第22話:日曜日「ドッペルゲンガーは、しかし何も語らなかった。」
静かな朝だった。
目覚まし時計は午前5時25分を指していた。
そんなに寒くもなく、でも暖かいという程でもなく、風も無くて、窓から入ってくる光で天気が良いことも分かった。
オレはベッドから起きだすと、出来るだけ音を立てないように静かに着替え、そっと家を出た。いつもならちょっと有り得ないことだったが、娘も、嫁さんも、眠ったまま起きてこなかった。
運命だと思った。
特別な朝だと思った。
会わなければならない。
確かめなければならない。
しかしどうすれば会えるのか分からなかったし、会えるという確証も無かった。
でもオレは予感の命ずるまま、昨日のあの場所に向かった。
早朝の山下公園を歩いていた。
空は白っぽくて薄明るく、東の海上から射す朝日が、ベンチや、植栽や、銀杏並木、そして街並みを、鋭角に、黄色く照らし付けていた。散歩や、ジョギングをする、恐らくは地元の人達が何人かいたが、やはりいつもと違い、人影はまばらだった。
公園中央あたりの芝生の広場の、水飲み場の横に立った。荒野に呼ばわる声が、ギターを掻き鳴らし、大声でロックをがなり立てていた、ちょうどその場所だった。
彼が座り込んでいた、ちょうど同じ位置に、オレは腰を下ろした。風が無く、静かな朝、気味が悪いくらいだ。
ここに来る、今は確信があった。いや、或いはここである必要は無いのかも知れない。ここが相応しい、そう、オレが思っているだけなのかも知れない。だって、オレだから、来るのはオレで、しかもオレに会いに来る訳だから。
穏やかに晴れ渡った空、雲ひとつ無い空、しかし空がその青さを主張するには、まだ時間がありそうだった。
耳鳴りがした。
不意に風が吹いた。
風が吹いてきた方を、オレは見る。
小学3年生くらいの、背の小さい男の子が、こちらに向かって歩いてくる。
赤みがかったマッシュルームカットっぽい髪形、遠目には、小さいヘルメットでも被っているように見える。前髪が長く、顔の表情はよく分からない。今日は白のトレーナーに、青の半ズボン、白のハイソックスに、やはり青いデッキシューズ。両方のひざに、バンドエイドが貼られている、痛々しい。そうだ、オレは年中、転んでばっかりいたからな。
オレは立ち上がって少年を迎える。
正面で、その赤毛の男の子は立ち止った。
頭が大きいのは、今のオレと同じ。あごが尖っていて、小さな顔、少し困ったような大きな目、気弱そうな薄い眉毛、小さな肩に、細い腕、全体に弱々しい、ちょっとつついたら泣き出しそうな感じ、あまり男の子っぽくない、これホントにオレ? オレの子供時代?
いや、オレは嘘を吐いている。知っているクセに。ひどいイジメられっ子だった。毎日泣いていた、泣かされていた。クラスの男子に追いかけられて、女の先生の後ろに回り込み、腰にしがみ付いて泣きながら助けを求めたこともある。これ以上の弱虫を、オレは見たことが無い、話に聞いたことも無い、それがオレだ、オレの子供時代だ。
「何か、言いたいことが、あるんだよね?」
ドッペルゲンガーに、オレは声をかける。子供に話すような話し方。まあ、実際に子供な訳だし、オレ自身ではあるにせよ。
「何か言ってくれないかな?黙ってたら分からない」
ドッペルゲンガーはオレと目を合わせると、驚いたように目を見開き、泣きそうな顔になった。気が弱いのだ。怯えやすい子供だった。しかしそれは一瞬の出来事で、彼はすぐに眉毛の根元を寄せると、今度は少し睨むような、非難するような、そんな鋭い眼差しになった。しかしそれでは終らなかった。その感情の高まりに、瞳の光沢が大きく揺らめき、それは目の縁に溜まって、やがて、涙となって、堰を切ってあふれた。
その涙の粒が、白いほほを滑り落ちる間、オレは短い夢を見た。
あの日の夢。
今までほとんど意識されることの無かった、断片的な記憶。古いモノクロの写真のような、暗く、色褪せ、そして悪夢めいた波動を伴った、深層の原風景。
暗い部屋の中に、大きな鏡が見える。その鏡の前に、オレは座っている。大きな、一人掛けの、固い、ソファのような椅子。
