それでもあなたに死んでほしい

乃木ちひろ

それでもあなたに死んでほしい

 今日、夫は自殺した。


「夫はうつ病で通院していました。本人はまだ乗り気でなかったのに、私が復職プログラムを受けてみたらなんて勧めたから…私が彼を追い詰めてしまったんです」

「なるほど、それが昨日の晩のことだったんですね?」

 刑事の問いに、ユキは涙で濡れたタオルハンカチを鼻の下に当てながら頷く。






 東京をちょっと出た住宅街にある大手スーパーの店長を勤めていた夫のケンジが、うつになったのは2年前。原因は過労だった。それから現在まで1年半休職している。


 それ以来、ユキが牛丼チェーン店のパートで家計を支えている。仕事を終えて夕方帰宅すると、夫はいつも狭いリビングに寝そべりスマホゲームだった。


 その姿を見ると、一応課金しない範囲でやっていると分かっていても、病気なのだとわかりつつも、ガッカリしてしまう。

 整然と水切りカゴに置かれた食器と、ピチッと畳まれた洗濯物。しかしやってくれてありがとうとは思えないのであった。


「明日、通院日でしょ。私も一緒に行くわ」

「なんでついて来るの?」


「最近はずっと薬も変わらないし、安定してるでしょ。そろそろ復職プログラムとか受けてみてもいいんじゃないかと思って、先生に聞きたいから」

「そういうの、やめて欲しいんだよな」

 それでも彼はスマホから顔を上げなかった。


「そうやって尻を叩かれるのが辛いんだよ。今のこの働いてない状況に一番苦しんでんのは、俺なんだからな?」

「…分かったわよ。でもせっかく休み取ったし、一緒に行くから」






「そして予定通り受診に同行して、その帰りにご主人はホームから身を投げたというわけですか」

「はい…。こんなことなら復職の話なんてしなければよかった…!診察の時もつらいと言っていたのに」


 迷ったが、ユキが復職プログラムの話を主治医に持ちかけてみると、今の状態なら良いと思うと勧めてくれた。


 しかし本人は、やる気になれない、自信がないと強固に拒否したのだった。結局のところ、無理矢理やらせても、となった。


「わかりました。それ以外に、ご主人にいつもと違ったところはありましたか?昨日の日中はどうでしたか?」

「昨日は朝出たきり、晩まで顔を合わせていないので…」






 昨日は、昼過ぎまでパートに出て、その後は友人マコの家に行ったのだった。

「ユキ久しぶりー!全然変わらないね。むしろ肌若返ってない?」


 マコとは専門学校の同級生だった。互いに結婚してからは会う頻度も少なくなってしまったが、年に一度は近況報告がてら、こうして会うようにしている。


「…いつ来ても良い眺めだわ」

 東京23区内、20階建の分譲マンションの18階、山手線の外側だが最近地価が上昇中だとニュースでやっていた。


 銀行マンである夫がシカゴ支店への転勤が決まり、マコは目下英会話スクールに通っているのだという。

 無垢材の家具でナチュラルカントリーに統一されていた部屋の中は殺風景になり、段ボール箱がいくつも積まれている。


「このマンションはどうするの?」

「売らないで貸すことにする。家賃でローン返済すれば、なんとかやっていけるかなぁって。でもそう上手くはいかないって聞くけどね」


 マコは秘書として就職内定を得ていたが、リーマンショックで突如取消しになり、仕方なく派遣社員となった。派遣先は大手都市銀行で、3年後に正社員に登用され、その後社内結婚で寿退社というわけだ。


 運が良いのだと思う。学生時代から変わらぬ平凡な見た目、特別服のセンスが良いわけでもない。むしろ学生時代チヤホヤされていたのはユキの方だったはずだ。


 出してくれた紅茶のカップは1客1万円を下らない海外高級磁器メーカーもので、荷物を減らすため2客だけ残して売ってしまったのだと。


「最初はダンナしか話し相手がいないわけでしょ。それが何より気が重くて!ダンナなんか置いてやっぱり日本に帰りたいって思うだろうなー」

 結婚式で見たご主人は、バリバリの営業マンだった。


 マコにはちょっと人見知りなところがある。打ち解けてしまえばユーモアのセンスをいかんなく発揮してくれるのだが。

「向こうは言いたいことはアサーティブに言う文化なんだろうね」

「そうそう。行間と空気を読んでる場合じゃないって。ついていけるかなぁ」


 それから取り留めもなくお喋りしながら、オーダーメイドのダイニングテーブルでパンを捏ねた。半年ほど前からハマっていて、筋が良いと教室で誉められたのだと。


「いつかね、40代50代になって子育てが落ち着いてからでも、お店が持てたらって夢見てるんだ」






 今朝になってもマコの顔が離れなかった。30を過ぎてなお、専業主婦になりながらなお、会うたびにきれいになっていると思った。

 学生時代から明るく、失敗してもめげずにキラキラしていたマコ。人の悪口は言わないマコ。男女問わず好かれていたし、嫉妬を覚えながらもユキも同じ気持ちだった。


 社会人になっても結婚しても、全然変わってない。それは安心と同時にやりきれなさを感じさせた。

 診察が終わって駅へ向かう間、考えていたのは夫のことではなくそんなことだった。


「直接言ったことはありませんが、正直に言えば彼を責める気持ちはありました。それは伝わってしまっていたと思います」

「夫婦ですからね。私にも覚えがありますよ」

刑事は頷いた。




 ホームに降りた時、ケンジは言った。

「俺だってどうにかしなきゃとは思ってるよ。けど復職したところで会社の体制が変わってるとは思えないし、また同じ繰り返しだと思うとさ。病気になったのは俺のせいじゃないし」

 背中から刺されたようだった。

 じゃあ、私は一体何のために——誰のためにこんな思いをしているの。


 俺のせいじゃない。確かにそうかもしれない。ケンジが好き好んでうつになったわけじゃない。


 でも彼を支えることが人生だと思えなくなった。妻だから、家族だから。そんな理屈と感情抜きの使命には、もう耐えられない。夢を語るマコの顔に、はっきりと突き付けられた。


 かといって離婚届にサインすべき理由がなかった。ケンジから暴力を振るわれたことはないし、暴言もない。働くユキのことを慮って家のことはしているし、浪費するわけでもない。

 ユキのパートとケンジの給付金で、子供がいない二人世帯は困窮せずに生活できている。


 普通なのだ。幸せといえる家庭なのだ。

 しかし今は、ある衝動が全身を染めていくのを感じる。


 駅のホームの端、相変わらずスマホゲームに夢中の無防備な背中。ちょうど階段の裏で人は他にない。向かいのホームのサラリーマンもスマホをいじっている。


「間もなく急行電車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください」

 自動アナウンスが流れる。左手から列車の顔が近づいてくる。


 俺のせいじゃない。

 私のせいじゃない。私が悪いんじゃない。


 彼の背中を両手で思い切り押す。


 スピードを緩めることなく入って来た列車に彼の体が接触し、ホームの隙間へと吸い込まれていく様を、まるで遠くの国の事件のように感じながら眺めていた。

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