朧月

星野 驟雨

旅人の星

 ――例えば。

 そう、例えば。あるいは、もしも。

 私たちはそんな夢を見るのです。

 車椅子の天才が宇宙を飛んだように。


 白銀の最中に貝殻の潮騒が泣いています。

 その遥か向こうに陽炎が立ち、光り輝いていました。

 眼前には茜が差しており、その眩しさの前に私は郷愁にも似た心持ちで目を細めるのです。夕焼けの時分のようでありましたが、それほど退廃的でもありませんで、退紅のような朗らかさすらも感じられました。

 しばらくはそうしていましたが、次第に飽きがくるというのが人間という生き物でありまして、何ともなしに、辺りを見回してみることにしたのです。


 柔らかく映える赤光からぐるりと天蓋を見上げますと、ちょうど私の真上であります。朝と夜の境とでも言いましょうか、群青と桃花染がほどけて混ざる場所がありました。見つけた時、得も言われぬ小さな幸せを感じたのです。

 それは内心より体躯に沁みていくような、とても日常的な喜びでありました。ふと足を止めて徒花を見つけたときの、あるいは旧友との久しい会話などで覚えのある感覚でありました。


 そのままにぼうっと眺めておりますと、白浜の砂の一粒が、高く高く、それでいていじらしく輝いているのがわかりました。次第に凪いでいく心根にふわりと風が去来して、白銀の波をさらって行くのです。さわさわとした潮騒が私の最奥に木霊して、あまりにも心地の良いものでしたから、おもむろに目を閉じました。


 深く呼吸をすれば、鼻腔をくすぐるのは懐かしい故郷の香りです。決して青臭いというのではなく、とても落ち着く、無垢の欠片でした。

 呼吸を繰り返す程に、今までのすべてが走馬灯のように逡巡しては光の粒になって消えていきました。とりわけ、若かりし日々の頃については、何よりもゆるりと廻ってひと際大きな光となって揺蕩うのです。何故だか、しんみりとするほどに私は微笑みを携えていました。

 これはきっと夢というものなのだと、より詳しくいたしますと明晰夢とやらなのだと思いました。おそらく本来の夢というものは、水面に浮かぶ月の様なものでして、私たちはそれを手にすることはできません。中天にかかる月が、その眼前に見えるというのに触ることすら出来ない儚げなものなのです。

 ですが、今この場所においては、それすらも叶いそうでありました。かといって、それに触れてしまうことは憚られまして、幼ながらの憧憬に近しい具合でした。

 きっと空を飛ぶことも出来ましょうに、私は地にいることを選んだのです。

 私の世界でありましょうに、私は世界のなかのちっぽけな私であることを望んだのです。私という一個の人間の両手には世界はあまりに大きく、その双眸より見届けられる場所など限られていましたから。


 幾度もの深呼吸ののちに目を見開きまして、今度は群青の方に目を向けました。

 そこに星はなく、満月だけが淑やかに愛を注いでいるのでした。

 月光をなぞって滑り落ちれば、そちらには先の白銀の様に何かしらがそよいでいまるのがわかります。ほどなく宵闇に目が慣れてきますと、それはススキでありました。夜の声が聞こえてくるような、優しく、それでいて何処か張りつめている。そんな印象です。

 しかし、私が最も不思議に思いましたのは、その景色が少しばかり遠くにあったことでした。それは私の背後より差す光が蝕んでいたからです。ですが、夜はその光すらも受け止めて、自身の袖を蒼くしていました。そしてその指先は紫陽花のような華々しさです。

 ちっぽけな私は、その逞しさといじらしさの前に只々感嘆し閉口するほかありません。いみじくも私がどこまでも人の子だと思い知らせているようでした。


 それからずうっと茜と群青を見比べたりして呆然と過ごしていました。

 


 どれほどの時間をこの場所で過ごした事でしょう。

 夢からはいつしか覚めるものだと思っていましたが、一向に世界が閉じる気配がないのです。待てども待てども何も変わらない世界でした。

 そして今になって、ふと気付いたことが一つあります。

 ――私は寝た記憶がないのです。

 それは横になった記憶がないという事。

 私は寝つきがいい方でありましたから、常に横になったことは記憶しています。翌朝を迎えても、昨日横になった時刻はハッキリと覚えているのでした。しかし、今の私は横になった時刻を思い出せないのです。明晰夢であるのに、思い出は想起するのに、直近の記憶がないのです。

 そのぬめりのある気色の悪さに様々な予想が浮かび上がりました。

 

