最愛の弟に送る『おめでとう』

無月弟(無月蒼)

最愛の弟に送る『おめでとう』

 お父さんが亡くなったのは、私が小学二年生の時だった。


 腫瘍が見つかって、入退院を繰り返していたけど。治療の甲斐もなく、あっさり亡くなってしまったのだ。

 お葬式の時、お母さんは「泣いても良いんだよ」って言ってくれたけど、私は泣かなかった。

 ここで泣いたら、弱くなってしまう。まだ幼い、5歳年下の弟もいたし、これから生活が大変になるって分かっているのに、弱いお姉ちゃんになんてなっていられないもの。


 大勢の人が涙を流していたお葬式会場で、私は一筋の涙を流すこともなく、弟の手を強く握っていた。


「ねえ、お父さんは死んじゃったの?」


 弟の八雲やくもが、棺に入ったお父さんを見ながら尋ねてくる。

 たぶん、まだ死というものがよく分かっていないのだろう。私はそんな八雲を、強く抱きしめる。


「うん、お父さんとはもう、一緒にご飯を食べたり、話したりすることは出来なくなっちゃったの。でも、大丈夫だから。お父さんの分まで、私が八雲を守るからね」


 この時私は、強くなろうと決心した。お母さんを支えて、八雲の事を守れるような、強いお姉ちゃんになってみせるって。





 お父さんの死から七年が経って、今度はお母さんが亡くなった。

 女手一つで私と八雲を育ててくれたお母さん。そんなお母さんを助けたくて、私と八雲は積極的に家の事を手伝って、家族三人力を合わせて生きてきたけれど。一家を支えてくれたお母さんは、交通事故で亡くなった。


 二親を亡くして、残されたのは姉弟二人。だけどこの時も、私は泣かなかった。

 お父さんもお母さんも、もういない。これからは本当に私が、八雲を守っていかなくちゃいけないって思ったから。もっと強くなる必要があった。




 幸い、お母さんの学生時代からの友達だと言う人が親切にしてくれて、私と八雲の身元引受人になってくれて。おかげで私達は施設に預けられることなく、姉弟二人で生活を続けることができた。

