ある引き揚げ者の記録

暁 睡蓮

第1話 ある引き揚げ者の記録

昭和二十年八月七日、私は満州国東満総省寧安県の東京城という小さな村にいた。東京城はその昔渤海国の首都であった所で、王城の跡には今尚巨大な岩石が横たわり広大な城郭を偲ばせている。それより二カ月程前、私は児童を引率して、ここへ遠足に来たことがあった。その時の東京城は、長い冬から開放され野山が生気をとりもどし、青く芽ぐんだ草原に、黒い子豚のかわいい群が遊んでいた。中国人の子どもが、土壁の粗末な校舎の中で嬉々とたわむれる声がしていた。今その東京城の日本人学校の空き教室に、私は応召兵として、年がいもなく、こわごわ、どんな命令がくだるのかと心を痛めていた。同じ運命に置かれたのは、久田見在満国民学校校長と私、及びK教諭である。久田見在満開拓団の子弟、五十名ばかりをあずかる久田見在満国民学校の職員であった。

戦況が不利であることは知っていたが、召集を受けるとは夢にも思っていなかった。薬草の収集やら、おおばこの乾燥やらで、忙しかった夏休みが、突然狂ってしまった。千人針や日の丸の激励もなく、家族以外の見送りもないさびしい門出であった。これから先の事など去来する胸を抱えて、会話もない一夜が明けた。すると異様なざわめきが起こり、召集解除が申し渡される。開放された喜びと同時にソ連が日本に宣戦を布告したことを知らされて愕然とした。

東京城から馬蓮河(久田見開拓団)までは、十キロメートルもあろうか。雨あがりでぬかるんだ道を夢中で走った。遠足に通った道である。あの時には、馬に乗った花嫁が嬉しそうに通っていった。急転した情勢に色を失った日本人を見て、中国人がきょとんとしていた。

その翌日は、東京城とは反対の丘の道を、何台かの牛につけた車に家財道具をしばりつけ、腰や肩に食料をつけたジプシーさながらの開拓団員が、長い行列を作って歩いていた。この道は五月次、通信兵が軍用電話線の敷設工事をしたところである。その工事の為、久田見在満国民学校で一週間ばかり滞在した。学校で寝起していた私は、この若い日本兵と食事を共にしたこともあった。あの時は、慰安と激励のつもりで、にぎやかに歓談し、望郷の念も一時忘れたこともあった。一日の行軍でかなりくたびれる。でも、女、子ども、年寄りが主体の避難民の前で、そんな姿勢は見せられないと自分にむちを当てて頑張る。学校長は、在郷軍人会長で、剣道も猛者であったが、四人の家族(奥さん、長男四年生、長女二年生、二女五才)を引率しての避難である。それにくらべれば、ひとり身の私とK教諭は、気楽なはずであった。第一日にたどり着いた開拓団は、これも五月次、校長と二人で親善訪問した在満国民学校のあった所である。ここで、いくつかの開拓団や避難民が集って、大集団になる。こうして、希望のない避難集団の行動が、はじめられることになった。

それからの避難は、幾日かのさすらいの後山の中の秋田漁業開拓団に来ていた。ずいぶん長い日数に感じたが、実際にはまだ一週間も経ってはいなかった。次の行動に移るまで大休止ということになったここで過ごした数日間の出来事は、私にとって、不思議な運命を思わせる忘れられないことばかりである。

夏のさかりで、着るものに不足や不便は無かったが、食糧のことが心配になってきた。副食の味噌、梅干しは当分充足の様子だが、主食の米が足りなくなり、食べ方も極度に切りつめていた。何とか補給を考えなければならない。しかし、いい方法はない。この秋田漁業開拓団は米を持っていないだろうかと、さがし歩いたが、それらしい人を見つけることは出来なかった。

Y副団長が考えた末、学校職員であるわれわれ三人を含めた未召集の若い団員を集めて、馬蓮河(久田見開拓団のあった所)へ行き、隣の中国人部落に頼みこんで、米を調達できないだろうかと云った。平素日本人は、中国人を従属者と考え、無理が云えると思っていたのであろう。しかし誰も、その使を引き受けようとする者はいなかった。

それから、どのような経過を辿ったかはわからないが、私が一人で馬蓮河へ行くことになっていた。団の診療医のHさんが、大事に飼っていて、この避難の旅にも、一緒に引率した老いたおとなしい馬を持ってきて、この馬に乗って行けという。私は馬に乗ったことがない。でも乗れないと断るのもくやしいし、命にかかわるけわしいひとり旅である。若さがさせる英雄気取りであった。

