最愛の人
吉晴
最愛の人
幼子を腕に抱く。
あー、うーとよくわからないなりに何かを訴えてくる息子が、愛おしくてならない。
母のいない子ではあるが、乳母らの働きにより確実に大きくなってきていた。
まだはっきり見えてはいないであろう目をきょろきょろとさせて、必死に誰かを探しているように見えるのは、私がこの子の母を殺した罪悪感からであろうか。
だが本来、この罪悪感は感じてはならない。
この子の母は、天皇の妻でありながら、兄を愛し、その兄とともに私を裏切ったのだ。
憎め、恨め、呪え、そう何度も何度も自分に言い聞かせているのに、最後には己の心に負けてしまう。
私は、あの娘が、狭穂姫が、愛おしい。
殺されかけてなお、彼女を殺してなお――誰よりも、愛おしいのだ。
***
彼女が私の妻となったのは、うららかな春の陽が降り注ぐ、穏やかな日だった。
長く戦の続いた佐保の地から妻をと希望したのは、私だ。
女系の一族で、狭穂姫と狭穂彦の兄妹で国を治めている彼らだからこそ、私はそう所望した。
佐保の地を、永久に抑えるために。
姫を欠いた一族は、佐保の地を治めていくことはできない。
彼らの領土は私のものとなる。
その一方で、嫁いでくる姫が私の寝首を欠く可能性があることは十分わかっていた。
長い間争ってきた宿敵なのだ、当然である。
相手は己が命をなげうってでも私を殺そうと思ってくるだろうと、端から思っていた。
そしてそれを迎え撃つつもりでいた。
ところが、だ。
やってきた姫はあまりに少女然としていて拍子抜けだった。
佐保の地の神に仕え、神に愛されるだけあると、その時思わず笑ったものだ。
邪心を微塵も感じさせない。
なんら子どもと変わらないではないか、と
。
そしてこんな娘が、あの戦の要であったのかと思うと不思議でたまらなくなったものだ。
狭穂姫はそのくらい純朴な、ただの娘であった。
美しく清らかで、まるで桃の花のように、甘く軽やかで愛らしい。
とはいえ始めは流石に寝首を欠かれるのではと警戒した。
少女の皮を被った、憎悪にまみれた女やもしれぬ、と。
だがそれもすぐに杞憂に終わった。
隠し事一つできず、何ら罪を負うことさえできぬ娘であることは、あまりにも明らかであった。
彼女は見たままの心の持ち主だ。
薄い桃の花弁のように、明らかで、澄んでいて、か弱い。
どれほどの隙があろうと、彼女は私を殺そうというそぶりさえ見せなかった。
そのまま2年の月日が流れるころには私も、彼女の膝で転寝をするほどに心を許していた。
だからだろう。
目を開けると彼女が泣いていた。
私はその時、確信したのだ。
彼女はやはり、佐保の地の姫であるのだと。
膝に頭を乗せたまま、泣き続ける妻を見上げて口を開いた。
「神に仕えていたという狭穂姫よ。
夢解きを頼もう。
佐保の地の方からにわか雨が降ってきて、私の顔をさっと濡らした。
錦のような模様のある小さい蛇が私の首に巻き付いたのだ。」
私が彼女を疑い続けていれば、彼女も私を殺そうなどとは動けなかったやも知れぬ。
私がこれ程までに、彼女を愛しさえしなければ。
あふれる涙を小さな手で拭い続ける少女はやはり、罪を背負うにはあまりに幼気な姿であった。
「私、お兄様に貴方とどちらが愛おしいかと聞かれて、答えてしまったのです。
面と向かって聞かれたら、違うって言いにくくて、その・・・お兄様の方が愛おしいって。
それで・・・。」
彼女の手の中から転がり落ちた小刀は、鋭く光を反射していた。
これを持っているだけで、この少女はどれほど恐ろしがったことだろう。
震える手を必死に胸に抱いていた。
ただの一人の少女は、ただ神に仕え、神に愛されただけの、やはりただの素直な子どもに過ぎなかったのだ。
だから兄に私を殺すように言われて実行に移すまで1年もかかった。
愚かな娘だ。
情がわくまでに殺すか、自分の運命と思って鬼となるか、どちらかにならねばならぬというのに、彼女は私の妻となってしまった。
そして私も、彼女の夫になってしまった。
ただ不幸にも私たちは出会ってしまい、そして、深く愛し合ってしまったのだ。
―お前の罪ではない。―
愚かにも私はそう言って慰めた。
彼女の腹には子どもがいた。
私の、一人目の子だった。
凍えるような冬の夜に、彼女は城を抜け出した。
あの細い足で、身重な体で、いったいどうして佐保の地まで駆けて行ったというのだろう。
愛おしい娘は、その晩、真の罪人となった。
やはり彼女は、宿敵に違いなかったのだ。
美しい佐保の地を治める姫と彦。
その片割れである彼女の、兄である狭穂彦への思いは、そして一族への思いは、私の愛では立ち代ることはできなかった。
あれほど純粋な少女の心を、私は奪うことが出来なかった。
