えよ。お前の弟だろ」
そうなんだけど・・
「良いよ退くから。丁度食べ終わったし」
そう言って席を立ったが見るとミートスパゲティはまだ半分ほど残っていた。パチンとスパゲティの容器の蓋を閉めてそれを購買で貰ったであろうビニール袋にしまい、いそいそと身支度を整える
「まだ食べかけじゃん良いの?」
良平が不思議そうに訊いた
「大丈夫です。家に帰ってからレンジで温めればまた食べられますから。それに兄を困らせるわけにはいけません」
「隼人って兄思いなんだな」
「そうですかね?じゃあ、僕はこれで」
失礼しますねとお辞儀をして退出する直前、小悪魔が本性を現して耳元でささやいた
「家に帰ったら
!・・・
このKZTという
略するとこうなる。K(コンソメ)Z(ゼリー)十(十個)つまり、家に帰ったらコンソメゼリーを十個お前の自腹で買ってきて食わせろという意味。スパゲティを食べる気は全くないのである。
隼人は何故か家の近くで買えるコンソメゼリーが大好物で俺が何か隼人に対してマイナスな事をする度に要求してくる。まあ、食べ物の好みは三者三様なので良いのだがこの兄思いの良い子という皮の下に隠された悪魔的な本性は家族内でしか知られていない。あっでも、隼人は両親に対してこの化けの皮をかぶりいい子として振舞っているから知っているのは俺だけか
そんな裏事情など知る由もない友人はまたなと手を振り見送っている
「お前は兄思いの弟をもって幸せだな」
幸せなのはあいつの本性を知らないお前の方だよ
「次の授業は何だっけ?」
友人はさも愉快そうにニヤリと笑って答えた
「喜べ!楽しい持久マラソンだ」
早くも訊くのではなかったと後悔した。うちの高校では毎年秋に近隣のの運動場を一回の授業につき6周走る持久マラソンが行われる。運動場といっても勿論小さいものではなく元々の設備としてマラソンコースが設けられている大きなものだ。陸上部や良平のような一部の体育会系を除きこの高校に通う学生の大半が口をそろえて心臓破りと恐怖するイベントである
「そうだったな。で、どのあたりが楽しいんだ?」
「良い汗をたくさん流せることさ」
返す言葉が見つからない。良平は野球部に所属しているバリバリのスポーツマン。体を動かすことが何よりも好きなのだ。
でもだからと言ってこんなありきたりな返事がくるとは。本当に突っ込みどころが見つからず返答に困る
「いいなあ体育会系は。文化部には地獄だよ」
はあっ、と大げさにため息をついて見せた
「気楽にやれば大丈夫さ。ファイト!」
言葉とは裏腹にそのファイトの掛け声があまりに気合が入っており教室にいる友人のうちの何人かがこちらに振り向いたがもはや何も言うまい
「さてと、俺はこれから他の友人と校庭でサッカーをやるけど矢田はどうする?」
「俺はー」
やらないと言いかけて不意に今日の気温を思い出した。連日寒波が押し寄せて最低気温の記録を更新し続けている今日この頃だが今日は久しぶりに最高気温が15度だった。運動するには最適か
「うん、やりたい」
友人はただにこりと笑った
「ぜえ、ぜえ、ぜえ・・・」
息が苦しい。今は冬だから空気が薄くなり呼吸がしづらくなるのは当然のことだと思う。しかしそれでも今のこの苦しさは異常だった
「おい、大丈夫か?サッカーで無理しすぎたか」
良平がペースを落とすこともなく声をかける
「大丈夫。でも、お前がペースを落としてくれるともっと楽」
「それは無理だな。競争に手抜きはできない」
じゃあな、と軽く手を振り走り去る友人に僅かに恨みを抱く。走り始めて5分とたっていないのだからもう少し一緒に走ってくれてもよさそうなものだ。でも、男同士の友情など大方この程度のものだろう
