第2話  オムレツ 2016年 6月

 上の子が卵の割りかたを覚えたのは4歳の頃だった。当時の私はフルタイムで仕事をしている忙しい母親で、なぜ、卵を割らせようとしたのかはあまり記憶にない。多分、ご飯が待てなくて機嫌が悪くなる子供の機嫌を取るためだったのだろう。失敗したら面倒なお片づけが発生する工程をよくも4歳児に任せたものだ。グッジョブ、昔の私。

 保育園から帰ってきて大慌てで夕食の時間をする時に、彼はしょっちゅう食卓に座って卵を割ってくれた。器用なもので、黄身を割ることも、殻が混ざることも最初の数回でなくなり、すぐに手早く綺麗に割るようになった。ちょっと目を離したら、10個ぐらい。

 卵を割るのは上手だったけれど、おしゃべりをしていると数を数える方がお留守になってしまうのだった。4歳児は。

 そのころの我が家の食卓には、そういうわけで連日親子丼やオムライスが並んだ。栄養バランスなんてしばらくどこかに行ってもらおう。食事の支度をしている間じゅう、静かにしてくれるんだったら、それだけで万々歳だ。働いている母親は、そのくらい忙しい。「こどもほうちょう」で切ってもらったやたら分厚いキュウリに醤油をかけただけの「サラダ」でも、子供がニコニコ食べるのであれば大ご馳走だ。




 時間を早送りして、上の子11歳。

 今、彼はキッチンのテーブルに座って、黙々と卵を割っている。今日の夕食は彼の当番なのだ。そして、当然といえば当然のことながら、私が卵割り英才教育を施した少年は、オムレツが得意料理になった。


「それにしてもたくさんあるね、卵」

「48個」

「ビル大伯父さん、また狩りに出かけたの」

「そうじゃないかなあ。じゃなかったら、狩猟場の農場主とお酒でも飲んだか」


 親戚のビル大伯父は雉猟だかウズラ猟だかが趣味で、狩猟場の地主である農場主と時々会っては、付き合いで大量に卵を買ってくる。70歳を超える夫婦二人で食べきれる量ではないので、育ち盛りの子供がいる我が家におすそ分けが回ってくる。卵だって安くはないのでありがたいことこの上ない。放し飼いの、地元の農場で取れた優良卵。



 「そういえば、動物愛護卵の件、判決が出たね」

 並行してサラダをこしらえていた私はふと、思い出す。いや、動物愛護卵の件、と言ったらおそらくフェアではないのかな。企業は把握していなかったと言っているし。

 けれど、イギリスの報道は常に、その事件の被害者が、放し飼いの、もっともよく知られたブランド卵を売り出している企業の農場で働いていたことに触れていた。

「動物愛護卵? なにそれ」

「リトアニアから人身売買で連れてこられて、放し飼いの農場で奴隷労働させられていた件——君は覚えていないかなあ。発覚したのが2012年だったから」

「4年も前じゃん。そんな昔のことわからないよ」

 子供にとって数年前は大昔だ。

「確か、今日、判決がでて、それがイギリスの会社が損害賠償を命じられた史上初の判例だったんじゃないかな」



 2012年。警察が一軒の家を家宅捜索した。不潔きわまりない小さな家に住んでいたのは若い男たち。その多くが、おそらくは人身売買の被害者だった。

 快適な住居とまっとうな賃金を約束されて、「制服も支給されますよ」と着の身着のままでイギリスにやってきたリトアニアの若い男性たちがたどり着いたのは、ノミやシラミがうようよする不潔なマットレスが床にいくつも置かれただけの家。逃げようとして殴られて、そして気づく。英語が話せない彼らには、もしも逃げ出したとしても「逃げのびる」ことは極めて困難だと。

 「人間をコントロールするのは簡単なんです」と今朝見たニュースで被害を受けた青年は語っていた。イギリスに着いた時、19歳だったという。

「食べ物を渡さず、睡眠をコントロールし、お金も渡さない。そして殴る」

 放し飼い農場の鶏を捕まえるのは、何時間も立ちっぱなしのそれはきつい仕事で、身体的にもつらいし、実際に危ない仕事でもある、と彼はいう。糞まみれになり、鶏にひっかかれ、トイレのための休憩も許されず、転んだ仲間を助け起こそうとして殴られそうになったと。

 少し読み漁ると、出てくるわ出てくるわ、悲惨な話が。農場から農場への長距離バスでの移動にもトイレ休憩はなく、排泄のためにペットボトルとビニール袋を渡された。4ヶ月、ろくな睡眠時間も取らずに働かされて、渡されたのは20ポンド(約三千円)だった。

 その卵のブランドを私はよく知っている。別にブランドが人身売買をしていたわけではない。下請けの労働力斡旋会社に委託し、その会社がリトアニアのギャングから人を集めることで利益を得ていた、というそれだけのことだ。

 けれど、それはとてつもなくショッキングなニュースではあった。

「少しでも社会をよくするような買い物をしよう」と買う放し飼い卵が、奴隷労働によって家庭の食卓に届けられていたという事実。それもどこか遠い発展途上国でではなく、このイギリスでおおっぴらに行われていたという事実。

 今回の判決は確か初めてイギリスの会社が損害賠償を支払うよう命じられたケースだったはずだ。


「東欧からの人身売買ってここ数年ですごい勢いで増えているんだよね、確か」

「そうなの」

「EU内だから人を簡単に動かせるからだと思うんだけれど」

「母さんはEU離脱に反対なの」

「反対も賛成も、そもそも参政権ないじゃない、母さん」

「僕もないけど、反対だよ」

 上の子はそう言うとフライパンにバターを落とす。

「どうして今度の国民投票、16歳以上にしなかったのかな」


 イギリスの投票年齢は18歳。

 けれど数年前のスコットランド独立投票では、たしか義務教育を終了した16歳から投票が許されたはずだ。国の将来に関わる話なのだから、少しでも若い人に投票権を与えようとした時に、義務教育を終えた16歳が一つの区切りになった。

「だってさ、今、離脱に投票しそうな人ってお年寄りが一番多いんでしょ。僕たちの年代で離脱したい子なんて珍しいし」

「まあ、そこまでしなくても離脱はありえないから……じゃない?」

「でも最近の意識調査だと離脱派がどんどん追い上げてるよね」



 そう言いながら、上の子はオムレツを皿に並べていく。

「ちょっと待って、なんで君のだけスモークサーモンが多いの?!」

「こういうのをね、料理人の特権っていうんだよね」


いただきまーす。


上の子と下の子と、母親の夕食。2016年6月10日。 

EU離脱国民投票まであと13日。







****************

 この件に関してはものすごくたくさん情報があるのだけれど、主な情報源はこちら。

 https://www.theguardian.com/global-development/2016/mar/30/we-are-hopeful-now-brothers-freed-from-slavery-seek-british-policy-change

 https://www.theguardian.com/global-development/2016/jun/10/court-finds-uk-gangmaster-liable-for-modern-slavery-victims-kent-chicken-catching-eggs


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る