第5話  レタスサンドイッチ 2016年11月

「……まずい」

 思わず日本語で口に出た。


 イギリス暮らしもある程度たつと、観光客のようにまずい食事に当たることなど、ほぼなくなる。きちんとカンが働いてそこそこ美味しい店に行くようになるし、店の買い物も上手く選べるようになる。

 コツがわかればイギリスは結構美味しい国だ。この10年くらいでレベルもものすごく上がっているし。

 それでもこのサンドイッチはまずい。

 病院の売店で売れ残っていたのだから当然と言えば当然なのだけれど。


 パサパサに乾いてしまったパンと申し訳程度のレタス。それにチーズ。

 野菜が欲しくて見回したけれど、ちぎったレタスにプチトマトが一つというなんとも侘びしい「サラダ」しか、午後3時の売店には残っていなかった。

 他に売店にあったのはビスケットとチョコレート。ソーセージロール。ポテチにおつまみサラミ。食べ続けたら生活習慣病まっしぐらだ。何より食指が動かない。

 そういうわけで、私は今、もそもそとサンドイッチを食べながら、下の子の寝顔を見ている。落ち着いて眠っているようで、良かった。熱い紅茶をすすると携帯にメッセージが入った。

 ――仕事が終わったらすぐに行く。欲しいもの、ある?

 夫だ。

 ――おいしい夕ご飯、私の着替え、机の上に置いてある本とノートもお願いできる? 

 ——了解。夕ご飯のリクエストは?

 ——野菜。あと炭水化物以外だったらなんでも……!

 入力する手に力がこもる。夕食もこれだったら私の方が参ってしまう。下手したら、長丁場になりそうだし。



 2016年11月。

 かなり時間をかけてようやくマニュアル免許を取得した次の週に、子供が熱を出した。

 イギリスの医療制度は基本的に国営で、無料だ。

 まずはGP (General Practitioner 総合診療医)という地元のお医者さんに行き、そこで必要があったらそれぞれの専門医のいる「病院」へ送られる。中耳炎だろうが肺がんだろうが、最初はGPが判断してくれる。

 ちょっとした風邪ぐらいだったら、自分で家で寝て休みなさい、というスタンスで、とにかく必要がない薬は処方してくれない。日本人の妊婦さんが「なんか不安だからもっとエコーをしてほしい」と出かけて行ったら怒られた、なんて逸話がある。私が上の子を産んだ時にはエコーは1回だった。

 当然だ。病院へいく私たちは「お客様」でも「患者様」でもなく、「コミュニティの一員として責任を持ってNHSを利用する」ことが求められているのだ。必要もないのに出かけて行って、限られたリソースを浪費させてはいけない。

 実際全ての医療行為に費用対効果の計算がされているんじゃないかと思う。

 NHSは、どれほど貧しい人であっても、人間としての尊厳を保てるよう作られたシステムで、問題は多くあるものの、今でもイギリス政治の聖域だ。2012年、ロンドンオリンピックの開会式でも、大きな位置をしめた。子供病棟でハリー・ポッターの悪役ヴォルデモートに怯える子供たちを救いに32人のメアリー・ポピンズが訪れ、NHSの名前が大きくアリーナに示されたのだ。

 NHSは単なる医療システムではない。第二次大戦後のイギリス人たちの誇りであり、良心の象徴でもある。ハリー・ポッターとメアリー・ポピンズに並ぶくらいに。



 そんなわけで子供の風邪くらいで病院に送られることは普通ないのだけれど、下の子供は幼くして大病を患っているから、自然とお医者さんたちも慎重になる。当然親である私も。

 朝行ったGPで、病院に行くよう言われ、免許取り立ての私が、ハラハラ運転してたどり着いたのが、この一帯の病人を一括して診る病院だ。ヨークシャーに引っ越ししてから何度来たことか。自分で運転して来たのは初めてだけど。


 

 GPから、病院へ直行。入院手続きを終わらせて、与えられたベッドで子供を着替えさせたのが午前10時ごろ。お医者さんが回ってきて診察が受けられたのは数時間後、だ。子供病室だから、遊戯室や教室もあるけれど、子供は飽きる。ひっきりなしにお話をしたり、本を読んだり、手遊びをしたり。「念のため」と子供のパジャマや充電器、歯ブラシや着替えを詰めておいた自分を褒めたい。

