翌日、図書室にて──

(更新中……)


 そして、転入生の有栖川ありすがわすみれが推小研に入部した、その次の日。

 これと言って何事も無く、平穏無事な一日が過ぎた、そんな火曜日の放課後──。


この学校の図書室の実質的な管理人である現国の先生から図書室の貸し出し当番の仕事を頼まれた為、俺は自分と同様に図書委員をする事になったクラスメートの桧藤ひとう朋花ともかと、校舎二階の図書室へとおもむく事にした。

 先週、始業式の翌日に行われたLHRロング・ホームルームでの話し合いにて決まった通り、俺は二年生だった時と同様、クラスで男女各二名を選出する委員会活動に付き、引き続き今年度も図書委員をする事に決まったからである。


 俺と桧藤は、図書室に着いたら最初に行うべき開室作業を、年季の入ったこなれた動作でてきぱきと滞りなく実行し、やがてそれをし終える。

 そうしたやらなければならない作業が全て済んで仕舞うと、俺達は図書室の出入り口近くにあるカウンターの内側の椅子に座って一息吐き、ようやく、貸し出し当番のメインの仕事である、貸し出し係の作業をする事にする。

 当番の俺達は、これから閉館までの時間、ここでゆっくり過ごす事になる。

 相方の桧藤ひとうは、既に先刻から茶色の紙カバーの掛かったタイトルの分から無い文庫本を鞄から取り出し、それをゆるゆると読んでいて、俺の方はと言えば、下校時刻が早まった為か、普段よりも利用する生徒の少ないこの図書室の様子を眺めながら、桧藤と同じく、自分の鞄の中に仕舞ってある読み掛けの本を読もうかどうか、状況を見つつ考えている所だ。


 貸し出し当番の仕事内容は、至ってシンプルで、それは高校生であるならばどこの誰にでも出来るような、簡単なお仕事である。

 あらかじめ決められたシフト表によって、その当日、貸し出し当番の仕事を命じられた図書委員の生徒は、まずその仕事の開始として職員室へと向かう。

 この学校の図書室は、本の盗難や室内でのいたずらなどが発生し無いよう、使わない時には施錠せじょうしてあるので、当番は、シフトの開始として、まず職員室へと行き、そこで図書室を管理している先生からそこの鍵を預かる必要がある。

 この時、ついでに何かするべき用事は無いか他の用件も聞いて来るが、今日は特にやるべき事は言い付から無かった。

 そうして鍵を持った当番は、図書室へと行ってその閉じられたドアを開放すると、設置されている唯一の照明である蛍光灯の点灯をした後、軽く室内を見廻みまわりつつ、窓を開けての換気を開始するなど、開室に必要な作業を行う。

 ドア、そして窓と言った出入り口全てを施錠されている普段の図書室は、夜の校舎と同様、基本的に人や猫・鳥などの中型以上のサイズの動物などは出入り出来無い密室となっており、見廻りの際、もしこの中で何事かが起きていたならば、それはそうした密室を破り、侵入した者がいた事を意味する。

 ……当然、その犯人が元々、図書室の中にひそんでいた場合も含めて。

 だがしかし、この図書室の天井には、校舎内の廊下や各教室などと同じように、動体を感知する丸いドーム状の形をした赤外線センサーが取り付けられているので、夕方から夜に掛けて校舎が戸締りされ、警備システムのスイッチが入れられたその後では、センサーに引っ掛からずに何らかの動作を行う事は、まず不可能だろう。

 俺の家と同様に、窓を開けたり、椅子や机を動かしただけでも、天井のセンサーと繋がっている警報装置が作動して、警備会社と警察に通報が行くに違いない。

 よって、この図書室に夜間に侵入して何かを行う事は、まず不可能だと言える。

 先程、見廻った時も、特に異常は無かったしな。


 さて、そうしてドアの開錠を終えて、開室作業が済んだ後、貸し出し当番一名は、先程開錠した図書室の出入り口であるドアへと向かう事になる。

 そこへ行った当番は、ドアの内側に掛かっている図書室の利用可能状況を知らせる看板を、まるでこれから開店時間になる飲食店のように、閉室中から開室中へと切り替える。

 それで、全ての開室に必要な作業は完了である。

 その後、開室作業を終えた貸し出し当番は、いつもならば午後五時過ぎ頃の閉室時間まで、一斉下校時刻の早まった最近では四時二十分頃まで、その主たる業務であるカウンターでの貸し出し作業に従事する事となる。


