第4話 ダルスとアイスクリーム 2015年 8月
「これがダルス」
ぽん、と手のひらに乗せられた赤茶けた海藻は塩辛い。海から採って海水で洗ってそのまま乾燥させるのだとか。
イングランドでは見た事がないけれど、北アイルランドのアイスクリーム屋さんにはかなりの頻度で置いてある、と説明された。子供が小銭で買えるようなもので、昔の子供は、よくおやつ代わりに食べたのだという。
なんとなく塩昆布のような味。イングランド人たちは不思議な顔をするけれど、クリームあんみつの後に塩昆布を美味しくいただける私には平気。というよりもむしろ美味しい。たくさん買って帰ったら出汁がひけるんじゃないかな?
北アイルランドに行ったらモレリ(Morelli's)のアイスクリームを食べるべし、というのは曽祖母から伝えられた家訓である。有名なイタリア系移民の店で、とても美味しい。子供にとっては非常に嬉しい家訓だ。私にとっても。
日本人の知人は「イギリス」という一つの国があると思っていることが多く、時々説明に困るのだけれど、いわゆるUnited Kingdom(連合王国)はスコットランド、イングランド、ウェールズ、そして北アイルランドからなる4つの「国」の連合体だ。
ただし、これら4国の関係は対等ではない。
スコットランドとイングランドの関係は、まあ、比較的シンプルだ。生涯独身だった女王エリザベス一世に子供がいなかったため、イングランドの王位継承権も持っているスコットランド王が両国の王となった。ある意味、対等なパートナーと言えるかもしれない。ところが北アイルランドとウェールズは、話が違う。
イギリスの植民地だったといえば関係性がわかるかもしれない。詳しく話し始めるときりがないので、とりあえず、めちゃくちゃ単純にしておこう。
イングランドは、支配者であり、アイルランドは被支配者だった。
イングランドや、スコットランドからアイルランドへ入植した支配層はプロテスタント(キリスト教新教徒)であり、土着の人々はカソリック(キリスト教旧教徒)だ。
イギリスによるアイルランドの搾取や差別の酷さについては、これもまた、話し始めたらきりがない。
ある時期までのイギリスには「普通のイングランド人と、けちなスコットランド人、それに頭の周りの悪いアイルランド人」をネタにしたジョークが多くあった。そこにあったのは人種差別以外の何物でもない。極言すればアイルランド人はイングランド人と同じ人種だとは思われていなかったのだ。日本人は割と単純に「どっちも白人だよね?」と思うけれど。
まあ、遠い国から来た人間には見分けがつかないグループが、当人たちにとってはとても重要な違いを持っているなんて、ままあることだ。日本だってそうだよね。
20世紀の頭にアイルランドが戦いの末、(そして長年に渡る独立運動の末)独立を果たした時、プロテスタント人口の多い北アイルランドは、「イギリス」にとどまった。
アイルランド、という一つの大きな島に、精米したお米の胚芽部分のように、北アイルランドだけが違う色で残っている。そこに住むカソリックの人々は、当然、自分たちの国を取り戻したい、と願った。イギリスから国土を取り戻し、アイルランド島を一つの国としてまとめ上げたい、と。
けれど、問題は、何代もそこに住んだプロテスタント人口にとっても、北アイルランドは「故郷」であり、なおかつ彼らの中には、自分たちの「故郷」はイギリスの一部でなくてはならない、と強く感じている者がいた、ということだ。
もちろん、仲良く共存したい住民も多かった。けれど、一部が、先鋭化した。カソリックもプロテスタントも。
住んでいる地域から、行く学校、子供の名前に至るまで、カソリックなのかプロテスタントなのかは北アイルランドに住む人々の生活を規定する。「パトリック」という名前の男の子がプロテスタントであることはまずないし、同様に「ウィリアム」というカソリックの男の子もまずいないだろう。
住民の対立はどんどん激化し、テロリズムに発展する。1969年、アイルランド共和軍暫定派 (PIRAが正式だけれど、私たちは普通日常会話ではIRAと呼ぶ)が成立した。1969年から2010年までの間の死者数は3568人。そのうち一般市民は1879名。もちろんIRAだけでなく、プロテスタント側の過激派(アルスター義勇軍 UVF 1966年成立)も相当な暴力をふるった。気が滅入るから個々の例はあげないけど。
こんなふうに説明すると「宗教対立ってすごいね」と日本の友人はいうのだけれど、話はそれほど簡単でもない。一時期の北アイルランドを風刺するジョークにこんなものがある。
ベルファストで一人の男がタクシーに乗った。
タクシーの運転手が男に尋ねた。
「お客さんはカソリックですか、プロテスタントですか?」
「僕はムスリム(イスラム教徒)だよ」と、客は答えた。
「そうですか」
運転手はしばらく無言で車を走らせる。
やがて、運転手は再び尋ねた。
「で、お客さんはカソリックのムスリムですか? それともプロテスタントのムスリムですか?」