狭穂彦は、稲を積み城を作った。
愚かなものだ。
昔ながらの戦の方法ではあるが、炎を前にその力は無いも同然。
一度は私に屈した分際である。
兵力も武器もそう多くはなかったのだろう。
私を殺し損ねた宿敵は、もはや力を失って、ただの謀反人となっている。
愛おしい姫と、死ぬつもりなのだろう。
実に愚かだと憎々しく思った。
沙穂彦を生きたまま八つ裂きにするか、焼き殺してしまいたい衝動に駆られる。
あの男さえいなければ、可憐な少女はこのような苦悩を知ることもなかった。
戦地の中で出産に臨むことなどなかった。
このような死の恐怖を味わうことなく、私の傍らでただ、いつまでも少女のように朗らかでいていられたはずなのだ。
あの男さえいなければ――
そしてふと、なぜその男が私から狭穂姫を奪ったのか、思い出した。
そもそも私が、佐保の一族から、狭穂姫を奪ったのだ。
狭穂彦は私から、宿敵から姫を取り返したに過ぎない。
それは私の策であった。
それはあの男の愛と矜恃であった。
そしてそれがあの少女然とした姫の、まるで芯のない清らかな子どもに見えた愛おしい妻の、生き様となった。
彼女はそれから数日して、子どもを産んだ。
男皇子だった。
本来であれば私の第一子としてこの国を背負うべき皇子である。
だが彼は既に、罪人の子であった。
どうかこの子を天皇の御子と思われるならば、お引き取りください。
その便りに、待っていたと飛びついた。
愚かな私は、何としてでも子ども諸共彼女まで取り戻そうと思ったのだ。
力の強い兵士を集め、なんとしてでも引き連れて帰ってくるよう言った。
ところが彼女は美しかった髪も全て剃り、着物も全て腐らせていて、何一つ引き摺り戻すことを許さなかったのだという。
―私はここで死にます。―
そう言い放った姫の様子は、以前とは様変わりしていたという。
余りの意志の固さに兵士が躊躇った隙に、城に戻ってしまったらしい。
ただの少女のようだった娘は確実に、戦の渦中にいる一人の将になっていた。
それでも愚かな私は彼女を引き留めんと稲城に赴いた。
そうだ、もはや愚か者は私だった。
宿敵とわかっていながら、天皇でありながら、彼女に絆された、私だった。
―子どもの名は母親がつけると決まっておるぞ。―
―
―お前は、私を置いてゆくのか。
愛を誓った私をおいて・・・お前、私にどうしろと。―
―清い乙女が二人。
どうぞ妃になさってください。
その二人は誠実なお人柄、決して貴方様を裏切ったりは致しません。
・・・私のように。―
甘い声はその甘さゆえに私の心を深く抉る。
彼女は死のうとしていた。
私に、殺されようとしていたのだ。
幼気な少女の、ようやっと作り上げた真の心は、ただただ死に向かっていた。
―
臣の声が、私を男から天皇へと引き戻す。
表情を失い、声は冷静を取り戻す。
私は冷たく言い放った。
――焼き尽くせ。
***
我が子が初めて迎える春はうららかで、朗らかで、あの炎を忘れてしまうのではと錯覚する。
だが、腕の中の息子、
何よりも愛おしい我が子は、誰よりも愛おしい妻が名付けた、恐ろしく禍禍しいあの夜の名を持つ。
狭穂姫は佐保の地を捨てさせられ、私の妻となった。
それはお前が私を裏切り、兄とともに佐保の国を再興するための罠に過ぎなかったのだろう。
お前は、私よりも兄を愛すと言ったのに。
お前は、兄と共に私に焼き殺されたというのに。
私は、それでも猶――
(もし私が天皇ではなく、ただの男であったなら。
もしお前が、佐保の地を治める姫ではなく、ただの少女であったなら。)
そんな仮定などするだけ無駄だということは承知の上だ。
だが、それでも考えずにはいられない。
(お前は今も傍にいて、共に夫婦となったこの日を祝い、この子の隣で微笑んでいたのだろうか。
それとも――)
腕の中で息子は眠りについていた。
その表情はあまりに亡き妻に似ている。
男子は母に似るとは聞いていたが、真であった。
だからこそ辛い。
あまりに、辛い。
(私たちは互いに出会わぬまま、本牟智和気御子も生まれぬまま時を過ごし、死んだのだろうか。
なぁ、狭穂姫よ。
お前はどちらを望む?)
彼女が嫁いでから、4度目の春が訪れた。
荒れ果てた佐保の地に、今年は誰が植えたでもない美しい桜が咲いたのだと聞く。
その桜を思うと、胸が掻き乱された。
(私は罪人を恨み、憎み、生きてゆかねばならん。
なぜなら私は天皇であるからだ。)
私は罪人であるお前のために涙を流すことさえ許されない。
「私はもう、誰も愛せないよ、狭穂姫。」
最愛の人 吉晴 @tatoebanashi
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