 貸し出し作業と言うのは、端的に説明すれば、貸し出しカウンターの内側に置かれた椅子にただじっと座って本を借りる人を待っていれば良いと言うだけの、実に簡単かつ楽な作業だ。

 そこでダラダラと過ごしていると、主に図書室内にいる生徒、時たま先生などが、借りたい本をその手に持ってカウンターにやって来るので、その時、貸し出し係は各クラスごとに中身が整理されている合板製の引き出しを出し、保管してある個人の貸し出しカードを取り出させる。

 本来、この作業は図書委員である貸し出し当番の仕事だが、クラスは分かってもその名前の読み方が難しい人や、同姓で下の名前が一字違いなどの人が同じクラスにいる為に貸し出しカードの取り違えが起こったりするので、貸し出しに熟練した図書委員は、基本的に本人にやらせる事にしている。

 佐藤とか田中とか田崎みたいな同姓が一つのクラスに一緒に所属している場合はしばしばあるので、引き出しの中をざっと見て、そう言ったケースだった場合には、一応、本人確認を行う。

 本校では、生徒はまるで運転免許証の様に証明用の顔写真の入った生徒手帳を持ち歩く事とされているので、当番は本を借りたい生徒にそれを出して貰い、確認する。

 引き出しの中から本人の貸し出しカードを見付けたら、更に本の裏表紙の内側に入っている貸本用のカードも取り出して、その両方に必要事項を書かせる。

 そして、記入の終わったその二つを受け取ると、それをクリップで留めて一纏ひとまとめにし、元通り引き出しに仕舞うだけと言う、実にお手軽な作業である。

 つまり、この貸し出し作業は、基本的には待ちの作業であり、比較的利用者の多い昼休みに当番に当たった時とは違い、利用者が続けざまにカウンターにやってくる事は少ない。

 よって、放課後の貸し出し当番は、極めて暇だ。


 図書委員が行うそれ以外の仕事としては、図書費で購入された新刊の本に、日本十進分類法で決められた三桁の管理番号を振り、表紙などに学校の所有物である事を示すスタンプをして汚損防止用の透明なカバーを掛けた後、その管理番号に基き、指定された本棚に置いて貸し出せるような状態にする新刊出し作業、何かの授業などで借り出された本が元の本棚に置かれず、カウンターに返却されている事があるので、それを元通りの場所に置く作業をする事などがあるが、図書室の鍵を預かって来た先の国語の先生には、今日は特に何も言われなかったので、今回はそんな作業をし無くても良いようだった。

 すると、当番が終わるまでの時間は、カウンターに座ってただ閉館時間を待つだけの仕事と言う事になる。

 その時間は全く無為むいなる時のような気もするが、貸し出し当番の任を与えられた者は、別に役所や企業の受付のように、そこに用事のある人がいなくてもじっと前を見て待機していなければならないなどと言う事は無く、別に読書をしていようが宿題をやろうが、放課後ならばケータイでメールをしていようが全く構わ無い事とされているので、俺も桧藤もお互いに話すような話題が特に無ければ、そんな風にして、適当に時間を過ごす事にしている。

 さて、手持てもち無沙汰ぶさたなので、俺も自分の鞄から本を取り出す。

 その推小研部長の高梨たかなし玲人れいとから借りて来たハード・カバーは、割と最近に出たミステリーで、米澤よねざわ穂信ほのぶの『満願まんがん』である。

 これを借りて来た当時の高梨の説明によると、その本におさめられている短編の一つに、佐原さはら成海なるみと言う名前の人物が登場するのだが、これがあまり良い人格と素行の持ち主では無いらしい。

 三年六組と七組にまたがる交流をしている優等生グループの一員として、清く正しく、常に品行方正な振る舞いをしている俺とは、全く正反対の人物のようだ。

 苗字では無く下の名前の方の一致とはいえ、俺や家族と共通した名前を持つ登場人物の出ていると聞いたその本を、俺自身が読んで内容を調べておかない訳には行かないので、その時、その場で読んでいる時間の無かった俺は、高梨に頼み、その本を借りて来たのであった。