馬蓮河へ行くには、一筋道である。今まで避難で歩いた道であったが、集団で、トボトボ歩いた道は、今、独りで歩く者には、さびしく、けわしい道であった。避難する前、I指導員が応召の時、妻や子どもを頼みますといって私に渡した軍刀を、恐怖心をふり払うお守りのつもりで腰に下げていた。

日の明るいうちは、誰にも会うことのない静かな平坦な道を、無事に進んで行く。

馬は、走り出すこともなく、休むこともせず見ず知らずの私を乗せて歩んでくれた。ありがとうといって食事の用意をし、馬に青草を食べさせて休憩したが、もう日は暮れていた。

もう十五メートルも来たころ、道は峠のあたりで両側に山がせまって暗く体が固くなる。もう真夜中であろう。晴れてはいたが、月は出ていなかった。

「たれか、たれか」

日本兵が、銃剣をきらめかせて、おどり出た。馬がびっくりして、ひひんとないた。

「開拓団です」

「降りろ」

馬から降りて、こちらの身分と用事とを説明する。

「気をつけて行ってください。成功を祈ります。」

こんな所に、日本兵の歩哨が立っていた。徹夜の行軍であったが、眠くはなかった。自分より馬のことが心配であったが、よく辛抱してくれたと思う。やがて白々と夜が明けて広々とした高原が開けた。夏の高原の早朝は何とも云えぬ清々しい気分であった。遥か向こうに、テントが五はり立っている。さては昨夜、誰可に出た歩哨の本隊かもしれない。

馬蓮河に着いて、開拓団部落を見て驚いたことには、団員の家が一戸も無いことである。焼けた屋敷跡に、灰が残っているばかり。家の消滅した部落のあとを見るのは、何とさびしく、悲しいものであろう。学校はどうなっているのだろう。おそるおそる近づいてみると赤煉瓦の頑丈な校舎の建物が、無事に建っていた。私が、一生けんめい栽培しておいたカボチャが元気な花をつけていた。

何時間か、校舎のまわりや運動場をさ迷い思案にくれていると、突然、思いもかけぬ中国人が現れた。それは張といい隣の中国人部落の住民で、この久田見在満国民学校の用務員であった。年令はもう二十才にもなろうか。余り体格はよくないが、豆々しくよく働き、日本語も、よく話すことが出来た。私が単身で、この張と共同で、生活していたので、避難に出た時は、ふとんや衣類その他生活用具一式を張にあづけてあった。これらの用品は配給制で、中々手にはいりにくく、張には、うれしい贈りものに思えたかも知れなかった。

そうだ。これに頼んでみよう。私はここに来た訳を話し、何とかいい方法はないかというと、しばらく考えていたが、今晩は私の家に来てくださいという。張の家は知らなかったし、たずねたこともなかったが、思いつめた張の顔に悪意は見られない。ついて行くと、張の家に十人ばかりの家族がいた。思わぬ珍客を迎え驚いた様子であったが、好意にあふれていた。飢えた胃袋は、中国料理に驚いて、出されたご馳走も充分腹に、はいらない。部屋の中で、手足をのばして眠るのは何日ぶりであろうか。夢のような一夜が明けた。あたりの様子が何となく騒々しく、中国人がばたばたと出入りしていた。やがて一台の牛車が前の道路に止まって、若者らしい御者が車に乗っていた。

「先生、今は、これだけしかできません。ごめんなさい。」

張が、言いにくそうな口調で、父親の代弁をする。牛車には、かますに入れた五俵の米が乗っていた。

「ありがとう、ありがとう。謝! 謝!」

地獄で、仏とはこんなことである。天にも昇る気持で、弁当まで用意して貰い、秋田漁業開拓団へ帰った。

私一人で行った食糧調達は大成功であった。しかし、四百人もの団員の頭割にすると、心細い量であった。そんな懸念があったのであろう。私が帰る前、すでに第二次の食糧調達班が編成されて、馬蓮河へ向けて出かけていた。その中には、校長、K教諭も、ふくまれていた。自分の時には、不思議なことに、用務員の張に助けられ、無事役目を果たすことができたものの、この上、中国人に、重ねて食糧の提供を無理いうことは、果たして可能であろうか。でも今度は七人の若い団員である。半ば威嚇的な調達班の編成である。どうか、うまくいきますようにと祈ってみたが、悪い想像が次から次へと襲ってくるのを、どうすることも出来なかった。