心の中で愚痴をこぼしても疲れるだけなので一心不乱に走る続ける。一周、二週、三週、四週―やあやって5周を走り切る
「ハア、ハア―つか、れた・・・」
ばたんと公園の芝生に倒れ込む。体力はもう限界だった
「お疲れ、良い運動になっただろ?」
そういう良平は全く疲れている様子がない。たぶん体力はまだ余裕なんだろうな
「いい運動どころか必要な体力まで奪われた気がする」
「家に帰って寝れば回復するさ。今日はもう授業が終わりだから帰るんだろう?」
「いや、これから部活」
そう。体力を使い果たして帰りたいのはやまやまだが帰れない。部活もとある理由によりさぼるわけにはいかないのだ
「ああ、そうか今日は活動日か。じゃあ、頑張れよ!」
おう、と手をあげて一足先に教室へ向かう。特に急ぎの用事はないのだが早くするに越したことはない。程なくして帰りの会まで終了し部屋に向かう。矢田の所属する部活は美術部なので一階の左奥にある美術室が部室となる。ドアを開けて中に入るとまだ誰もいないようだ。絵をかくのに必要な道具のほとんどは教室にある自分のロッカーから持ってきているのでイーゼルだけ部室に置いてあるものを借りて席に着く
「あ、やばい・・・」
準備が全て終わった安心感からか睡魔に襲われる。そしてそのまま眠りに―
机から身を起こす。軽く伸びをして右腕の黒い腕時計に目をやると針は午後2時を示していた。結局、1時間程度しか眠れなかった。中断した作業を再開しようと椅子を引くと部室の引き戸が開き、
「矢田先輩こんにちは。良い絵、描けましたか?」
そう言いながら背後から覗き込むようにしてキャンバスを眺めたが、良い絵どころか愚作さえもできていないことを知ると苦い顔をした。
「キャンバス、真っ白じゃないですか!」
「俺の頭の中が真っ白だったからな。それを表現したのだ」
開き直って自信ありげに言うと彼女は僅かに沈黙しはぁ、とため息をついた。
「起きなかったんですね」
本庄はまじめな性格で学級委員を務め、文化祭の運営係としても積極的に活動している。学校行事の時に先生が本庄に手伝いを求める時もあり、学校全体で慕われているようだ。
「しょうがないだろ、眠かったんだから」
「しょうがなくないですよ。文化祭も近づいているんですから、真面目に活動してください」
指をさしながら非難されても、人間どうしようもない事はある。人間の欲の中で購買意欲や遊びたい気持ちなどは我慢すれば抑えられるが、睡魔だけは無理だと思う。いや、断言しよう。無理だ。生物である以上は眠りを誘ってくるメーメーさん達からは逃げられない。などと。偉そうに説き伏せるのは
「分かった。真面目にやる」
彼女はしばらく沈黙していたが、どうやら納得したらしく許してくれた。
「なら、良いんです。あっそうだ!先輩も一人で描いているのは退屈でしょうからこれあげます」
そう言ってバックの中から小さい猫の置物を取り出す
「なんだ、それ」
訊くと今度は本当に驚いた、という顔をされた。
「うちの部活のマスコット、メルちゃんですよ。先輩もしかして知りませんでした?」
そんなのいたのか!と心の中で思いきり突っ込んだがもちろん顔には出さない。これ以上馬脚を現してぼろを出すわけにはいかない。
「ああ、そういえばいたね。忘れていた」
一瞬、顔を曇らせたが雷は落ちなかった。
「これ、私が毛糸で編んだんです。先輩に貸しますから大事にしてくださいね」
ここに置いておきます、と机の端にちょこんと乗っける。
「ありがとう。大切にするよ」
彼女はにこりと笑い、部室の後ろにある用具入れから足りなかった色の絵具を取り出すと絵の続きを描いてきますと言って部室を後にした。
