第3話

 学校を出ると、辺りはすっかり薄暗くなっていた。


「えっと、何だ……元気にしてたか?」


 三人で駅へと向かう途中、何から話せば良いのか分からかった俺の口から出たのは、そんな語彙力の欠片もない言葉だった。


 もちろんよ、とでも返って来ると思っていたのだが、愛実にとっては存外難しい質問だったようで、顎に手を当てて唸りはじめる。十秒ほど悩んだ末に放たれた言葉は「良くはなかったけど悪くもなかったわね」という反応に困るものだった。

 俺は上手い返しを見つけることが出来ず、「そうか」と恐ろしく淡泊な相槌を打つ。続いて彼女も「そうよ」と俺に引けを取らないレベルでさっぱりした返事を返す。

 そして、何事もなかったかのようにその場は無言になった。


「ちょっと聞きたいんだけどさ」


 静寂を破ったのは修也。


「何だ」

「恭輔と水橋さんは友達……なんだよね」

「ああ。というか、小学生時代の唯一の友達だな。あいつを除けばだが」

「私にとっては唯一の友人よ」


 惨めな会話だった。事実だし、友人が少なくて困ったことはないのだが、それが余計に悲しくなる。


「そうなんだ、二人とも仲が良いんだね。……その割にはずいぶんドライな会話だった気がするけど」

「昔もこんな感じだったから、気にしないでちょうだい」


 能面のように表情一つ変えない愛実に対し、修也は苦笑いを浮かべる。

 いくら彼が偏見や先入観を持たない人間といえども、この手のタイプは距離をはかりかねるようだ。まあ、人見知りの修也が自発的に話しかけている時点で凄いとは思うけど。


 かと思えば、修也は思い出したように元気な声をあげた。


「あっもしかしてさ、僕がいると話しづらいかな。久しぶりに会ったわけだし、二人きりで話したいこともたくさんあるよね。邪魔しちゃあれだから先に帰るよ。じゃあねー!」

「えっ、いや、ちょっ」


 俺が喋りだす前に猛スピードで走り去っていき、予定調和とばかりに二人きりの空間が出来上がった。愛実も人見知りなのではないか、と気を利かせてくれたのだろう。

 でもやっぱり沈黙。別に気まずいわけではないのだが、ついつい身構えてしまう。先程の「良くはなかったけど悪くもなかったわね」という言葉に対し、この三年間に何かあったのかも、どんな話題を振るべきか、などと思うとなおのことである。


 俺が重く考え過ぎているだけなのだろうが、話すに話せない。なので、藁にも縋る気持ちで彼女の方を見てみる。

 愛実は不審者のように落ち着きなく辺りを見回しながらも、目だけは時折こちらに向けていた。……すごく話したそうだ。


「周りには誰もいねえよ」


 俺は人がいないかを念入りに確認してから言った。


「――久し振りね恭輔君っ! ちゃんと私以外の友達が出来ていたのね、良かったわ。でも貴方を取られた気がして少し妬けちゃうわね。ふふっ」

「その性格も相変わらずか」


 すると先程までの真顔はどこへやら、愛実は別人のようにだらしない笑顔を浮かべた。


 修也なんて比べ物にならないほどの人見知りで、仲の良い人の前以外では毅然とした態度をとる。俺の知っている水橋愛実はそんな人間だ。

 もっとも、彼女が周りに素をさらけ出すことができない理由は、特殊な家庭環境に因る部分が大きいわけだが。


 なにしろ愛実は、日本有数の大企業『水橋グループ』の一人娘なのだ。


「それはお互い様でしょう? 恭輔君だって口下手なままじゃない」

「成長してなくて悪かったなぁ」

「想像通りの言葉が返ってくるなんて、本当に何も変わってないのね。うふふふっ」

「……それ、褒めてんのか?」


 いつの間にか俺たちは、この三年間で積もり積もった話に花を咲かせていた。彼女が何やら凄い中学に通っていたことや、俺に新しい友人が出来たこと、お互い相変わらず大人しい性格だということなど、話題が尽きることはなかった。

 三年間凍りついていた感情が、少しずつ溶け始めている気がした。


 駅で再び修也と鉢合わせるかと思ったがそんなことはなく、彼の思惑通り二人きりで電車に乗って帰ることとなった。


 電車に揺られる途中、家は同じ方向なのか、と訊いてみたところ、


「私が三年前に住んでいた家に住んでいるのだけど、憶えているかしら? あそこは元々、この街でのびのびと暮らせるように、ってお父様が私のために買って下さった別荘なの。まあ、物心がついたときにはあそこに住んでいたし、私にとっては実家のようなものだけどね」


 ステレオタイプの金持ちキャラみたいな答えが返ってきた。

 あのバカでかい家、別荘だったのかよ。驚くとか以前にスケールがでかすぎてわけが分からない。

 なんだ漫画の話題か、みたいな顔をしたサラリーマンを尻目に電車を降りた。日はとっくに沈みきっている。


「ごめんなさい」


 改札を抜けて歩き出そうとしたそのとき、背後から弱弱しい声が聞こえた。俺は立ち止まり、振り返った。


「何度も言うようで悪いけどさ、お前は被害者なんだろ? そんな何回も謝んなって。こっちが申し訳なってくる」

「確かにそうよね、ごめんなさい。……あっ、また言っちゃったわね」

「ははっ、謝り癖も相変らずだな。まああれだ、どうせグダグダ言ってても何も変わらないんだし、俺たちで何とか解決しよう」


 上手い励まし方が分からない俺は、中身のないガッツポーズで空元気を呼び起こす。彼女は俯いたままだったが、少しだけ笑ってくれた気がした。


「そう、よね。私としたことが少し動揺してたみたい」

「無理もねえって。とりあえず家まで送っていくから、今日はゆっくり休んどけ」

「え、ええ、ありがとう。そろそろ行きましょうか」


 重い空気が流れるのを感じながら、夜の町をゆっくりと歩き出した。愛実はもう何も喋らない。心配になって顔を覗き込んでも、彼女は不器用に笑顔を作るのみ。物音がすればそれすらも崩れてしまう。


 周りを警戒しながら歩くこと数分。愛実は家に着くなり、「今日はありがとう。本当はもう少し話したかったけど、ちょっと疲れちゃってるみたい。また明日にでも話しましょうね」と疲れた顔で玄関の門をくぐっていった。

 多く喋る必要もないと思い、俺は「また明日な」とだけ返して自宅へと歩き始めた。


 夜のとばりと静寂が、いつも以上に気色悪く感じられる。不安か、それとも不満か。


 ――気を付けて。たくさんの正義が、執行されるよ。


 声が聞こえた気がした。はっとして振り返ると、俺の足元に黒い子猫が一匹、金色の目でこちらを見上げていた。


「お前が喋ったのか?」


 俺は足元の黒猫に問いかけてみる。人の言葉を喋るわけは当然なく、黒猫は「ミィ」と答える。

 ま、そりゃそうだよな。動物があれこれ喋るんなら、獣医は苦労しねえ。


 俺を見上げていた子猫は、用は済んだとばかりに去っていく。漆黒の体が闇夜と同化していく。

 猫相手に緊張していた自分が途端にバカらしく思えた。同時に、俺なんかと比べ物にならないくらい、愛実は過敏になってしまっているのだろうなとも思った。


 ……よし。


 俺は決意した。絶対に、何としてでも愛実を助けてみせようと。

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