 弁護士さんと相談して、お母さんが残してくれた保険金をやりくりし、バイトをしながら家事もやった。

 毎日忙しかったけど、これも残された家族を……八雲を守るため。私がしっかりしなくちゃいけないんだ。


 お父さんが死んだあの日から、強くなろうと心に決めて。それ以来私は、ただの一度も泣くことの無かった。

 そんな私がもし泣く事があるとすれば、それはきっと、八雲に何かあった時だろう。


 神様お願いです。どうか八雲だけは、私から盗らないでください。

 この最愛の弟は、私に残された唯一の生きる希望なのですから。



 ◇◆◇◆◇◆



 あれから、10年以上の時が流れた。

 お父さんが死んだ時も、お母さんが死んだ時も私は泣かなかったけど、今日は違っていた。

 堪えきれない嗚咽を漏らしながら、私は大粒の涙をボロボロと溢している。


「―—ッ! 八雲っ! 八雲―っ!」


 涙をにじませた目は、物言わぬ弟、八雲を映していて。私は嗚咽混じりの声で、何度も八雲の名前を呼んだ。


 それはいったい、何年ぶりの涙だっただろう? そんな涙を流す私の肩を、優しく抱いてくる人がいた。


皐月さつきさん、もう泣かないで」

「だって……だって八雲が!」


 なぐされるように言ってきたのは、夫の太陽たいよう。私は数年前に彼と席を入れていた。


 可愛げの無い女だって自覚はあった。付き合っている時も結婚してからも、私は強くいようと必死で。だけど今日、私は夫の前で、初めて涙を見せている。


「気持ちは分かるよ。でも、少し落ち着いて」


 ポンポンと背中を叩いて、落ち着かせようとする太陽。

 私だって、泣いちゃダメだってわかってる。だけど涙は止まらずに、後から後から溢れてくる。

 だって八雲とお別れしなきゃいけないなんて、悲しすぎるから。だけど……。


「姉さん、いい加減泣き止みなよ」

「八雲までそんな事を言って!」


 戻した視線の先にいるのは、呆れた顔で見つめてくる八雲。

 わんわんと泣く私の事を黙って見てくれていたけれど、さすがに限界だったみたいで、疲れたようにため息をつく。


「ほら、早く涙を拭いて。化粧が崩れちゃうよ」

「そんな事言われても……弟の結婚式で泣かない姉なんていないわよ」

「いや、多分結構いるから。くれぐれも、式ではちゃんとしててよね」


 すねた顔で釘を刺され、何も言い返せないわ。


 今日は大事な八雲の、結婚式の日。

 これから家を出て、式場に向かわなければ行けないというのに、今まで可愛がっていた八雲が結婚するのかと思うと、感極まってしまい。泣かずにはいられなかったのだ。


「八雲ー。結婚してからも、少しは顔見せに来なさいよ。ここは八雲の家なんだから、いつでも帰ってきていいからね。あと、たまには電話もしてね。それから……」

「姉さん。もういいかげん弟離れしなよね。太陽おにいさんすみません、姉さんきっと、この後も凄く荒れると思うので、よろしくお願いします」

「大丈夫、皐月さんの事は僕に任せておいて」

「いつも苦労を掛けてごめんなさい」


 苦笑し合う旦那と弟。この二人は、とても仲が良いのだ。


 結婚してから今日まで私達は三人で暮らしていた。

 籍を入れた時、八雲はアパートでも借りて出て行くって言い出したのだけど、私も太陽も猛反対。

 最終的に私が、八雲が出て行くなら離婚すると言って駄々をこね、太陽が「姉孝行だと思って、一緒に住んでくれない」とお願いして、何とか首を縦に振らせたのだ。


 だけど今度は、そんな八雲が結婚する。ずっと一緒にいたけれど、家を出て行く。

 結果、八雲が結婚するという嬉しさと、もう一緒にはいられないという切なさが一気に押し寄せてきて、私は大泣きしていたのだ。


「まったく、姉さんは何年経ってもブラコンなんだから」

「別にブラコンじゃないでしょ。弟を可愛がるのなんて、普通じゃない」

「姉さんの場合度を越しているんだよ。昔太陽さんと付き合っていた頃、僕と太陽さん、どっちが大事かって聞いた時、なんて答えたか覚えてる?」

「もちろん、八雲って答えたわよ」

「ほら、そう言う所がブラコンなの。しかも太陽さんの前で堂々と宣言するんだもの。破局する気なのかってヒヤヒヤしたよ」


 むうっ、なにもそんな古い話を引っ張り出さなくても。

 良いじゃない、彼氏より弟を大事にしたって。


「八雲、あまり皐月さんを責めないであげて。僕はそう言う弟想いなところも含めて、皐月さんのことが好きなんだから」

「太陽さんは姉さんを甘やかせすぎですって。僕が出て行った後の事が心配になってきますよ。姉さん、くれぐれも太陽さんを、尻に敷きすぎないようにね」

「はーい」


 これじゃあどっちが姉で、どっちが弟なのか分からないなあ。八雲は三人の中で一番年下なのに、一番しっかりしているんだから。


「さあ、姉さんはさっさと化粧を直してきて。早くしないと、式に間に合わなくなっちゃうよ」

「あ、そうね。ゴメン、急いで直してくるから」


 慌てて、化粧ポーチを取りに行く。


 ずっと八雲を守らなきゃって思っていたけれど、そんな八雲もすっかり大人になって。

 本当はずっと分かっていた。もう八雲は、私の助けなんていらないって。

 お母さんが亡くなって、バイトに励む私を助けようと、八雲は沢山家事を手伝ってくれた。少しでも力になりたくて、毎日一生懸命で。

 八雲を守るなんて言ってきたけれど、もしかしたら守られていたのは、私の方かもしれない。あの子の健気さと優しさに、いつも支えられていたんだ。



 それでも八雲に弱い所は見せまいと、今まで気丈に振る舞ってきたけれど、もうその必要も無い。さっき目の前で、わんわん泣いちゃったし、強いフリをした仮面は、化粧と一緒に剥がれ落ちてしまったしね。



 化粧を直して玄関に行くと、八雲が待っててくれていた。


「遅いよ姉さん。太陽さんはもう、先に車に乗ってるから」

「ごめんごめん」

「式の最中は、さっきみたいに大泣きしないでね。泣き虫な姉がいるってなったら、恥ずかしいから」

「大丈夫。さっきたくさん泣いたから。あ、そうだ八雲」


 靴を履いた私はじっと八雲を見つめて、笑顔を作る。


「結婚おめでとう、八雲」


 離れてしまうのは寂しいけれど、やっぱり嬉しさの方が強い。小さかった弟が立派に成長したのかと思うと、胸の奥が熱くなる。

 だから私は何度だって「おめでとう」の言葉を送りたい。


「明日だって明後日だって、思いついたら何度も電話して、『おめでとう』って言うからね」

「もし本当にそんな事をしたら、僕は姉さんからの電話を着信拒否にするだろうね」

「ちょっ、何酷い事言ってるの?」

「僕だってそんな事したくないから、ほどほどにしてよね……たまになら良いけど」


 照れたように目を逸らす八雲。その可愛らしい姿を見て、思わず頭を撫でたくなる。やっぱりこの子はいくつになっても、私の最愛の弟なのだ。


「さあ、バカな事言ってないで、もう行くよ」

「そうね、太陽も待っているし」


 ドアを開けて。私達は振り返って、声を揃える。


「「行ってきまーす!」」


 今まで何度も繰り返してきた挨拶をして、玄関を出て行った。

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