新入部員、有栖川すみれの提案

 朝の推小研の部室にて、この学園随一ずいいちの名探偵であり、友人でもある高梨たかなし玲人れいとと、そんなやりとりをした日の放課後──。

 六時間目の後に行う掃除の後、俺の所属クラスである三年六組の教室では、いつものように帰りのHRホームルームが行われた。

 土曜日に阿部の事件があったせいで、先週の金曜日と同様、生徒への防犯を目的とした注意指導の為にそれは若干長引いたが、そのHRホームルームも今から五分ほど前に終了し、今やこの教室の中にいる生徒は、学校で行う全ての課業かぎょうを終え、各自それぞれに帰り支度や、これから行く部活の用意をしている。

 そんなざわめいた教室の中、既に用意を終えていた俺は、これから学校である予定に備え、ひとり自分の机に座り、ケータイの電源を入れて、メール・チェックにいそしんでいた。

 ひとまず香織には、先にバスに乗って帰っているように連絡を送って置く。

 先程さきほど、奈々美には教室内にて声を掛けようとしたのだが、奴はHRホームルームが終了した直後、担任の先生に対して一斉にするれいの後、着席の合図で座った椅子から唐突に立ち上がると、机の上に用意していた自分の鞄を小脇に抱え、その暑いなどと言う理由で少し短めに履いている制服のスカートをひるがえしながら、小走りで教室の出入り口へと向かって行って仕舞った。

「あっ! おい……」

 などと言って、その後を追いすがろうとした俺が次なる声を掛ける暇も無く、奈々美はそのまま廊下に出てどこかへと走り去ったのである。

 その後ろ姿は、まさしく脱兎のような……。

 いや、良く考えてみれば、それは例えて言うなら、他人の荷物を勝手に持って行くきか、或いは、ぶつかった相手の持ち物を奪って走り去るひったくりや追剥おいはぎのようにも見える不審な姿だったが、兎に角、彼女は俺や桧藤に挨拶もせず、誰彼だれかれ構う事無く、教室から出て行ったのであった。

 この俺が思うに、奈々美がそんな珍妙な行動を取った理由としては、以下のように考えている。

 完全に俺個人の勝手な推測ではあるが、奈々美の奴は、先週の金曜日にこさえた、あの愛の告白の失敗による失恋の傷をいやす為、今日は早めに家に帰って、そこでリアルの悩み事など考えなくても良い、ネットゲームのあの魅力的でエキサイティングな仮想現実の世界に存分にびたろうと、多分、そう考えての行動に違いない。

 そうで無ければ、いつも帰りのHRホームルームの後の教室に数十分ばかりもダラダラと残り、無駄話に花を咲かせている事の多いあの話し好きが、今日のように放課後の時間が空いていて暇な時に、そそくさと教室を後にするはずがない。

 きっと、奈々美の奴も俺の抱えている朝鬱と同じように、先週金曜日の放課後にした自らの告白の失敗の痛手からそのメンタルが完全には立ち直っておらず、他人との余計な会話を嫌って、その持ち前の俊足で自分に構おうとする集団のしがらみから抜け出したその後は、たったいましがた担任から受けた集団下校のうながしにもかかわらず、帰り方向が同じ友人・知人などには声を掛ける事無く、何の後腐れも無くさっさと自分だけで下校して仕舞おうと言う魂胆こんたんなのだろう。

 そう言う強い意思を見せた、奈々美の迅速過ぎる下校への感想としては……。

 別に、奴は女子バレー部の部活をサボってそうしている訳でもないし、失恋の傷の手当てなんて言う至極しごく面倒なものは、そんな風に奴の方でセルフ・ケアをし、自前で癒してくれた方が、こちらとしても面倒が無いので、何かと頼られがちな俺の方としては、それはそれで良いと思っている。

 しかし、欲を言うなら、遊びなどにかまける前に、奈々美にはまず今日出されている宿題とか、そう言うしなければならない勉強の方から先に済ませて欲しいぞ?

 そう言えば、周囲に他人のいる所で聞くのははばかられたので、今日はそれに付いて俺の方からそれに付いて切り出す事は無かったのだが、昨日、阿部の見舞いに行った時、病院で聞いた奈々美のお婆ちゃんの容態に付いては、どうしたんだろうな?

 もしかすると、今日、奈々美が急いで帰ったのは、先週の失恋とは全く関係無く、その絡みの方である可能性もあるな?