 既に本になっている内容が変わるはずも無いのだが、俺は心の中で、その佐原と言う男が強盗殺人などをする極悪非道の凶悪犯では無い事を祈っているのだった。

 俺は手にした『満願』を眺めて、

 今日の図書室内の利用者数は、いつもの放課後のように閑散としており、特に混み合っている訳では無い。

 なので、今、桧藤がそうしているように、相方の俺の方も、もうそろそろ自分の自由な時間を過ごしても良いような頃合いだ。

 だが、俺が高梨から借りて来た本を読み始めない事には、一つ理由がある。

 開室作業を終えて、カウンター席に座り、生徒を待つ。

 ここまでは、完全に普段と同じ、通常の火曜日の放課後に過ごす、俺が二年生の時と全く変わる所の無い、ごく普通の日常の風景だ。

 だが、そんな普段とは全く違った異様な事が、たった今、この図書室内では起きており、それが何やら不穏な雰囲気を醸し出していて、俺はどうしてもそれが気になり、自分の鞄から借りた本を出して読むのがはばかられているのだった。

 その、普段の図書室とは違った事柄とは──。


 実は、先程、開室作業を終えてすぐの辺りから、この図書室内に、推小研の部長である学園の名探偵の高梨玲人が殺気立った表情で、続いて、推小研の部活動顧問である上田うえだ春子はるこ先生が、何やら嫌そうな浮かぬ顔でやって来た。

 両人ともカウンターにいる桧藤と俺の方へ一瞥いちべつもせず、南の窓際の方へと歩いて行くと、そこで意気盛んに白熱した議論を戦わせ始めたのである。


 上田先生は二年前にこの学校に新任でやって来た、主に一年生の社会科の授業を担当している若い女の先生で、俺が一年生の時には、授業を受けた事もある。

 前年度まではどこかのクラスの主担任の先生を補佐する立場の副担任をやっていたのだが、今年からようやく主担任として自分のクラスを割り当てられたようで、そしてその上田先生が初めて担任として君臨するクラスと言うのが、俺の妹の香織のいる一年三組の教室なのであった。

 上田先生は若い先生に似合わず、気の強い所があるが、その顔立ちなどは、まあ、この学校の先生の中では割と美人な方だ。

 やはりと言うべきか、結婚はまだされていないそうだが。

 さて、そんな上田先生と高梨がしている話の内容と言うのは、部室で有栖川が提案した、例の、ここ最近起きた二つの事件を推小研のみんなで調査すると言う提案と、その後に行った議決に付いてだ。

 高梨の計算としては、部内の議決内容である、推小研による事件への調査につき、今日、上田先生にその話をして、顧問の指導として、そうした流れに歯止めを掛けて貰う腹積もりだったようだが……。

 言い合いのような議論が白熱し、もはや図書室にはふさわしくないレベルの声の音量になりつつある会話を、その二人が立っている窓際の位置からはさほど遠く無い位置にある貸し出しカウンターより聞き耳を立てていると、どうも事は上手く運んでいないようだ。


 上田先生は溜息を吐きつつ、こう言った。

「全く、高梨君のそう言う所、顧問の私としては手が掛から無くて感謝しているわ」

「……勿体無いお言葉です」

「でも、あの事件については、私の方から顧問としての立場で、どうこう言う積もりは無いのよ。それに、既に推小研だけじゃ無くて、新聞部の方でも強力に探りを入れているって聞くけど。新聞部顧問の先生としても、部長以下、部員達の自主性と目標への努力を重視すると言うか、要するに、ほぼ野放しのようだし」

「新聞部がですか?」

「あら、初耳だったかしらね。高梨君にしては珍しい事だと思うけれど」

「存じ上げませんでしたが、今の新聞部の部長をしているのは、確か二年生の生徒だったと思います。私が聞き及ばなかったのは、そのせいでしょう」

「今、推小研にいる二年生の部員は、永瀬さんだけだものね。まあ、たまにはそんな事もあると言う事ね」

「しかし、その新聞部の活動と、私達、推理小説研究部の活動には、直接には何らの関係も無いと思いますが。先生が我々が下したこの議決内容を止めて頂ければ、部員の安全は確保されます」

「うぅっ……そう言うと思ったわ。でも、他所の部活である新聞部が、この事件に付いてそう言う活動をしているのに、推小研の方は自粛を求めると言うのは……そうね、何と言うか、学校側の立場として整合性が無いから、余り気が進ま無いのよ。第一、新聞部の人達が随分とネタを集めていそうな状況なのに、あなた達推小研の方は、それを指をくわえて見ていても良いものかしらね?」

「私達、推小研と新聞部は、各種メディアのように、記事や番組になりそうなネタ探しの競争、言い換えれば、取材競争などをしている訳ではありません。第一、学校側のそうした、或る意味放任主義とも取れる指導態度は、仮に万一の事が起きた場合、世間から非難を受け、更には生徒の安全を守る義務のあった先生方と学校側の責任を追及される事になるでしょう。先生はそうなっても良いのですか?」

