第3話

 シベリア上空に寒波が到来した夜、気圧が乱れていたせいか菜穂子は中々寝付けずにいた。夢と現を行ったり来たりしている内に、東の空がしらじらとして明けてくる。こうなると、もう眠る事は出来ない。仕方なく、けだるい体を起こした。


 今日はギャラリーの定休日だ。紅茶とフルーツ、それとバケットの朝食を、時間をかけて頂く。その後も、熱い紅茶を飲みながらぼんやりと過ごしてから、近くの産直市場に買い物に出かけた。自家菜園では収穫できない野菜や果物、美味しいと評判のジャムや花を買い、ゆっくりと人けの無い朝の商店街を歩く。


 産直市場から菜穂子の店舗兼自宅までは、通常なら歩いて十五分ほど。朝靄の中、ダウンジャケットを羽織りブーツを履いた菜穂子は、ゆっくりと歩いていた。タイツを履いていても、寒さで足元から震えがくる。 休みだというのに、いつもの癖でワンピースを着てきたことを後悔していた。しばらく歩くと、商店街の端にある二階建てのBARが見えて来た。麻耶の馴染みの店はここなのだろうか? そう思いながら店構えを見上げる。壁全体がグレーに塗られ、バンクシーに似たイラストがそこら中に描かれている。全体の色が統一されているから、不快ではない。それどころか、カッコいい店だ。


 店主は菜穂子と同世代の美大出身者だと、知り合いから聞かされた。店中の壁は極彩色に塗られているとも聞いている。自分と同じ経歴なのに、店の雰囲気はまるで違うのが面白いな……と、菜穂子は思う。


 菜穂子の店は、もともとは家族で住んでいた古い家を、業者に頼んで古民家風にリフォームしたものだ。母親は、菜穂子が高校3年生の冬に病気で亡くなった。その後、県外の大学を出てからは、ずっと一人暮らしを続けている。


 店は駅の近くに有るので、観光客が割とよく訪れてくれるのがありがたい。古民家風の外見は、とっつきやすいのか、女性客や年配の客に好評だ。店を構えてもう五年が経つが、売り上げは順調で、菜穂子は工房の器のちょっとした営業も行いながら店を切り盛りしている。




 菜穂子がBARを眺めていると、店のドアが開かれて男性が出て来た。なんと、麻耶だった……。両手を天に伸ばし、大きな欠伸をして、店の前に立っている。今日は麻耶も休みなのだろうか? えらくのんびりとした風情だ。やがて、目を丸くして突っ立っている菜穂子に気が付いて一瞬驚く。『内緒だよ』そんな悪戯っぽい表情で、人差し指を口元に立ててゆっくりと近づいてきた。


「おはよう! こんなに早くから買い物ですか?」


 気易く声を掛ける麻耶に、菜穂子も挨拶を返した。


「おはよう。産直市で花と果物を……」


 菜穂子が言い終わらない内に、麻耶は荷物を取り上げる。


「重そうだ、持ちます」


 いつもと同じように菜穂子の荷物を持ち、なんとなく二人並んで商店街を歩く。間がもたない気がして菜穂子の方から話しかけていた。


「今日は休み?」


「ええ。ここ十日ほど働きずめだったので、親方が休みをくれました。先輩たちは何んとかって言うアイドルのコンサートに行くんで、昨夜から張り切っていましたけど」


 苦笑する麻耶に菜穂子も倣う。


「それが彼らの唯一の楽しみだから。……天野さんは?」


「さあ、部屋でDVDでも見ていると思うけど。夕べ僕が出かける時には、暗がりでTVを付けて酒を飲んでたかな」


 そうすると、昨夜から外出した麻耶はあのBARで夜を明かしたのだろう。BARの店主は、美しい女性だ。菜穂子は何となく喉にモノがつまった様な感じがする。こもった咳をして、チラリと麻耶を見上げた。