その鏡に、小学生の男の子が、オレが、映っている。
表情は無い、緊張しているのだろう。
男の子の右側に、白衣を着た、その理髪店の店主が立っている。手にはハサミが握られている。
母さんが一緒に来ている筈なのだが、鏡には写っておらず、その姿を確認することは出来ない。
硬質な金属音がした。
硬い金属が、微かに触れ合う音。
それは連続し、速度を上げ、耳のそばで鳴り続けた。ハサミを使う音だった。髪の毛が切断される乾いた感触が、音となって、小気味良いリズムと共に伝わってくる。視線を左右に泳がせてみるが、鏡の中に、母さんの姿は見えない。
突然、耳元で、聞き慣れない音が発生する。電気的な音、モーター音。耳のまわりと後ろの方を少し刈り上げますね、そんな声がする。母さんの姿が見えない。
すべてが終わって、オレは鏡の中の自分を見る。最初、自分がどこにいるのか分からない。頭と顔の小さな、髪の短い、目の大きな男の子がいる。
——ぼくだ、
初めて見る顔、でもぼくだ。
やっぱり意外、っていう印象は拭えない。これがぼく?っていう気分。でも、別に驚くような、そんなことじゃない、だよね? だって、髪が短くなっただけ、スポーツ刈りにするって、父さんが言ってた、男の子だし、当たり前だ、って。
ほほを滑る大粒の滴は、あごの先で一瞬止まり、朝の公園の、その太陽のきらめきを宿して、アスファルトの路面に滴り落ちた。その涙が空中を落下する、ほんの短い時間、オレは、夢の続きを見る。
鏡に映る自分を見て、ぼくは泣く。怖かった。自分が自分でなくなる、その違和感と恐怖、セルフイメージが急激に変わる、その不安と絶望。嫌だった、全身の毛が逆立つほどの、極度の嫌悪感。ぼくは泣き叫ぶ、恐怖に顔を引きつらせて、絶望に声を震わせて。女の子みたいだって、馬鹿にされてた。女の子からもそう言って揶揄われた。でも、ぼくはそんな自分が嫌いじゃなかった、だって、それがぼくだから。長い髪の毛も、背が小さいのも、女の子みたいな顔なのも、泣き出しそうな目も、やっぱり、それがぼくだから。弱虫なのは、もちろん嫌だったけど。
ぼくは自分を裏切った。父さんが怖かったし、男の子っぽくなるのが嫌だ、なんて気持ち、母さんや、弟妹や、友達にバレるのが恥ずかしかった。髪の毛が短くなるだけなのに、それがそんなにショックで、泣いちゃうなんて、そんなの男の子じゃない、もう、女の子みたいなぼくじゃないのに、だ。
実際には、ぼくは泣かなかった。表情も変わらなかった。少しくらい笑っていたかも知れない。ぼくはこの時のことを忘れた。嫌悪感と怖ろしさに気が狂いそうな、極めて過酷な体験であったにも関わらず、だ。
——別に、
そんな感じ。
——髪型が変わるくらい、大したことないし、
みたいな。
ぼくは、泣き叫ぶぼくを捨てた。
ぼくは、助けを求めるぼくを見殺しにした。
抵抗し、それを拒絶できるのはぼくだけだった。
だけど、ぼく自身のために、ぼくはそれをしなかった。
ショックを受けてボロボロに傷付いているぼくを、ぼくはいなかったことにして、涼しい顔をして、母さんと理髪店を後にした筈だ。
そして、それからのぼくは、いやオレは、男の子としての自分を生き、なりきるために時にはムリもして、空手を好きになってみたり、男っぽい言動や、命知らずな行動をみずからに強いたり、露悪的な傾向に走ったり、戦国時代ものの歴史小説にハマってみたりして今に至っている、という訳だ。
——ぼくさぁ、ずーっと、女の子になりたくって、……
そして、オレはあの日、ちょうど一週間前、あの同人マンガをウェブで見て、捉えられてしまった。呼び覚まされてしまった、かつての自分への憧れを抱く、もう一人の自分を。無視して、いなかったことにした、そこにいた筈の、もう一人のオレを。
かえでは自分の憧れを守った。オレは子供だったにも拘らず、体裁や世間体を気にして、守れなかった。
「きみは、あの時のオレだな」
そう、あの時ふたつに分かれ、引き裂かれた、もう一人のオレ。泣き叫んでいたオレ。いた筈の、しかし実際には存在しなかった、……
「でもオレも子供だったし、混乱していたんだ」