 高梨は語気を強くし、上田先生にそう訴え掛ける。

「うーん……そ、そうなのよねえ。今を思うと、確かに、そんな新聞部の状況は、私の方としても、個人的に少しどうかと考えていた所よ。でも、阿部君の事件以来、集団登下校も実施しているのだし……。そうしてみると、いたずらに生徒の行動に規制を掛けるって言うのも、なんだかまるで学校が事件を隠蔽しているみたいで、学校運営の透明性の問題として、よろしくしく無い思うのよ。ほら、いじめ問題とかが持ち上がったりした時、良く、学校側が裏工作をして、いじめは無かったとか分から無かったとか、口裏を合わせたりしていた事が、最近、頻繁に問題化して騒がれているじゃない? それに、何かを調べたり、言論の自由を行使する事などは、憲法によっても立派に認められている事だし」

「それはそうかも知れませんが、生徒の活動に明白な危険がある場合は、それを制止するのが学校側の義務では無いでしょうか」

「そうね……。私の受け持つ社会科や、倫理の授業でも教えたけど──権利の自由度を広げようとすれば、安全が犠牲になる。安全を確保しようとすれば、自由度が犠牲になる。これはそう言うシーソー・ゲームみたいな、あちらを立てればこちらが立たずと言うような、構造問題の一種なのよ。そう言うゼロサム・ゲームにも似た構造の事を、トレードオフの問題と言うのだけれど。一般社会で起こり得る問題の殆どは、そうしたゼロサム的と言うか、実現すべき事柄の両立てが出来無い、トレード・オフな構造を持っているわ。それゆえに、社会で起きているほとんどの問題は、誰もが納得出来るような解決方法が無い場合が多いのよ。この問題も、報道の自由や生徒の自主性と、生徒の安全を天秤に掛けた、難しい問題なの」

「おっしゃっている事は分かります。報道の自由や生徒の自主性を尊重する事と、安全性を確保する事は、トレードオフの関係性を持つ、難しい問題だと」

「流石、高梨君ね。理解が早くて助かるわ」

「差し出がましいかも知れませんが、そんな事よりも、本題に戻って下さい」

「分かったわ。いつまでもこんな議論を続けても仕方が無いから、あなたには少しだけ話して置くけど……。実は、新聞部の活動に学校側が規制を掛けられ無いのは、あなたの知ら無い学校サイドの裏事情、つまり、わけがあるのよ」

「学校側の裏事情? 一体それは、何なのでしょうか? お聞かせください」

 先生は高梨の度重なる追及にウンザリしたらしく、すっかり降参した表情で言う。

「もう、本当にしょうが無いわね……。この事は、生徒個人のプライバシーをも含む問題だから、ごくごく内密に頼むわよ。高梨君は、それを誓えるかしら」

「分かりました。お聞きした事を、絶対に口外し無い事を誓います」

「分かったわ。……ついでに、あなた達の方はどう?」

 先生はこちらを見て、そう問い掛けた。

 やはり、貸し出しカウンターで聞き耳を立てていた事はご承知だったようだ。

 そりゃ、こうして目の前で話しているのだから、高梨の他に、近くに推小研の三年の部員が二人もいる事くらいは、先生の視力ならば最初から見えていた事だろう。

「あ、はい。誓います」

 俺は恐縮して、座ったままそう返事をする。

 それに合わせて、桧藤も黙って深く頷いた。

「そう……じゃあ、あなた達には話すわね。単に私がその提案を危険と判断したって言うだけでは、言い出しっぺの有栖川さんの方も、納得行かないでしょうし。だからこそ、部長のあなたも、こうして私に活動への口出しをして貰いたいと言う事なのでしょう?」

「それは……。いかにも、おっしゃる通りです」

「じゃあ、話してあげるわ。もっとも、この話については、本当に大きな声では言え無い事なのだけど……。実は、新聞部の現部長である??さんのお父さんは、そのお仕事として弁護士をされているのよ」

