第23話:ふたたび月曜日「十年後に読んで、大いに笑おう」

 いつもの時間に目が覚めた。

 ——午前6時

 久し振りにぐっすり眠れたような気がしたが、なんだか疲れが取れない。歳のせいか……、そんなことを考えながら重い足を引き摺って洗面所に行き、顔を洗う。そしてタオルで顔を拭きながら鏡を見て、

 ——あっ

 という感じでオレは気付いた。


 ただのオッサンに戻ってる。


 胸の中を満たしてオレのアイデンティティを揺さぶった、あの切なく危うい高揚感、いわゆる「ときめき」が消え失せている。


 ——オレ変な趣味に目覚めちゃった? 例えば同性愛とかショタコンとか女装とか男の娘とか?


 みたいなヤバい動揺は全く起こらない。すごく安定している。鈍感なくらいに。なんであんなことで悩んでいたのか全然分からない。歯を磨く手を休め、鏡に向かって、オレは自嘲気味に笑ってみる。


 オレはもうダメだ!……、って焦ったが、それも過ぎ去ってみれば、結局のところ、面白くもつまらなくも無い、なんだか退屈な、ただのオッサンに戻ってしまっている。オレはため息を吐く。


「やれやれ」


「朝からどうしたの?」


 気が付くと鏡の中、起き出して来た嫁さんが、眠そうな目を擦りながらオレの後ろに立っている。バツの悪さを隠すようにオレは急いで口を濯ぐ。


「いや、ままならないな、って」


「ん?……」


「仕事が溜まりまくってる」


 *****************


「まず総合メンテナンスさんに行って、それから平塚、帰りに竹村兄弟社さんに寄るからな」


「ウス」


 今日もモトコにハンドルを握らせ、軽4ワンボックス「サンバー」で現場に乗り出して行く。


「社長んって、女の子一人でしたよね」


「なんだよ急に、オマエ、子供でも出来たのか?」


「デリカシーねえな、オヤジって、社長んの話っスよ!」


 藪から棒にいったい何の話だよ、と思いつつ、しかしその意図を探るべく、


「女の子だよ、十一歳だよ、なんだよ」


 と答え、続きを待つ。


「こないだ鎌倉のお客さんとこでガイジンの子供、ジーっと見てたじゃないっスか、男の子」


「ん? 覚えてねえな、なにそれ?」


 なんだか雲行きが怪しい、とりあえずスットボけてモトコの出方を窺う。


「スゲー見てましたよ、振り返って目で追ってたじゃないっスか?」


「んー」


 考えるフリをして黙ってみる。確かにあんなに見てた訳だからまったく覚えてない、というのも不自然だし、かと言ってありのままを語る訳には行かない。


「だから、社長、男の子が欲しくなったのかなーって、思ったんスよ」


「男の子が、欲しい?」


 えっ、一体なんの話?欲しいって、どの「欲しい」?どういう「欲しい」?


「だって欲しいでしょ?息子」


「・・・・・・」


 それは考えなかったな、その発想は無かった。面白い。今回の「女装男子願望疑惑」が「息子が欲しい願望疑惑」に置き換わっていたら、一週間、どんな展開になっていたんだろう?いや、そんなことになる筈ないか、……


「今更だよ」

 しかしオレはそう返す。


「そうっスか?」

 モトコはそう言って口を噤む。


 不適切な言葉だが敢えて言う。変態になっちまった——、そう思って歯軋りしたが、なんだろう、その焦燥にも似た思いは、今は無い。少年期の体験と気持ちを思い出し受け入れただけで、気持ち、というかアイデンティティが、すっかり安定してしまったことに驚く。


 不安感は無い。あれだけ悩んでいたのがウソのようだ。そして、しかしオレは、無感動な、ただのオッサンに急速に戻りつつある。逆に、なんかつまらない気分。


 作業着の胸ポケットから携帯を取り出し、着信音量をチェックする。そろそろ電話がジャカジャカ鳴り出す時間だ。


 でも、この一週間、考えてみると結構面白い体験だったよな、と思う。四十歳、——不惑にして、アイデンティティがこんなにも揺らいで思い悩むなんて、……


 世の中が動き出す前の、短く、静かな時間、窓の外の景色にやや眠い視線を投げながら、


 ——これ、小説に書いてみようかな、


 そんなことを思った。小説を書くなんて、学生時代から絶えてないことだったが、何らか、書き残して置きたい、そう思った。十年後に読んで、大いに笑おう、そんな。


 自身の愛とか性とか、そういうの、たぶん今しか書けない、きっと。











 ——「ドッペルゲンガーは、しかし何も語らなかった」 了































  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドッペルゲンガーは、しかし何も語らなかった。 刈田狼藉 @kattarouzeki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