第6話 ウィータビクスとゼリー 2017年7月
「あのね、ママ、ウィータビクスだけじゃ、子供がかわいそうだからゼリーも入れようよ」と、下の子がスーパーで私を見上げる。
2017年7月。もうすぐ夏休みを迎える時期。私たちは近所のスーパーで旅行前の買い出しをしている。
「自分たちがとても楽しいこと」をするときは、ほんの少しだけ「楽しめない人たち」にプレゼントをするのが我が家のささやかなしきたりだ。
すごくたくさんお金を払うわけではない。本当に小銭程度だけれど、チャリティにまわす。
——今年も家族揃って旅行に出かけられそうです。ありがとうございます。
日本にいたら新年に、家族4人のお賽銭に払う程度のお金を、そっとどこかに回す。今回はフードバンクに食べ物を寄付しよう、と下の子と話したのだ。
——ご飯が買えないくらい大変なお家の子供は、学校がなくなって、給食がなくなったら大変でしょう。そういう子が楽しい夏休みが過ごせるようなものを買おう。
——それじゃあ、ケーキとアイス!
——えーとね、冷蔵庫や冷凍庫がなくても長持ちするものじゃないといけないんだな。
子供と二人で頭をくっつけて相談した結果、購入するものは以下の通り。
ウィータビクス(麦からできたシリアル。牛乳をかけるだけで食べられる)
ドライスキムミルク(牛乳は腐ってしまうから)
ゼリーの素(夏休みだからね!)
缶詰のホットドッグ用ソーセージ(「なつやすみにはバーベーキューだよ、ママ!」)
砂糖
全部買っても千円そこそこ。でも、それで良い。本当だったら行政で賄われるべきサポートが、この数年でスッカスカになっているから、応急処置的に私たちのお財布から小銭が出て行っているだけだから。
いつかはきちんと選挙で是正しないと。選挙権ないけど。わはは。
みたこともない誰かへの「プレゼントごはん」を買うよう言われた6歳児は大張り切りだ。「ぼくのかんがえたさいきょうごはん」を説明してくれる。
「ウィータビクス、おいしいからね、こどもはすきだしね、おさとうかけていいよっていわれたら、すごくすごく、もう、ものすごくハッピーだよね」
そうかしらね。
「だから、ママももっと、ウィータビクスにおさとうかけてみるといいよ!」
——ダメです。朝のシリアルにお砂糖をかけていいのは誕生日と、お休みの最初の日だけよ。
「知ってるよー」
ぷくっと頰を膨らませて彼は「ムギばたけ〜」と呟く。
ウィータビクスの箱は実った麦の穂をイメージさせる黄色だ。薄く麦の穂が描かれている。
「麦畑の中を走り抜けるのはnaughty(おイタ・悪いこと)なんだよね」
私は思わず笑ってしまう。
……あなた誰からそれ、聞いたの。
一ヶ月ほど前、2017年6月に総選挙が開かれた。
必要のない総選挙だった。
次回の選挙は順当にいけば2020年だったはずで、それをこのタイミングにわざわざ持ってきたのは、首相テリーザ・メイが、EU離脱に備えて自分のポジションを盤石なものにするためだ。
保守党のスローガンはStrong and Stable (強くて安定した)
それに対して労働党は For the Many, Not the Few (選ばれた少数のためではなく、多くの人のために)
メイには、勝算があったはずだ。
労働党を率いる党首ジェレミー・コービンはイギリス政治の中心となる中庸層にはすこぶる評判が悪い。高潔な人格者だという評判は高いものの、政策的にはサッチャー以前のイギリスに帰ろうとするような懐古的な気配があるからだ。
