言葉のない世界

koumoto

言葉のない世界

 初めは“おめでとう”だった。

 生まれた日を祝福される子どもの前に、ロウソクのさされたケーキが置かれる。火の揺らめきに照らされる、幸福そうな子どもの満たされた笑顔。それを見守る優しい両親、兄弟姉妹、友人たちの笑顔。そして見守る者たちが一斉に口を開き、祝いの言葉を口にしようとする。

「ツトムくん、お誕生日――」

 そこで、間の抜けた沈黙が辺りを覆った。子どもは訝しげに、周りの静止した人々を見まわす。両親も兄弟姉妹も友人たちも、一様に呆けた顔をして戸惑っている。

 お誕生日――はて、なんだったろうか? その続きの言葉が出てこない。台本に虫食いの穴が空いたかのように、そのお決まりの台詞が出てこない。みなはその空白につまずき、石化したように記憶をまさぐっていた。

 祝われるはずだった子どもは、時の止まったような異変にべそをかき、いつまでも目の前のケーキを食べられない歯がゆさに、お腹をくうくうと鳴らして泣いた。


 次は“ありがとう”だった。

 路地裏に連れ込まれ暴漢に襲われそうになっていた女性は、あまりの恐怖に叫ぶことも叶わず、夜闇に痛ましく震えていた。そこに颯爽と現れた、覆面をかぶった頼もしいヒーロー。暴漢を叩きのめし、昏倒させ、速やかに警察への連絡も済ませた。

「あ、あなたは一体……」

「なに、単なるアマチュアの正義の味方ですよ。傷つけられようとしている人々を、どうしても見過ごせないんです」

 覆面のヒーローはそう言って、これみよがしに立ち去ろうとする素振りを見せた。

「ま、待ってください! せめてお名前だけでも……」

「いえいえ、名乗るほどのものではありません。どこにでもいるありふれた、匿名の正義の味方ですから。あなたの安全こそが、私のなけなしの報酬です」

「ああ、なんて素敵な志でしょう! 危ないところを助けていただいて、本当に――」

 そこで、間の抜けた沈黙が路地裏を支配した。立ち去ろうとしつつもなかなか立ち去らないヒーローは、訝しげに女性を振り返った。女性は、ぽかんとした顔で戸惑っている。

 本当に――はて、なんだったろうか? その続きの言葉が出てこない。初舞台で頭が真っ白になった役者のように、そのお決まりの台詞が出てこない。女性はその空白に焦り、急き立てられるように記憶をまさぐっていた。

 感謝されるはずだった、実はなによりもその言葉を垂涎すいぜんしながら求めている、メサイア・コンプレックスを患った覆面の病者は、いつまでもお礼がやってこない寂しさに、隠された顔をひきつらせて泣いた。


 言葉はとめどなく消えていった。祝福の言葉が消え、感謝の言葉が消え、挨拶の言葉も消えていった。

 “こんにちは”を失った人々は、他人と顔を合わせると、凍りついたようなひとときの沈黙を交わし、その後に曖昧な会釈でお茶を濁した。“さようなら”を失った人々は、他人との別れ際に、口を半開きにして空虚な無言を放ち、諦めたように背を向けてそれぞれの帰路についた。

 世界からどんどん言葉が消えていった。人々は会話を失っていった。人々は声も文字も忘れていった。世界はとても静かになった。

 言葉が次々と死んでいく世界に、最初のうち人々は限りない絶望を抱いたが、その感情はまだ言葉が半端に残されているうちの、過渡期のものだった。やがて人々は無言の会話を交わし、無言の歌を歌い、無言の愛を囁くようになった。

 詩人は無言の詩を書き、作家は無言の物語を書いた。ニュースキャスターは無言でニュースを伝え、政治家は無言で演説を行った。

 言葉のない世界は、静寂が雪のように積もる、とても優しい世界だった。殺し合いが姿を消した、とても穏やかな世界だった。

 人々がもしも最初に失われた祝福の言葉を思い出せたとしたら、彼らはこう言ったのではないだろうか。

 言葉のない世界、おめでとう。争いのない世界、おめでとう。騒音のない世界、おめでとう。

 おめでとう、言葉のない人間たち。

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