第7話  山羊肉のカレー 2018年8月

「あ、この匂い」

 思わず夫と目をあわせると、苦笑まじりに頷かれた。

「吸ってるね」


 タバコのようだけれどお香の匂いが混じったような甘いような……詳しくはないけれど、この匂いは十中八九マリファナだ。時々うちの街でもこの匂いがすることがある。夏場、観光客がよくくる時期に、特に人気のない森のあたりで。

 ほとんどの場合、無害だけれど、リスクは把握しておいた方がいい。

 とはいえ。

 周囲を見回して、思わず笑ってしまう。

 踊るように歩いているたっぷりプラスサイズの黒人のおばあちゃん。風船を飛ばしてしまって泣いている小さな子供。

 ──これは多分大丈夫。とりあえず子供の手はしっかり握っておこう。



 2018年8月。夏休みも終わりそうなこの時期に私たちは家族で西インド系移民のカーニバルにきている。電車で30分。たどり着いた先の大きな公園は家族づれでごった返している。大音量のカリブ系音楽と、ラム酒やカリブ地域の料理を売る出店。

 8月とはいえ、セーターが必要な肌寒さのヨークシャーの真夏に、やたら露出の高いカーニバル衣装で歩き回る女性たち。みなさん、たっぷりとボリュームがあって、セクシーでありつつ、存在感が圧倒的だ。

 小さな子供も、もちろんいる。がたいのいいお父さんが肩車をして歩いている。公園にいる人たちの多くが、おそらくは西インド諸島系の黒人だが、もちろん白人もいるし、ヒジャブをかぶったムスリム女性も何人か。露出度バッチリのカリブの女たちのすぐ横を身体中真っ黒な布で覆った女性が通っていく。私たちのような極東アジア系の顔もちらほらと。

 すぐそばにいる家族と話をするにも大声を張り上げなくてはならないようなビートのきいた大音量の音楽の中、家族の昼食を買いに派遣されたのは私だ。


 山羊肉のカレー。

 魚のフライ。

 ココナッツのケーキ。

 どれもスパイスが効いている。上の子供は問題なく食べられそうだけれど7歳の下の子供の食べられるものを見つくろうのは少し大変かもしれない。


 プランテーン(緑の食事用バナナ)のフライの他に、いくつか見つくろって帰ると、中央の囲いの中にはすでに仮装をした参加者たちが続々と集合している。ほとんどが黒人。イギリス全土から集まってくるのも当然と言えば当然で、この街のカーニバルはヨーロッパでももっとも歴史の古いものの一つだ。

 黒人は言われたことはこなせるが自分たちで色々と段取りをすることなどできない、と言われていた時代に、この街の黒人たちは大きなカーニバルを組織し、成功させてみせた。


 ほとんど黒人ばかりの演技者の中に、数人、1940年代か50年代の仮装をした白人女性を見かける。とても目だつ。手にした小道具のトランクにはWindrush Bacchanalと書いてあった。

「ウィンドラッシュだって……」

 思わず呟くと「今の時期だからね」と夫も全く同じことを考えていたようで頷く。



 内務大臣時代のテリーザ・メイは「不法移民が住みにくい環境を」と「敵対的環境」政策を打ち出した。

 聞こえはいい。というか、少なくとも、悪くはない。

 この国にいる不法移民にとって、住みにくい環境をイギリス内に作ろうという考えは、おそらく静かな支持を得ていたのではないかと思う。

 けれど、実際にこの時期まで、内務省がやってきた施策には控えめに言っても問題があった。

 2013年には不法移民をターゲットに"GO HOME"とデカデカと書かれたトラックをロンドンに周回させた。不法移民を見つけるため、抜き打ちで駅で不審尋問をおこなったりもした。問題はそれが人種的な反感を煽るものであったことで、特に後者は有色人種のみをターゲットにしていると批判が集まった。

 いや、でも、まあ、そうだろうよ。と、有色人種である私は思う。

 どうみても白人である夫と、私のどちらが抜き打ちで調べられる可能性が高いかといったら普通に考えて私だろう。私は日本国籍だから、まあ納得のしようがなくもないが、イギリス国籍のエスニックマイノリティにとっては明らかな人種差別だ。別に法に触れたことをしているわけでもないのに、肌の色だけで呼び止められる。そんなことがあってたまるか。

