瓶の中あるいは外
亜済公
瓶の中あるいは外
波打ち際で、瓶を見つけた。歩いていて見つけたのか、見つけるために歩いたのか。後者のような気がする。僕が海へやってきたのも、この瓶を見つけるためだったのだろうか。
海といっても世間一般にいう海とは少し違って、泳いでいったとしてもどこかに着くわけではなく、一周してここへ戻ってくるわけでもなく、ただ延々と泳ぎ続けるはめになるだけだ。そんなものはとても泳ぎとは呼べない。人が泳ぐのはその先に何かがあるからであり、つまりその海では最初から泳いでなどいなくて、では自分は一体どこにいて何をしているのかと思わず首をかしげると、あっという間に溺れてしまう。――そんな海なのだ、ここは。
僕は波打ち際に一人、たたずんでいる。寄せては返し、返しては寄せ、時折返しては返したりもする。飛沫が飛び、カエレカエレとわめきながら落下し、再び海に同化する。
問題の瓶は茶色く半透明で、汚れて濁ったガラスの向こうには確かに何かがあった。何かはわからなかったのだけれども、何かがあることだけは確かだ。何かがあるのとないのとでは大違いだから、これはいい傾向だろう。
瓶の中身は何だろうか――僕は考えた。考えた、というのは少し大げさかも知れない。こんなものが入っていたらいいな、という、願望というか妄想というか、そんな類いの他愛のない想像だ。
漂流者からの救援要請――これはないだろう。宛先のない手紙が、どこかへ届いた試しなどないのだから。さしもの海流も始末に困り、あちこちたらい回しにされた挙げ句もとの島へと帰ってくるに違いない。もっともその頃には漂流者はとうの昔に死んでしまっていて、それじゃあこの手紙はどうしようかと、配達員は悩んだ末に破り捨ててしまうのだろうけれど。
酒またはそれに類似する飲料。ありそうではある。けれど、やはりないだろう。飲料は飲むためのものであり、海に放り込むために存在するのではないからだ。もし飲料を飲まずに海に放るようなやつがいるとしたら、それは僕以外にはあり得ない。けれど僕はやっていない。なら、これが飲料である道理は全くないわけだ。
それじゃあ、と僕はつぶやく。女の子というのはどうだろうか。一人の少女が瓶の中に封じられているという絵は、決して悪いものではない。少女というのはそこそこ特殊な性質を持っているから、少年と違って壺の中でしか生きていけないというわけではないし、文字を食べないと育たないということもない。いつでもどこでも誰とでも、健康的かつ理知的な知性体になることができる数少ない種族だ。
少女は、きっと純白のワンピースをまとっている。そして瓶が内包するその世界には、やっぱり海と砂浜があって、波打ち際にたたずみながらふと空を――瓶の蓋に目をやっていることだろう。
――開かないかなぁ。
切ない声で、そっと、ささやくように。
無論これは数ある可能性の一つに過ぎない。少女が打ち上げられた瓶を見つけて、その中に僕がいるという構図もあり得なくはない。その円環をもっとコンパクトにまとめてしまい、僕が持つこの瓶の内部に僕のいるこの世界が内包されている――そうして僕が振り返ると、そこには件の少女が立っている、という構図も悪くはないだろう。この場合、少女は不要かも知れない。
けれどもやはり、そうではない。瓶には確かに少女の雰囲気がまとわりついているし、僕の気配は極めて希薄だ。
僕は瓶に耳をくっつけて、内部の音に聞き入った。
さらさらという砂の音。
かすかな潮の音。
かすかでかすかな風の音。
それら全てが、少女の形を残して満ちている――それらの要素が、そこにないことで少女を浮き彫りにしている。ないことであることを肯定している。
少女は観測されるまでもなく観測された。僕はそっと、瓶を抱きしめる。
それからすべきことは、わかりきっていた。瓶の蓋に手をかけて、渾身の力でこじ開ける。瓶の中に封じられた少女を解放するのだ。瓶の外に封じられた世界を解放するのだ。
――ポンッ。
軽やかな音とともに、蓋は開く。
それからにゅるにゅると妙な音を立てて瓶は裏返り、元の通り蓋が閉まった。
少女は、ただ呆然と立ち尽くしていた。
瓶の外側から、少女は内側に目をこらし、けれど何も見えないと諦める。
少女は瓶を海に放った。イラッシャイイラッシャイと飛沫はわめいて、そのまま瓶ごと僕をさらい、静かに、けれど勢いよく沖の方へと配送する。
運がよければ、きっと瓶は泳いでいないことに気づくことなく、果てしない旅の先にこの浜辺へ帰り着くことができるだろう。
僕は今となっては瓶の内側となった世界で、ただ一人たたずみ、空を見上げる。
いずれあの少女とは別の誰かが、瓶の蓋を開けてくれることだろう。
けれど僕には、そんなものに意味があるとはどうしても思えなかった。
あらゆるものは瓶の内側であって、外側でもあるのだから。
瓶の中あるいは外 亜済公 @hiro1205
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