第9話

「なんでまたおまえのゲロ掃除させられてんだよ……」

「ごめん……」

 走ったけれど、結局間に合わなかった。ぼくは図書室を出てすぐ滑って転び、そのまま廊下で豪快に吐いてしまった。格好悪すぎる。これでぼくは当分のあいだシャケのおにぎりも食べられないだろう。いますぐ消えてしまいたい気持ちだった。

「で、なにがあったの? だいたいは受付に散らばってたメモ書きで理解したけどさ……」

 倒れた本棚を立て直し終えたらしいみゆき先生が廊下へ出てきてぼくたちに聞いた。空半先輩は散らばった図鑑を五十音順に整理して、もとあった場所に戻している最中だった。

「俺は悪くない」

 廊下をモップで拭きながら山田くんがぼそりと言った。

「んなわけあるか!」

 間髪入れずみゆき先生が山田くんにローキックを入れる。我が校の剣道部顧問はムエタイにも精通しているのだろうか。先生のローキックはあまりに鋭かった。

「誤解させてしまったぼくにも原因があるんです」

 廊下にうずくまり悶絶する山田くんを横にぼくは言った。みゆき先生が困ったような顔でぼくを見た。吐いてすぐモノクロ眼鏡を掛け直したから、先生のオーラの色まではわからなかった。

「こいつが楓を泣かしたんだ……」

 蹴られた足をさすりながら山田くんが言った。

「そうなの?」

 みゆき先生がぼくに尋ねた。

「それは……」

「言い訳すんじゃね、いった! なにすんだ楓!」

 山田くんの後ろで空半先輩が仁王立ちしていた。どうやら図鑑をすべて元の位置に戻し終えたらしい。仕事が早い。図書委員の素質があるのではないかとぼくは思った。

 空半先輩はすっかり泣き止んでいた。先輩が先生に向かってなにかジェスチャーをし、敬礼のポーズをした。顔がやけに凛々しい。

「はい、ごくろうさん。あいかわらず仕事が早いわね」

 そう言って、先生もまたなにかジェスチャーを返した。彼女たちのやりとりを見た山田くんが目を丸くした。

「先生って手話できんの?」

 山田くんが少し驚いた様子で先生に尋ねた。

「勉強したのよ。去年の図書委員、空半さんしかいなかったから。最初はお互い筆談ばっかりで腱鞘炎になりかけたわよねー」

 言って先生はけらけら笑った。先輩も喉をくつくつ鳴らして笑った。えっ、いまなんて? ぼくは驚きのあまり思考停止しそうになった。

「先輩って図書委員だったんですか?」

 驚きのあまり、思いのほか大きな声が出てしまった。ぼくは恥ずかしさをごまかそうと咳払いをひとつした。

「あれ、言ってなかったっけ?」

 みゆき先生が隠す気もない態度でとぼけた。この人の性悪は本物だ。ぼくは戦慄した。

「さっ、もう下校時間よ。青少年どもは帰った帰った。寄り道すんなよ? したらぶっ飛ばすからなー」

 言ってみゆき先生は竹刀を振る素振りをして、図書室へ戻っていった。


 かくしてぼくたち三人は同時に下校し、駅へと向かった。今度は三人横に並んで。

『えー、わたしが山田と付き合ってるとか、ないない! 全然タイプじゃないし』

 ぼくの目の前で輝く液晶画面のなかに均一な文字が並んだ。先輩が目にも止まらぬフリック入力で以て、スマートフォンのメモ機能に文章を書いて見せてくれたのだ。

「歩きながらケータイ触んなっていつも言ってんだろ。てかタイプじゃねえとか余計なこと書いてんじゃねえ!」

 山田くんがうんざりした表情で空半先輩に注意した。

「山田くんは先輩のこと下の名前で、しかも呼び捨てだったから、てっきりおふたりはお付き合いをしているものかと……」

 内心で『違ったんだ』とほっとしている自分があいかわらずダサい。それに、ふたりが付き合っていなかったとしても、ぼくが空半先輩の前で晒した醜態の数々がなくなるわけでもなかった。ぼくはまただんだんと気が重くなった。

『山田とは長い付き合いだから。もう姉弟みたいなもんだよ』

 先輩は筆談とスマートフォンでは文体が変わるようだった。ぼくは、どちらかというとスマートフォンでの文体のほうが気取っていなくて好きかもしれない。けれど先輩の小さくて綺麗な手書きの文字を見られないのは少し残念だ。甲乙つけ難い。

 そんなことを書いてくつくつ笑う先輩と対照的に、山田くんが小さな声で「姉弟ってなんだよ……」といじけていたのをぼくは聞き逃さなかった。どうやら最大のライバルはとても身近にいたみだいだ。いや、ぼくじゃライバルにもならないか……


