第21話 7th heaven

「いや~、今日も清々しい朝だ!」


 エシュは軽く伸びをしながら、今日も生きていることに感謝をしつつベッドから起き上がった。

 見慣れた黄ばんだ天井や壁が、窓ガラスから差し込む朝日を浴びて、少々つややかさのある照り返しを浮かばせている。



 つい先日、炎上する工場でエシュは葵に無事救助されたものの、その後、警察で事情聴取をされたり怒鳴られたり呆れられたり諭されたりと、非常にこってりとした密度の高い時間を過ごす羽目となった。

 一通りの後始末のフルコースを経験して心身ともに疲れ切ったエシュは、結局のところ無事自室に戻ってから即、眠りに落ち、そして今の今までぐっすり熟睡していたのである。


 エシュは身を起こし、事件から数日経ったくせにまだだるい体を無理やり立ちあがらせた。

 窓の方向に目を向ければ朝日が、埃でくすんだガラスの向こう側から降り注ぎ、部屋の中に漂い埃をきらきらと輝かせる。


 ここ数カ月の間の習慣の通り、エシュは窓へ近付いて開いて窓枠を乗り越えて外壁にへばりつく非常梯子をつたって、下階の窓枠からさも当然の事のようにそこの部屋へと入っていった。

 そしてエシュは更に窓から入ったその奥の部屋、葵の仕事場兼寝室の扉をノックし、その様子をうかがった。

 しかし、こんこんと小気味良く響いたノック音に、部屋の内側からは気配こそ感じるものの、相手の返答は全くなかった。


 ここ数カ月の付き合いで分かってきたことだが、相手はどちらかというと面倒事を嫌う面倒くさがりだ。いるはずなのに返事も反応もないという事は、おおかたまだ寝ているかぐうたらしているかなのだろう。


 エシュは許可を得ていないはずの部屋の扉を開け、中にずかずかと入り込んでいった。踏み込んだ先、薄暗い部屋の中では丸まった布団がもぞもぞと動いていた。


「よう、気分はどうだ?」

「……む」


 エシュがその布団の塊に声をかけ、塊の中身からそれに反応したような声が漏れた。



 その中身の正体は葵であった。先だっての火災において、少し煙を吸った程度という奇跡的な軽傷ですんだエシュとは反対に、葵は火災現場への突入の際にかぶった大量の水が祟ったのか風邪をひいてしまったというのだ。