確かに彼女の言う事には一理ある。文化祭が近い事が事実ならそれに反して自分の作品が一向に進んでいないことも事実だった。この、
「メルちゃん、か」
大きさは人間の子供の手の平程で全体的に灰色。耳の中は白で尻尾には黒い
本当に自分は何も知らない。そう思った。矢田がこの部活に入部してからもう3年経つ。
入部した理由は単純。楽そうだったからだ。・・・ふとした時に思い出すあの時の記憶。真夏の日差しとその下で笑う3人の男子。試合の開始を告げる声とテニスボールの飛び交う音。冗談のように笑う友人と思考の停止。そして
ポン・ポン・ポ―ン・・・
テニスボールの飛び交う音がする。身を焦がす程の日差しの中で俺は友達と3人でテニスの試合をしていた。試合といっても正式な物じゃない。俺が言い出して友達2人が賛成しただけの遊びだった
「あらら~矢田君敗け気味だよ。やばいんじゃない?」
そんな審判の挑発に俺はいつものように笑って答える。
「大丈夫だって。直に逆転して見せる。最強プレイヤーここに在りだ!というかお前は審判なんだからそういうこと言うなって」
微かに笑う審判役の友人。いつもの光景だ。いつものように試合を楽しんでいつものように終われる。そう信じていた。だが―
試合が終盤に差し掛かり試合が終わろうとしていた時、運命は変わった。
追い詰められていた俺は逆転しようとスマッシュ(速度が最速の技)を放った。事実、俺はいつもこの技で逆転勝利している。だが、今回は違った。俺が放ったボールがネットに届こうとしたその時。試合相手の友人がラケットを、捨てた。
”えっ”
何が起きたのか理解できなかった。分かったのは友人が笑顔でラケットを手放して自分から顔面にボールを当てにいったこと。そしてその数秒が俺には数分にも感じられたこと。ボールは友人の顔にぶち当たり彼はそのままボールの勢いに逆らうことなくコートに仰向けで倒れた。その瞬間、確かに俺の思考は停止していた。それから後のことはよく覚えていない。思考が僅かに戻った時、俺は職員室にいた。
「おい、聞いているのか」
寝言のようにはい、と小さく呟く。自然、話など頭に入らない
「何だその態度は!お前が中野に怪我を負わせたんだぞ。分かっているのか」
―中野?中野、中野・・
思い出した。中野はさっきまで一緒に試合をしていたプレイヤーだ。でもきっと人違いだろう。だってあれは中野が自分から・・
「何を言っている、中野はお前が故意に怪我を負わせたんだ。審判をしていた田中もそう言ってる」
え?
「いい加減に自分の罪を認めろよ。中野はボールが額に当たった衝撃で倒れて救急車で運ばれたんだぞ」
なんで?俺は違う―
ここまできてようやく思考がはっきりした。だが最早手遅れ。
結局俺は濡れ衣を着せられ同級生に大怪我を負わせた犯人というレッテルを張られることになる。俺は部活を強制的に退部させられ友人たちも離れていった。そうして数ヶ月が経ち事件の騒ぎが落ちついてきたある日、更なる事件が起きる。
俺はその日偶然中野に廊下で出会った
「久しぶり、怪我はもう大丈夫なのか」
尋ねると中野はさも元気そうに答えた
「うん、大丈夫。すっかり元気になったよ」
「そうか良かった。ごめんね俺のせいで」
そういうと中野はにやりと笑った
「気にしなくていいよ。おかげでテニス部トップの座は俺の物だから」
その言葉を聞いた時、俺は全てを理解した
「お前まさか―」
掴みかかろうとする俺を中野は笑って制止する
「おっと、やめておきなよ。ようやくほとぼりが冷めてきたんだから。それにまた問題を起こしたら退学もありえるよ」
こいつは!!