左派若者の圧倒的な支持は受けているものの、ある程度の年齢を超えた左派人口は概ね懐疑的だ。英国病のイギリスに戻すつもりか、というぼんやりとした違和感を抱かせる何かが、彼にはある。
「EU離脱を引き起こした保守党には腹がたつし、普通だったらここで投票先は労働党に切り替えるんだけど、コービンだけはやだ。絶対いや」
そんな声を私も何度か耳にした。
労働党のグダグダ具合に加えて、もう一つ。テリーザ・メイには強みがある。彼女はイングランド二人目の女性首相なのだ。
政治的に力を持つ女性は、しばしば一つの類型に押し込められる。
ヴィクトリア女王が即位する前には、彼女の名前をエリザベスに変えるべきではないか、という議論が真面目にされたし、エリザベス二世が即位した時には「第二のエリザベス朝」を祝う人々が幾度も幾度もエリザベス一世と二世を重ね合わせた。
イングランド最初の女性首相、マーガレット・サッチャーの服装はしばしば、驚くほどエリザベス二世を意識したものだ。
先駆者があまりにも少ないが故に、少ない類型に押し込まれてしまうのは権力を持つ女性にとっては残念ながら宿命に近い。
少しずつ変わりつつはある。そして数十年後はがらっとちがうのかもしれない。しかし、今のところは、まだ。
テリーザ・メイがStrong and Steady(強くて安定した)という言葉を発する時、多くのイギリス国民の念頭に浮かぶのは、いうまでもなく、鉄の女、マーガレット・サッチャーだ。
保守党の女神サッチャーの亡霊を背後に、サッチャー以前の政策を彷彿とさせるコービンを叩きのめす。彼女がセットアップしたのはそういう試合だ。
勝てないわけがない。
そして、それなのに。蓋を開けたらメイは負けたのだ。
いや、厳密に言えば負けていない。ただ大幅に議席を減らしただけだ。労働党は30議席を伸ばし、保守党は13減らした。保守党は自党だけで政権を維持することができなくなって、北アイルランドの民主統一党と手を組むことになった。自らの基盤を盤石にしようとして、かえって支持基盤を揺るがしたメイ。しかも、ブレグジットという難物が控えているこの局面で。
選挙運動の最中にジャーナリストが質問をした。
「今までにした一番naughtyなこと(悪いこと、悪いおイタ)はなんですか?」
メイは明らかにパニックする。
「……麦畑を、友達と突っ切って走ったことがあるわ。お百姓さんは怒ったんじゃないかしら」
視聴者の反応は、この短い動画には出てこない。
けれど、冷笑を含んだ「へえええ」という反応はこの後ずっと彼女を取り巻くことになる。「あんな政策を進めて、それで今までにやった一番悪いことは麦畑を走ったことなんだー?」
下の子がどこでそれを耳にしたのかはわからないけれど、2017年7月。麦畑といったら、テリーザ・メイだし、テリーザ・メイといったら、麦畑を走った女だ。
「……あれ、ママ、それ食べ物じゃないよ」
私が生理用品をカゴに入れたことに気づいた下の子供が首を傾げる。
そうね。これは食べ物じゃないけれど、必要なものだから、これも寄付しましょう。
「ふうん?」
下の子の興味はすぐに他にうつる。なにせ彼にはゼリーの味を選ぶという大仕事が待っている。
——首相に質問です。保守党は女性のために一体どのような施策を考えているのですか?