 だとしたら、放って置く訳にも行くまい。

 今手にしているこのケータイを使って、奈々美にメールを送るか電話でも掛けて、急いで教室を出て行ったその理由を確認してみようかとも思う。

 ……が、よくよく考えてみれば、その事に付いては、奈々美の家である松原家の家族内の事柄であって、彼女が自分からは話さない以上、幼馴染みとは言え、血の繋がりなど皆無である他人の俺が、自分から首を突っ込んでまで聞くような事でも無いはずだ。

 いま、この瞬間、彼女のケータイに何か連絡を送れば、それは折角、素早く帰宅する気になっている彼女を呼び止める事にもなるので、それをただすのは止めておく事にする。

 つーか、俺がこの後にこなすべき用事に付いては、別に奈々美の奴はいなくても済むような話だしな。

 いや……むしろ邪魔だから、俺的にはさっさと帰って貰えるとありがたい。

 どうしても来る積もりならそこに居たっていいが、絶対に無駄話は始めるなよ?


 次いで、突風のように教室をあとにし、親しい友人への挨拶すら全省略した即攻そっこうてき下校げこうスタイルを目撃して、呆れた様子で溜息を吐いていた桧藤ひとう朋花ともかを見、近付いて声を掛けた。

 聞けば、これから桧藤ひとうは、彼女が部長をしている美術部の部室である美術室へと行き、そこで部活を開く予定があるそうである。

 この新学期の始まったばかりの時期、そうやって新入部員獲得の為に、毎日の様に部活をしなければならないのはどこの部も同じなので、自分がまとめている部に行こうとする桧藤を特に引き留める事はせず、明るく別れの挨拶をして見送った。

 今の桧藤の話を聞いた限りでは、美術部は勧誘活動として、これまでに制作した絵画や立体造形物と言った数々の作品の展示などをして、見学者を待つようだ。

 だが、その活動も、金曜日に発覚した階段室の件、そして土曜日の夕刻に起きた通り魔の件と、この学校で連続して起こっている一連の事件を受けて、いつもよりも早めに切り上げる事になるだろうな。

 この後、推小研の部室で行う事の予定のある俺が、そんな美術部の様子を見に行っている暇はないだろう。

 と言うのも、金曜日の階段室の事件を受けて発令されていた放課後の部活の中止命令は、俺が思っていたよりも早く解除されたのだが、生徒に直接の被害が及んだ阿部の事件を受けて、今後は時間制限付きでの活動許可となったからだ。


 各部に課せられた放課後の部活動の制限──。

 それは、この先しばらくの間の事だが、これまで午後六時までだった生徒の一斉いっせい下校時刻を今後は大幅に早め、午後四時半までにすると言うものだ。

 この県立東浜高に通う生徒は全員、部活に入っているかどうかに関わらず、その時刻までに全ての作業や活動を終了し、学校から出なければならない。

 その後は、不幸な事件・事故の遠因となる余計な寄り道などはせず、各自、鋭意えいい、真っ直ぐに帰宅すべし、と言う事である。


 この時期に全く部活動を行う事が出来ず、勧誘が思うように出来無いと言うのは、特に少人数で高学年の部員しかいないために、新たな部員として新入生を獲得出来無ければその後の活動を継続出来無い弱小の部に取っては、文字通りの死活問題だ。

 もちろん、そんな弱小部の中には、三年生以外の部員が副部長の永瀬ながせ真紀まきのみと言う、推小研も入っている。

 結局、学校側としては、部員集めに最重要とも言えるこの新学期に、生徒の行う部活動の開催を全く認めない訳にも行かず、一応、放課後の活動再開は許可したと言う事なのだが……。

 少なくとも、活動再開に踏み切った辺り、新入生に活動内容をアピールして部員を獲得しなければならない各部の事情を汲んではいるのは見て取れるが、この四時半までと言う各部に与えらた活動時間に付いては、いささか短か過ぎる感も否めない。

 そんなんで、推小研の様な弱小部達は、十分な部員集めが出来るんだろうか?