出しかけた手を引っ込めて睨み付ける
「怖いな。じゃあ、またいつか会おう。ばいばい」
中野は振り返ると手もふらずにそう言って立ち去った
その時、俺は決意した。真面目にやっても裏切られてばかをみるのならいっそのこと優等生を目指すのも真面目にふるまうのもやめて怠け者になろう、と。それから間もなくして受験の時期になる。その時のオープンキャンパスでこの高校を見学した際にたまたま美術部の活動を見学する機会があった。その時に受けた第一印象は”自由”だった。もちろん部室が用意されているが必ずしも部室内で描かなくてはいけないという決まりはなく部員たちはそれぞれ思い思いの場所で思い思いの絵を描いている。これこそが今の俺の求めているものだと思った。そうして入学を志願する。当然、推薦候補からは外されたがなんとか自力でAO入試に合格して現在に至る―
そんなことを考えているうちに絵は描きあがっていた。我ながらよく集中していたものだ。少し休憩しようと立ち上がると声をかけられた
「あれ?先輩、絵が描きあがったんですか」
声のした方をみると
「柏、いたのか」
「ええ、結構最初の方からいましたよ。先輩が珍しく熱中していたので声をかけませんでしたけど」
そういうと寝そべったまま伸びをする
「珍しくは余計だろ」
「その絵、見せてもらえませんか?」
「別にいいよ」
イーゼルからキャンバスを外してロッカーへもっていく
「はいよ」
「ありがとうございます。へえ、メルちゃんの絵ですか。かわいいですね」
「猫好きなのか?」
「好きですよ。気まぐれな所が自分に似ているので」
柏春奈は一言でいうと、確かに自由かつ気まぐれで猫のような人だ。部活中もよくヘッドホンで音楽を聴いている。先輩に対する言動やヘッドホンで音楽を聴くという部活に対する態度から一見すると注意した方が良いよに思えるがある理由によりだれも注意できない。その理由は柏が特殊な才能を持っているから。柏は聴いた音楽から伝わるイメージを絵で表現できるのである。
「はい、どうも」
程なくして絵を返される
「私も絵の続きを描かなくちゃ―まあ、今日の部活はもう終わりだけど」
「もうそんな時間か」
そうですよ、とポケットからスマートフォンを取り出す。表示されている時間は16時50分。活動は片づけを含めて17時までなので確かにもう終わりの時間だ。それならと片付け始める。柏も続きは次回、と片付け始めた。やがて本庄も戻ってきて5片づけを始めてから分経ったところでガラガラとドアが開き部長の
「今日の部活は終了です」と部長が言うと
「終わりです」と副部長が復唱する
部長と副部長は姉妹だ。部長が姉で副部長が妹。共通点は2人ともロン毛であることや背丈、体格が同じことくらい。顔立ちはあまり似ていないので本当の姉妹なのか疑問にもつ人は結構いるがそのことについて訊こうとすると話を逸らされるので真実は当人たちのみぞ知る。妹は姉思いで姉は妹思いなので2人で支え合って役割をこなしている。なんでも妹が病弱であるらしくそれを姉が支えているのだがそのことを申し訳なく思った妹が姉を支えているのだとか。矢田家とは違った正真正銘の美しい姉妹関係である。ともあれこうして今日の部活も無事に終了。俺はいつものように一日を頑張ったことによる疲労を抱えて帰宅の途についた。
「ただいま」
玄関で抑揚のない声であいさつをすると「お兄ちゃんおかえりなさい」と妹の
「ただいま、美羽。良い子にしていたか」
「うん」
美羽はまだ幼稚園中学年。そのため母は俺を含めた3兄弟のなかでも特に美羽に対して手塩に掛けている。しかし当の本人は最近では自分から家事のちょっとしたことを手伝うなど親が思っている以上にしっかりしている
「お兄ちゃんまた寝る時に絵本を読んでね」
「うん、良いよ。母さん今日の夕飯はなに」
訊きながら台所へ向かうとカレーのいい匂いが漂ってきた
「今日はカレーよ」
「やった」
流し台で手を洗い荷物を置くために自室へ行く。夕飯まで自室で漫画を読んでいようかと考えたがすぐに夕飯が出来た知らせを受けてリビングへ戻る。
「あんた、来年の受験はどうするの」
夕飯の席で母が唐突に切り出した
「前にも言ったよ。うちの高校の推薦大学に行く」
