第4話 すれ違い

 赤い月が暗闇から私を浮かび上がらせる。私が見たものは複雑に絡まり合った感情だ。動く気力も見いだせず、私は夢と現を漂う。

 どれだけそうしていただろうか。私は見慣れた居間の床に寝そべり、天井を見上げていた。窓の外には見知らぬ星が輝き、差し込む光に照らされた変わらぬ部屋に悲しみを抱く。

 そこへ影が伸びてきた。影はゆっくりと私の傍に寄り添い、胸に暖かな重みを感じさせた。懐かしい感触に、天井から影へ目を移す。呻くように目の前の存在を呼んだ。月明りの中、見下ろすその顔は困ったような表情を作る。

「こんな所で寝てたら風邪引くわよ」

 床に張り付いた体を引き剥がし、私は裕子を引き寄せる。もう離さない。震える両手で必死に裕子を抱き締めた。裕子も私の腰へ手を回す。

「私を置いて行かないでくれ……」

 嬉しい事なのに、望んだ事なのに、悲しみが溢れた。自分の非力さが歯痒く、もっと力が欲しいと思った。裕子を捕まえていられるだけの力を。このまま寄り添っていたい。心の底からそう願った。胸元に泣き崩れた私は優しさに撫でられる。暖かい感触に私は身を委ねていった。


 翌朝、私はベッドの上で目が覚める。カーテンの隙間から日が差し込み、鳥が囀る。隣では裕子が静かな寝息を立てていた。込み上げてくる感情を抑え、裕子の頬に手を伸ばす。暖かく柔らかな感触に涙が零れた。例え今が何処であれ、同じ世界に居れる幸せを噛み締める。

 薄く目を開けた裕子に私は笑みを作る。久しぶり過ぎて上手く作れたかは分からないが、裕子も答えてくれた。

「君がいなくなる夢を見たんだ」

「夢で泣くなんて大袈裟よ」

 起き上がった裕子は目を細め、子をあやすように私の頬を撫でた。この温もり、優しさ、長い間忘れていたものだ。それに触れ、凍り付いていた心が溶け出す。

「何でだろうな。君はここにいるのに……」

 何時の間に私はこんなにも弱くなってしまったのか。気が付くと裕子も泣いていた。

「何で泣くんだ?」

「分からないわよ」

 思わず笑みが零れた。意味が分からないと言いながら裕子は泣き続けるのだ。優しい光が差し込む部屋で、二人は無邪気に泣いた。


 私の世界は変わっていた。鏡で傷付けたはずの体は傷一つなく、鏡も割れていない。鏡は私や裕子を映し出し、同じ動きを取る。やつれたゾンビの私はもういなかった。

 時間は流れていたが、裕子の死は存在していなかった。何もかもが昔通りの日常で、心が錆びついていた私にはきつい現実だった。それでも光を得た私は徐々に回復していく。寄り添う裕子を感じながら。

 裕子の笑顔は私に幸せを、裕子の存在は私に力を与えた。しかし、記憶の底には裕子の死が存在した。その記憶がふとした瞬間に出て来る事がある。光景が蘇る。再び裕子を失った時、私はどうなってしまうのか。想像したくなかったが、幸せを感じる度に恐怖が増大していった。その思いが裕子を縛り付けていく。

 あの辛い地獄のような日々は、私の中にしか存在しない。説明した所で解ってくれる者はいないだろう。説明のしようがないのだ。束縛は日増しに強くなり、反発するように裕子は距離を取るようになった。

 私が苦悩した日々は夢なのだろうか。それともこの世界が夢。私は灯りに魅了された虫の様に光を求める。それが偽りだとしても、ただ求め羽を動かす。光を失わないよう張り付き、一時も離さず留まるのだ。

 何かが狂いだしていた。それは時の流れの中、止める事も出来ず回り続ける。


 歪みは直ることなく肥大していった。そして、その日は来るべくして来てしまう。

 淀んだ部屋の空気から逃れるように、裕子が外へと飛び出した。私も後を追いかける。薄く雲に塗られた空に沈む太陽。影が長く伸び、遠くの木々が黒く浮かぶ景色を、裕子は黙々と歩き続けた。私はその後ろをただ付いていく。

 私たちは河原の近くへ来ていた。道の横では芒が揺れている。

「綺麗ね」

 裕子は道を逸れ、川を染める夕日へと歩いていく。私はそれを黙って見つめた。

「昔は良かったわね。二人とも同じものを見ていた気がするわ。同じ目線で、同じ思いで」

 裕子が何を言いだそうとしているのか私にも理解できた。

「最近のあなたは分からない。あなたは私を見ているけど、私じゃない別の何かも見ている」

 言葉が胸を締め付ける。裕子が死んだ世界も生きている世界も私には現実で、裕子の死を夢として片付ける事が出来なかった。失いたくないという思いだけが膨れ、恐怖が私を押し潰す。それが裕子を追い詰める行動になっていた。

「裕子、わかってくれ。お前を二度と失いたくないんだ」

「私はずっとここにいるわ!」

 振り向いた裕子の頬を涙が伝う。その表情には怒りも浮いていた。裕子は生きている。死の光景が蘇る。違う。死んでしまったんだ。裕子は死を忘れてしまった。

「もう私を苦しませないでくれ……」

 苦しんでいた日々が私に手を伸ばす。

「苦しめているのはあなたよ。なんで分かってくれないの!」

「違う! 違うんだ」

 口に出してはいけない、という思いが無数の手となり胸に掴み掛かる。強く否定するほど手は増えていった。

「裕子、君は死んでしまった。私にはあの時の病室が、あの光景が頭から離れない。夢に追いやる事が出来ないんだ」

 私は歯を食いしばり、苦痛に耐える。

「裕子が現れた時やり直せると心から思った。でも、あの時の悲しみは消えてくれなかった。私は今の君を、どう思えばいい……」

 視界が歪み、死が広がっていく。光が弱まり、影が辺りを包む。裕子が、風に揺れる草木が、空に漂う雲が、黒く滲んでいった。


 夕日が名残惜しそうに私を見ていた。優しい風が萎れた花を撫でていく。頬を伝った涙が、石畳に滲みを作る。これは何時、流したものなのか。私は墓地の中で一人。他には誰もいない世界のように静まり返っている。長い間そうしていたような気がするが、時間などどうでも良かった。

 私の前には裕子の名が刻まれた墓石があった。これが私の現実なのだ。生きている裕子を幾度も見て来たが、それは私にとって夢でしかなかった。夢を見続ける事が出来るのなら、それは現実と成り得たのだろうか。私の場合、夢に移り住むような器用な人間ではなかったのかもしれない。

 私に中に依然として悲しみが渦巻いていたが、小さな諦めも生まれていた。

「君はもう死んでしまったんだな」

 私はそれを知ってしまった。夕日が建物の陰に隠れ、夜へと移り変わろうとしていた。


「また来るよ」

 私は涙の跡を擦り、車へ向かった。何時ものように体が重かったが、何処か違和感を感じていた。倒れるように車に乗り込みドアを閉める。熊の人形が揺れ、鈴の音を鳴らす。人形を一瞥した私は大きく息を吐き出し、車のキーを回した。


 私の中で裕子は生きている。しかし、裕子の死の記憶がある限り、裕子は過去にしか生存しない。生きている喜び、死んでしまった哀しみ。私は悲しみに溺れ、悲哀の底で諦めを掴んだ。


 裕子は歩みを止めてしまった。しかし、私は死を乗り越え歩き続けて行く。そして、時々振り返り裕子を思い出すのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夢現 空閑漆 @urushi1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