「弁護士を……? それが、どうかしたのですか?」

「それが……彼女のお父さんは、弁護士の中でも、特に人権派と呼ばれている種類の方で、社会運動とか、その界隈かいわいでは、そこそこ著名な方なのよ。労働者の権利とか女性の権利とか、後は国民の権利とか、その手の権利を世の中に訴え掛ける人達の中では、急先鋒と言えるわ。たまにテレビとかでコメンテーターとして呼ばれる事もあって、新聞や雑誌と言ったマスコミとも、そこそこの繋がりがあるみたいね。??さん自身も成績は良いし、将来は新聞や雑誌の記者など、ジャーナリズムとかかわりのある職業に就職したいと考えているようよ。つまり、学校側がとやかく言え無いのは、そんな親御さんを持つ??さんが率いている新聞部に、無闇と調査や報道への規制を掛ければ、最悪の場合、彼女のお父さんと学校側との間で訴訟になるとか、そう言う別のリスクに発展し兼ね無いと言う事かしら」

 なるほど、学校側が新聞部を放置に近い状態で野放しにしているのは、そう言う訳があったからのか。

 この先生の説明に、高梨はその険しい表情を更に険しくして追及する。

「つまり、学校側は生徒の保護者の無言の圧力に屈して、生徒の安全をおろそかにすると言う事でしょうか? お言葉ですが、学校側がそんな危険な状態を放置するならば、それはそれでリーガル・リスクを招くのではありませんか?」

「あなたには、そう思えるかも知れ無いけど。いや、事実上、そう言えるかも知れないわ。でも、そうであったとしても、この県立東浜高みたいな公立の学校が、憲法で保障されている生徒などの権利をあからさまに侵害すると言うのは、やはり、無闇と行って良いものじゃあ無くて、明確な根拠が必要ね」

「凶悪犯罪に巻き込まれる危険性があると言う事の、どこが不明確な根拠なのですか?」

 低い声でそう言い、高梨はすごんだ。

「いや、その事に付いては、一応、認めるのだけど……。でも、それに付いて学校側が現在やっている以上の事、例えば、新聞部がやっている事件の調査活動を停止したり、校内新聞への報道規制を敷くとか、そう言った事は、この社会のあり方に付いて色々な意見を持っている大人同士の衝突を招くような事柄と言うか……要するに、一種の紛争の火種であって、学校側は割けなければならないリスクなのよ」

「そうした規制を掛ければ、訴訟のような紛争が起こり得るリスクがあるは分かります。ですが、リスクの大小の比較問題として、新聞部サイドとの訴訟リスクは、生徒が事件に巻き込まれる事で発生するリスクよりも、より小さいものでは無いでしょうか? 学校側、そして生徒は、将来起こり得るリスクへの判断に付いては、保護者との訴訟のようなとるに足らないリスクよりも、生徒の生命の危機と言う、より大きなリスクを回避すべきなのです」

「そうね、それは、その発生確率がどれぐらいなのかと言う事も関係してくるのだけど……。保護者との訴訟リスクなどよりも、生徒の生命に対するリスクの方が、より大きくて避けるべきリスクだと言える事は、認めるわ。確かに、基本的には、それはその通りで合ってるのだけど……。新聞部部長のお父様との訴訟リスクなんてものは、言って見れば国会や地方自治体の議会などで戦わされる、政治を巡る政党や議員同士の対立みたいなもので、それ自体が直接に人の生命を脅かすような性質のものでは無いものね」

「ならば──」

「……でも、建前としては、学校は憲法で保障された権利に付いて正しく教えると言うのが、学校教育のあり方だもの、明らかにそれが必要不可欠と言うのでない限り、現実問題として、生徒の行動に関し、学校はこれ以上の規制は掛けられ無いわ。学校からすれば、この所、ただでさえ犯罪事件が連続して発生して大問題になっていると言うのに、そこに加えて、更に生徒の保護者との訴訟リスクを取る事は、どうしても避けたいのよ」

「しかし、報道の自由のような権利が、安全確保を理由に侵害されたとしても、それは、言わば正当防衛や緊急避難のような、正当な行為に当たるのでは無いでしょうか? それに付いて、損害賠償のような義務を負う事は、無いと思いますが」

「それがそのまま通じれば良いんだけど、裁判所に通じる理屈なのかどうかは、やってみなければ分から無いわ。あなたも知っているでしょうが、学校側は階段室での事件発生以来、全校集会やHRホームルームなどで、再三に渡って不審者に気を付けるよう注意指導を行い、かつ、集団登下校を実施しているでしょう? その時点で、学校側は十分に保護監督責任を果たしており、それ以上の活動規制は過剰である、と言う考え方も、一応、筋が通っているように見えるでしょ?」

「ですが、犯人の見付かっていない凶悪犯罪に付いて、何らの対抗手段を持たない生徒が捜査まがいの事をすると言う、無謀とも思える危険な状況を傍観した事を原因として、生徒が次なる事件に巻き込まれて仕舞えば、その結果責任を負うのは学校側では無いでしょうか? この辺りの事に付いての、学校側の立場や考え方、主張をお聞かせ下さい」