うちの高校には特定推薦という制度がある。この制度は各大学がこの高校であれば必ず何人か推薦された人を取りますよという確約的な制度だ。推薦されるのは成績が優秀な生徒か行事などで何か大きな貢献を果たした生徒で、俺は文化祭の時にクラスをまとめるリーダーの役割を3年間こなしてきたので推薦候補に該当する。
「本当にそれで良いの?あんたは真面目にやればいい成績を出せるのよ。そうすれば一流大学だって狙える」
「いいんだよ。一流大学になんて興味ないし、ごちそうさま」
食事もそこそこに乱雑に席を立つ
「ちょっと卓!」
「風呂入ってくる」
「卓、その前にコンソメゼリー」
食べている物を飲み込んで隼人が言った
置いておく、とコンソメゼリーの入った袋を食卓の上に置いて憤慨したまま脱衣所に向かう。本当に何も分かっていない。一流大学が何だというんだ。学問だけ頭がいいだけの奴らが集まっているところなんてどこも同じだ。最後には裏切られる。もう、あのころには―
脱衣所で服を乱暴に脱ぎ浴室でシャワーを浴びる。疲れた体に浴びせるシャワーは気持ちがいい。このまま嫌な記憶も洗い流せたらいいのに。そんなことを考えながら体を洗い終えて湯船に浸かり目を瞑ると心なしか嫌な記憶も再び薄れていくようだった
「お兄ちゃん、絵本を読んで」
ジャージに着替えて寝室へ行くと美羽がズボンの裾を引っ張ってせがんできた
「分かった、分かったから。引っ張るなって」
部屋の本棚にある絵本を取って自分の布団に入る。美羽もそれに倣って布団に入る
「じゃあ、読むよ『狐と人間』とある空き地の地下に狐の親子が住んでいました―」
「空き地はとうとう土地開発により埋め立てられてしまいました。でも母狐は諦めません、うちの坊や、うちの坊やと探すのです。コンクリートの地面をかぎ分けて必死に探すのです―」
「おしまい」
パタンと絵本を閉じる。
「ありがとうお兄ちゃん。また絵本を読んでね。なんだか眠くなってきた」
そういうとまもなく美羽は静かに眠り始めた
「おやすみ、美羽」
俺も蛍光灯のひもを引っ張って電気を消して眠りについた
* 夜1/7
うっという呻きと共に目を覚ました。妹を起こしてしまったかと心配したが見ると横で静かに眠っていた。安堵して痛みが走ったところを探す。右手の人差し指がしびれている。でもどうして?答えが出ないまま小指、薬指、中指、親指がしびれてゆく。針を刺すような痛みが左手の指に同じ順番で伝染してゆく。っ、耐え切れずにトイレへ駆け込む。妹が目を覚ましてしまう―痛みは治まらない。結局、夜が明けるまでトイレの中で悶え続けた
*
朝になると不思議と痛みや疲労感は消えていた。もしかして悪い夢を見てうなされていただけなのか。気になることだがいつまでも気にしているわけにはいかない。今日は休日で学校は無いが代わりにバイトがある。もう随分と前から土日は文房具店でアルバイトをしている。部屋のクローゼットからバイト先の制服を取り出して着替え足早にリビングへ向かう。
「おはよう、ご飯はテーブルの上に置いてあるわよ」
「頂きます」と食卓の上に置いてあるバターの塗られた食パンとレタスとトマトのサラダを餓鬼のように食べる。
「もう、シフトの時間を変更したら?寝坊したわけでもないのに馬鹿みたいじゃない」
もっともな意見だと思う。でも仕方のない事なのだ。このバイト先は交通の便が良く売られている商品の質が良いため朝から晩まで客の人数が多く正社員だけでは接客が間に合わない。とくに土日の時間帯は顕著なのだがアルバイトでこの時間に出勤できるのは俺だけなのだ。そのため必ず朝のシフトを入れなくてはならず開店作業があるため急いで支度して出勤しなくてはならない。
食べ終えて歯を磨き行って来ます、と一応挨拶をして家を出る。なにしろ急いでいるので母のいってらっしゃいという返事はほとんど聞き取れないのだが。
店に着くと店長がすでに商品棚を整理して開店作業を始めていた。
「おはようございます、店長。作業をやらせてしまって申し訳ないです」
そういうと店長は「おお、来たか」と、こちらを振り向いてにこりと笑った
「構わないよ。君のような若者ばかりに作業をやらせるわけにはいかないからね。年長者が進んでやらないと」
