第10話

 次の日、いままで出したことのない高熱にぼくはうなされた。どうやら夏風邪を引いたらしい。それは終業式の日までまったくよくならず、ぼくは自分の部屋の布団のなかで高校生最初の夏休みを迎えた。つまり、先輩とは『あれきり』だったということだ。

 夏休みは、早々に宿題を片付け、あとはずっと本を読んだ。図書館で手話の本も借りた。独学ではあるけれど、自己紹介ぐらいならできるようになった。けれどまだまだ勉強不足である。

 仕事をする母親の代わりに炊事洗濯などをこなしたりもした。学校がなくなると、どうしても生活リズムが崩れがちになってしまうので、それを予防するためでもあった。もちろんほかに企んでいることがないと言えば嘘になる。否、ないわけがない!

 夏休みも後半に差し掛かったころ、ぼくは母さんに「携帯電話を持ちたい」とせがんだ。母さんは驚くほどあっさり了解してくれた。母さんがたったひとつ提示した条件も『いちばん最初に登録する連絡先は母さんのであること』という、めちゃくちゃにゆるいものだった。

 我が母ながら、ほんとうにかわいらしい人だと思う。父さんもよい人を見つけたね。ちらと仏壇のほうへ目をやると、写真のなかの父さんはいつもと変わらず笑っていた。

 夏休みのあいだ、ぼく個人で最も変化したことと言えば、オーラが見えなくなったことだ。熱も下がり、夏風邪も病み上がりになったころ、ぼくはその変化に気付いた。母さんに報告すると「どんな気持ち?」と尋ねられたので、ぼくは「いざなくなると、ちょっとさみしいもんだね」と応えた。

 中学生のころからかよっていた病院にも夏休みの通院を最後に行かなくなった。

 最後の通院時、ぼくは先生に「なぜオーラが見えなくなったんですか?」と尋ねると、先生はなにごとか書きながら「なんかいいことでもあった?」と質問で返した。

 モノクロ眼鏡は処分せず部屋の机の上に置いてある。オーラが見えなくなってからも身に染み付いた習慣からか、ぼくはときどきモノクロ眼鏡を掛けていた。裸眼で見る鮮やかな世界もすばらしいけれど、この見慣れた白黒の世界にもぼくは知らず愛着を持っていた。

 オーラが見えなくなってうれしかったことは、なんと言っても色酔いをしなくなったことだ。いまでは教室でも満員電車のなかでも、眼鏡を掛けていなくとも平気だ。

 逆に困ったこともある。それは、やっぱり他人の感情がすぐにはわからなくなったことだ。ぼくの目の前の相手がいまなにを考えているのかわからないこと、見ようとしても見れないこと、知ろうとしてもそれが容易ではないことがこんなに恐ろしいことだとは知らなかった。みな生まれてからいままで、他人のわからないことをわからないまま平然と生きていたのかと思うと、身震いする。そんなことを母さんに話すと、母さんは「いずれそれも悪くないって思えるときが来るわ。ぜんぶわからなくたって、人は人とたのしく生きていけるのよ」と言った。その言葉の真意は、ぼくにはまだわからない。きっといつか理解できる日がくればいいなと思った。


 夏休みが明けて始業式。九月とはいえ、夏の気配はまだまだそこら中に息づいていた。

 交差点で信号を待っていると、少し遠くから見たことのある人影がこちらへ向かって歩いていた。なにやら看板のようなものを背負っている。

「山田くん、おはよう」

 ぼくがおずおず声を掛けると、山田くんはちらとぼくを見て、すぐに視線を外した。そうだよね、長期休暇を挟んだら、それまでの親密度も帳消しだよね。そんなことを思っていると、山田くんがなにごとかぼくにジェスチャーをした。