この食糧調達班が出発してから三日になる。

もう帰って来なければならない。まさか、もしかしたら、そんな不安が、はげしくこみ上げてくる。

すると、四日目、校長が、衰弱した、元気のない顔で、ひとりで現れた。何も説明を聞かなくとも、結果は想像出来た。まだ帰らぬ団員の家族が、

「うちの息子は、いっしょじゃなかったかな。」

「ばらばらになってしまったで・・・」

と、校長の言葉も、もつれがちであった。

しかし、その夜のうちに残り五人は帰ってきた。

家族の無い、ひとり者のK教諭のことは、誰もたずねる者もないまま翌日を迎えていた。奥さんが校長に、

「K教諭は、まんだ帰ってみえんね。」

といって、辛抱をきらして、きいた。校長は暗い顔をしてK教諭を見失った時の様子を語った。

食糧調達班が、馬蓮河に着いて、最初の中国人部落の近くまで来た時、突然、銃声がした。

「日本人、日本人」という中国人の叫び声がした。

「逃げよ」

校長が叫んでいた。夢中で自分も高りゃん畑の中にかくれた。広い高りゃん畑には、かくれるのに好都合な、高りゃんが繁っていたが、動くこともせず暗くなるまで伏せていた。

すると畑の前方の道を数人の中国人が、歩いて行く。銃を持ったであろう。これが、先程銃撃して来た中国人か、別の中国人かは、分からないが、

「先生死了」「先生死了」と、かすかな声ではあったが、はっきり聞いた。

今まで、中国人が、自分達の土地を取り上げて入植してきた日本人と、争わず、仲よくして来たのは、日本人が怖かったからである。今、ソ連軍が、強大な兵力で侵攻し、一矢も報いることのない敗残の日本を見て、うれしかったことは想像できる。しかし、あんなに平穏に生活して来たのに、銃をかくし、開拓団と見たら悪鬼のように銃撃してくるとは、夢にも思っていなかった。

第二次の食糧調達は、みじめな結果に終わった。そして、若い学校の先生を一人失ってしまった。

K教諭は、秋田県師範学校大陸科の卒業で、最初の赴任地が、この久田見在満国民学校であった。わずか二十才で単身渡満、不便な開拓地で、不自由に耐えたら、青春の血を開拓地の子供の教育に捧げて燃やしていた。それが、花を咲かせることもなく、楽しみも無いままに、この東満の山の中に、さびしく散っていった。私は、くやし涙を岩塊に流していた。

どこへ避難したらいいのだろう。中国人は皆、敵のような気がして、安心していることが出来なかった。団の幹部も迷っているのだろう。この秋田漁業開拓団に来てから、一週間以上もたったと思った。私は食べ物を求めて、この開拓団の家々をまわって歩いていた。

大抵の家は、戸締りをして空き家である。草花や庭が、きれいにつくってある家もあった。でも、どこへ行ったのであろう。誰も日本人の姿は見ることが出来なかった。ふと、ある家の裏木戸に蜜蜂の飼育箱が数個、置いてあるのが目にはいった。

よく見ると軒下に、トタン製の円筒形の蜂蜜しぼり器があった。思わず知らず、中に入っていた蜜を、なめた時は、平素、余り甘好きでは無かった私も、飢えに苦しんでいる味覚を驚かせた。みんなを呼んで、またたく間に、全部たいらげてしまった。

もう移動の指令が出てもいい頃である。朝食をすませて、今日一日の生活に思案している時であった。遠雷のような、聞きなれないうなり音を聞いて、みんなが、耳をそばだてる。次第にその音が大きくなり、前の道を、大きな大砲を積んだと思われる、戦車の群れが通っていくのがわかった。国境を突破して東の端から進攻してきたソ連の戦車隊であった。皆恐怖に固くなって、昼次になっても食事の用意をする者もない。何十台か、数え切れない戦車の大行進であった。このまま、無事に通過していってくれればいいがと思っていた時である。急に、ぱたっと音が消えた。まだ、終わったとも思えない。何か起こらなければいいがと、心配していると、果たしてソ連兵が、やってきた。猛獣に、にらまれた小羊のようなものであった。持っていた武器といっても剣が三、四本であったが、取り上げられ牛車に積んであった女達の大切な大切な着物を、ひきつり上げて嘲笑し、軍医と思われる女の兵士が、赤い着物を小わきにかかえて引きあげていった。やれやれと思っていると、又やって来た。今度は男の団員の徴発である。ロシア語のわかる者は誰もいないが、手振り、身振りで用件は想像出来た。何でも、川にかかっていた小さい橋が、戦車の重みに耐えかねて、落ちてしまったというので、その橋の復旧工事に、手を貸せと云うのであった。こちらは避難民ということを知って、危害を加える様子は無い。食糧不足で力も出ないが、大勢の力で、ようやく橋をなおすことが出来た。かれこれ、三時間もかかったであろうか。やっとの思いで団に帰った私は、女達が、異様な空気に包まれているのを感じた。校長に奥さんが語ったのは、次のようなことであった。