「流石ですね。今日は特別に何かのシーズン企画を行っているわけではないので商品の整理だけですよね」
正月やクリスマスといったような年中行事の時はそれに合わせてコーナーを作り商品を出すがそれ以外の時の開店作業は商品棚にある商品の補充と整理だけだ
「そのことなんだが、今はパンダがブームだろう?だからそれに合わせた商品が届いているんだ。すまないが段ボールを取ってきてあそこに並べてくれ、私には箱が重くてね」
指をさした方を見ると確かにビニールテープで仕切られた広い空きスペースがあった
「分かりました」
バックヤードに行くと段ボールが一つ無造作に置いてあった。これだな
先程の空きスペースに持っていき箱を開けると白い餅と黒豆で作られたパンダの顔が入っていた
取り出して均等に並べていく。程なくして作業が終わった
「ありがとう、助かったよ」
「とんでもないです。他に何か用意するものはありますか?」
「いや、これだけだ。レジに入ってくれ」
「わかりました」
「いらっしゃいませー」
パンダグッズが入荷した影響かいつにもまして店が混雑している。パンダグッズだけを売るのであればそれはそれで楽なのだがそうはいかない。中にはこんなお客さんもいる。60代くらいのおばあちゃんが声をかけてきた
「すみません、今度友人に手紙を送りたいのですがおしゃれな封筒はないかしら」
こちらです、と案内する
「こちらの封筒なんかおすすめですよ」
「あら、いいわね」とその封筒を手に取りレジへ向かった。
こうした接客もしながらなんとか業務をこなし時間程経ったところで俺はいったん休憩に入る。午後も若干シフトが入っているため準備を行う
「あー、のど渇いた」
シフトの時間中はずっと喋り続けているため、のどがカラカラだ。バックヤードにある従業員専用の自販機で飲み物を買う
「―お茶で良いか」
悩んだ末に結局いつもと同じ冷たい緑茶を選ぶ。そうして自販機のボタンを押し―あっつ!
突然、右の頬に痛いほどの熱さが伝わる。振り向くと見知った顔が立っていた
「―お前か、浅田」
「女の子に対してお前って言い方は無いんじゃない?コーヒーあげないよ」
不満そうにそう言い放った少女の名前は
「いらないよ。というなんだいきなり。何か用事?」
「ねえ、私たちが初めてここの文房具店で出会ったときのこと覚えている?」
「・・・覚えているよ、あの日のことは」
―あれは5年前。6月のよく晴れた午後のことだった。当時、同級生たちは中学2年生となり後輩も出来たことで部活動に加入している人は後輩の指導にいそしみそうでない人も高校受験に向けて勉学に励んでいた。俺はと言えばそのどちらでもない第3の選択肢を選んでいた。つまり、アルバイトである。当時も中学生のアルバイトは校則で禁止されていたが親の勧めで始めることになった。とはいっても最初はアルバイトをする気がなかったのかと言われればそうではなく、おしらく同級生の中でもいち早くバイトをすれば小遣いを稼げることを知った俺は、バイトをする気はあったが校則を気にしてやらなかったのである。親に勧められたときにそのことを伝えると「ばれなければ大丈夫よ」と笑いながら軽く流された。結果的にこうしてアルバイトをすることができているので感謝しているが今思うとなかなかの毒親である。
閑話休題、6月のよく晴れた午後の話に戻る。あの日、俺は今のアルバイト先に面接に来ていた。自宅から30分程歩いた場所にある店で、白い壁に赤い屋根が目印。自動ドアに石田文具店と書かれている。自動ドアを抜けてレジへ向かう。
「すみません、バイトの予約をした矢田という者ですが」
少々お待ちください、と店員さんが席を外し程なくして大柄のおじいちゃんがやってきた。
「初めまして、店長の
「初めまして、矢田卓です」
「面接を行う部屋にご案内します」
お願いします、と後についていき小さな個室に通された
「おかけください」
失礼します、と椅子に腰かける
「ではまず、履歴書を見せて下さい」
こちらです、と履歴書をカバンから取り出して渡す。
「年齢は13歳ですね、えっということは中学生かい?一体どこの中学―」
そこまで言って店長は急に口をつぐみ顔をしかめた。いや、しかめたというよりは何かとても嫌な物を見たような顔だ。