 子供には給食があるけれど、付添の大人にはない。飽きて心細げにしている子供を置いて昼食を買いに行く気にもなれず、眠るまで待っていたら、変な時間になってしまった。食堂はとうに閉まっている。


 結果が、まずいサンドイッチだ。


 随分待ちはしたものの診察を受けた。今晩は何があってもすぐに対応してもらえる。そう、思ったら、いきなり疲れが出た。

 付き添いの親が座っている椅子は、夜になると仮眠用の小さなベッドに変わる。子供が眠っているうちに少し歩こう、と、私は病室を出る。



 リーマンショックは、イギリスの経済にも大きな打撃を与えた。

 労働党政権が選挙に負け、保守党と自由民主党との連立内閣ができた頃には、イギリス政府は大きな借金を抱えていた。保守党のデイビッド・キャメロン首相は国の借金を減らすため、大胆な緊縮財政を敷いた。教育とNHSは別扱いにする、と宣言したものの、すべての公的支出を25%削減。公務員の給与は凍結、削減され、地方自治体は悲鳴をあげた。私の住む地域ではこの期間に生ゴミの収集が週一度から二週間に一度に減り、公立セカンダリースクール(中学校のようなもの)が親から100ポンド(約1万5千円)単位での寄付を募るようになっている。

 一番手を入れられたのは生活保護関係で、フードバンク(市民が善意で寄付した食品を貧困層に支給するチャリティ)の利用者は跳ね上がった。最大手のトラッセル・トラストが2009年から2010年までに配給した食事パックは4万個前後。2016年から2017年までには120万個だ。

 NHSは別扱い、とは言われたものの、十分な資金が行き渡っていないのは見て取れる。ボランティアが必死で病院の環境をよくしようとしているのも。

 レタスサンドイッチしか見つからないしょぼい売店も、売り子さんはボランティアだ。無償でコーヒーを淹れ、収益を病院に渡している。国からの補助金がどんどん干上がっていく中、古本を集めて売却棚にならべ、売り子として無償で売店にたち、地域の人たちは必死でこのシステムを動かそうとしている。医師も、看護師も、病院で働く人たちは人員の少なさと資金の少なさに喘ぎながらベストを尽くしてくれている。だから、診察を数時間待っても、私には文句をいう気は起きない。きっと、うちの子よりも急を要する子供がいるのだ。

 だから、待つ。

 うちの子供が急を要する事態になったら、今度は他の子供の親が待ってくれるだろう。何時間か、文句も言わず、まずいレタスサンドを食べながら。




 EU離脱が国民投票で決まって5ヶ月。

 離脱派のキャンペーンがふと、頭の中をよぎる。


「イギリスからEUへは毎週3億5千万ポンド(約510億円)が送られています。私たちだったら、それをNHSに送りたいと思うのです」



 これに加えて、イギリスほど福祉の充実していない東欧から高い医療を受けるために移民がやってきている、という危機感。真偽のほどは別として。

 移民がやってきて人口が増えるのであれば学校も病院も、充実させなければどこかに破綻がくるのに、この国は過去数年間、公的支出を抑えることにやっきになっていたのだ。急速に人口が増えたのにインフラ整備が追いつかず、ここよりも待ち時間が長い病院なんてざらにあるだろう。



 ——ドルマ(お米のブドウの葉巻き)とオリーブ、それに鶏肉のサテを買ったよ。


 夫から携帯にメッセージが入る。


 ——素晴らしい。あと、一口モッツァレラとドライトマトのサラダも!


 返事を書いている私の横を東欧なまりの看護師さんが同僚と話しながら通り過ぎる。そう。現在のNHSはヨーロッパからの働き手なしではおそらく回らない。彼ら、彼女たちは、医師として、看護師として、すでにイギリスの誇るNHSの一員だ。


 実際の離脱は3年後の2019年がめどだという。うまくいけばいいけど、と、私は足を早める。古本でも買ってこよう。今の私にできることは、ボランティアのシステムに小銭を落とすことぐらいだった。




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フードバンク関係の情報はここから

 https://fullfact.org/economy/how-many-people-use-food-banks/

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