 そう言う意味では、この一連の事件は、部活動と言う生徒達が自主的に行う文化・体育活動にも、全く無視出来ないレベルの打撃を与えているとも言える。

 更に、そうして早まった下校時刻のせいで、放課後の図書室の利用時間も短くなる事などを踏まえると、器物損壊など財産的な損害を被った学校や、入院治療が必要なほどの重傷を負い野球の試合に出られ無くなった阿部などの直接的な被害者のみならず、事件による潜在的な被害者の数は、もしかすると全校にも及ぶかも知れない。

 それにしても、学校側から課せられた活動のタイム・リミットである午後四時半と言うのは、三月の後半にある昼と夜の長さがほぼ等しい春分の日をとうに過ぎた、この四月前半の清明せいめいの時期では、日没までにはかなり余裕のある時刻だ。

 この辺り、そうした各部活側の事情と、阿部が被害者となった通り魔事件のような事柄を今後絶対に阻止せねばならないと言う自身の管理責任とにいたばさみになった、学校側の苦慮くりょうかがえる。

 そんな具合に桧藤との会話を終えるが、これでこの教室にいる親しい連中全員の話を聞いて仕舞ったので、もう俺が教室に残っているべき用事は皆無だ。


 周囲の人の動きとしてはそう言う感じになった、この月曜日の放課後の時間だが……。

 そうした奈々美や桧藤の動きとは別に、このあとの俺の予定としては、推小研の部室にて、転入生の有栖川ありすがわすみれの依頼を受けて企画した、既存の部員を集めた顔合わせのようなイベントが設定してある。

 それは推小研すいしょうけんに入部したいと言う彼女が、部の具体的で詳細な活動内容と、これから仲間として活動していく部員の面子めんつを把握し、そこへ遅滞ちたい無く溶け込んで行く事を目的とした会合のようなものだ。

 昨日、病院からの帰りに請け負ったその件は、今朝、部長の高梨たかなし玲人れいとにも伝えた通りだ。


 有栖川とは、昼休みに昼食を食べた後、時間があったので、昨日交換しておいたケータイのアドレスを使ってメールで連絡を取り交わし、部室に行く前の待ち合わせ場所を決めて置いた。

 隣の七組の生徒である有栖川は、HRホームルームの後、高梨ほか、その教室の生徒と少しコミュニケーションをしてから来るそうなので、教室を出たばかりの俺は、その指定の待ち合わせ場所である、この三年六組の前にある廊下で待機する。

 HRホームルームを終えて、生徒が解放された直後のこの放課後の廊下は、そこに置いてあるロッカーの扉を開け閉めしてかえ支度じたくをする多くの六組の生徒達がおり、若干、混雑している。

 だが、有栖川は俺の背格好や顔、それから鞄などの持ち物を見ればそれと分かるだろうし、また、彼女が分から無くとも、それに随行ずいこうして来るはずの高梨は、こうして廊下に立ち尽くして待っている俺の姿を見付けてくれるはずである。

 つーか、もうしばらくすれば、生徒が数多くいるこの廊下も次第にいて来るので、誰がどこにいるのか分から無いとか、そんな風になる心配は無いだろう。


 時計を見ると、例によって長引いたHRホームルームが終わった直後の現在の時刻は、ケータイで確かめて見れば午後三時四十分頃なので、下校時刻までは残り約五十分間の時間がある事になる。

 先日の通り魔事件のおかげで、これまでと比べて約一時間半の短縮と言う、あまりにもの時短じたん営業えいぎょうになって仕舞った各部活の活動限界時間だが、若干伸びたとは言え帰りのHRホームルームがほぼ順当に終わり、その先に小一時間程度の猶予が与えられているならば、何かと活動に時間を取る運動部ならばいざ知らず、我が推小研のような文化部ならば、一応、それなりの活動をこなす余裕はあるだろう。

 最終下校時刻が午後四時半へと変更された事には、若干の不便を感じるが、いずれにせよ、諸般しょはんの事情からそうなって仕舞った以上は、各部の部員達はその学校からの指示に従う他は無いだろうし、また、俺が入っている推小研としても、更には俺個人としても、そんな学校側の発した命令に逆らう積もりも、また逆らう理由も特に無いので、今日の所は、大人しくその時刻までに下校を行う積もりだ。

 もっとも、さりとて、今日、部室でやるべき事からして、あまりダラダラしている余裕があるとも思えないので、有栖川から請け負ったあの用事の処理に付いては、ばやく始めて、みじかに済ませる必要があるな。