 メイはその後、不法移民検挙の「ターゲット」を設定していたことが明らかになった。書類が不備な移民をどんどん検挙してターゲットを達成するべきだという空気を内務省内に醸成していったのは彼女の内務大臣としてのささやかな「成果」だ。

 そして、きわめつけが、最近メディアによってスクープされた「ウィンドラッシュ世代」スキャンダルだ。



 1948年。

 第二次大戦で国力をひどく落としたイギリスに、カリブ海から一艘の船がやってきた。『エンパイア・ウィンドラッシュ』号。そこには国策で招かれた802人の移民が乗っていた。

 ウィンドラッシュ世代、といえば、戦後の大規模黒人移民第一世代のことをさす。ウィンドラッシュ号の後も何度かにわたってカリブ諸国から渡英した。

 彼らは弱体化した戦後のイギリスの産業に労働力を提供し、現代イギリスの文化に大きな影響を及ぼした、ささやかな英雄たちだ。

 別に権力をもっているわけでもない。ごく普通の人たち。

 けれどいつだって、国を作るのはごく普通の人たちだ。

 結婚したりしなかったり。子供を育てたり育てなかったり。税金に文句を言い、病気を経験し、老いていき、人生の投げかけるささやかな荒波をなんとか乗り越えながら、法を遵守して暮らしていく。そんな私たちと同様、ウィンドラッシュの彼らも、現在のイギリスという国を作ってきた、欠かせない一員だ。


 ただし、問題があった。

 国籍法もパスポートの扱いも今よりもずっと緩かったその時代、親と共にイギリスに入ってきたウィンドラッシュ世代の子供たちの多くが国籍を証明する書類を持っていなかったのだ。

 1971年にはこうした人々に永住権が与えられた。しかし、当時のイギリス内務省はその記録を残しもしなければ、書類を発行もしなかった。


 それで問題はなかったのだ。

 少なくともある時期までは。


 2012年、私たちがイギリスに引っ越した頃、不法移民に対する締め付けはますます厳しくなっていた。きちんとした滞在許可の書類群を提示しなければ就労も、家の賃貸もできず、知らずに雇用した場合は雇用主、知らずに貸した場合には家主が罰せられることにもなった。

 何世代も合法的にイギリス国内に住み、暮らしてきたウィンドラッシュの子孫たちが、ひどい取り扱いをされることになったのはこのあたりからだ。


 数十年務めてきた職を突然解雇された。

 ガンの治療の最中に書類不備を理由に治療を突然中断された。

 親戚を訪ねてジャマイカへ行ったら、帰国時ロンドン、ヒースロー空港でいきなり入国を拒否された。家族はいまだイギリス国内。


 言っておくが、彼らに書類がなかったのは、彼らのせいではない。そもそもイギリス内務省が発行しなかったのだ。書類を請求しようにも、内務省が記録を取ってさえいなかったのであれば一体どうすれば良いというのか。

 生まれてからずっとイギリスで育ち、疑いもなく自分はイギリス市民だと信じていた第三世代など、パスポートの請求すらしたことがない人もいて、2012年以降に突然退去警告を受けて顔を青くした。追い討ちをかけるように、新たなスキャンダルも発覚した。

 第一世代のウィンドラッシュ移民の入国記録が内務省内で破棄されていたのだ。これでは祖父母の名前が明らかに証明されていても、書類の整えようさえない。

 つまり、とことん内務省の手落ちによって、ウィンドラッシュの子孫たちは、自らの居住の合法性を証明できなくなった。


 結果。少なくとも80人以上が不当に強制送還されている。強制「送還」とは言うものの、場合によっては送られた先は「一度も足を踏み入れたこともなければなんらつながりのない異国」だ。祖父母がそこから来ただけの、異国に、突然送られる。そんな体験をしたのが少なくとも80人。


 少なくとも、というのはイギリス内務省が、からだ。2018年の前半に報道されたこのスキャンダルは、イギリス人たちにとっては大きな衝撃だった。4月には当時の内相アンバー・ラッドが公式に謝罪。テリーザ・メイも謝罪をしている。