『気安く話しかけてくんじゃねえ』

手話だ。ぼくもなんとか手話で応えた。

『ごめん。うれしくて、つい』

「ちょっとはできるようになってんじゃん」

 言って山田くんは笑った。


 駅までぼくらは並んで歩いた。

「その大きいの、なんなの?」

「絵」

「えっ?」

「絵」

「えっ、なに?」

「絵っつってんだろボケ!」

 そんなに怒鳴らなくってもいいじゃないかなど思いつつ、ひさしぶりに聞く山田くんの怒声にぼくは少しうれしくなった。

「とても大きな絵なんだね」

「徹夜で完成させた。どっかの誰かさんのせいでタイムロスしたしな」

「ごめん……」

「楓のはもう校内に飾られてる。図書室前の廊下の壁。『必ず見ろ』ってさ」

「もちろん。必ず見るよ。山田くんのも」

「まあ、俺のはともかく、楓は題材選びが残念でならない。せっかく絵はうまいのに」

 えっ、それってもしかして……ぼくは言葉にせず曖昧に笑った。

「そういやおまえ、眼鏡どうしたんだよ。あのだっさいやつ」

「ああ、もう必要なくなったんだ」

「また吐くんじゃねえだろうな?」

「大丈夫だと思う」

「ようやく中二病卒業? おめでとう」

「ありがとう。まあ、そんなところかな」


 自分でも驚くほどスムーズに会話ができた。つぎになにを話そうとか、これを言ったら怒るだろうかとか、そんなことは露ほども考えなかった。本来なら、人の気持ちが見えなくなった以上、もっと気を付けてもよいはずなのに。人というのは本当に不思議だ。

 学校に着く前、ぼくは山田くんに携帯電話を見せた。「最新機種じゃねえか」と、山田くんはその日いちばんのテンションを見せた。嫌な態度を示しながらも、山田くんは自身の番号とアドレスを教えてくれた。

「あとこれ、渡しとけってよ」

 そう言って山田くんは一枚のメモを差し出した。そこには小さく綺麗な文字で番号とアドレス、それから少し大きな文字で『絵の感想を待っている』と書かれてあった。


 始業式が終わり、ホームルームも終わって、ぼくは図書室へ向かった。

図書室までの廊下には大きなキャンバスがいくつも掛けられていた。動物や植物や街や人、いろんなモチーフがそれぞれの捉え方で描かれていた。ぼくがそのなかから空半先輩の絵を見つけるのはあまりに容易だった。空半先輩の絵は、ぼくが初めて先輩からもらったメモに描かれたスケッチを何倍にも大きくしたようなものだったから。

「ぼくだ……」

 キャンバスには、図書室の受付に座って本を読むぼくが描かれた。絵の多くは白黒で描かれているのだけれど、眼鏡だけはいろんな色を用いて描かれていた。いくつもの絵の具が繊細に重なって、なんとも言えない色合いになっている。かつてオーラが見えていたころのぼくなら、すぐに色酔いしてしまうような色の氾濫が先輩の絵にはあった。タイトルは『おとぎの国の君』。

 先輩の絵のとなりには、夕日の下でキャンバスに向かう女性を描いた絵があった。全体的に淡い色で、空の橙色がとてもやさしい。題は『楓』。男らしいド直球のタイトルにぼくはしびれた。山田くんの描いた絵は絶対にこれだろう。

「ふたりとも上手よねー」

 後ろで声がして振り返ると、日に焼けて夏休み前より黒くなったみゆき先生が立っていた。

「先生、こんにちは」

「うい。秋からも引き続き図書室をよろしく。すべては今川くん、きみにかかっている。にしても、この絵のきみ、似てるなあ」

「そんなに似てますか?」

「そっくりじゃん。特にこの『いかにも私が読書家です』みたいな生意気な座り方とか」

「後期は図書委員、やめます」

「いやいやそれは冗談としてもだ、ほんと男前に描かれてるわ。現実そっくり」

 夏休み明け早々、ぼくはみゆき先生に効く脅し文句を見つけたようだった。幸先がよい。


 帰宅して、夕食を食べ、お風呂に入って明日の準備を済ませてのち、ぼくは山田くんから渡されたメモを眺めていた。何度も逡巡して、それから覚悟を決めた。

ぼくは、小さく綺麗な文字で書かれた番号を真新しい携帯電話に打ち込んだ。数回のコールが鳴ったあと、澄んだ声がぼくの鼓膜を震わせた。


『どうじゃった? 絵、うまかったじゃろ?』


 空半先輩は、話すときはどうやら仙人のようになるらしかった。

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おとぎの国の君 久山橙 @yunaji

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