明らかに、この中学の校則は大丈夫なのか?という以上の何か大きなことを懸念している顔だった。
「あの、どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない―です」
その間は何だ。確実に動揺している
「うーん、まあ、いいかな。人手が足りないし・・」
そんなことをもごもごと呟いた
「あの、本当にどうしました?」
「大丈夫です。問題ありません、失礼しました。では、次に―」
そこまで言いかけた、次の瞬間。ドアが大きな音を立てて開き見知った人間が入って来た。
「店長、おはようございます!」
そいつはそう言いながら持っていた500ミリの水のペットボトルで俺の横顔を殴打した。振り下ろすのではなく、薙ぎ払う。容赦なしのフルスイングである。俺はうぐっとうめき声をあげて前のめりに倒れる。
「―えっと。矢田君、死亡理由は?」
ああ、なるほど。志望と死亡をかけたのね。店長やるね!・・・って、そういうことじゃない。何をするんだいきなり。
「あれ、矢田じゃん。何しているのこんなところで」
お前だよ。お前が殴ったから悶絶しているんだよ。言いたいけど痛みで言えない。まだ頭がずきずきと痛む。そんなことを知る由もなくそいつはぺしぺしとペットボトルで俺をたたく
「痛いよ。いきなりなにするんだ、浅田」
ようやっとそれだけ言えた
「あ、もしかして勢いで殴っちゃった?ごめんね」
そんな感情のこもっていない声で謝れても嬉しくない
「―浅田さん、今日はこの子の面接をするから昨日一日と今日の午前中にあった事の報告は無し。仕事に入って」
はい、と元気よく返事をしてその場を後にした。
「なんで、浅田さんがここに?」
「彼女もここのアルバイトなんだ。去年から働いている。他のアルバイトに営業成績で負けまいとして少し暴走気味なんだ。元気が良いのは接客業としては嬉しいが―」
店長は困ったように深いため息をついた。そうして俺はさっき店長が履歴書を見て顔をしかめた理由を理解した。確かに暴走気味のアルバイトと同じ中学の出身者を採用するとなればためらうのが当然の筋だろう。
ともあれ。俺は無事に面接を終えてアルバイトとして採用されることになり今日に至る―
「ねえ、あの日、私、あなたに何でこの店で働くことを希望するのかってきいたじゃない?」
ああ、そういえばそんなことを聞かれた気がする。
「でも、あなたはちゃんと答えなかった。たしか、特に理由はないとか言っていたわよね」
そんな風に答えた気がする。店長との面接では、まさか遊ぶための資金集めだとは言えず、社会貢献とか見え見えの嘘を言ったが浅田にはばれると思い適当にごまかしたのだ。
「もう一度聞くわよ。あなたがここで働く理由は何?」
今なら言っても良いか
「小説や楽曲を買うための資金集めだよ」
彼女は呆れたようにため息をついた
「そんな理由で働いているの?全く私の競争相手にはならないわね」
「浅田は借金を返すためだよね」
「そうよ」
彼女の父親はとある文具店の経営者だったらしい。しかしある時、大赤字を出して膨大な借金を抱えてしまった。そうしてあろうことか父親は借金から逃れるために彼の娘、つまり浅田に何も言わずに奥さんと共に夜逃げしたらしい。以来、浅田がバイトをして借金を返すためのお金を稼いでいる。
「―あなたには、絶対負けない」
彼女はそう言ってその場を後にした
「いらっしゃいませー」
「いらっしゃいませー」
昼。お客さんが増えてレジは混雑していた―前後撤回。このレジだけは混戦状態だった
「だから、何で矢田がレジに入っているのよ」
浅田の蹴りが俺のふくらはぎに命中する
「痛いな。仕方ないだろシフトなんだから」
―傍から見れば痴話げんかに見えるこの光景は石田文具店では日常だ。普通なら営業中の従業員の喧嘩など言わずとも言語道断で、利用客の多い店ともなればもってのほかだ。しかしここに買いに来てくれるお客さんは大らかな人がほとんどなので皆「仲がいいね」と笑ってくれる。そのため店長のお咎めもない。それでも5つあるレジのうち騒がしいのはこのレジだけなので異様な光景に変わりはない。
「男は外回りにでも行って来なさい」
「うちはアルバイトの外回りは無いって」
