供物

スヴェータ

供物

 母は神の使いで、処女のまま子を孕んだ。生まれた私は他と違って神聖であることから、神へ捧げるために育てられた。


 神への供物に人間の名は要らない。私は誰からも呼びかけられることのないまま、ただ歌のような祈りの言葉ばかりを聞いた。口は呼吸と、捧げ物を食べるためだけに使った。


 いつものように荘厳な装飾が施された箱で仰向けになり、神の使いによって作られた印を天へと向けていたある時、外から聞き慣れない騒がしい音がドンパチ、ドンパチ鳴り響いた。


 やがて煙が頭上を高速で通過すると、眼前に実に見すぼらしく、汚らしい男が現れた。男は神聖な供物である私を抱え上げると、印を解いて抱きしめた。私は訳も分からぬまま、成されるがまま、ぶらりと足を垂れさせていた。


 2人、3人と同様の姿をした男たちが私の周りに集まり、何やら言葉を交わしていた。私に対して祈りではないものを聞かせ、何度も首を傾げたり、頭を掻いたりしていた。


 私はいつ捧げられるのか。そういえばいつも祈りを捧げに来ていた者たちは、あの騒動以来一度も姿を見せていない。


 食事は神聖な木の実や山羊の乳ではない、得体の知れないものが運ばれた。私はしばらく口を閉じていたが、経験したことのない、想像を絶するほどの食物を渇望する欲に支配され、いつしか口を開けるようになっていた。


 男たちは私を「イリ」と呼んだ。供物に人間の名は必要ないと思っていたが、何だか胸が弾んだから受け入れた。最初に私を抱き上げた男は自らを父だと言い、山羊小屋のような家へと私を連れて行った。


 時が経ち、私はかつて自分が置かれていた状況をよく理解した。私は神聖なる供物として育てられていたが、本当は皆平等に人間であり、神は存在しないと知った。


 父はとても良い人だ。私は実の父を知らないから、彼こそが私の父だと思っている。母のことなど頭になく、初めから存在していない気さえした。


 しかし、私には悩みがあった。食べられたい。もう神にではなくてもいいから、誰かに、何かに食べられたい。この湧き上がる気持ちを止められず、何度もフカの出る海や熊の出る山へと足を運んだ。


 それは私にとっては秘密であったが、父は気付いていたらしかった。直接確認したことはないが、いつもすんでのところで現れる父の様子からそれを察した。


 私は意を決して父に告げた。父、イリは、食べられたい。父、イリ、神、信じるない、イリ、でも、食べられたい。イリ、歌、聞こえる。イリ、聞く。イリ、食べられたい、なる。


 父は私の両肩に手をのせ、首を振った。イリ、いけないよ。君はもっともっと、世界を知るんだ。その歌は忘れなさい。そしてもっと素敵な歌を知りなさい。君の世界は全てこれから。まだまだ、まだまだ終わらせるわけにはいかない。


 もどかしかった。父は私のこのどうしようもない欲望を理解してはくれない。私は食べられたい。食べられなければ世界は始まらないし、食べられなければ私ではない。私は私として生きるために食べられたいのに、父にはそれが分からない。


 生きるため、私は木に食べられることにした。父が村の集まりで目を離している隙に鍬を持って山奥へ行き、かつて木登りを楽しんだ木の根元を掘った。都合の良いことに、その日は大雨だった。


 私はある程度の深さまで掘ると、水溜まりの中に寝そべった。そして戻せる限りの土を被せ、後は水の流れのなすままに埋もれていった。土はなかなか流れ落ちず、私はいつまで経っても剥き出しのままだった。


 しかし段々と心が穏やかになっていくのを感じた。私は印を作り、芯に残る歌を口ずさんだ。


 ミナレ キソリソ カヤ ナテョセ

 シンハリ トコロロ メノモラセ

 リゴャエ ノトセ カラモヤセ


 雨音が消えていく。耳には歌しか聞こえず、それは私の声ではなく、芯に染み付いている音であるようだった。ああ、母よ。神の使いたる母よ。私は立派な供物となり、産まれた意味を理解し、ようやく今、こうして捧げられる……。


 その後、私が捧げられてすぐのこと、あの木の根元から花が咲いたらしい。父はそれを元からこの辺りに咲く花だと主張したが、村の者はこれが神の証だと言って聞かなかった。


 私は神への供物だったが、今や私は崇められ、供物を捧げられるようになった。神となったのだ。こうして信仰の民を奪った無宗教の国は、私という神を得て、信仰の国へと変わった。


 人間のものは何も見聞きできないこの世界に入るのは、祈りの言葉と供物だけ。そんな中、ここ数日懐かしい声が聞こえてくるようになった。


 イリ、イリ、君の世界は……


 今度の供物は、とびきり良いものらしい。

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供物 スヴェータ @sveta_ss

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