 と、そんな事を考えながら、人のごった返す廊下にたむろしていると、既にHRホームルームが済んでいる隣の七組の教室から有栖川が出て来た。

 先程まで、七組の教室の中で俺の知らない知り合いと喋っていたらしい有栖川は、まるで旧来の友人にでも会ったかのようなニコニコ顔で、こちらの方へ歩いてきた。

「やあ、成海君、お待たせ! 待ったかなあ?」

「ああ、来たか」

 俺は七組の方を眺めて朴訥ぼくとつとしていたその表情を直して口元を緩めると、片手を上げてそれに応じる。

「六組の方も、今終わった所だから、別に、気にし無くて良いぞ?」

「そっかなあ?」

 俺は有栖川の隣や周囲の左右に視線を移し、聞いて見た。

「所で、七組の教室に、高梨の奴はいないのか?」

「ああ、さっきはいたけど、今はいないかなあ」

「じゃあ、あいつ、もう部室に向かったのか? 念の為、聞いとくんだが、一応、今日、このあとにする事に付いては、二人とも、話は付いてるよな?」

「うん、それは勿論だけどなあ。そうそう、その事なんだけど、この後、高梨君は放課後、職員室に行かなきゃいけない用事があるみたいで、さっき、こっちのHRホームルームが終わった後に、すぐにそっちへ向かって仕舞ったんだなあ。それで、私と成海君は先に部室に行って、待っていて欲しいって言われたんだけどな」

 有栖川が言うには、今後に行われるはずの主に新入生を対象とした部活動の勧誘に付き、学校側から各部の部長に対して何がしかの注意事項があるので、高梨は、ひとまずその件で顧問である上田先生からの話を聞きに行かなければならない為、俺達には先に部室に向かっていて欲しいと言付ことづかったそうだ。

「なんだ、そうなのか。じゃあ、ここでちょっと打ち合わせしたら、行くか」

「うん、私としても、そうして欲しいかなあ」

 事情を理解した俺は、三年六組の廊下の前で、これから部室で話すべき事などに付いて有栖川としばらく打ち合わせをし、その算段が付くと、やおら推小研の部室へと向かう事にする。


 校舎内を歩き、部室の前にまでやって来た俺達二人は、今朝と同じように部室の中の明かりが点いてるのに気付いたので、その中を覗いてみた。

 すると、そこには、部室の中に並んだ机に付属した椅子に座り、その画面を食い入るように見つめながら、ひとり熱心にケータイをいじっている──。

 俺のクラスメートであり、先程、HRホームルームを終えた直後の教室から風のように走り去っていった、幼馴染の松原まつばら奈々美ななみの姿があった。

 どうやら、あの後、彼女は職員室などに行き、部室の開室作業を終えたらしい。

 ドアが開いている部室の中へと遠慮なく入った俺は、その出入り口付近に立ったまま、脇目わきめらず、ケータイを見続ける奈々美に声を掛ける。

「おい、松原。お前、そこで何をやってるんだ? 今日は、帰ったんじゃ無かったんのか? て言うか、高梨の奴は、まだ来てないのか?」

 今日の放課後に開催する予定の部活に付いて、別段、誘った訳でもないのに、何故なぜこうもタイミング良く部室に来ているのかと、俺はこの幼馴染おさななじみにただす。

「うん、私はまだ帰らないわよ。今日、この推小研の部室に有栖川さんが来るって言うから……。ほら、彼女って、この学校の事まだ良く分かんない新しい友達だし、じゃあ、私もそこにいてあげようと思って」

 奈々美はこちらを見ようともせず、相変わらず画面に食いつきながらそう言う。

 奈々美ななみいわく、どうやら彼女は、今日の放課後に有栖川が推小研に来部すると言う話を、同じくクラスメートの桧藤ひとう朋花ともかやその周辺など、どこかからか聞き付けて、小耳に挟んだらしい。

 その活動のメインが女子バレー部とは言え、奈々美も推小研の部員名簿に正式に名を連ねているメンバーの一人なので、そこで女子らしい連帯感を発揮し、三年生になってから出来た新しい友人である有栖川すみれが、同じ推小研に入る申し出を行うのならば、自分もその場に同席していようと機転を利かせて、こうして先回りして待っていたと言う話である。

 全く、頼まれてもいないのに、良くもまあ、そんなお節介な真似が出来るな?