「それは……。もう、だからこれは内密な事だと、さっき言ったじゃ無いの。職員会議などで、明確であからさまにそう決まった訳では無いのよ。その辺りの事は、玉虫色と言うか、そんな具合になっているわ。当然、新聞部やあなた達に危害が加えられるような明白な危険性が証明されれば、その後は、生徒達による捜査まがいの調査を禁止せざるを得ないでしょう。これが現在、新聞部とあなた達の部活動に対し、学校サイドが取っているスタンスの現実かしら」

「しかし、警察官でもない生徒が事件を探ったり、それに関する証拠や分析などを部誌や校内新聞など公表でした場合、それは犯人にとって自らの逮捕率を高める不利益な行為です。阿部のように襲撃するなどして、それ以上の調査を実力で阻止しようとしたとしても、全く不思議ではありません。この点、どう見ても、新聞部の行動や、有栖川の提案から始まった推小研内の議決を野放しにする学校側の対応は、安全確保の側面から見て不十分だと思えます」

「それに付いては、こう考えて頂戴。もしあなた達や新聞部の活動にストップを掛ければ、それは百パーセントの権利侵害となり、正当性を証明する責任があるけど、生徒が不審者に再度襲われる確率は、百パーセントでは無いと言う事なのよ」

「将来に起こるかも知れない犯罪に付いては、単なる可能性に過ぎないから、学校側は対処し無いと言う事ですか?」

「あなたの言う襲撃に付いてだけど、事件の状況からして、阿部君は狙われた訳では無く、部室に忘れ物をした結果、偶発的に通り魔の襲撃に遭ったようだけれど? これに付いては、あなたはどう思ってるのかしらね」

「犯人が阿部を襲撃し、傷害を負わせる事件を起こしたその動機に付いては……。彼を事件が発覚した原因を作った者と、そのすきうかがって起こした逆恨さかうらみでの犯行なのか、それとも、野球部の部室近辺にて、階段室の事件と同様の犯行を行おうとした所、たまたま偶然、彼と行き会って仕舞った為、警察への通報と追跡を恐れて犯行に至ったのか──。そのいずれであるかは、今の所、判然としません。しかし、今後、新聞部などが事件に付いて調査した結果を校内新聞などで発表すれば、今度は新聞部の部員が阿部のように襲われて仕舞う危険性が高まる事は、明白です。危険性があるのならば、予防措置を講ずるべきなのです」

「そうね。本当は、それが理想なのだけれど……。それでも、そうした危険性と権利とを天秤に掛けたとして、最終的な判断として果たしてどちらに動くのかは、中々予想の付か無い事なのよ」

 そうこぼすように語る先生に対し、高梨は力強く自らの主張を訴え掛ける。

「安全だと言う確認が取れ無いのなら、それは危険だと言う事です。実際に起こった犯罪事件に付いて、高校生の生徒達が自らがその調査に乗り出すと言うのは、何の対抗手段を持たない子供が徒手空拳で警察の捜査の真似事をすると言う事であり、それは百パーセントで危険性がある行為です。例えその危険性の具体的な中身が、いつか誰かが阿部のように襲撃されるかもしれ無いと言うレベルの抽象的なものであったとしても……。生徒を指導・監督する義務のある学校側は、可能な限りの全ての手段を講じて、生徒の安全確保に努めるべきでは無いでしょうか? 今回持ち上がっている推小研と新聞部のそうした危険な調査行動を、学校側がその権限でもって停止させる事は、もはや監督責任の範囲と言えます。特に、推小研の調査活動の停止に付いては、顧問をして下さっている先生の権限でも、それを命令する事は、現時点でも十分に可能な事では無いでしょうか?」

 この剣幕に、上田先生はゲンナリした様子で溜息を吐く。

「うーん……。はぁ……。高梨君、まったく、あなたには本当に勝て無いわね」

「議論の負けを認めるならば、今すぐ、調査活動の停止を命じて下さい。先生がそうおっしゃったと言いさえすれば、それを提案した有栖川も納得するはずです」

 先生は、お盆を過ぎた辺りに見る、墓の前に供えられて何日も経った花のように、その場でしおしおとうなだれた。

「ああ、やっぱりそうなるのね……? もう、本当にしょうがないわね。分かったわ、私の負け。とりあえず、部長のあなたの考えと、その意気込みは理解したわ」

 ようやく、上田先生は降参したようだ。

「ただし、ただの一教員に過ぎない私に、今後の学校側全体の動きに付いて、どうこう出来ると言う訳じゃあないのだから、そちらについては、職員会議などで、私が周りの先生方に何か働き掛けをすると言うような話は、今回、勘弁して頂戴?」