「カソリック」や「プロテスタント」はすでに、北アイルランドではキリスト教の教派であるだけではなく、二つの対立する部族の名前として機能していた、ということだ。「カソリックのイスラム教徒」のような奇妙な概念を口にしてしまう市井の人がいてもおかしくないな、と、誰もが思ってしまうくらいには。
ということで2015年夏。
私たちは北アイルランドにいる。
ごたごたした歴史を持つ北アイルランドは我が家の子供達にとってはルーツの一つだ。2005年に平和が訪れて10年。一昔前だったら子供を連れて観光に行けるなんて思いもしなかった。
「ねえねえ、ママ、バスに乗ろうよ!」
下の子供が大興奮でねだる。ダブルデッカーバスが大好きなのだ。
長距離を歩けない小さな子供がいる時に、観光バスはありがたい。都市の見どころを解説付きで見せてくれるし。
観光バスはほぼ貸切状態で、人の良さそうな小太りのおじさまガイドが、客の顔色を見ながら解説をしてくれる。
話はどうしても暴力に翻弄された20世紀の話に戻る。
なんども、なんども。
「今のベルファストにはガラス張りの高層ビルが建っているでしょう。こんなの、爆弾が仕掛けられなくなったから初めて建てられるようになったんですよ」
「カソリックなのか、プロテスタントなのか、子供の学校の制服でわかるでしょう。狙撃されたりしたんですよね。子供が」
おいおいおいおい。
やめてくれ。
子持ちの母親は、子持ちの野生動物と同じくらい気がたっているんだ。子供の制服を標的になんて聞いたらそれだけでアドレナリンが体内大量放出だ。
頭を抱えていると、隣から上の子供が肘でつついてきた。
「母さん、アイルランド関係のテロ、見たり聞いたりしたことあるの?」
「そりゃあ、あるわよ。母さんが初めてイギリスに来た頃は、テロって言ったら基本的にIRA関係だったもの」
「イスラムじゃなくて?」
「イスラムじゃなくて」
「見たことあるの?」
「住んでる街で爆弾が見つかったことなら何度か」
幸い被害者は出なかったけど。私もよく利用する書店に仕掛けられていた。
ニューヨークで同時多発テロが起き、「テロリストの資金源になっている国を爆撃する」と当時の大統領だったジョージ・ブッシュが発言した時、周囲の友人は「その論理でいくと、イギリスはアメリカを爆撃しなくちゃいけないんですけど……」と呟いていた。
その頃はまだ、テロといったらアイルランド関係だった。IRAの募金箱には「虐げられた同胞に」とアイルランド系米人が気前よく硬貨をおとしていくんだよね、と、彼らは怪訝な顔をする私に教えてくれた。
「本当に平和というのは、すばらしいことです。北アイルランドを見限って出て行った子供達が帰ってこれる。経済だって頑張ればどんどん上向きにさせていくことができる……」
ガイドさんは続けている。
「よかったねえ」
下の子が私を見上げる。まだ4歳。難しい話はわからないだろうと思っていたのだけれど、なんか声のトーンに反応しているのかな。
「ほんとにね!」
私は彼を抱きしめる。
私は知っている。
確かに大規模なテロ事件こそなくなったものの、カトリック系の住民とプロテスタント系住民の小競り合いや殺傷事件がなくなったわけではないことを。地方新聞を買えば、住民が殺害されたというニュースが載っている。まだまだ火種は消えたわけではないし、何か一歩間違えてしまったら、子供の学校の制服を標的に狙撃するような人間が現れてしまうかもしれない、その中で、多くの住民たちが必死で平和を保とうとしている。ここは、そういう土地なのだということを。
「ねえ、また来ようよ! またモレリでアイスクリーム食べようよ」
上の子が言う。
「ママもダルス食べていいからさ!」
え……なんで私だけ海藻なの?!
「次に来た時には僕、チョコレート味の、食べるんだ……」
「ちょっと待ってよ、EU離脱って……。ひょっとして、アイルランドと北アイルランドの間にEUの境界線ができるってこと……? 過激派刺激しまくりじゃない……?」
朝起きてニュースをつけて私が真っ青になるのは約10ヶ月先。
「君たちは、アイスクリーム。ママはアイスとダルス両方食べます!」
笑って子供達を抱きしめながら観光バスで宣言している私は、まだそのことを知らない。
追記*********************
(資料は基本英語)
IRAについて。
https://www.britannica.com/topic/Irish-Republican-Army
死者数は以下から。
https://docs.google.com/spreadsheets/d/1hRidYe3-avd7gvlZWVi1YZB7QY6dKhekPS1I1kbFTnY/edit#gid=0
私が北アイルランドを訪れた2015年の北アイルランド関係の死者。平和になったとされているけれど、それでも死者は出ている。
https://cain.ulster.ac.uk/issues/violence/deaths2015draft.htm
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