大あほう者

大あほう者

 黄狐 長尾(きぎつね ながお)はいじめられっ子の中学生である。肩にフケを載せ、同級生はいう、長尾の肩に積もったフケはさながら冬の日に山に敷き積もる雪の如し、と。また、鼻水が鼻の穴から止めどなく出て来るのでよく右袖で拭っているので、制服がてかてかとしている。後に花粉症と分かったが、今現在は原因不明である。

「こいつまた、授業中、よだれ垂らして寝てたぜ。なあ、狐」

 男子学生が長尾をからかう。女子学生はキャーという。

 「ほれみろ、黄狐のノート、涎でフニャフニャになってる」

 ある学生が長尾のノートをひったくると女子の塊の中に投げ入れた。女子の間からギャーという悲鳴が上がる。長尾はおろおろして見守るばかり。女子がノートを散々踏みつける。ノートがビリビリになる。成(せい)君がノートを窓から外に投げ捨てる。

「汚いものはこのクラスにはいらないんだよ。ごめんね、女子たち」

 長尾は慌てて投げすてられたノートを探しに教室を飛び出ようとする。机に脚を引っ掛け、転ぶ。クラスメイトは大笑い。たまらなくなって飛び出す。この日は、そのまま放課後までトイレでうずくまっていた。

 

 長尾には弟が一人いる。黄狐 蒼(きぎつね あお)。素直ないい弟である。いつも「お兄、お兄」と後ろにくっついてくる。結構要領もいい。兄貴の自分がいつも親に怒られているのをみて弟は学習しているのだと思う。弟との思い出はたくさんある。写真もたくさん残っている。一緒に梨をかじっているシーンや釣りをしているシーンなどなど。そういや、よく弟に怒られたっけ。家族で回転寿司を食べに行って、バカスカ食べていたら、親父の機嫌がみるみる悪くなって、仕舞には弟から小声で「今日はお兄の誕生日でも何でもないんだよ」と言われて、「ああ、調子に乗って高いものを食べ過ぎた」と気づいたこともある。そんな弟がいる。家に帰ると、弟はいつも「お兄、お帰り」と言ってくれる。自慢の弟である。この日も家に帰ると、弟は携帯ゲームをやっていたが、扉をガチャリと開けて部屋に入ると、「ああ、お兄、お帰り」と言ってくれた。

 

「ああ、ただいま」

 カバンをどさりと置くと、居間に置いてあるソファーの上にどさりと身体を預けた。弟の携帯ゲームのピコピコする音が耳障りになる。弟にイヤホンつけてとお願いする。弟はぶつくさ言いながらもゲーム機にイヤホンをつけて耳にセットした。静寂が訪れる。頭を空っぽにして目を閉じる。ぐぅーと意識が底に持っていかれる。窓が開いているのか、初夏の流れる風が身体を優しく通り抜ける。さわさわとカーテンの擦れる音が聞こえる。どこか遠くてラジオの音が聞こえる。気持ちいい。そのまま意識が落ちて眠りに入った。自分も弟も人付き合いがあまり好きではない。弟がどうして人付き合いが好きでないかは分からないが、自分の場合は、建前で話すことが疲れるのだ。今年の誕生日に父親から大人の会話術なるものの本をもらったが、あまり実践する気にはなれなかった。それよりも自身の心を観察した。いじめられている時の自分の感情の揺れ動きや、言葉を発した時の不安定な気持ち、女子から汚いから近寄んなと言われたときの惨めな気持ち。もちろんいい感情もある。図工の時間に粘土細工で、図工の先生に迫力があると言われたときなどである。そのときにクラスメイトがたくさん見に来て「すごいね!」と言ってくれたり、しばらく昼飯を一緒に食べないかと言われ、机をくっつけて一緒に食べたこともあった。しかし、不器用というか、変人というか、要領が悪いというのか、はたまた人間関係に慣れていなかったというべきか、それは分からないが、調子に乗り過ぎてまたまたしゃべり過ぎてしまう。そして、気が付けばまた一人になっていた。いろいろ自分のこころを内省して最近分かったことは、「生きている限り、人は失言をする」。よくクラスメイトに暴言を吐かれるのだが、よくよく観察すると、自分も結構暴言を吐いていたことが分かった。悪気はない。たまたま疲れ切ってたりするときにポロリと出る。最近になってそれが分かった。クラスメイトの一人に暴言を吐かれて、その時クラスメイトは体育の持久走で倒れるまで走っていた。暴言を吐かれてぐっと言葉に詰まったが、後でクラスメイトに「お前だって、意図しないで失言や暴言を吐いたりするだろ。俺だってそうだよ」と言われて、「ああ、そうか」と納得したのを覚えている。このクラスメイトとは塾が一緒なので、塾では一緒に飯を食べたりしている。


「長尾起きなさい! いつまで寝てるの?」

 急に意識がぐーっと引き上げられる。目を開ける。光がまぶしい。ちかちかする。しばらく目をしょぼしょぼさせてから時計を見る。19:42だった。身を起こすと、ちゃぶ台で弟が算数の宿題をやっていた。速さと時間と距離の問題だった。懐かしい問題だった。今中学3年だけど数学は苦手だ。数学の問題、応用問題が解けないから。

 