「はい、分かりました。新聞部がその活動上で抱える問題については、学校側全体の問題ですから、今日の所は、それで引き下がろうと思います」

「え、今日の所はって……。高梨君、あなた、この私を相手に、まだこんな終着点の見えない長大な議論を続ける積もりなのかしら?」

「自分は、この学校の生徒として、また、他ならぬ推小研の部長として、その安全の確保に必要だと思われる事をするまでです」

「はぁ、見上げた根性と言いたい所だけど、少し呆れて仕舞うわね。どうしてあなたって、そう言う風に石頭と言うか何と言うか……頑固がんこなのかしら」

「はい、良く言われます」

「えっ、そうなの……? まあ、良いわ。とりあえず、今日は推小研の事だけで良いって言うのなら、話は早いわね。ならば、私は推小研の部活動顧問として、部長の求めに応じ、部の活動の安全に付いて、必要と思われる配慮をする事とします」

「ありがとうございます」

 高梨は深々と頭を下げる。

「それで、推小研の調査に付いては、この場で停止を命じて頂けるのでしょうか?」

「そうね、ううーんと……。それに関しては、今、ここでちょっと対策を考えるから……。二、三分、時間を頂戴」

「分かりました。それでしたら、このままお待ちします」


 先生は、眼前でじっと待機している高梨を前に、うんうんと唸りながら腕組みをしたり、首をかしげたりして考え込んでいたが、しばらくそうしていた後、ようやくこう言った。

「ふう、考えがまとまったわ。──そうね、じゃあこうしましょう」

「はい」

 真剣な眼差しを向ける高梨に向き直ると、先生は姿勢を正し、肩の横にてのひらを掲げ、そこで真上へ向けて、ぴんと人差し指を立てた。

「最初に、まず一つ目から。推小研で持ち上がっている、事件に関する自主的な調査についての事だけど。この件に関しては、諸事情から新聞部の活動を事実上放任している学校側の立場・主張との整合性を図る為、推小研顧問の私としても、表向きには、これを許可する事とします」

「しかし、先生、それでは──」

 高梨が反駁しようとしたのを、先生は取り戻したいつもの調子で制する。

「いいかしら。高梨君。他人ひとの話は、最後まで聞いて頂戴」

 これに対し、高梨は軽く会釈して謝罪する。

「……はい、申し訳ありません」

 先生は天井に向けた人差し指はそのままに中指を立て、ピース・サインを作った。

「表向きは、と前置きしたでしょ? そして、二つ目。ここからが重要なのだけれど……その推小研の調査活動の範囲については、物理的・地理的に言って、この学校の敷地内に限る事とします。当然、あなた達は放課後の部室などに集まって、調査や議論など、これまでと同様に各自思い思いの活動をするのでしょうから、そこに私なりの監督責任の果たし方と言うか、規制を掛けさせて貰う事にするわ。新聞部とその顧問の先生のように、完全に自由放任と言うのは、やっぱり、この私としても何と言うか、我慢がならないし」

 そう言う上田先生の口振りから察するに、これはもしかすると、市民運動の活動家のような人権派の弁護士の父を持つと言う部長と、以下の部員達にやりたい放題の事をさせている新聞部の顧問の先生と、先生同士の言い合いのようなものなど、何か因縁いんねんあさからぬ事があったのかも知れない。

「左様ですか」

「ええ。やはり、生徒が犯罪事件に自ら首を突っ込むと言うのは、マズいと思うのよね。あ、これはオフレコにして置いて欲しい事だけれど。新聞部の部長さんの話と同様、部外秘ぶがいひと言うか、内密に頼むわよ」

「了解しました」

「……そう言う訳で、今後、あなた達推小研が、その活動内容として校内で事件の調査を行う場合にも、学校側が事件への対処として打ち出している、最終下校時刻である午後四時半までに必ず下校すると言う活動限界の縛りは、必ず守る事。部活動をする時間がその時刻までで、かつ、その範囲がこの学校の敷地内のみと言う事であれば、それなりに安全は図れるでしょ? 阿部君が襲撃されたのは、午後六時半過ぎと言う、かなり遅い時間の事だったと聞くし。……これで、良いかしら?」