そんな菜穂子の気配を微塵も感じないのか、麻耶はまた大きな欠伸をした。そして、並んで歩く菜穂子を欠伸の後の涙目で見つめる。




 俯いた菜穂子の白い首筋が今日は特に艶めかしく感じるのは何故だろう? 麻耶は歩きながらその答えを探していた。東南アジアのリゾート地みたいな色彩のBARで一晩中飲みあかし、終いには店内に置いてあったウクレレやマラカスを勝手に演奏する者が現れ、明け方まで残った数名の客と歌い踊り、めちゃくちゃ楽しくなってまた酒を飲んだ。バカ騒ぎし切った後は店内でそのまま雑魚寝をして、寒さで目覚めたという何ともカオスな夜だった。




 店を抜け出し、冬の朝の冷たさを心地よく感じながら固まった体を伸ばす。二十四時間営業のファストフード店を探そうと考えて顔を上げると、菜穂子が居た。


 昨夜のカオスなBARの客とは正反対な、その清楚な立ち姿を見て、麻耶の酔いは一気に醒めてしまった。


 ああそうか……東南アジアから一転、菜穂子の美貌は古風な日本そのものだ。古風なのに何故か少し影が有って乾いている。乾いていると感じるのは菜穂子のクールな表情の所為で、決して菜穂子が干からびていると言う意味ではない。


 人けの無い朝の街を、菜穂子と連れだって歩きながら、麻耶は何故か離れ難い気持ちになっていた。それは、テンションのオカシイ夜を過ごした所為なのかもしれなかったのだが……いつの間にか、自分でも思いもよらない事を口走っていた。




「菜穂子さんの店を見たいな……お邪魔しても?」


「えっ……」


 戸惑った菜穂子に、摩耶は少し傷つく。


「だめ?」


 背を屈めて相手の顔を覗き込んだ。この仕草で人にものを頼んで、今まで断られたことは皆無だ。この時点でも、麻耶には菜穂子とどうこうしたいと言う考えは全く無かったのだ。


「……どうぞ」


 拒否る理由が無い菜穂子は、麻耶を店に案内した。木戸の鍵を開けガラガラと戸を開けると、閉めていた白いカーテンをサッとひいた。




 店内はモダンな古民家と言う雰囲気で、白っぽい土壁が展示物をより上品に見せていた。


「風情がありますね」


 麻耶は満足そうに店内を見回し、気になる器や小物を眺めていた。菜穂子はコートを脱ぐと、アラジンのストーブに火を灯す。


「お茶を淹れるわね」


 そう言ってアイアンの椅子を勧めると、麻耶は立ったままで首を振った。


「奥も見たいな」


 請われるまま奥へ案内した菜穂子は、ソファーセットを置いてある事務所代わりの小部屋に麻耶を案内した。それに続くプライベート空間のキッチンに入ると、お茶を淹れる為に真っ黒な南部鉄の美しいヤカンを火にかけた。


 何故だか胸がザワザワと騒ぐ、そんな自分に戸惑いながらも麻耶が側に居る事が不快では無い。


 そんな菜穂子の気持ちを知ってか知らでか……狭いキッチンにも入って来た麻耶は、ゆっくりと中を見渡した。


 日常の食器や器具は全て扉付きの棚の中に仕舞われてる様で、飾られているのはストウヴの黒い小さめの鍋や、赤い南部鉄の茶器。茶葉を入れたガラスの保存容器など、美しいデザインの台所器具たち。




 ふと、流しの向いのカウンターに飾られた花が目に留まった。気泡の入ったアンティークのガラス瓶に刺された、枯れた花。触れたらカサカサと音のしそうな、枯れた白い紫陽花だった。


 花瓶の中には水は無い。元々枯れた花を挿したのか? それとも飾っている間に枯れたのか……。


 モノトーンのキッチンに、一つだけ赤い茶器、そして枯れた白い花…… 麻耶は菜穂子のセンスが心地よかった。だから、ぽろりと口から零れたのだ。




「全部が菜穂子さんの美意識で選ばれているんですね、好きだなこういうの」




 大柄な麻耶が入ると、キッチンはさらに狭く感じる。麻耶の言葉の返事を探しながら、菜穂子は急に息苦しさを感じた。そうか……心臓がバクバクと音を立てているのか……と、なんとなく他人事の様に感じながら、ぼんやりとヤカンから湯気が立ち昇るのを待っていた。