 この奈々美の先走りにも思える行為に、急遽きゅうきょ開催される事になった今日の部活の主賓しゅひんたる有栖川は、言葉の上では感謝を述べつつ、曖昧な苦笑いをして応える。

 更に、奈々美の話を聞けば、部室の鍵を借りに行った先の職員室にて、推小研顧問の上田先生と話している高梨と行き会い──それは、部長である高梨がいつも持ち歩いている方なのか、それとも、先生が保管している方なのかは不明だが──そこで普段は施錠せじょうされている部室のドアを開ける為の鍵を借りて来て、こうして待機していたのだと言う。

 その後、色々と部室にいた事情を言い終えると、奈々美は最後にこう付け足す。

「……あ、そうそう。高梨君の事なら、まだ来て無いわよ。多分、まだ職員室で、上田先生と話してる」

 それを早く言え、それを。

「そうか。話は分かったが……。つーか、有栖川なら、もうここに来てるぞ?」

 と、奈々美はケータイの画面から目を離し、ニヤついた笑顔で有栖川に挨拶する。

「あっ! なんだ、もういるんじゃなーい! 有栖川さん、こんちー!」

 おい、知り合ってまだ数日なのに、妙に親し気な挨拶をするな。

「やあ、松原さん。こんにちは」

 有栖川もそう言って笑顔で挨拶を返す。

「おい、さっき、有栖川はお前にお礼を言ったんだぞ。聞いて無いのか? 他人と話をする時はケータイ何かいじってないで、ちゃんとその顔を見ろ。相手の人の顔を」

「声なんて、ケータイに夢中になってたんだし、分から無いわよそんなの。あ、有栖川さん。この成海なるみは頼りにならない奴だけど、今日は私が付いているから、安心してね?」

 奈々美はそんな事を言って、有栖川にニヤッと笑い掛ける。

「それは、頼もしいなあ」

 有栖川は奈々美と同様にニヤニヤとした笑顔をその面に浮かべる。

「おい、誰が頼りにならない奴なんだ? 生半なまなかには、聞き捨てならない言葉だな? 俺はずっと昔から、お前と妹の香織の世話を焼きっ放しだと思うぞ?」

「そんなの、今どうだって良いでしょ……」

 どうでも良くは無いが、そんな話を延々とし続けてもしょうがない。

「所で、松原は、さっきからそのケータイで、一体何してるんだ?」

「……何をしてるって、ゲームに決まってるじゃないの」

「松原さんは、フリーダムに生きてるんだなあ……」

 それはもはや、与えられた自由の枠をはるかに超えた非行だろ。

「フフ、そうでしょ? 何事にもとらわれない自由なスタイルが、私のポリシーだしぃ」

 何を聞いた風な事を言ってるんだ、お前は。

 つーか、ポリシーとか主義主張の前に、まずはそのプレイ中のゲームを止めろ。

 今朝も高梨とその話をした記憶があるが、一応、この学校では放課後や休み時間に、ケータイを使う事は許可されている。

 と言っても、それはその用途が電話やメールなど連絡に限った場合で、流石に校内でゲームをする事までは、許可されていない。

 誰が何と言おうが、学校側や教育委員会の立場としては、このような公立高校の校内は教育の場であって、遊びをする場所では無いと言う理由かららしい。

 ちなみに、チャット・アプリでの文字やスタンプを使った会話の方はと言えば、これは一応、ギリギリでOKらしい──。


 それにしてもだ、結局、お前が放課後にやる事って、ゲームしか無いのか?

 奈々美は笑いながらゲームを続ける様子なので、俺は叱り飛ばす。

「おい、松原。この学校内で、ましてや部室の中でゲームをやるな! ゲームを!」

「ちょっと、成海はそんな大声出さないでよ? 私がここでゲームしてるの、先生とか、他の関係無い人にバレちゃうじゃなーいっ!」

 奈々美は俺をにらみ付け、あたかも自らの持つ正当な権利を踏みにじられたかのように、そう抗議しつつ憤慨ふんがいした。

「バレて良いんだ、バレて。……おーい、ここで校則で禁止されているにもかかわらず、ケータイでゲームをしている、三年六組の松原と言う生徒がいるぞー?」

 俺が廊下に顔を向け、誰とはなしにそう喧伝けんでんすると、奈々美はギョッとしてその顔色を変えた。

「わ、分かったわよ! 今、めるから、ちょっと待ちなさいよね!」

そして、切りの良い所まで進める積もりなのか、それともセーブでもするのか、慌ててケータイを素早く操作し始める。

「おい、そんなに校内でゲームをしたかったらな、そこら辺の廊下で、そのケータイを手にして堂々とやったら良いんじゃ無いか? そして、そんなお前のケータイみたいなこの推小研の継続性を危険に晒す危険な代物しろものは、辺りを憚らずゲームに熱中している所を先生方に見付かって、そのまま没収されて仕舞えっ!」

