紀文堂にて

神辺 茉莉花

第1話これからも、ともに

 夜の八時。俺は疲労で重たくなった体を引きずって帰りの電車を降りた。駅から徒歩十五分。慣れ親しんだ道を歩く。

 灯りをつけているのは居酒屋とコンビニ位なものだ。……いつもならば。

 それが今日に限っては一軒の店が煌々と明かりをともしていた。

「あれ、もしかして……」

 小さく呟く。店の名前は紀文堂。レトロな店名を裏切らない店構えだ。

 間違いない。そのときに合った不思議なアイテムを譲ってくれる店だ。俺は過去に二度紀文堂にお世話になっている。そのアイテムのおかげで一度目は素敵な伴侶との出会いを、そして二度目は大幅な給与アップを叶えることができた。

 数年ぶりに巡り合えた喜びに、俺は思わず店に駆け寄った。



「いらっしゃいませ」

 落ち着いた女性の声音。

 店内は前回訪れた時と何も変わっていない。コースターやメモ帳、ペン、マグカップなどの雑貨が淡いオレンジ色の光の下で陳列されている。いつもならばこうやって商品を眺めていると向こうから声がかかったものだ。

「あの……もしかして過去にも何度かこの店をご利用になったことがありますか?」

 ほら。

 俺はひそかににほくそ笑んだ。たわいもない話をして、何かすばらしいアイテムをもらって……。

 ――いや、今まではずっと貰いっぱなしだった。今年からはちゃんとお金を出してもいいかもしれない。今までこのチートアイテムをもらっていい思いをしてきたんだし。

 懐から財布を取り出す。

 店員が押しとどめる仕草をした。

「確か、田崎信吾様でいらっしゃいますよね? 四年ほど前に『人生の伴侶が得られる小瓶』を、三年前に『給与が上がる写真立て』を差し上げた……」

 首肯する。よく覚えているものだ。

 自然と頬が緩んだ。

「あのとき小瓶を飾ってからすぐに今の妻、幸恵と出会いましてね。しばらく付き合って……あと一週間で結婚三年目ですわ」

「まあ、それは……結婚三周年おめでとうございます」

 穏やかな笑顔。四年前見た時から少しも年齢を重ねた感じがしない。きめの細やかな肌で、片方にえくぼを作って……それから少しばかり顔を伏せた。低い位置で結んだポニーテールがさらりと揺れる。

「実は……大変申し訳ないのですが、同じ方には三回以上品物をお譲りすることができないんです。どうしても困ったときにのみ適切に使っていただければいいのですが、最近はそれに頼り切ってしまう方が増えておりますので」

「ええ!?」

 そう声をあげつつも、はっ、と胸をつかれた。確かにアイテムを頼りにした面は否めない。

 しかし……。三回以上譲ることはできないということは、もう終わりなのか? これから先、不確実な未来を送らなければならないのか? この先大病に見舞われたらどうする? 妻との仲が修復不可能な状態になったら?

 キィ。キギィ。

 どこかで戸が軋むような、野鳥が鳴くような、猿がうめくような音が鳴った。

 葛藤が表に出ていたのか、店員がうっすらと微笑みのかけらを顔に張り付けて口を開いた。

「不安になるのも分かります。では品物ではないのですが、特別にこれを……」

 何かがうめく音がやんだ。

 手に握られたのは、かさかさした白いメモ用紙が一枚。開こうとすると慌てて制止された。

「ご帰宅になったらご覧ください。誰もいないところで」

 むぅ……。

 胸中で唸ってから、それでも俺は首を縦に振った。

「奥様とこれからも末永くお幸せに」

 柔らかなアルトが耳をくすぐる。



 ふと気が付くと、俺はいつの間にか家の近くまで歩を進めていた。まるでスマートフォンに夢中になる学生や、携帯のゲーム機で遊ぶ小学生のようだ。

 歩いた感覚がまるでないのに、気が付くと店からは遠く離れている。

 過去二回と全く同じ現象だ。

 もう一度戻っても決してたどり着けなかった前回を思い出し、俺は諦めて早々に家の扉をくぐった。



 居間は暗く、しんと静まり返っていた。

 そういえば今日、幸恵は週に一回の遅番の日だったなと思い出す。帰ってくるまで、まだ二時間以上はあるだろう。お互いに気を使いすぎないように、幸恵が遅番の日は各自で夕食をとり、就寝する取り決めだった。

 ふむ、と一つ頷いて耳を澄ます。誰もいない空間を、秒針の音だけが埋めていた。

 今ならば、と思う。

 今ならばさっきもらった紙の中身を確認できる。

 そうして俺はポケットをまさぐって先ほどの紙片を取り出した。薄い、小さなメモ用紙。

 そこにはたった一文だけ、手書きの文字が並んでいた。

「ああ……」

 思わず俺は溜息を洩らした。特別なアイテムがなくても幸せに暮らす方法は、案外簡単に手に入れられるのかもしれない。

――さっそく明日、幸恵が朝食を作ってくれた時に……。



 翌朝、俺は休日にもかかわらずパッと目が覚めた。やはり昨日目にした一文が強く頭の中に残っているらしい。スマートフォンのアラームが鳴り出す前に止め、半身を起こす。

 とたんにバターの溶ける芳醇な香りが鼻をくすぐった。それに加え、パンの焼ける香ばしい香りと、何かを炒めるパチパチという音。

 かすかに鼻歌が聞こえてくる。機嫌がいいときの幸恵の癖だ。

 ぱたりぱたりとスリッパが動く。

「よし、紙にあったように……」

 昨日もらったメモ用紙をお守りのようにそっとポケットに忍ばせる。

 手早く着替えた俺は、いつもよりも早足に居間へ向かった。


「おはよう。あら、なんか今日、元気よさそうね」

「ん、ああ……まあな」

 幸恵の弾んだ声に導かれるようにして、俺は幸恵の向かい側に腰を下ろした。

 ――いつもより二品ほどおかずの種類が多いような?

 幸恵も何かあったのだろうか。

 いぶかしみつつも俺は箸をとった。あいかわらずほっとする味だ。特にこのホウレンソウ入りのスクランブルエッグがうまい。ぷるぷるふんわりとした食感と、隠し味以上に入ったチーズが効いている。

 テレビでは、気象予報士が桜の開花を告げていた。来週の土日が満開となるようだ。

 ちょうどその日は結婚三周年。

 ――そろそろ言うか。

 マグカップに入ったスープを口に含む。あのメモ帳に書かれていたことをもう一度思い出した。

 ごく自然に、大袈裟ではないように……。

「この卵のさ……」

「んー?」

 上目遣い。

「俺、この味好きだな。ほっとする」

「何よ、いまさら」

 幸恵が、言葉とは裏腹に白い八重歯を見せた。白い肌がほんのり朱に染まる。

「あ、果物冷蔵庫から出すの忘れてた。ちょっとごめん!」

 照れ隠しなのか何なのか、幸恵が背を向けた。その隙に俺は改めて例の紙を取り出す。書かれていた一文。それは……。


  お互いを褒め合う、そんな讃周年になりますように


 ふと窓から見た空は、まるでこれからの二人を祝福するかのような青に染まっていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

紀文堂にて 神辺 茉莉花 @marika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