 俯いた菜穂子の首の小さい突起から麻耶は目が離せない。誰にでもある、その第七頸椎が特別に魅力的に映るのは何故なのか? 自分でも理解できないまま、自然と腕が動いて、菜穂子を後ろから柔らかく抱きしめた。


 体を背中から包む熱を感じて、急に菜穂子は現実に戻される。その腕の中でくるりと後ろを振り返った。両手で摩耶の胸を強く押すが、ビクともしない。


 曇りの無い笑顔で、菜穂子を見下ろす麻耶は本当に美しい。その顔を見上げて、菜穂子は強い調子で尋ねた。


「この腕は、何?」


 菜穂子に胸を押されて緩めた腕は、まだウエスト周りに留まっていた。腕の力を強めた摩耶を、菜穂子は強い視線で睨みつける。


「どう言うつもり?」


「……急に、菜穂子さんに触れたくなっちゃって」


「動物じゃあるまいし、その節操の無さは何?」


 笑顔で答える麻耶に、菜穂子は強い言葉を浴びせる。摩耶の無作法を責めていると言うよりは、こうでもしないと、自制心が崩れてしまいそうだから。摩耶に惹かれてしまう、自分の内心を知られたくない。そんな、菜穂子のタテマエを笑う様に、麻耶は耳元で囁いた。


「僕らは動物だよ。菜穂子さんも感じているんでしょ? ねえ……いやじゃないって顔をしてるけど」


「なっ……」


 頭では、怒りを伝えなくてはと思うのだけれど、それとは別の、理由の付かない感情が菜穂子を支配しようとしていた。更に引き寄せられて、麻耶のジーンズに包まれた腰に、菜穂子の細い腰が押し当てられる。そこから甘い衝動が体に広がった。


「僕、菜穂子さんとセックスしたいな」


「なっ……ば」


 バカなことを! そう言いたかったのに、何故か言葉が出てこない。口先だけの拒否など、麻耶には通用しない事に、菜穂子はようやく気が付いたのだった。


 背を屈め、なおも菜穂子の耳元で誘いの言葉を囁く。


「ねぇ、休みでしょ? 玄関の鍵を閉めてしまおうよ」


 首筋に柔らかいキスを落とされると、菜穂子は微かに体を震わせた。その瞬間を麻耶は見逃さない。そのキスが、菜穂子の唇を捉えるのは早かった。


「ぁ……」


 啄む様なキスを繰り返した後、舌がそろりと侵入して口腔を犯す。アルコール臭いキスなのに、なぜか不快では無い。それどころか、あまりの気持ち良さに菜穂子の喉からうめき声が漏れた。


「うっ、うんっ……」


 反射的に舌をひっこめると、麻耶が焦れた様に強く吸う。


「……っ、舌出して」


 言われるがまま引っ込めていた舌をソロソロと差し出すと、すぐに捉えられて絡まる。


「んっ、んん……」


 強く吸われ、唇がもっと密着する。互いの睫毛が絡み合うほどの近さで菜穂子は目を開けた。密集する麻耶の睫毛や、すこしだけ顰められた眉、全てが美しく、菜穂子は信じられない思いに陥る。


(嘘みたいに綺麗な男。こんな人と、どうして……?)


 閉じられた瞼が開き、互いの目が合った。菜穂子が『イケナイ』と思った瞬間、麻耶のキスは更に深まって、きつく抱きしめられた。急に舌をカチッと噛まれて、菜穂子は顔を離した。


「麻耶君っ」


「ふふっ、本気で噛まないよ。ちょっと甘噛みしただけ。菜穂子さんが目を開いて余裕だったから、つい。ね、鍵かけて……」


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Annabelle (アナベル)   連城寺のあ @lenor

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