オレは、ドッペルゲンガーの男の子の、泣き疲れたような、その淡い色彩の瞳を見ながら言う。
いつの間にか彼はオレの横、芝生の端の縁石に腰を下ろしている。オレもその横に腰を下ろす。彼はコンクリートの縁石をお尻の下に敷いて、半ズボンから伸びた裸の脚をくの字に折って、そのひざを両腕で抱いている。そして顔をこちらに向けて少し首を傾げ、丸いひざの上にほほを乗せて、ぼんやりとこちらを見ている。ホントに女の子みたいだ。
「君のことを、オレは忘れてた」
先程までの非難の色は、すでにその瞳にはなく、親と一緒にいる時の子供の、安心した、少し眠たげな表情にそれは近かった。
気のせいだろうか? 光の加減だろうか? 瞳の色と髪の色彩が、何だか白っぽく褪せて、淡く、霞んで見える。
「変態になっちまった、って焦ったよ」
オレは可笑しくなり、下を向いて笑う。不適切な言葉だったが、自嘲気味に、ついそう毒づいてしまう。
「一週間前のあの夜、何に恋したのか分からなかった、何に愛しさを感じて胸が震えるのか、分からなかった」
ドッペルゲンガーの男の子の姿は、正面から照らし付ける眩ゆい陽光の中、白く霞み、見えづらい。でも彼が、泣き疲れた、ぼんやり憩うような瞳で、やや首を傾げ、こちらを見ているのは分かる。彼の視線を感じる。
「オレはあの時、自分への愛を置き去りにした」
あの後、オレが再び髪を伸ばすことは無かった。よくある話だが、細くて傷んでいたオレの赤い髪は、短く切ってから伸びていく過程で、ひどいクセッ毛となり、固く縮れた髪質となって、短く刈っておく以外まとめようが無い、そんなふうになってしまった。もう、ルックス的には、男らしく生きていくしか有り得ない、選択肢が無くなったのだ。伸ばしたことは無いが、もし髪を伸ばしていたら、たぶんアフロヘアーみたいな感じになっていたと思う。オレはこの後、中学時代に、小さい頃から習わされていた空手に、折からのカンフー映画全盛時代の影響も受け、夢中になり、そしてその空手修行者であるという事実は、そのワイルドな風貌と相まって、おいそれとは声をかけ難い、乱暴そうで何だか恐ろしいヤツ、というキャラクターとして、高校時代までの多感な青春時代を過ごすことになる。なんていうことだ、……
悲惨すぎて、何だか笑えてしまう、笑うしかない、いや、笑ってくれ。
「そんなオレでも、なんとか彼女も作って、女性を愛し、どうにか結婚して、そして子供を持つことが出来た」
時間を追うごとに強くなって行く日差しの中、彼の姿はさらに薄く霞み、周囲の景色に溶けて、透けて見えた。
——ああ、もうすぐ消えてしまうんだな、
そう思った。
しかしそれは消え去り、いなくなる、というのとは違う、とも思った。
——逆だ、
その男の子は、非日常からの使者であるドッペルゲンガーから、日常的な、ごく当たり前の存在になる。オレのアイデンティティの一部として、以降常に、オレと共にある。忘れ去られていた、もう一人のオレ、もう一つの、オレのアイデンティティ。
「そしてその、オレの子供も大きくなり、恐らくは数年のうちに、オレは世代交替を完了し、動物としての役目を終える」
オレは男の子の視線を感じながら、自分に言い聞かせるように、ハッキリとした声で、語り続ける。
「愛のサイクルを完了し、抜け殻となる」
彼は静かな目で、オレを見ている。光の風に髪をなぶらせながら、オレの言葉を聞いている。
「オレはたった今、みずからが見捨て、置き去りにした、失われた自己愛を取り戻した」
オレは言葉を切って、息を吸い込んだ。
「そして、オレはこの自己愛のサイクルを完了し、抜け殻となる」
オレは唇を噛み締め、目を細める。
「ありがとう、……あと、君が愛しかった」
ドッペルゲンガーは、しかし何も語らなかった。
強い風が吹いた。
開けていられなくなって、オレは目を閉じた。
風が収まって、
目を開けた時、
ずっと続いていた耳鳴りが止んでいた。
そして、
赤毛の男の子も、いなくなっていた。
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