たはむれに、溺死。

八島清聡

第1話 輪転する凶意



 その夜、私が帰宅したのは午前を回るころだった。

 連日残業続きの疲弊しきった体を引き摺るようにして、古びたアパートに入る。

 半ば機械的にポストに手を突っ込んで中を探ると、カサリと紙の音がした。

 引きだしてみると、それは「Invitation」と金で箔押しされた白の封筒だった。

 ……手紙? 字面だけ見れば、招待状のようにも見える。それともデザインの凝ったDMだろうか。宛名は確かに私だったので、訝しみながらも開けてみた。

 中には厚手のカードが入っていた。


「――おめでとうございます。このたび、あなたは当ギャラリーの専属モデルに選ばれました。美術史に残る素晴らしい絵画のモデルです。特別な案件につき、破格の報酬もご用意しております。橘木カホ様、ぜひともお引き受けいただきたくご連絡いたしました。つきましてはご都合のよい時に下記連絡先に……」


 一番下には、銀座にあるらしきギャラリー「ニーズヘッグ」と担当者の名前、電話番号が書いてあった。

 画廊らしきギャラリーや「絵画のモデル」という文字を見ても私は驚かなかった。

 美術の世界には多少なりとも縁がある。もしかしたら、大学の同窓会の名簿が出回ったのかもしれない。

「モデルね、モデル……」

 呟きながらカードを仕舞う。何よりも「破格の報酬」に惹かれた。

 お金は欲しい。なんでもいいから欲しい……。それが正直な感想だった。



 数日後の夜、私は銀座の画廊「ニーズヘッグ」の前にいた。

 一日悩んだものの結局電話をし、担当者にモデルの詳細を教えて欲しいと言ったところ、「では面接にて」と店に来るように言われてしまった。面接で双方合意すればその場で契約、万が一不採用になったとしても交通費の他に謝礼も出すという。

 いきなり面接なんて意外だけど、何せこれはモデルの募集。実際に会ってみたら、イメージと違ったのでキャンセル、なんてこともあるだろう。


 ドアを開けて入ると、中はシーンと静まり返っていた。インターフォンを押すと、しばらくして黒いスーツ姿の大柄な女性が出てきた。2メートル以上はありそうな……。自然と見上げる形になってしまう。

「初めまして、橘木さんですね。担当の大賀です」

 大賀さんはそう言ってにこやかに笑った。体はいかついけれど、人当たりはいい。

 彼女に案内されて奥の応接室に通された。


 応接室のソファに腰かけると、溜息混じりに大賀さんが言った。

「助かりますわ。近頃はモデルを募集してもなかなか集まらなくて。実は今回、絵を描くのは弊社のオーナーでして。本当は10代が良かったのですが、未成年は色々難しく。かといってお年を召した方ではねぇ……。20代の方にお願いということになって、橘木さんに白羽の矢がた」

「あ、あの、そのことなんですが。私、ヌードモデルはできませんので!」

 大賀さんが話し終わる前に、私は叫ぶように言ってしまった。


 実をいえば、これが一番の懸念だった。女性のモデルで一番需要があるのはヌードモデル。

 報酬も良くて一日で数万、一ヶ月に数十万稼ぐ人もいるらしい。

 けれど、裸になるのはさすがに抵抗があった。お金のため、芸術のためといっても、人前で裸になってポーズを取り、なおかつ描かれた絵がどう扱われるのかわからないとなれば……。

 それに体にも自信がない。私は痩せていてそれほど胸もないし。有名な裸婦画にあるような豊満な肉体には程遠い。


 あら、と大賀さんは意外そうに口に手を当てた。

「そんなことを心配してらしたの? 大丈夫ですよ、裸になることはありません。モデルをする時は、服は着たままです。当方指定のロングドレスを着ていただきますけど」

「ドレス……ですか。なら大丈夫です」

 ホッと胸を撫で下ろす。

「あの、それで……モデル料なんですが。具体的にはいかほど……?」

 恐る恐る一番聞きにくい、しかし重要なことを切りだすと、大賀さんはずいっと体を前に傾けた。

「そうですねぇ、1000万円ほどでいかがでしょう」

「い、いっせんまん!?」

 とんでもない金額だった。確かに手紙にも「破格の報酬」とは書いてあったけど、ゼロの桁が間違っているのでは……。


 大賀さんはフフフと意味深に笑った。

「大変失礼ながら、橘木さんのことは少し調べさせていただきました。元は美大で西洋画を専攻してらしたけど、入学して少し経った頃にご実家が破産。アルバイトを掛け持ちし、奨学金をもらってなんとか卒業するも現在もご両親を扶養せねばならず。絵の方では第38回清雲美術賞で佳作を取られましたが、到底食べていくことはできず。今は小さな建築事務所でコマネズミのように働く日々……」

「その通りです」

 私はしょんぼりと俯いた。学生時代はアルバイト三昧、社会人になっても奨学金という名の多額の借金を背負い、働きづめの日々。あんなに大好きで生き甲斐だった絵も全然描けていない。

「最近、父が病気で倒れたんです。入院代や手術代……さらにお金が必要になってしまって」

「可哀想に。ご苦労されているのですね。でも、このモデルのお仕事を引き受ければ少しは楽になるのでは」

「はい、それはもう……」

 1000万円あれば、奨学金は完済できる。そうなれば給料は全部生活費に回せるし、お父さんの医療費も払える。カードのキャッシングやサラ金に手を出さずに済む。

 お金さえあれば……!