 その上で。この8月のカーニバルだ。スキャンダルのどまんなか。その上、ウィンドラッシュ号が到着してから70周年。今年のカーニバルがもりあがらないわけがない。大音量の音楽と、道を埋め尽くす人混み。公園の中にもどんどん人が流れ込んでくる。



 そんな中、少し早く到着した私たちは座る場所をちゃっかり確保して、ジャマイカ風山羊肉のカレーを食べている。めちゃくちゃ辛い上に様々なスパイスがツーンと鼻をぬける。美味しいのかと言われるとよくわからない。決してまずくはないのだけれど、私の知っている味覚の域をわずかに外れている。

 慣れたら病みつきになるのかもしれない。多分かなり本場の味付けだ。


「ウィンドラッシュの件さ」

 プランテーンのフライを分けながら私は言う。これはフライドポテトっぽい。

「ずっと前から知られていなかったわけがないよね」

「……ないだろうね」

 合法移民に対してもこの数年間の政策はひどかった。メディアが知らなかったとは思えない。そもそも問題を指摘したのはカリブの外交官で、国際問題の要素があるとはいえ。

「ブレグジットだよね」

「ブレグジットかもしれないな」

 EU離脱の国民投票のあと、イギリス国内の移民に対する感情は有意にした。

 投票直後こそ、人種差別的な言動が増えたものの、しばらくするとそれは落ち着いて、代わりに移民に対する感情が徐々によくなっていったのだ。

 東欧からの移民の多さはイギリス国民の移民やエスニックマイノリティに対する感情を明らかに悪化させていた。

「流入する移民に対してなんらかのコントロールが取れる」と思うようになったこの段階で、ようやく名も無い英雄ウィンドラッシュジェネレーションたちへのひどい仕打ちがクローズアップされるようになったのだ。

 まるで今までガチガチに体を硬くしていた人が、緊張をとき、ふう、とため息をついて、改めて周囲を見回すかのように。



 移民は後ろ手にドアを閉めたがる、とよく言われる。

 他の国に入り、必死で居場所を作り、認められるようになった古い移民にとって、どんどん流入する新しい移民は時に大きな問題を引き起こす。

 新しい国に自分が入り、一度地位を固めたら、ニューカマーは邪魔なのだ。

 だって、あらぬ被害を受けることになりかねない。ニューカマーにパニックした内務省の政策のせいで、家や職を失ってしまったウィンドラッシュの子孫たちのように。


 けれど。


「おお、あれだってよ。あのスーツケースの女の人はポーランド移民だって」

「え?」

「ウィンドラッシュ号にはソ連の強制収容所を逃げてきたポーランド人が66人乗ってたんだって。今年のカーニバルはポーランド系移民コミュニティを巻き込むことにしたみたいだね」

「知ってた?」

「知らなかった」

「ママ、ココナッツケーキちょうだい」

「ねえ、この魚のフライ、美味しいけど、ママ作れる?」

「やめて。どんなスパイスが入ってるのか想像もつかないよ……」



 自分では絶対に作れない料理と大音響の音楽。ラム酒と、そしてなにやら怪しい匂い。

 イギリスのエスニックマイノリティは、白人よりもずっと離脱に投票する率が低かった。オールドカマーとニューカマーの間には緊張がないわけではないのだろうけれど、それでもこうして、東欧の移民たちがカリブ系の祭りに参加する。

 この混沌の中、数多くの移民たちのグループが、それでもそれなりに共存しようとしていることが、なんだかひたすら嬉しいなあ、と私は思う。私の子供達がそうであるように、かれらもまた「イギリス人」なのだ。






 https://www.leedsbeckett.ac.uk/blogs/expert-opinion/2018/08/windrush-bacchanal/?fbclid=IwAR1H7x25Gh4z77lIiIbKDpTlcWqMcZj7tIw2UXh_xpbtYyFRO75HXjF7AqI


 https://www.theguardian.com/uk-news/2018/jun/22/the-other-windrush-generation-poles-reunited-after-fleeing-soviet-camps


 https://ukandeu.ac.uk/minority-ethnic-attitudes-and-the-2016-eu-referendum/

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