男子団員が、橋の修理に行っている間のことである。二人づれの、若いソ連兵が、銃を持ってやってきた。女と老人、それに子供達だけである。又、何をしに来たのであろうと、なるべく目をそらしていたが、団員の顔をうさん臭そうに、つぎつぎと、のぞいていたソ連兵は、Fさんのそばまで行った時、止まった。そして二人でFさんを抱きあげるように両側から腕をかかえて連れていった。抵抗すれば、どうされるかも知れない。無抵抗である。誰も何とも、しようが無かったという。隣の席にいた奥さんは、うろうろになり、二人の子供を抱きあげていた。切ない思いが、団員の胸をしめつけていた。Fさんの主人は、団の診療所事務員で、今は応召、避難民の中には居なかった。Fさんは、まだ若かった。そして美しかった。ソ連兵が目をつけたのも、それであった。いくら、ソ連でも、兵の暴行を公認しているとは思えないが、ちょっとしたすきに、その犠牲になったFさんが、かわいそうであった。

しかし、団員の心配にもかかわらず、間もなくFさんは、元気な顔で、もどって来た。

暴行をふり切って逃げて来たという。皆がホッと息をついだが、再びの暴行を恐れて、娘の髪を切った母親もいた。

戦車の轟音が再び、ひびいて、長かった不気味な一日が過ぎ、団員は思い思いの一夜を明かした。もう、こんな所に居ることは出来ない。ソ連兵に先を越されてしまった避難民は、どこへ行けばいいのだろう。行く先の分からない避難の旅が、又始められようとしていた。荷物を整理し、乏しい食料であったが、腹ごしらえをして、団員は今、大きな湖の岸に並んでいる。ふいに私の後から、

「先生、先生」

と肩をたたく者があった。大きな中国人である。この中国人は、昨年は、牡丹江市聖林満国民学校の暖房用スチームの石炭をたく用務員であった。今、どうしてここにいるのか、わからないが、全然知らない間柄ではなかった。それは、三学期が始まって間もない頃であった。学校の始まる三十分前にスチームを通さなければいけない。用務員に指図をしに来た教頭さんに、生意気な口答えをしたというので、かっとなった教頭さんが、金火箸でこの用務員をなぐった。頭から血が流れた。この中国人用務員は、だまってはいなかった。職員室に引きあげていった教頭さんに猛然とくってかかろうとしたので、私は、夢中で制止しようとしてもみ合った。こんな事件があった後、私は時々、用務員室に行って、この用務員と話し、高りゃんがゆの炊き方や食べ方などきいた事があった。その中国人が今、

「日本、まけた。どこまで逃げてもだめ。ここにとどまりなさい。わたし、せわします」

と、同情のまなざしで、小声でささやいた。いくら、前途に望がなくても、日本へ帰りたい。私は、この親切に乗ることは出来なかった。

今にも、出かけようとしていた私達の後から、かけ離れて立派な服装に身をかためた一家族が現れて、皆、ぼう然と見ていた。四十才前後の、きれいな服装に軍刀をもっている人。お化粧をした、紋付姿に、白い数珠を手にした人。それに、六十才前後の母親らしい人、五年生位の女の子、三年生位の男の子、五、六才の女の子、いずれもせい一ぱいの立派な服装である。それが岸辺にとめてあった小舟に乗る。にこやかに笑を浮かべて、私達に軽い会釈をして漕ぎ出した。この秋田漁業開拓団の指導者に違いない。船の行く先を、皆目を離さずに見ていた。三百米程沖合に小高い島がある。いや、もっと遠方であったかも知れない。姿や、動作は、はっきり見ることは出来なかったが、しばらくして、白い煙が上がって爆音が響いた。

秋田漁業開拓団を出て、行く先に明るさは無かったが、一応鏡泊湖を目指さざるを得なかった。その道中は、雨の降る夜、大きな木の下で、立って一夜を明かすことも、また、中国人部落で雨をしのがせて貰えたこともあった。そして南湖頭という広い平野に着き、大休止をとる。体力の無い幼い児が死んだということを聞いた。

