青の季節

「みーちゃん、ぼくとけっこんしよう」

 将来を約束した僕の幼馴染は、いつの間にか手の届かない存在になっていた――。


 僕、中島学なかじままなぶは一段飛ばしで階段を駆け上がるように、早く中学生になりたかった。小学校6年生なんて大嫌いだった。何故って、みーちゃんがいないから。

 毎日毎日、学校から走って帰った。早く明日が来るように。早くみーちゃんと同じ中学生になれるように。


 駆け抜けて駆け抜けて、やっと辿り着いたら、彼女はになっていた。


 あの時、入学式を終えた僕の視線が美沙子を見つけた時、彼女は満開の桜から舞い落ちる、可憐な花びらを見つめていた。

 長い睫毛まつげの先に捉えた花びらは、彼女の前に優雅に舞い散り、彼女は目を伏せながら、肩にかかる髪を耳にかけた。露わになる彼女の耳。桜と同じ、薄いピンクに染まった頬。微かに笑みをたたえる唇。


 瞬間、激しい風が吹き、彼女は桜吹雪に包まれた。

 舞い散る花びらを追うように踊る彼女。風になびくプリーツスカート。露出する彼女の脚。学校指定のハイソックス。


 その一挙一動を見つめていた学は、ふいに顔を上げた彼女の視線から、勢いよく目を反らした。訳もわからず、ただ恥ずかしかった。そして、走った。

 そのまま、家まで走った。

 走っても走っても、彼女の背中は遠かった。

 家に帰った学は、鏡に映ったニキビ面に毒づき、水をぶっかけた。


 あれから半年。美沙子とは話をしていない。目も合わせられない日々が続いている。

 学校から走って帰ったのはあの日が最後だ。

 風があっという間に桜をさらい、もう赤や黄色に色づいた葉が、そっと道に落ちている。

 今日も僕は、道に落ちたカサカサの葉を、ゆっくりと踏みしめ下校する。

 美しい葉が、泥にまみれて汚れていく。道にじっとりと貼り付けられていく。


 気がつくと、家の前に美沙子がいた。昔、「うん。まーくん。けっこんしよう」と言ってくれた彼女。戸惑いを隠せない僕。胸の奥がぎゅっと締め付けられるような大きな目。その目が真っ直ぐ僕を見ている。真っ直ぐに、近づいてくる。

 

 「、これ」

 そう言った彼女の手から差し出されたのは、バレエの発表会のチケットだった。

 何も言えずにいる僕に「待ってるから」と彼女は言い残し、走り去った。

 変わったのは、どっちだったのだろう。


 どんなに遅く歩いても、発表会の日はすぐに来た。

 落ち葉に色づく道をどんなにゆっくり歩いても、発表会の会場は近かった。


 開演前、一番後ろの席に座る。前回来た時は、一番前のど真ん中を陣取った。無邪気な思い出に顔が歪む。

 僕は、踊る彼女を見られるだろうか。自分の醜さに、また逃げ出すのではないだろうか。


 音楽が鳴り、幕が上がった。

 大人数の中に、美沙子がいた。

 探さなくてもわかる。あの笑顔。以前と変わらず楽しそうに踊る彼女。


 何曲かの踊りが終わり、美沙子がソロで踊る時が来た。


 長く美しく、むき出しの腕を精一杯伸ばす彼女。短いチュチュから伸びやかに繰り出される彼女の脚。コマのようにくるくると回り、ピタリと止まってポーズを決める彼女。

 学はただ、舞い踊る彼女の美しさに感動していた。


「トウシューズ、はけるようになったんだ」

 美沙子の成長に気が付いても、学はただ清々しく、舞い踊る彼女を見続けた。

 桜の中の彼女が重なる。恥ずかしさはもうない。

 無事に踊りきった美沙子に、学は盛大な拍手を送った。


 発表会からは走って帰った。

 泥にまみれた落ち葉を蹴散らすように走った。

 家に帰ると学は、鏡の中ニキビ面に笑みを浮かべ「クソ食らえだ!」と叫んだ。


 翌日、学は校門の前で美沙子を待っていた。

 美沙子は数人の友達と一緒だったが、学の気持ちは決まっていた。

 一歩進み出てはっきりと口に出す。


、一緒に帰ろう」


 遅れて色づいた紅葉もみじの葉が二枚、美沙子と学の間に舞い落ちた。

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