 その粗方を一蹴してしまうことは出来ましたが、一つだけ振り切れないものがありました。

 ――もしかすると、ここは天国のような場所で、私は死んでいるのかもしれない。

 生きとし生けるものに等しく訪れる『死』というものが、どうしても振り切れなかったのです。

 「いつ死んでしまうかもわからない、だから今を精一杯に生きよう」という言葉が空虚に反芻していきます。

 もっとこうしておくべきだった等の後悔は先に立たず。

 別に死んでしまったならそれを受け入れるつもりではいました。しかし、今になって私は生に執着していることを自覚してしまったのです。

 生きたい。――そう思ってしまったのです。

 あれほどまでにちっぽけな私を享受していたというのに、私の自己愛は何処までも利己的であろうと動き始めました。疑念は混乱を招き、混乱は本能をむき出しにします。

 途端、私は夜が恐ろしくなったのです。

 親しみのあった夜が大きく口を開く大蛇の様に思えてしまったのです。回り始めた思考の歯車は留まる事を知りません。妄想は妄想を呼び、私の後ろ髪を引いていくのです。

 荒くなる呼吸を抑えようとしますが、心肺はより高く鳴り響いて急かします。とうとう私は耐えられなくなって走り出しました。

 気持ちよかった風はぞわりぞわりと私の肌を逆撫でて大気中の酸素を奪っていきました。それでも私は立ち止まれません。光の方へ、光の方へと懸命に走り続けました。

 夜は逃がすまいと追ってきます。茜を食い破り、蝕んで大きく歩みを進めます。

 私の小さな足が懸命に走ったところで、いつか追いつかれてしまうのは必至でした。それでも立ち止まることはできません。

 私の身体が、意思が、生きることへ執着しているのです。

 それは本能と呼ぶに相応しいものかもしれません。私は二本の足で懸命に進みます。動物の様に四足で走ることなどできない身体で、懸命に逃げるのです。

 全速力で走る時、人間は進行方向を見るしかありません。

 私は目指すべき場所の眩しさに目を焼かれていきました。

 懸命に動かす四肢は焼け爛れて、呼気はぴゅうぴゅうと音を鳴らしていました。

 

 どれほど走ったかもわからないほど懸命に走りました。

 疲れ切った身体はそのまま倒れ込みます。立ち上がろうにも力が入りませんでした。夜は離れることなくついてきました。

 胸を焼き続ける諦めに、もういっそのこと受け入れてしまおうかと思いました。

 あと少しで赤光に消えるというところで、私は動けなくなったのです。


 生き物は、自分の死を悟るもののようです。

 私はこの時、どうしてか凪の様な心でありました。

 呼気は未だ悲しげに泣いて、その体躯は外も内も焼け爛れているというのに、最後に心にあったのは、世話になった人たちに一言感謝を伝えたいという穏やかなものでした。

 夜が私の頭上を越えて、赤光までも飲み込むのを見届けます。

 

 その刹那の事でありました。

 焼かれた瞳で見上げた夜空には、星々が煌めいて、瞬きの合間に降り注ぐのです。

 赤、青、黄。様々な星が優しく下りてきました。

 その足跡はタイムラプスのように美しいものでした。

 私は大の字になって、ススキに埋もれながらそのすべてを見逃すまいと見上げ続けていました。

 煌びやかな満天の光景でさえ、動くことのない星が一つ、私の頭上、天高くに燦燦と輝いているのに気づきます。

 いつぞや見上げたその星に私は見とれてしまいました。

 旅人の星、そんな言葉を思い出します。

 万感が滾々と込み上げてきて、痛む心肺に大きく息を吸い込んで叫びました。



 どうしてその言葉を叫んだのかわかりません。

 ですが、その瞬間、夜が弾けたのです。

 パッと、その星から光が満ちていきました。

 その光は宵闇を飲み込み、私までも飲み込んでいきました。

 痛みなどは感じられず、優しい、誰かの腕に包まれる安堵が満ちていきました。



 もう一度目を開けば、そこは病室のベッドの上でした。

 後に聞いた話によれば、私は車に撥ねられたらしいのです。

 ともするとあそこは本当に天国だったのかもしれません。

 今になってはもう確かめようのない話ではあります。

 ただ、私はその光景を鮮明に覚えています。

 そして、その上で、あれは夢だったと思うことにしたのです。


 あれから、私の生活は変わりました。

 都度、感謝の言葉を述べるようになりましたし、ふと立ち止まって、夜空を見上げたり、朝焼けを眺めたりするようにもなりました。

 自分や誰かの事を大切にするになりました。

 二度目の生を謳歌しよう、あれほど生きたいと願ったのだから。

 そう思うようにもなりました。

 気障な言葉も素直に頷けるような、純粋なままでいたいのです。

 あの場所にいた私は、きっと何処までも純粋だったろうから。

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