「な、何でそうなるのよ? 良いじゃない、ちょっとぐらい。もう授業も終わってる放課後なんだし……」

 そう不満げにこぼす奈々美の主張を、俺は顔をしかめて指摘する。

「そんな言い訳が、先生方に対して通用すると思ってるのか? 松原、全くお前は本当に馬鹿な奴だな?」

「何よ、成海は他人ひとの事、馬鹿って!? ああ、もう、分かったし。これ、すぐに終わらせるから、ちょっと待ってよ?」

 と、奈々美は再びケータイに視線を戻し、そのプレイ中の画面を操作する。

「じゃあ、一分だけ待ってやるから、ちゃんとそれ、いますぐに仕舞えよ?」

 俺はそう言って、ブレザーの内側にあるポケットからケータイを取り出した。

 何かに使えると思ってインストールしておいたストップ・ウォッチのアプリを起動すると、その画面に表示されたボタンに指を起き、俺はカウント開始の準備をする。

「良いか? 今から一分間だけだぞ?」

「え? な! ちょっ……何言ってんのよ。あんた、待ちなさいよ!」

「今から六十秒以内にそのゲームを切りの良い所で止めて、ケータイを閉じてどこかに仕舞わないと、職員室に行って事の次第を報告して来るから、覚悟しておけよ」

 それも、ゲームをやっていたのはこの推小研の部室では無く、部活とは無関係なその辺の廊下でやっていたと言うように、都合良く形を変えてな。

「何よそれ! 止めてよ! この、成海のチクリ魔っ!! 風紀委員の犬!!」

「そんな委員会、この学校にあるか。おい、グズグズしてると、持ち時間が無くなって、リアルでゲームオーバーになるから注意しろよ? ……はい、スタートだ」

 俺は表示中のボタンを指で押し、自分が見ていたそのケータイの画面を奈々美の方に向けて、五十九秒コンマ以下から始まったカウントを見えるようにする。

「えっ!? 持ち時間って、たったこれだけぇ!?」

「さっき、一分間って言っただろ。良いから、早くした方が良いぞ?」

「げ! ぐうっ……! うわぁあああぁあああああああああん!」

 奈々美は泣きべそをかきながら急いでゲームを終わらせ、ようやくケータイの電源を切ってブレザーの内ポケットに仕舞った。

「ほら! ゲームは終わらせたし! セーフでしょ、セーフ! アイム・ギブ・アーップ!」

 奈々美は息を切らせながら、叫ぶようにそう言った。

「お前は、何を訳が分から無い事を言っているんだ? 有栖川みたいな帰国子女の前で、適当な英語を喋るな、適当な英語を」

「良いじゃない。何か、そう言いたい気分だったのよ」

 まあ、奈々美的には、何か色々な理由により、最近抱えているストレスで一杯一杯であり、ギブアップと叫びたい気分なのだろう。

「つーか、部活をする為の部室で、全く、お前は何をやってるんだ? 校内でそんな事をするなら、この部室じゃ無くてせめてトイレとか、そう言う場所で隠れてやれ、隠れて。あとあらかじめ言って置くが、喫煙とか飲酒みたいな事も、この部室では禁止だからな。絶対に、するんじゃないぞ?」

 この調子だと、部室でのゲームを禁じられた奈々美は、今度はそんな事もしでかしかねないので、俺は先にそう言って注意しておく。

「は? トイレでゲームするなんて嫌よ。汚いし」

「あ? ……女子トイレの方って、そんなに汚いのか? 男子トイレの方は、別に匂いも汚れも目立たないし、綺麗なもんだぞ?」

「そう言う意味じゃ無くて! 三年の教室がある一階の女子トイレだって、それなりに綺麗だしぃ! 流石に、全部のトイレがどうなってるのか分かん無いけど、女子トイレだって、男子の方と同じように綺麗よ」

