ブレグジットごはん
赤坂 パトリシア
第1話 いちご摘み 2016年 5月
「いちご摘みに行こう」
というような話になったのは5月のことだった。
イギリスのいちご摘みシーズンは5月から夏いっぱいだ。
土地が違えば旬が違うのも当然で、日本育ちの私は3月になるといちごが食べたくてそわそわするのだけれど、ちゃんとした地場物の美味しいいちごが食べたかったら、この国では5月まで待たなくちゃいけない。
いちごに砂糖をふりかけて、水がじゅわっと浸透圧で染み出してくる頃までそのまま待って、夏の木漏れ日の下で、生クリームをかけていただく。キリッとしたシャンペンがよく合う、19世紀の空気がなんとなく残る食べ方だ。
一番美味しいのがスコットランドのいちご。私の住むヨークシャーよりも北だから、あれが食べられるまでには、さらにずっと待たなくてはならないけれどね。
昔から、恋の始まりのシーンに、いちご摘みは定番だ。ジェーン・オースティンの『エマ』しかり、トマス・ハーディの『ダーヴァヴィル家のテス』しかり。
とはいえ、我が家がいちご摘みに行く理由はそんな素敵なものではなくて、子供二人をコンピュータからひきはなして多少なりとも日の光の下にほっぽり出すにはそのくらいの餌が必要だという、それだけのこと。
「えー」とか「めんどくさいよう」だとかそんな生意気な口をきくようになってきた上の子供をなだめすかし、お兄ちゃんの真似をしたがる下の子供をテンポ良い軽口でその気にさせ。大騒ぎで服を着替えさせ、サンドイッチを用意し、車に乗った頃にはすでに10時を回っていた。
あーもう。
いちご摘みはいかに朝一番にいちご畑に到着するかが鍵なのに!
そういって車のラジオをつけたところで、耳にタコができるくらい聞き飽きたディベートが流れ始めた。EUから離脱するべきかするべきではないか。
ここ数ヶ月、周囲の人間の話題は国民投票で持ちきりだ。
どう考えても、馬鹿げた政治的な動き、だからだ。
保守党内部の、一部陣営が現政権を攻撃するためにEUを問題にし始めた。首相デイビッド・キャメロンは彼らを「黙らせる」ために国民投票を行うことに同意した。1党内のいざこざを国民投票で解決しよう、という、ある意味傲慢な動きだけれど、彼には彼の勝算がある。
イギリス国民はどちらかといえば穏健で、比較的専門家の意見を尊重した投票行動をするからだ。そして専門家は一貫して「EU離脱は望ましくない」と言い続けてきている。70年代に同様の国民投票を行った時にはイギリス国民の多くはヨーロッパの一員であることを支持したのだった。
「まあ、離脱にはならないよね」
「ならないよなあ」
本当に離脱をしたいのであれば、国民投票は実はあまり良い方法ではない。
二大政党が代わる代わるに政権を取るこの国で、どちらかの党が離脱を支持し、どちらかの党が支持しないのであれば、話はスムーズだ。とりあえず国を引っ張っていくエンジン役の党そのものはすでに内部での話し合いを終えて一丸となっているし、それなりのビジョンもあるだろう。
けれど国民投票は別だ。
同じ党の内部が割れるし、国自体が党派や政治性をある意味無視した形で割れかねない。よほど勝てると思っていなければやらない賭けだろうと、私は思っているし、おそらく周囲の多くがそう思っているはずだ。ここのところの保守党のやり方には本当にうんざりするけれど、離脱はありえない。
いちご畑は、多言語の渦だった。
フランス語、ポーランド語、そしておそらくヒンズー語とウルドゥー語もあったはずだ。まあ、しゃべり言葉としては似たようなものなのだろうし、私にはまったくもって区別がつかないが。人種と階級の住み分けの激しいヨークシャーで、普段は白人中流階級ばかりに囲まれて暮らしていると気づかないけれど、近隣の町には「○○系イギリス人」が多く暮らしているのだった。
誰もが子供連れでのどかにめいめいの言語で話しながら歩いている。
「ねえねえ! こっち! こっちにまだいっぱいあるよ!」
下の子の英語訛りの日本語がそれに加わる。
「EUさあ……」
私と夫は子供達の後をゆっくりと追いかける。
「今、いちごだとか季節物の果物の収穫って、ほとんどEUからの出稼ぎ労働者に頼ってるじゃない? もしも離脱しちゃったら、本気でいちごだとか、摘む人が足りなくなってスーパーに並ばなくなったりしないかなあ」
「……全部いちご摘み農場に変わるかもね」
「農家は離脱支持が多いんだよね」
「一番季節労働者に頼ってるのにね」
ずっとイギリスで暮らしていくには到底足りないような賃金で、EUからの労働者たちは働いてくれる。国に持って帰ればそれなりのお金になるからだ。イギリス生まれの若い子にとっては全く割の合わない仕事で、到底この国でずっと暮らせるような金額ではないけれど。そして、本来だったら「人が集まらないから上げなければならない」、となる賃金が上がらないことの影響はゆっくりと、おそらくこの国には出ているのだろうけれど。
「まあ、でも、あれだね。いちご狩りに来ても、摘んでるのはみんな移民だよね」
夫が言って、私は思わず笑ってしまう。
——本当だ!
出足が遅かったにもかかわらず、子供達はものすごい勢いでいちごを大量に摘んだ。
そして、そのあと二日ほど、私たちはいちごを食べながらEU離脱について話すことになったのだった。
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