 そう聞いて、数秒ばかり考えていた高梨は、如何いかにも剣呑けんのんだったその険しい顔付きを緩めた。

「……はい、有難う御座います。先生のご配慮にいたります」

 高梨は穏やかな表情でそう言い、再び頭を下げた。

「それでは、私は用事がありますので、これで失礼致します」

「あら、あなたはもう帰るのね? ……それじゃあ、気を付けて」

「はい。本日はありがとうございました」

 最後にそう言うなり、高梨はきびきびとした動作で図書室から出て行った。

 そのぎわ、カウンターの前を通る時、

「成海、済まない。急いでいるので、後でメールする」

 と言って、こちらに手を上げて別れの挨拶をする事は忘れなかったが。

 俺は「ああ」と返事をして、桧藤と共にそんな高梨の背中を見送った。


 さて、今の話を見聞きしていた俺は、事態を上手く飲み込めずにいた。

 ──すると、だ。

 結局、これって、どう言う事なんだ?

 つまり、有栖川の提案通り、事件に対する調査はするって事で良いのか、これ?

 あの高梨がこれだけの手間と時間を割いたにも関わらず、昨日、有栖川が部室でした提案が通って仕舞ったようで、俺としてはすこぶるしゃくな展開だ。

 それにしても、学校内での自主調査か……。

 それがこの東浜高の敷地内に限られて仕舞うのは、何だか中途半端な感じもするが、少ないとはいえ、ここにいる桧藤を含め、推小研には他にも何人かの部員もいる事だし、それはそれで、少しは楽しめそうな事柄のような気もする。

 今は四月の初旬なので、進学や就職などの備えする三年生の一般的な部活動引退の時期が十月だとすると、それまでは、あと半年間くらいだ。

 入学以来、これまで俺は学校での活動は何一つ熱中する事無く、ダラダラと二年余りも過ごして来て仕舞ったが、これはもしかすると、そろそろ本気を出して、部活などで何かに取り組んでみる頃合いなのかもしれないな。

 今回、この学校で連続して発生している奇怪な事件への調査。

 この春、そんなちょっと危なげな事柄が無事に済みさえすれば、後は推小研のみんなで夏休み前の部誌作りに励んで、その後は十月に予定している学園祭にも、勉強に差し支え無い程度にはそこそこ打ち込む事にしよう。

 そうして、それでも足りなければ、クラス対抗で行う秋の合唱コンクールにも注力して、そしてそこで──。

 そこで、俺の高校時代に行う青春らしい活動に付いては、ひとまず、一旦、綺麗さっぱりと片付けて、お仕舞しまいにすれば良い。

 その後は、まずは受験勉強の仕上げをしっかりやり、第一志望の国公立大学に受かって、そこへの入学を無事に果たしてから、青春らしい事を再開すれば良いはずだ。

 大学生にもなれば、入試に向けての勉強や学校の時間割など、色々なものに縛られている高校生とは違って、自分で出来る活動の自由度も大きく広がる事だしな。

 なので、まだ高校に通っている身である今は、とりあえずはその程度の事でお茶を濁して置き、大学に入ったら授業に出てしっかり単位を取りつつ、そこで思う存分、趣味に打ち込む時間を取ったり、ちょっとした旅行に行ったり、好きな教科の数学の研究をしたり、後は将来において自分が仕事として行きたい事を見付けたりとか、そう言う、如何いかにも若者らしい青春を謳歌おうかすれば良い。


 と、そんな事を考えていると、一難いちなんって、すっかりやつれた様子の先生が、浮かぬ顔でヨロヨロとカウンターの方へ歩いて来て、こう言った。

「はぁ、疲れた……。あの子と長く話をしていて、何だかすっかり肩が凝って仕舞ったわ……」

「あ、さいですか……。それなら、この後、図書室に用事がおありで無ければ、職員室などで休まれたら如何いかがですか?」

「そうね、そうしようかしら……。あ、そうだ、桧藤さん。ちょっと悪いんだけど、良かったら、この私の肩を揉んでくれないかしら?」

 この上田先生の求めに、桧藤はこころよく応じ、カウンター内側の席を立つなり、そこに先生を座らせて肩を揉み始める。

 その後、窓際のソファに座る先生とその肩を揉む桧藤を隣に、俺は鞄の中から取り出したあの文庫本を読みつつ、その日の貸し出し係の仕事を最後まで全うした。

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有栖川すみれの任務(前編) 南雲 千歳(なぐも ちとせ) @Chitose_Nagumo

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