食糧の乏しくなった団員の心が、荒んでいった。お互いの家族の食べものに神経をとがらせている。校長が私に、ポーミ(とうもろこし)を取りに行こうとさそいかけた。二日前に通った中国人部落で三つの骸骨(これは飢えた日本兵が、中国人の畑で作物を荒らしたというので、とらえて殺し、みせしめに避難民の通る道に並べたもの)を思い出し、ためらったが、飢にせめられている今の自分には、断ることが出来なかった。

日本軍は、もう鏡泊湖には、いなかった。ソ連兵が、日本の避難民を、あわれみの目つきで、ながめて通っていった。私のそばを通り抜けていった将校らしいソ連兵が、自分の親指を出し、切るまねをして、天皇の首がなくなったぞと言った。そんなばかなことがあるものかとつぶやいたが、心臓のとまる思いであった。

大休止といっても、行く先を模索するためである。団員の望は、一日もはやくこの田舎から抜け出したい。そして日本へ帰りたい。生きて帰りたいの一念である。日本軍が捨てていったのであろう。主を失った軍馬が、くつわも重たげに、いなないていた。団員は、それさえも食料にしたらしい。

中国人の農家へ、アルバイトに行き、畑の草とりや、収穫物の運搬などをする団員もあった。南へ行けば鉄道のある所に出られる。地図で探したのであろう。広い街道へ出て、長い避難民の群が南へ行く。沿道の中国人が、窓を細目にあけて、だまって見ていた。一日歩いても、いくらも歩くことは出来ない。今夜のねぐらは、熊笹とかん木の茂った小高い丘である。その夜は、星のまたたく、小すずしい夜であった。キャンプの火をかこんで、四方の山の話に、疲れを忘れようとした。いつの間に、まぎれ込んだのか、日本兵が、三名、青少年義勇軍だという少年が五名、まじり、故郷のことなどを話し合った。

翌日は、道を右へ曲がって山道へ向かった。知らぬ道だから、黙ってついて行くばかりである。午後になって、途中で一服、後方を見ると、あやしげな中国人が、鎌らしいものを持ってついてくる。農場に行くにしては、いかにもおかしい。相当な人数である。先を急いで、日暮れ頃、高原についた。大部隊が野営するには、好都合な平原が中央に広がって、盆地のようになっている。所々に泉も出て食事の用意をするのにも便利である。ここで、今日は野営しよう。あたりは、次第に暗くなり、蚊の出る心配もあったが、ついて来た中国人のことが気にかかって、誰も火をたく者がない。

心配した一夜が明け、すがすがしい朝が、眠れなかった団員の前にやって来た。食事とあとかたづけ、昼の準備など、知らぬ間に、日は昇り、暑さも加わりそうである。長い行列が、ようやく勢揃いして出発しようとした時である。東の高地で、一発の銃声がひびいた。

あれ、何だろう。パン、パン、数発続いた。そしてやんだ。

「この野郎」と、怒りに燃えた元気な団員が、数名、車についている棒を持って、中国人の方へ行った。避難民の幹部は、中国人と話をする様子はない。棒を持った日本人が近づいてくるのを見た中国人から、はげしい銃撃が始まる。わたしは、いつの間にか、前の牛車の輪のかげに、伏せていた。前の草の中にブス、ブスと弾のささる音がする。足は自然と動き、伏せたまま、数十メートル逃げたであろう。そこは、やはり期せずして集った逃げ口の道であった。銃声はやんで、狭い、ぬかるんだ道に、泥まみれになった避難民の群の荒い息づかいがあった。飯盒のふただけとか、手拭一本とか、中身のない風呂敷とか、役に立たないものを大切に持っていた。余り高価な宝物を持たない避難民に、なぜこんな派手な接待をしてくれるのであろう。銃や鎌にかかって命をなくした人が、他の開拓団の中に数人あったと聞いている。久田見開拓団の中にも、四年生の女の子の腕に弾があたって、かわいそうであった。