 助けに行ったはずの人間がこのザマとは、尾行がバレたのもただのまぐれだったのかもしれない、とエシュが思ったのは葵に話してはいない。


 ただ寝ているだけでも病気の時は体力が減っているものである。何か食べさせるのが上策だと、エシュは葵に気を紛らわせるためにも食べ物のリクエストを聞くことにした。


「何か食いたいものあるか? ついでに買ってくるぞ」

「…………」


 布団の中の葵は一切返答しない。無言はいらないとの意思表示ということなのか。

 ただ、平素なら『不要である』の意思表示には欠かさない嫌味がないのは、エシュにとっては非常に気味が悪いものであった。


「あっそ。それじゃあ3択問題だ。オートミール、オートミール、オートミール。どれがいい?」

「…………」


 ツッコミも無ければ返答もない。まるで借りてきた猫のようにおとなしい。


「おい、根暗! 甘やかしてやってんだから、何とか言ったらどうだ!」

「…………」


 駄目だ。完璧に無視してやがる。

 病人に対してあんまり無体なことはしたくないが、ここまで天邪鬼だと腹が立つ。


「うんとかすんとか言ってみろ!」

「………………すん」

「よし、表出ろ」


 流石のエシュも葵の態度にイラッとした時、玄関から鍵を開ける音が聞こえた。




「で、葵君が体調を崩したと……」


 リビングでは相変わらずニコニコとした笑顔を絶やさない早瀬がソファに腰掛け、キッチンに立つエシュの様子をうかがっている。

 エシュはやかんを火にかけ、湯が沸くのを待っている。


 部屋の主である葵は、早瀬が訪れた当初彼をもてなそうと寝床から出ようとしたのだが、それを早瀬当人に押しとどめられた。

 現在も自室の布団の中におり、現在早瀬の応対をしているのはエシュだ。


「もう本当に頑固で困りましたよ……」


 若干、歯切れの悪い会話であったことはエシュも自覚していた。後ろめたさというものだろう。

 葵の風邪の原因はエシュの取った行動によるものであった。しかし、さほど会った回数も多くない他人に、そうそうこの変化は感じ取られるものではなかった。


 それくらいエシュは人付き合いの演技には慣れているはずであった。


「うん。で、なんで葵君が火災現場に飛び込んで、あまつさえ風邪をひく破目になったのか、説明して貰えるよね?」


 事場に葵が入り込んだ責任の追及をエシュに向けているようだ。

 早瀬の表情は一見すれば笑顔そのものであったが、なにに怒りを感じているのか何か苛立っているような殺気を背負っていた。


 成人男子の自発的行動の管理責任を、交友関係のあった人間に求めるという、なんとも奇妙で過保護な、まるでストーカーかクレーマーのような理屈である。

 しかし早瀬からのそのプレッシャーは、その内容いかんではエシュを永遠の敵として葵に近付けることはおろか、まともにこのアパートで営業できなくなるほどの妨害をされそうな、そんなことまで想像させるよううなほどの気迫を有していた。


「いや、その」

「うん? なんだね?」


 エシュはあまり豊かではない脳味噌をそれでも回転させて考えた。

 葵が火事場にいたことは早瀬にはもう知られている。風邪をひいていることがそれとつながることまで分かっている。


 それらの情報の中、それでもエシュが早瀬に悪い心証を与えない最良の方法を探る。


「子供の悲鳴が聞こえまして……」

「子供? 新聞では全く載っていなかったけど」

「え? 確かに建物の中から……」


 ピィー…


 沈黙が降り立った部屋の中に、湯の沸騰を知らせるやかん笛の悲鳴のような音色が響く。


 ……子供の悲鳴の正体って……まさか。


 狭い場所を勢いよく空気が通り抜ける時、大きな音が出る現象が起こることがあるらしいと、どこかで聞いたことをエシュは思い出した。

 見つからない子供、いるはずがないと思う方が自然な現場状況。物事の修羅場には時々、人知を超えた者の仕掛けたいたずらのように偶然が発生することがあるという。

 もしかしたらあの子供の悲鳴と思っていたものも、偶然で発生した現象であったとしたらつじつまは合ってしまう。


 エシュの目の前は早瀬が合いも変わらずニコニコと笑うことをやめないでいる。エシュはすでに理解できていた。


 この叔父は、危険な所に飛び込んだ葵の行動をいさめるとか、あるいは人命救助のために現場に飛び込んだ葵の英断をほめる、といったこと以上に葵がいかに危険に遭わないかを重視していた人だ。

 危険に首を突っ込ませるな、という番人の様な役目を頼まれた当の本人が、葵が危険な目にあう原因になったのだということであれば、それは完全な裏切り行為であるわけなのだ。


 笑顔の早瀬のプレッシャーにエシュは完全に気圧されていた。言い逃れが出来るタイミングは完全に失われていた。


 どう生還するか……と思いめぐらせたところで、エシュの行動の正当性を唯一叔父に訴えることが出来るはずの葵は現在、布団に沈んでいるのみである。


「ん?」


 不気味なまでに、相変わらず柔和な笑顔をエシュに向ける早瀬。それとはとは対照的に、エシュの背中には冷たい汗が流れていた。


 もしかしたら、五体満足でおてんとうさまが見れるのも、今日で最後かもしれない。

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ZEROSUM GAME ユマリモ @marimoneko

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