「私はやる気のない奴と一緒に働くのは嫌なの」
「まだ引きずっているのかよ。こちら4点で1500円になります。痛い」
そんなやりとりを続けること十数分。俺は打開策を見つけた
「あの人、何か困っているみたいだからちょっと行ってくる」
「えっ?そんな急に、ちょっと」
今一番先頭に並んでいるお客さんは大人買いをしている。してやったり
「どうかされましたか?」
おばあちゃんが習字の半紙を手に取り見比べている
「いつも買っていた半紙が売り切れていて代わりにどちらを買ったら良いか分からないの」
「申し訳ございません。それでしたらこちらの半紙が特に高品質ですよ」
「あら、そうだったの。じゃあ、これを頂くわ」
「ありがとうございます」
こちらです、とレジに案内する。レジでは浅田が一人で対応していててんやわんやだった。
「こちら一点で300円ですね。うっぐ」
今日一番の蹴りがふくらはぎに炸裂する
「―何を」
「お返しよ」
こうして今日もシフトの時間が終了して帰宅の途に着いた。
時計の音がやけにうるさい。それは今が夜中だからか。はたまた心の中で焦っているせいか。
浅田里香は今日稼いできた分の札束を、仰向けになり部屋の照明に照らしながら数えていた。彼女が今の店でアルバイトを始めてもうすぐ一年。親の借金を返すために始めたこのバイトは完全に彼女の生活の主体であった。本来は月給制のアルバイトだが彼女だけは日払いだ。日々の支給額は5千円、他のバイトは知らないがおそらく相当な金額を受け取っているのだろう。そのため支給額に不満はない。しかし確実に不安要素はある。返済日が迫っている。明日の深夜0時までに返済できなければ取り立てが来る。幸いにも今のペースでいけば明日のバイトで丁度返済額に到達する。そうと分かっていても汗は両の掌から滲み出す。ああ、お金が濡れてしまう―確実に、焦っている。
札束を数えるのをやめて一人物思いにふける。本当に、ひどい両親だった。物心ついた頃からほったらかしにされて構ってもらった覚えはほとんどない。しいて言えば一度だけ食事に連れて行ってもらったことか。その私にとっては特別な思い出も他人にとっては当たり前だという事を知ったのは小学生高学年のころだったか。父親が社長を務め、母親が父の考えた企画にアドバイスをしていた。そのため暇さえあれば彼らは企業の話をしていて私は完全に
結果として私は取り残され借金返済に四苦八苦する文字通り悪夢の生活をするはめいなった。でもそれももう終わりだ。明日で全てが終わる。そうしたら普通の女の子としての生活を―
うとうととまどろみ
「はい、どなたですか?」
「借金の取り立てに来ました」
嘘、なんで?返済の期日は明日のはず―
いたずらかと思ったが、インターホン越しに見える女性の身なりはきちんとしていていたずらではないことを悟らせた。とにかく交渉しなくてはとドアを開ける
「どうして?返済期日は明日でしょ」
「はい。ですが、急遽本日取り立てを行うことになりました。同情は致しますが―」
「そんな・・」
「では、お支払い頂けますか」
「まだ、お金が足りていなくて」
「困りましたね。では、罰金を課せて頂きます」
「無理です!」
「これが最大の譲歩―」
そこまで言いかけた時、電話が鳴った
「失礼」
ポケットから携帯電話を取り出す
「お疲れ様です、はい、はい、ええ、徴収を行っているところです。えっ?返済が終わった?振り込まれたんですか?はい、分かりました」
「失礼いたしました。返済が終了したとの電話です。私はこれで失礼いたしますね」
「えっ」
取り立てに来た女性は「そうならそうと言ってくださいよ」と微笑し去って行った。里香は何が起きたのか理解できずに背中をただ見送った
* 夜 2/7
また、あの時間がやってくる。昨晩痛んだ両手の指に再び激痛が走る。再び手洗い場へと駆け込む―不可。右足の親指に同様の痛みが走り動けない。
「|、」
案の定右の他の指に痛みが伝染していく。
「|、|、|、」
声を殺して悶え続ける。次第に左足の指にも激痛が走り始める。終わらない痛みとの闘い。一睡もできないまま朝を迎えた
*
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