 次の日、学校が休みだったので近くの河に蒼と釣りに行く。電車で川に向かう途中、電車内でつい夢中になってしゃべってしまい、蒼に「お兄、周りの人に迷惑だよ」と諭される。はっと気づいて黙った。我に返ったときはすごく恥ずかしかった。こういう恥ずかしい体験は夜、みんなが寝静まったあとにふっと思い出して、いろいろと後悔したりグチグチと悩みながら、試験勉強をしたりする。

 川に着くと、竿を伸ばし、仕掛を取りだしセットする。針に虫をつけて川に投げ込む。落ち着くと、竿を手に持ったまま草むらに腰を下ろす。蒼が魚を釣り上げる。目をキラキラさせながら、お兄釣れたよと言って、釣れた魚を見せて来る。そして上手に魚の口から針を外す。上手に魚の口に針を引っ掛けるところ、すごいなあと思う。長尾なんて、よく魚に針を飲み込まれてばかりいる。ふと弟がぽつりと言う。

 「お兄、学校行かないでずっとここで釣りをしていたい……」

 蒼、釣り竿をしならせると重りと針と浮をつけた糸をポイント地点に向かって投げ入れた。沈黙が訪れる。ふと空を見る。雲が千切れながら流れていた。長尾は糸を川から引き上げて、脇に置くと、寝転んで目をつむった。

 

 事件が起きたのはそれから二週間後のことである。長尾がいつもの通り学校でいじめられて家に帰ると、部屋が真っ暗だった。昼だというのにカーテンは閉められ、夏だというのに暖房が入っている。思わず不安になって「どうしたの」と言って靴を脱ぐのも急いで台所に行った。そこには弟が毛布をかぶってがたがた震えて座り込んでいた。

 「どうしたの?」

 弟の目は光を失い、歯をがたがたと言わせている。弟を抱き締める。弟が一言。

 「お兄、寒い」

 そんなはずはなかった。今は7月。電話を取りだし母親に電話を掛ける。繋がらない。何回も掛ける。繋がる。

 「今、仕事中よ。何?」

 すごい剣幕で怒られた。

 「蒼が、蒼が」

 頭が真っ白になり蒼という単語しか浮かばない。

 「蒼がどうしたの?」

 それでも蒼が、蒼がとしか言えなかった。


 事の顛末はこうだった。弟が友達に長尾のことでからかわれて殴り合いの喧嘩をしたらしい。最初は1対1だったのだが、2人、3人と集まって来て一方的に殴る蹴るをされたそうである。その日から弟は不登校になり精神的に立て直す事が出来なくなり寝たきりになった。

 

 ある日いつもの通り、学校から帰ってくると弟はいつも寝ている。寝そべって一緒に寝る。ふと弟が

 「お兄、俺な、喧嘩したから学校いやじゃなくなったんじゃないんよ」

 「じゃ、どうしてさ」

 「友達がな、お兄のこと、めちゃくちゃに罵ったんよ。悔しくて悔しくて、そう思ってるうちに力が入んなくなってん」

 弟がぽつりぽつりと話す。すまなくてすまなくて聞いていられなかった。涙があふれ出る。

 「ごめんな、不甲斐ないお兄で」

 弟は目を瞑ってじっと黙っていた。

 

 ごめんなあ、蒼。ごめん。ごめん。それしか頭に浮かばなかった。たまらなくなってシャワーで水を浴びる。そして弟の部屋に入ると、弟の顔をずっと眺めていた。弟の顔が街灯に青白く照らされている。今までこの小さな身体でずっといろいろ考えて来たんだな。と思うとぐっとくるものがある。「お兄……」蒼が寝言でつぶやいた。蒼はたった一人の俺の弟だ。俺は兄貴だぞ。弟を守れないでどうする。どうしようもない、兄貴だけどよ。慕ってくれる弟がいるんだ。朝までずっと寝顔を眺めていた。

 「俺さ、生まれ変わるからよ。自慢の兄貴になってみせる。だから元気になってな」

 長尾が蒼の髪を撫でる。お兄、頑張るからよ。

 

 それから長尾は性格を変えるためにカウンセリングを受けることになった。また自身でも啓発本を読んで積極的に性格を直していった。もちろん学校にも行った。道化師を演じた。かっこわるくても……。かっこわるくても、全ては蒼が再び元気になること、蒼がもう級友に後ろ指を指されないようにするため、蒼を守れる兄貴になるため、そして、何よりも自慢の蒼にとって自慢の兄貴になるために……必死で耐え抜いた。。

 

 一年後

 

「お兄、また寝坊~。今度遅刻すると欠席扱いになっちゃうんじゃないの」

 ネクタイをしめた制服姿の弟が行ってきますと言って学校に走る。蒼はまた元気になって学校に行くようになった。少し元気になり過ぎてやんちゃにもなってしまった。それでも自慢の蒼には間違いない。長尾は相変わらず人見知りで嫌われ者であり大阿呆者であるが、前よりは暴言を吐かなくなったと思う。

 

 駆けていく蒼に心の中でつぶやく。

「蒼。お兄、蒼のおかげで変われたよ。人は想いを持ってしっかりと取り組めば性格も変えられるって気づいたよ」

 そして蒼にエールを送る。「蒼、どこまでも駆けてゆけ。蒼のこと応援してっからよ。」

 

靴ひもを締め、カバンを肩にかけると、立ち上がり自身に活を入れる。

「さあ、俺も頑張んないとな」


外に出ると、初夏の日差しがまぶしく、木々がさわさわと音を立てていた。

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青春の足跡 澄ノ字 蒼 @kotatumikan9853

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