随分前にみた国会答弁でのメイとコービンのやりとりを思い出す。
——保守党が女性のために何をするのかですって? 保守党はね、私を党首に選んだの。
そうだそうだ、と声があがり、失笑も漏れた。労働党の一部には強く男性中心的な文化があり、労働党の党首に女性がなるのはきわめて難しい——それがどの程度当たっているのかはわからないけれど、そういうイメージがある。そして事実、今に到るまで、労働党は一度も女性によって率いられたことがない。それは労働党の弱点だ。
対して保守党は、これが2人目の女性党首。能力のある女性ならばその力は発揮できるのだと、はっきり党として示した形だ。
その時、コービンがなんと言ったのかは私の記憶にはない。すごすごと引き下がったような気もする。
けれど。
保守党の緊縮財政と生活保護のカットのせいで、日々の食事にすら困りフードバンクに頼らなければならない人の数はこの数年で30倍に跳ね上がった。
食料のような人前で口にしやすい不足の背後で、もう一つ、ひっそりと、しかし確実に進行したのが、生理用品を買えない少女たちの増大だ。
生理用品は、ある程度の年齢の女性にもれなく襲いかかってくる固定支出だ。
現代の日本だったら個人差があるにしても毎月1500円から2000円ぐらいだろうか。私が見ている限りイギリスの方が値段はやや高いから、最低でも月2000から3000円ぐらいは確実にかかる。鎮痛剤や下着の替えを含まずに、だ。
慎ましやかながらも仕事がある私にとっては大した金額ではない。
でも。
食事を買うことすらできない困窮状態にある家庭にとってはとても辛い出費だ。
現在イギリスで、「生理用品が買えないために学校を休んだことのある少女」は約10人に1人。人数にして14万人とも言われる。「買うためのやりくりに苦労したことがある」と答えた少女は7人に1人だ。
ただでさえ、貧困はとてもパーソナルな話で相談がしにくい上に、生理にはどうしてもタブーが付いて回る。「こんなこと他人に相談できない」と思ってしまいがちなトピックだ。
結果、学校を休む。
休むだろう。12歳や13歳ぐらいから17歳ぐらいまでの、ちょうど異性の目が気になり始めるくらいの時期に、生理用品がないのだ。ただでさえ自分の体の急激な変化に戸惑いがちな時期だ。学校に行けるわけがない。
自分がその年齢だった頃、母親以外の誰かに相談できただろうかといえば、おそらくできなかっただろうと思う。しかし、家族揃ってお金がないときに、どうしてそんなことを親に言い出せるだろう。
外に出ず、家の中にいるにしても相当つらいだろう。
バスルームで呆然とする少女たちの様子がリアルに想像できるし、考えるだけで胸がキリキリする。学校を休むことで貧困が連鎖しそうなのも、ごく控えめに言って「心配」だ。
「今までにした一番悪いことは麦畑を突っ切ったことで、保守党が女性のためにできることは自分を首相にしたこと——ですか」
ごめん。メイ。
私が見ている女性の権利はあなたが見ているものとは全然違うものみたいよ。14万人の少女たちが学校を休んでバスルームで呆然としている時に「私が首相になったことこそ女性の地位の躍進の印」と胸を張る女性首相を、私にはどうしても評価することができない。
百歩譲って、ブレグジットという難局を、力強く引っ張っていってくれるなら、仕方がないか、とは思っていたけれど——
わざわざ選挙を仕掛けた上で、負けてるし……
「麦畑だもんね!」
どうやらこのセリフをいうともれなく大人たちが笑うと学習してしまった下の子がニコニコ私を見上げる。
「……麦畑だけじゃ寂しいから、ゼリーもつけましょう。どの味が美味しいかな」
気を取り直して私は微笑みかける。
「ぼくね、イチゴ味が美味しいと思うの。でもひとつじゃなくて、みっつある方がいいと思う」
会計を終えた先にはフードバンク寄付用の大きな箱。食品を入れに行ったらすでに箱は半分埋まっていた。甘いお菓子もかなり入っている。そして、生理用品も。
どうやら考えることは皆同じだったようだ。
もうすぐ夏休み。
私たちが今、幸せだからこそ、感謝を込めてお裾分けをして、私と下の子はスーパーを出る。フードバンクに頼らなくてはならない全ての人たちが、人としての尊厳を削られずにすみますように。ごはんのことだけでも心配せずに夏休みを過ごせますように。
そして。
夏休み明け、1人でも多くの少女が心配せずに学校にいけますように。
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テリーザ・メイがした「一番悪いおイタ」の動画はこちら
https://www.youtube.com/watch?v=3WcORVUNqx4
Period Povertyに関する調査結果はこちら。
https://plan-uk.org/media-centre/plan-international-uks-research-on-period-poverty-and-stigma
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