「ん? そうか? まあ、そんなトイレの話は、今、どうでも良いだろ」

「まあ、そうだけど、あ、あと、お酒を飲んだりとか、ましてや煙草たばこ何て、この私が吸う訳無いでしょ、あんなマズイもの。……って言うか、成海はそう言う人聞きの悪い事を言うのは止めてよ。特に有栖川さんの前なんだし」

「あは、何か、そんな事してるのかなあ?」

「いや……まあ、松原はどちらかと言うと真面目な方なんだが、一応、念の為に注意しとこうと思ってな。──おい、松原。兎に角、今後、ここでゲームはやるなよ。部に迷惑が掛かるから、次は見掛け次第、出て行って貰うからな」

「良いわよ、今度からは別の場所で隠れてやるから。シシシ……」

 こいつ、今、俺が行った注意の要旨、本当に分かってるか?

 しかし、それはひとまず置いて置くとして、さっき奈々美が言ったセリフには、何か引っ掛かる所がある。

「あんなマズイものって……松原さんは、煙草を吸った事、あるのかなあ?」

 と、有栖川がその俺の引っ掛かりを、ずばり解消する発言をする。

「えっ!? い、いやっ、無いけど……。でも、何だかマズそうだなって……」

 この反応である。

 この慌て振りからすると──さては奈々美の奴、きっと、どこかで隠れて煙草を吸った事があるな?

 全く、とんでも無い奴だ。

 もし今後、高校生にも関わらず生意気にも煙草を吸っているとか、そんな所を見付けたら、お前の親から、様々な場面での不届きがないように監督を頼まれているこの俺としては、硬い床の上で反省の正座などをさせながら、未成年の喫煙の害悪に付いてきちんと説明するなどし、十二分にらしめてやる。

 それはもう、煙草と聞いただけでトラウマになるほどにな。

 飲酒に付いては、初詣はつもうでなどで訪れた神社などで口にする事がままあるので、たまに、かつ、飲むのも少量であるならば話は分かる。

 が、煙草は、呼気などから体の外に出て揮発したり──ええと、家庭科で習ったあの成分は何と言ったか──アセトデヒド脱水素酵素だっすいそこうそなどにより酢酸さくさんへと分解し、最終的に水と二酸化炭素になるアルコールとは違って、砂糖入りのコーラを煮詰めたような、あの発がん性物質を含んだ黒いタールの成分が肺に沈着するし、しかもそれは一生取り除く事は出来無いとされている。

 更に、喫煙は、煙草の燃焼に伴って発生する一酸化炭素も、タールなどと一緒に吸って仕舞うのが問題だ。

 酸素が不十分な雰囲気のせいで、不完全燃焼が起こる事によって発生する一酸化炭素には、まるで餌を差し出されたスッポンかカミツキガメのように、血中のヘモグロビンと強固に結び付いて容易に離れなくなり酸欠をもたらす事の他、その毒性が脳に作用し、成長に必要なホルモンの分泌を攪乱かくらんすると言う、恐ろしい悪影響がある。

 なので、一見、それを吸っていると格好良いように思える事もあるが……。

 そんな煙草は、成長期である未成年の身体に取り返しの付かない強烈な害悪をもたらす悪魔の誘惑なので、絶対に駄目だ。

 海外では、法の規制が緩い為に子供でも煙草が吸える国があるそうだが、日本に住んでいる高校生の俺からすると、そうした国がまだこの地球上にある事は、全くなげかわしい事である。

 

 その後、若干、迷惑そうな表情で穏やかに笑う有栖川を前に、友人への見守りが成功しそうな為か、奈々美は幽霊部員のくせに得々とくとくとこれまでの推小研の活動に付いての話を披露し始めた為、イラ立った俺はそれを遮り、奴に対して今日の活動を素早く終わらせる為に必要な事前注意を行った。

 おしゃべりの好きな奈々美の会話にまともに付き合っていると、それこそ、二、三時間と言う、映画を一本分見終わって仕舞う位の時間の余裕があっても、まだ足り無い。

 土日の午前中などとは違って、午後も授業があった平日の放課後である今は、何かと時間制限があり、そんな奈々美のお喋りなどに関わっていると、果たすべき用事が終わらなくなって仕舞う。