 私は、すがるように大賀さんを見つめた。

「正直、お金は喉から手が出るほど欲しいです。でも、私なんかがモデルを務められるんでしょうか。20代ですけど美人でもなんでもないし」

「いえいえ、橘木さんは華奢で手足も細いし。髪も長くて、儚げなかんじがぴったりなんです」

「それならいいんですけど……」

「お引き受けくださいますか」

「え、あ、はい」

 迷いなく頷いた。大賀さんは契約書を取り出し、私はそれにサインした。

 モデルの契約期間の欄には「概ね一年以内」と書いてあった。


 大賀さんは契約書を交わすと、嬉しそうに手を叩き、ソファから立ち上がった。

「では、早速モデルになる絵を観に行きましょう。実際に観てもらった方が、イメージを膨らませやすいですから」

「元の絵があるんですか」

「はい。ですが、オーナーは模写ではなく、オリジナルを越えるものを描こうとしています。何枚描いても満足できず、長年奮闘を続けているのです」


 応接室を出ると、大賀さんが先に立って誘導した。

 私たちは長い廊下を歩いた。天井も床も真っ白な廊下の両側には、短い間隔で油絵がかけられていた。どれも少女、もしくは若い女性の全身を描いたものだった。白人もいれば黒人もいた。同じ肌色をしたアジア人らしき女の子もいる。みんな美しいドレスを着ているけれど、どこかぼうっとした虚ろな表情と目をしていた。ガリガリに痩せているのに、お腹だけが大きく膨れた子もいた。


 百枚以上の絵を横目に歩き、大賀さんは廊下の突き当りで立ち止まった。

 そこには、金縁の豪華な額に入れられた絵が飾られていた。

「これが、今回の案件の目標です。オーナーはこの絵に大変感銘を受け、これを越えるべく粉骨砕身してきました。それはもう、とんでもないこだわりようでして。モデルとなる女性にも完璧な再現を求めているのです」

「これは……」

 絵を前にして、私は息を呑んだ。

 川に落ちたらしきドレス姿の女性。その体は流されつつも徐々に水中に沈んでいっている。

 水面上に浮き上がった青白い頬、虚空を見つめる絶望と恍惚が入り混じった瞳……許しを請うように突き出された両手。絡まる花。まだ生きているはずなのに、甘美な死臭が漂ってくるような……美しくも恐ろしい絵。


 あまりにも有名な絵画ゆえに、すぐにタイトルが口をついた。

「ジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』」

「そうです。さすがは美術を専攻されていただけのことはありますね」

 大賀さんは感心したように頷き、私に微笑んだ。

「オフィーリア。シェイクスピアの『ハムレット』に登場する悲劇のヒロインです。愛するハムレットに父・ポローニアスを殺されて精神を病み、狂った挙句に小川に落ちて溺死。でもねぇ……私、不思議で仕方ありません」

「何が不思議なんですか」

「人って、そう簡単に狂えるものじゃありません。いくら若い娘でもお父さんが死んだくらいでねぇ。それぐらいで狂うなら世の中狂人だらけです。オフィーリアには、父の死以上の狂気の素材を与えられていたのです」

「父の死以上の、狂気の素材?」

 私は背中にうすら寒いものが走りながらも尋ねた。

「作品では明言されませんが。実はオフィーリアは懐妊し、そして中絶を余儀なくされたのです。とはいっても妊娠は一人ではできません。では子供の父親は誰であったのか。ハムレットならばまだ救いがありますね。……ですがもし違ったら? 例えば父のポローニアス、兄のレアティーズだったら? 王であった可能性は? だとしたら、彼女が肉体的精神的に受けた仕打ちは悪魔の所業ですね。心を壊すには十分かと」

「……」

 なんと返していいかわからず黙っていると、大賀さんは腰を屈めて私の顔を覗きこんできた。

「橘木さん、私どもは何でもいたしますのよ。あなたの内からオフィーリアの狂気を引きだすためならなんだって。これまでのモデルも良い子たちでしたけど、残念ながら長くは持ちませんでしたわ。悪逆の限りを尽くし、毎日沈めては引き上げて……。決して金持ちの道楽でも個人の悪趣味でもありませんのに。偉大な芸術のためですのにね」

 偉大な芸術……。私は目の前が真っ暗になった。

 まさか、まさか……いや、そんな馬鹿な。嘘。私は、一体これからどうなって……?


 背後から人の気配がした。バタバタ、ドタドタと乱雑な音が響く。

 まるで戻る道を阻むような……。

 私はぎゅうっと目を瞑りたいのを必死に堪えて、そうっと振り向いた。

 それを待っていたかのように、追い打ちをかける甲高い声がした。


「おめでとうございます、あなたこそが168人目のオフィーリア」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

たはむれに、溺死。 八島清聡 @y_kiyoaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