第3話 鏡

 備え付けの駐車スペースに車を止め外へ出る。闇が纏わりつき身が震えた。記憶に浸かる時間が長いほど現実は地獄だ。雨の代わりに夜風が木の葉を揺らす。

 墓地から戻ってきた私を、真っ暗な家が迎え入れた。玄関を抜け、廊下を歩きながら雨で張り付いた服を脱ぎ捨てる。全てを捨て熱い湯を浴びた。冷え切った体が痺れていく。泥が流れ落ちるようだ。もしそれが本物だとしたら、風呂場の床は黒く染まり、排水溝は詰まっていただろう。

 熱い湯を浴びたとしても、心は冷えていた。二度と温もる事はない。そう、確信めいたものがあった。

 今のままで居たくはなかった。しかし、裕子の死を忘れる事など出来るはずがない。忘れようとも思わない。死を引き擦りながら普通の生活に戻る事など出来ようか。もはや笑うことすら忘れてしまった。

「鏡を見なさい。今を変えたいのなら」

 男の声が過る。その言葉に男は感情を乗せていなかった。傘を差しだしてきた時も、男は言葉を並べていただけ。もし、私が何かを答えていたとしても、男は肯定も否定もしなかったのではないか。張り付くその言葉を拭い去ろうと、耳を引っ掻いた。

 蛇口を捻り、洗面所へ出る。湯気が鏡を曇らせた。乱雑に体を拭く間に湯気は溶け、徐々に顔が現れる。生気のない目がこちらを見ていた。このまま腐っていけば、ゾンビの出来上がりだ。死んでいるように生きている私は既にゾンビか。

 暫く鏡を見続けたが変化はなかった。鏡に語り掛ける事で自己暗示に掛かり、自分を変えていくという話があったが、私には信じる事が出来ない。鏡を見るだけで今を変えれる程、現実は都合よく出来ていない。

 下着のまま冷蔵庫に向かい、酒を取り出す。暗い居間で酒を煽った。歪んでいく朧を見ながら霞を吐く。私は酔いに身を任せていった。


 熱い光に、私は力なく床から身を起こした。光が目に痛い。まだ生きていたかと残念に思った。目が覚めてくるにつれ、痛みも鼓動を強める。酒を飲んだ次の日は何時もこうだ。しばらく頭を揉んでいると心も疼きだす。体だけではなく心も貧弱だ。

 テーブルには酒の缶が並び、零れた酒がテーブルを濡らしていた。居間から伸びる廊下には脱ぎ捨てた服が萎れている。私は何気なく鏡に目をやった。

壁に立て掛けてある巨大な姿見だ。鏡にも薄汚れた居間が映っているのだろう。

 私は目を瞬いた。何かが違う。鏡の中にあるのは整頓された居間。テーブルの上も綺麗に片付き、廊下に脱ぎ捨てた服もない。鏡に映るはずの私の姿も。

 何かが起こっていた。鏡に駆け寄り、手を当てる。鏡の固い感触が返ってきた。まだ酔っているのかと思ったが、意識ははっきりしている。頭も心の痛みも感じていた。

 男が言っていた変化とはこれなのか。鏡の中と現実を見比べ、自分の愚かさを知れと言うのか。ごみの様に荒れた生活を意識しろと。

 だが、その考えは一瞬で吹き飛んだ。鏡の中に裕子が現れたのだ。

「裕子!」

 枯れた声が出た。悲痛な叫びが。鏡に手を当て、裕子の姿を目で追った。視界が歪んでいく中、繰り返し名前を呼び続けた。裕子には聞こえていないのか、気付くことなくソファーに座る。隅に映る裕子を捕らえる為に色々と角度を変えてみたが、それは無駄に終わった。鏡の前に跪き、頭を当てる。このまま鏡の中に入っていけたのなら、鏡の世界で裕子と暮らせたなら、どれだけ良かっただろう。冷たく無機質な感触がそれを拒絶していた。

 再び鏡の前に来た裕子は、何かを言っていた。鏡越しに話しかける視線は私ではなく、違う場所に向けられている。こちらは見えていないのか。向こうからは普通の鏡だとすれば、誰に話しかけているのか。裕子は前髪を整え、手前へと消えていった。


 鏡の中がどういう世界かは分からないが、裕子以外に映る者はいなかった。しかし、裕子は私と暮らしていた頃と同じように笑顔を見せる。何かが歪んでいたが、高揚とした気持ちになっていた。鏡の中に住む裕子を見る日々が続く。

 誰かが今の私を見れば、狂人のように見るだろう。それでも私の心は満たされていた。私は鏡に話しかける。酷い顔をしているだろうと痩せた頬を擦り、自分の現状がいかに惨いかを改めて理解した。

 髭を剃り、髪も綺麗に梳かした。裕子に見られても恥ずかしくないように、散らかっていた部屋も以前の様に片付ける。

 止まっていた時が動き出す。繰り返される時間の往復は変化し、墓地へ行く事もなくなった。もう行く必要はないのだ。鏡の中とはいえ、裕子は生きているのだから。

「裕子、今日は何をしていたんだ」

 鏡の中に語り掛ける。言葉は返ってこなかったが、裕子の笑顔が返ってきた。生活は変わり、鏡の前で寝る習慣が増えた。少しでも長く裕子を見ていたかったのだ。私は鏡に捕らわれた。いや、裕子に捕らわれている。それは裕子が死んだからではない。出会った時から、私は裕子の虜になっていたのだ。

 今日も裕子は鏡の中から笑っている。


 月の光が薄く差す暗い部屋。私は酒を片手に鏡を覗き込む。違和感を感じながらも目を背け、裕子の姿を追いかけた。裕子の笑顔を見る度に私の心は浮いていく。しかし、その笑いは私には向けられていなかった。目を合わしたくても、裕子は私を見てくれない。隔たりは悲しみを振り払えないのだ。嬉しさと悲しみが同時に沸き起こり、膨らんでは消えていく。これほど感情を理解できなかったことはない。

 過去の記憶が透過し、鏡を媒体に裕子を映し出しているのだとしたら。あの男の言葉に関連付けて、私の願望が裕子を見せているのだとしたら。交わる事のない線を必死に追いかけているだけなのか。

「なぜ、私にこんなものを見せた。裕子の姿に憂い、打ち拉がれる姿を見て嘲笑うためか」

 苦しみは、怒りとなって男に向く。

「なぜ私に言葉を掛けた。なぜお前は私の領域に入って来た!」

 拳を強く握り、床に打ち付ける。

「なぜ幻想を抱かせる! なぜだ。私はどうすれば……」

 夜の闇に鏡の割れる音が響いた。砕けた破片が飛び散り、拳に朱の線を引く。それでも繰り返し拳を叩きつけた。

 罅割れ落ち行く破片に私の姿が映る。悲しみが突き刺ささった。幸福は一時でしかなく、残りの時間は苦しみでしかない。その時間を悶え苦しみ、足掻き続けるのだ。この苦しみから逃れるには……

 割れた鏡を掴み、喉へと突き立てた。痛み、悲しみが視界を濁す。倒れた私から広がっていく池に、やけに大きな月が輝いていた。真紅に輝く月。それに看取られるように私は薄れていく。


 死ぬのだと静かに思った。

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