鬼ごっこ

 なんでなんでなんでなんで。

 どうしてどうしてどうしてどうして。


 今、どうして追われている?

 あいつの目的は何なんだ?


 息が切れる。思考している時間もない。少し休みたい。


 かなでは道端に転がるゴミ箱の後ろに回り込み、息を潜めた。乱れた息を整えるたびに、汗が滴り落ちてくる。激しく息を吸い込みたい気持ちをぐっとこらえる。息をする音どころか、汗が地面に落ちる音さえ、汗を拭う音でさえ、聞かせたくなかった。


 Tシャツの首元と胸の谷間にじっとりと汗が染み込む。締め付けるブラジャーを取りたい衝動に駆られる。


 しばらく息を潜めていたが、男の足音も、凍るような息遣いも聞こえない。奏は足を投げ出し道端にお尻をついた。ジーンズでうっ血していた膝下に一気に血が流れる。


 追ってくる男はひびきに違いない。だが、追われている理由に皆目見当がつかない。

 奏は自分の思考に集中するように大きく深呼吸をした。


 響とは、数あるSNSで知り合った。大学生の奏は学業とアルバイトの片手間に、趣味で動画を投稿していた。鼻に詰まったその声でアニメの主題歌を歌い、サイトにアップすると、数十人から反応をもらえた。

 その数十人のうちの一人が響だった。


 奏と響。どちらも音楽に共通するそのペンネームから親近感が湧き、メッセージをやり取りするようになった。響が男だと知ったのは、その後だった。

 どんどん頻繁になるメッセージのやり取り。響がくれる褒め言葉。好きなことを誰かに認めてもらえる嬉しさは、恋にも似ていた。


 「奏ちゃん、今日もいい声してるね。新宿で飲み会だったのに抜け出して聞いちゃったよ」


 そんなメッセージを見て、もしかしたらと、急いで家を飛び出したことは、奏にとって自然な行動だった。

 下落合駅のすぐそばにある奏の家から、新宿へは10分もあれば行ける。

 お互いに顔も知らないけれど、新宿駅で歌っていたらもしかして……もしかしたら……。

 そんなありもしない現実を夢見てしまうほど、奏には純粋な部分が残っていた。


 新宿駅についてからのことはよく思い出せない。でもいつの間にか響と出会っていて、いつの間にか追われていた。


 雑居ビルの隙間から様子を伺う。不思議と街の喧騒は聞こえてこない。奏の鳴り止まない心臓の音だけが頭の中に響いてくる。

 全身が真っ黒の奏。妙に背の高い影。奇妙に長い指先。

 怖い。

 怖すぎる。


 「――奏ちゃん」


 真後ろから聞こえた声に飛び起きる。

 「いやああああああっ……!?」


 奏は暗い部屋の中にいた。目の前のノートパソコンだけが薄暗い部屋の中で眩しいくらいに光を放っている。

 まだドクドクと脈打つ心臓を、今度こそゆっくりと宥めた。何度目かの、誰かに追われている夢。今回は妙にリアルだった。

 顔の知らない響に抱いていた自分の感情を夢ではっきりと認識し、苦笑が漏れる。


 まだ息苦しい。Tシャツの上からブラジャーを取ろうと、奏は立ち上がり、ふいにパソコンの画面を見た。


 「奏ちゃん、今日もいい声してるね。新宿で飲み会だったのに抜け出して聞いちゃったよ」


 急いでパソコンを閉じる。


 真っ暗になった部屋の中で何かが動いた気がした。

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