研究室の中、秘密の時間

明里 好奇

「ああ、お前の体温で蕩けてしまうよ」





 先生は、私のことをまだただの学生だとでも思っているのだろうか。私のなかで先生はすでに「先生」の枠からはみ出してしまっているのに。

 翳りだした窓の外、校舎の中には人はまばらになっている。もしかしたら世界に二人だけだったらよかったのに。そうしたら、こうやって人目を阻んで待ち伏せることも要らないのに。

 夜の香りが濃くなっていく。帳を下ろした夜が来る。


 先生の研究室に忍び込む。全ての授業が終わったこの時間。研究室のカギは開いている。先生が中に居るから。私が来ることを知っていて、鍵を開けていてくれているんじゃないかと思うことも有ったけど、そうじゃない。ただ先生は訪ねてくる生徒を、追い返さないためにここのドアのカギを開けているんだと思う。

 都合よく考えてしまえば楽ではあるし、ずっと酔っていられる。

 でも、多分そうじゃない。


 私は、ただの生徒で、彼は教員の一人だ。

 だからこれは、私の夢。浅ましき、けがれた妄想なのだろう。


 ドアノブに手をかけて、回せないまま立っていた。ここまで来て、ドア一枚を隔てた世界を、別世界のように夢を見て。

 ――指咥えて、見ているだけなんて性に合わない。


 少々強めにドアをノックする。

 軽やかな木が弾む音がする。腹の中はぐるぐると憎悪のような感情が渦巻いていたのに、のんきなものだ。

 先生が居るから、こんなに惨めになってしまうのに。これは言い訳だと分かっていながら、声が返ってくるのを待った。


「どうぞ」


 それだけの、簡単な言葉。

 私を調子づかせてしまう、極上の褒美。

 わざと不機嫌そうに室内に入って、バックパックを床に投げるように置いた。先生は、奥の机。大きな窓に面して本棚に囲まれたいつもの場所に居る。

 そう思ったのに、一目散にそちらへ向かったのに先生はそこに居なかった。


「せんせい?」


 どうして? いつもそこにいるじゃない。どうしてそこに居ないの。私がなにか間違ってしまった?

 一気に指先が震えだす。瞼が痙攣するのが分かる。どうして、どうして、どうして?

 あっ、と。そう思った時には暖かい何か、すぐに分かった。先生の掌が肩に乗せられていた。


「何、どうしたの震えてない? 大丈夫?」

 何でもないみたいに、本棚の隙間を縫って現れた先生は、マグを二つ持っていた。見慣れたマグカップは、なぜかふたつ。

 それを眺めていると先生は合点がいったように笑って、

「ああ、君がそろそろ来るだろうと思ってね。読みは当たったかな。冷めないうちに、どうぞ」

 と言った。


 だけど、我慢なんてできなかった。

「なんだい、お気に召さなかったかな?」

 マグは散らかって隙間を見つけるのにも苦労する先生の机に置いてもらって。私は先生の襟首を掴んで引き寄せた。少し強引だったかもしれない。先生の肌は白いから、後で赤くなってしまうんだろうか。それでも、衝動は止められなかった。


「黙って」

 至近距離で見上げた先生の顔は、少々面食らってはいたがまだ余裕があるもので、私の奥底に火をつけるには十分だった。

 空いた片手で先生の後頭部に添えて、引き寄せる。


「何だい、待ちきれなかったのかい」

「うるさい」

 強く押し付けた不器用な唇を、先生の唇が挟んだ。

 柔らかく、溶かすように、傷をつけてしまわないように、丁寧に。私をついばんでいく。


「ああ、お前の体温で蕩けてしまうよ」

 事も無げに言う先生の声に滲んでいるのは余裕と若干の熱。私にはわかる。肌と粘膜で触れあって本当に蕩けてしまいそうだから。

 だけど、素直になんてなれないから私は、先生の首筋に噛みついた。少しだけ痛がって、くすぐったそうにまたキスの雨が降ってくる。

「先生は、ずるい。わかってて、私を煽っているでしょう?」

 喉の奥で低く笑ってから、先生は私の腰を引き寄せて耳元で囁いて耳朶を舐めた。


「お前はずるい。自覚していて俺に食われようとしているんだろう?」

 その通りよ。大人の駆け引きなんて知らないわ。そんなもの欲しくない。私は、先生が欲しいの。

 早くしないと、私の輝きは消えてしまう。だから早く先生に見つけてほしいだけなのに。きっと、先生はわかっているようでわかっていない。だから、私は先生をけしかける。この守られた鳥かごのような、秘密の時間の中で。

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研究室の中、秘密の時間 明里 好奇 @kouki1328akesato

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