 聞けば、空半先輩と山田くんの出会いは小学生のころにまで遡るそうだ。

 小学校へ行かなくなった山田くんは、その代わりに不登校からの復学や進学を支援するフリースクールへ通い始めたそうだ。空半先輩との最初の出会いはそこだったらしい。

 現在とは違い、気の弱かった山田くんに率先して声をかけたのが空半先輩だったらしい。

『山田はいまでこそ身体も大きくなってえらそうにしているけど、当時は本当に女の子みたいに泣いてた。わたしも何回か泣かした。たぶんいまでもやろうと思えば泣かせる』

 これは空半先輩談であり、事実がどうであったかはわからない。

「言いふらしたら殺すからな」

 山田くんにはこのように釘を刺された。ぼくは固く口をつぐんだ。

 とにかく、それからいままで、ずっと空半先輩と山田くんの関係は続いているそうだ。

「山田くんが美術部に入ったのも、もしかして先輩の影響なの?」

「あ?」

 今後この手の質問をぼくから山田くんにするのはやめておこう。ぼくは長生きを希望している。

 ぼくたちの会話を聞いていた空半先輩が高速フリックでなにか入力し、ぼくに見せる。

『そうそう。こいつ昔っからわたしの真似ばっかすんだよ。ほんに、ういヤツよのぉ』

 この文章が山田くんには見えないよう、ぼくは画面に手のひらを重ねそっと先輩のほうへ返した。

 駅に着き、ぼくらは改札を抜けた。

『今川くんさえよければ、今度アドレス教えてよ』

 別れ際、先輩がそう書いてぼくに見せた。

「やめとけ。楓はめちゃくちゃ長文送ってくるぞ。しかもけっこうな頻度で」

「あの、恥ずかしながらぼく、まだ自分の携帯電話を持っていないんです……」

『マジで言ってる?』

 先輩に割と本気で引かれてしまった。つらい。落ち込んでいると、となりで山田くんが笑った。高校生になって、はじめて山田くんの笑った顔を見た気がする。モノクロの世界から見た山田くんの笑顔は、小学生のころからちっとも変わっていなかった。

 ぼくには本があればそれでいいと思っていた。だけれど、まさかこんなところに先輩とつながる手立てがあるなど考えもしなかった。人を知れば、人と話せば、世界はひろがる。ぼくはもっとひろく世界を知る必要があると思った。

『ケータイ買ったらまた山田伝いにアドレス教えてね』

「はあ? なんで俺が今川のアドレスなんか登録しなくちゃいけねえんだよ。俺のスマホが暗くなるだろうが」

 表情には出さないけれど、それでも傷ついてはいるので、山田くんにはもう少し手加減してほしいなあ、など思った。

『それじゃあね。また明日も図書室、遊びに行くね』

 先輩は手を振って人混みへ消えていった。


「まあなんだ、顔殴ったのは悪かった」

 おなじシート席に座って電車にゆられていると、山田くんが突然そのようなことを言った。ぼくは驚いて「えっ」と大きな声を出してしまった。ぼくたちの近くに立っていたスーツ姿の女性が迷惑そうな顔をしてぼくを見た。ぼくが軽く会釈すると、女性はぷいと窓の外に視線を戻した。

「声でけえんだよ」

「あっ、ごめん。それになんというか、こちらこそごめん」

 声が大きいなど山田くんにだけは言われたくなかったと内心で思いながら、ぼくは謝罪を重ねた。

「おう、謝れ。二回もゲロ処理させやがって」

「ほんとごめん……」

 立て続けに何度も謝罪するぼくを見て山田くんは少し笑った。

 最寄り駅に電車が止まり、ふたり一緒に電車を降りた。改札を抜け、ぼくたちは夕暮れの街をふたり並んで歩いた。会話はそんなに多くない。けれど、以前に比べ沈黙を苦痛に感じることはなかった。

 信号を渡り、ぼくは左に、山田くんは右へと曲がる。

「じゃあね」

 ぼくがそう言うころには、山田くんはぼくに背を向けて歩き始めていた。返事はない。ぼくは小さな落胆を胸に、山田くんに背を向けた。すると背後から山田くんの大きな声がした。

「手話、覚えてやれ。あいつのことだから、そのうちふつうに話し始めるかもだけど」

 山田くんに対して感じていた罪悪感がみるみる溶けていくようだった。彼が実際にぼくを許してくれたかどうかなんてわからない。もしかしたら、もうすでにぼくとのことなんていまの彼の心のなかには少しも残っていないのかもしれない。それでも、ぼくは山田くんに許してもらえたような気がした。だっていま、ぼくの気持ちはこんなに軽やかだ。

「わかった!」

 出せる限りの大きな声でぼくは応えた。

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