第3話  バナナ 2012年 夏


「バナナは持った?」


 2012年夏。東京。

 一歳児を連れての移動に備えて私達はバタバタしている。幼い子供を連れての都内の移動は大変だ。お腹をすかせてぐずらないよう、バナナと赤ちゃんせんべい、麦茶あたりが必需品。

 地味に粉ミルクとお湯がかさばる。イギリスにあったみたいな液体ミルクがあればいいのに。


「色よし! 形よし! EUも文句を言わない優良バナナ!」

「おいおい、やめなよ……」

 夫が苦笑する。……確かに品のないジョークだった。やや反省する。



 EUがバナナの形に規則を作った! というのは代表的な「EU神話(euromyth) 」だ。

 EU 神話とは、EUが「きわめて馬鹿げた」規則をたくさん作っている、という神話で、「バナナがまっすぐでないとならないという規則」は、その代表格にあたる。

 多くの噂と同様、ある程度の真実は含んでおり、元となる規則はCommission Regulation (EC) No. 2257/94。各国で異なっていたバナナの等級づけを統一しようというものだった、と私は理解している。

 さほど奇妙な規則ではない。人とモノの動きをスムーズにするにはある程度の規格化が必要だ。

 けれど「異常な曲がり方をしているバナナ」に言及したこの規則はイギリスの一部メディアによって「曲がったバナナ法案」とあだ名をつけられ、長いことイギリス人にとってジョークの種であり続けた。それこそ1994年だか1995年だかそのあたりから。


 EU神話は多岐に渡っている。

「ダブルデッカーバスを禁止しようとしている」「バーの女の子が胸の谷間を見せるのを禁止しようとしている」「コンドームをヨーロピアンサイズに統一しようとしている」「魚を学名で呼ぶよう規制を作ろうとしている。ラテン語がわからないとフィッシュアンドチップス店で注文できなくなる」等々。

 最後の方には「なんの大喜利?」というか、お口がポカーンなものが並ぶ。そもそもダブルデッカーバス案件はバスの安全性に関する規則で、地域の多様性を認めつつ、シートベルトを推奨したものだと思うし、胸の谷間案件は、皮膚ガン予防の見地から、雇用者は労働者に屋外での肌の露出を強要できないというような、そんな感じのものだったと思う。

 そりゃあ、まあ、胸の谷間も隠れるだろうけどさ。男も女も。

 EU神話は、まさに「そこそこ理性的な規制をいかに面白おかしく解釈するか」的なお遊び、だ。

 こうしたEU神話を初期から新聞に書き続けたジャーナリストがいる。ボリス・ジョンソンという。今はもう転職しちゃったけど。



 さて、ヨーロッパに出しても恥ずかしくない立派なバナナをかばんに入れた私達はイギリス大使館へと急ぐ。全く予定外だったけれど、急遽家族でイギリスに帰ることになったのだ。定年退職まで日本にいるだろうと思っていたのだけれど。

 だから、下の子のパスポートを作らなくてはならない。そして私の配偶者ビザも申請しなくては。

 申請の書類を入れた鞄に手をおいて、私はため息をつく。

「ねえ、あの規則、どう思う?」

「保守党は移民を減らそうとしてるからね」

「それにしても」

 昨夜埋めていた書類には、想像もしない文言があった。2週間後の日付と「この日付以降に受理された配偶者ビザ申請は、イギリス国内に18,600ポンド(約280万円)以上の収入があることが証明されない限り受諾されません」というような、そんな感じの。

「だって、あの金額……最低賃金でフルタイムで働いた際の年収を上回るよね?*」

「上回りそうだね」

「なにそれ。貧乏人は家族と暮らすなってこと?」

「ロンドンだと、多分最低賃金だと暮らせないんだよ」

「イギリスはロンドンだけじゃないでしょ」

 それに、ロンドンは賃金も高い。生活費もかかるけれど多分、あの年収に手が届く。

 下手したら、大変なのは物価も地価も安いけれど賃金も安いヨークシャーやウェールズじゃないだろうか。あるいは、賃金が安くなりがちな女性だとか、若手だとか……。




 ふと、夫が顔をあげた。

「あ。デイビッド。……帰れなくなった」

 デイビッドは夫の同僚だ。あと5年ほどで定年退職ではないだろうか。退職したら日本人の奥さんと一緒に、お母さんが住むケントの田舎に小さな家を買って暮らすんだと、確か、言っていた。日英カップルの常で、彼女は英語ができるが彼の日本語はお世辞にも上手とは言えない。そのうち、英語で暮らせるところに行きたい、と常々言っていた。


 ——だってさ、考えたくないけど、妻が倒れても日本語じゃ救急車を呼ぶのも大変だしなあ。


「……そうか。定年退職……」

 日本で働いてきた彼の職場年金は日本で支払われる。イギリス国内に、収入はない。

「お母さん調子が悪いから晩年は一緒にいてあげたいって言ってたね、確か」

「奥さんを置いて帰るか、仕事を見つけるか、お母さんとの晩年を諦めるか」

「なにそれ」

 言った途端に背筋を寒いものが走った。

 定年まで二人で日本で働いて、老後資金をため、退職したらこじんまりとした家をイギリスの田舎に買って二人で住む。

 それは私たちの将来設計ではなかったか。

 こんな法案が通ったなどと、私は全然気づかなかった。下手をしたら70歳前後で夫と別れるのか、どうするのか、という問題に直面しなくてはならなかったのかもしれないのだ。


「イギリス国民の異国籍の家族と暮らす権利にまで手をつけ始めたか……」

「かなり控えめに、上品に言って、クソだわね」

「……子供の前で罵り言葉を使わないっていうのが君のポリシーだと思ってたんだけど?」




 「移民を減らす」とお題目を掲げたところでEUから流入する人口は減らすことができない。

 となれば、EU以外からの移民を制限するしかない。


 それはわかっているが、お互いを大切に思っている家族を容赦なく引き裂くようなこんな法案が、よりにもよってイギリスで通ったこと自体が、ショッキングだ。

 インド、オーストラリア、フィリピン、アメリカ合衆国あたりがイギリスへの労働ビザ取得者の多い国であることを考えると、同時にこれはEUからの移民と歴史的にイギリスとのつながりの深い国からの移民のパイの取り合いでもある。

 ブラッドフォードあたりのムスリムコミュニティだと、年頃になるとパキスタンから婚約者がやってきて結婚……なんてケースもあるわけだけれど、これはつまり、「夫がやってきて→出産して→しばらく時短勤務で収入が減ったら夫はパキスタンに強制送還→母子家庭の出来上がり」みたいなシナリオではなかろうか?

 というよりも、こうして引き裂かれた家族が、何の縛りもなく東欧からやってきた移民を見たとき、いったいどんな感情が生まれるのだろう。

 息子が帰ってくるのを楽しみに待っていたデイヴィッドのお母さんは? 「ちょっと出稼ぎに行っただけ」と思っていた息子が、娘が、夫が、妻が、突然帰ってこれなくなったら?

 どう考えても嫌な予感しかない。



「なにこれ。めちゃくちゃじゃないの。誰よ、内務大臣は」

「知ってるでしょ」


 うん。知っている。


 2012年。内務大臣は女性だ。

 名前を、テリーザ・メイという。



 メイのばか。もう知らない。







 *ちなみにこの金額。2015年にフルタイム、パートタイムで働いているイギリスの労働者の4割近くが届かない年収である。

 https://migrationobservatory.ox.ac.uk/resources/reports/the-minimum-income-requirement-for-non-eea-family-members-in-the-uk-2/

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る