いつの間にか、八月も終わりに近づいて、ここは、広い平野の水田に、稲穂が波うっていた。満州では、はじめて見る稲田である。今までの避難行も、山や丘が多かったが、ここには平野が開けていた。中国人部落も、こみ合っている。その田の道を、歩きくたびれた集団が、鉄道の線路へ向かって行く。そこに、小さいけれど駅があった。やれやれ、皆、胸をなでおろして、その晩は、女、子ども、を中にし、ソ連兵のいたずら、暴行を警戒したら駅の近くに野営した。汽車は、ソ連の司令官の許可がなくては動かない。日本の難民をどのように処置したらよいのか。新しく進駐したソ連の司令官には、わからなかったのであろう。翌日、奥地のさみしい寒村に送り込まれた。その奥に朝鮮人の開拓地がある。日本の開拓団も、そこで生活するがよいという指図で、それに反抗することは出来なかった。

奥地に歩いて行く難民を、中国人が不思議な顔つきで眺めていた。期待のはずれた団員の足は中々動かなかったが、夕方には、一すじの谷川の流れている所に着いた。今夜はこの川原で明かすことになる。私は、校長と二人で、更に一キロメートルも奥に歩いた。

そこには、三軒の朝鮮人の家があった。やっぱり、この奥地にも朝鮮人が住んでいるのだなと思った。そこの朝鮮人は、私達を温かく迎え、栗のご馳走をしてくれた。同じ日本人だというので、こんなに、やさしくして貰えたことに胸のあつくなるのを覚える。

「わたくしたちも、いずれ追い出されるかも知れないが、今では、中国人もソ連も、危害を加える心配はありません。」

と、いって淋しそうに笑った。

翌朝、団にもどる。広い川原に、疲れのぶり返した団員の姿があった。お昼がすんだのに何の指令もない。小石の上に横になる者が多かった。すると、そこへ、一人の中国人がやってきた。避難民を相手に、野菜や、米を売るつもりなのであろう。廻って歩いたが、誰も相手にするものは無かった。

団員の中に、乳呑児を抱いて、うずくまっていた若い女の人がいた。中国人は、それをのぞきこんで、母親に、手まねで何やら、小ぜわしそうに話しかけている。はじめのうちは、母親は首を横にふっていたが、中国人の執拗なねばりに負けたらしい。しばらくして母親は、抱いていた乳呑児を中国人の手に渡した。あの子は女だから、育てて金にしたいのだろうとささやく団員がいた。


二十日餘りの避難の野営も集団の力で、比較的損害が少なかった。食料は乏しかったが、飢で死んだ者はない。お産で道中担荷にかつがれていった女の人は、どうなったであろう。命がけという旅につけこむ病気はなかった。

そして九月早々、新京へ無蓋貨車につめ込まれて送ってもらう。逃げ出した日本人の空き家をさがして、屋根のある部屋で眠ることが出来たのは、この上もなく嬉しかった。しかし道中一緒だったIさんの長女がなくなった。そして一ヵ月が夢中で過ぎ、少しでも南方へ下って冬を越そうと、奉天へ移送してもらう。しかし、ここでも避難民の集団を入れる家は無かった。コンクリートの倉庫に、こもをしいてうずくまっていたが、これからの寒さと、不衛生に打ち勝って生き抜くことは、至難の業であった。

だが、私は不思議に命を保って翌年の六月四日大垣駅に着くことが出来た。そして生きて帰った人の余りにも少ないのに驚き、寂寥と孤愁のせつない三十九年の歳月を送ってしまった。今、つぎの記録をたよりとして、しみじみと、満蒙の地に眠る友を偲ぶのである。(昭和五十九年八月十五日)


〇大世界史25 (文芸春秋社)

一九四五年八月八日、ソ連は、日ソ中交条約を一方的に破棄して日本に宣戦を布告し、満州、樺太、および千島に侵攻を開始した。そしてわずか一週間の作戦により、長年の野望を達成した・・・。


〇わたしたちの岐阜県の歴史 第五章 第八節

二、満州開拓移民

昭和七(一九三二)年の満州国建国を契機として満州開拓移民の入植が試みられ、一一年には重要国策の一つとして、国において大量の満州移民計画がたてられた。・・・・

本県が満州へ送り出した開拓団および義勇隊は、合計一万二〇九〇人を数え、全国第七位であった。この大事業は、昭和二〇年の敗戦によって挫折し、その半数以上が現地や、引き揚げ途中に死亡する開拓団が多く、悲惨な結果をみた・・・・。


〇八百津町史

第十六章 第三節 満州開拓移民

文村計画による集団移民について、政府がとくに耕作面積の少ない地方に奨励するように指示したので、郡上郡、加茂郡、恵那郡、大野郡など東濃や飛騨の山間農村からの分村が多かった。・・・・




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ある引き揚げ者の記録 暁 睡蓮 @ruirui1105777

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