 推小研がこれまでにした活動の話題とか、あるいはこの学校の名探偵である高梨玲人が過去に解決した事件の話題とか、そう言う明らかに長話ながばなしになりそうな事柄は、何も今日きょういまで無くても、部活を済ませ、各人かくじんがそれぞれの家に帰ってから、オンラインを通じて話せるゲーム用プラットフォームに付属したチャットに有栖川を招き入れたりとか、あるいはネットに繋がったパソコンが無ければケータイのチャット・ツールを代わりに使うなど、そう言う、今とは別の時と場所でやれば良い事だ。

 そう言えば、その細かい内容に付いては忘れたが、いつの頃だったか、去年、生徒会へ出す推小研の予算要求に付いて会議する為にみんなで部室に集まった時、こいつと来たら、その場において必ずしも必要とは思われ無い会話を延々、三十分近くも喋って時間潰しをした挙句、やっと本題に入る有り様だったな。

 それはそれで、その時の俺も少しはそんな会話を楽しんでいたのは認める。

 が、しかし、悪いが、今日はそんな時間を無駄にするような事はさせないぞ。

 何しろ、部室の時計を見た所、残り時間はあと三十分しか無いんだからな。

 そんな訳で、俺はしたかった会話をぶった切られて酷く不満げな顔をしている奈々美の前に座り、有栖川が入部の申し込みをする場で余計な事を言わない事、用意された時間が短いのでいつものようなとりとめのない会話で時間を消費しない事などを、まるで生徒・児童の遠足を引率する先生のように、今日の部活においてやっては行け無い様々な行為に付いて懇々こんこんき、職員室にて推小研顧問の上田先生と話をしている部長の高梨の到着を待った。


 先生との打ち合わせが済んだのか、ほどなくして、高梨が、部内唯一の二年生の部員で、副部長でもある永瀬ながせ真紀まきを伴い、部室に到着した。

 そこで彼女は、部長の高梨たかなし玲人と、二年生ながら副部長を務めている永瀬ながせ真紀まきの双方、そして、俺と奈々美の歓迎を受け、入部を果たす事が出来た。

 今日の本題である、有栖川の入部に付いての話し合いでは、事前に注意しておいたおかげか、奈々美は俺が心配していたような余計な発言などをせず、順調に事が進んだ。

 その後、部長の高梨と入部希望者である有栖川の間で行われた、この推小研の部員になる為への手続きに関する協議と言うかやり取りの結果、今回、彼女の入部に付いては、かり入部無しの、即時のほん入部にゅうぶとする事が決まる。

 それまでやや申し訳なさそうな表情をしていた有栖川は、必要な用事が終わったので、いつものような調子に戻り、椅子に腰掛けた。

 俺の方はと言えば、昨日、阿部を見舞った病院からの帰りに有栖川から頼まれていた用事が、万事ばんじとどこおり無く進み、無事に片付いたので、ほっと肩の力を抜く。

 これからやる事に付いてだが、俺も高梨も、既に有栖川とは交友グループを同じくする知り合いなので、どこの誰でどんな趣味を持っているかなどと言う事に付いて、特に説明などは必要無い。

 だが、二年生の部員である永瀬の方は、有栖川に付いての情報は何も知らず、お互いに全くの初対面である。

 ので、そうした事情をみ、本日の推小研の活動の残りの時間は、改めて全員の自己紹介などで潰す事にした。

 それぞれのメンバーが楽し気に会話を交わし、それらが一通り済むと、今日はもう疲れたので、俺は連れて来た有栖川を部室に残し、後の事はこの場にいる他のメンバーに任せて、校内で友達と待っているであろう妹の香織と一緒に、バスに乗って帰って仕舞おうかとも思う。

 ちょうどそんな矢先に、問題は起こったのであった。


 話が一区切り付き、周囲のメンバーとひとしきり笑った有栖川は、殆どが三年生で占められる周囲の部員達の顔を見回すと、こう言った。

「……あっ、そうそう。早速だけど、私からこの場を借りて、今後の部の活動に付いて提案して見たい事があるんだけど、良いかなあ?」

 部長の高梨は、そんなお気楽な有栖川の発言を取り上げる。

「早速、有栖川から提案か。良いだろう、気軽に話して欲しい」

「じゃあ、まことに僭越せんえつながら、提案を言わせて貰おうかなあ。先週起きた、例のあの事件の事なんだけど」

 ……。

 地雷源の存在を知らせる警告表示を前にして、意気揚々とその危険地帯に接近する幼稚園児の姿を見る感覚で、俺は今朝、高梨と話したあの件を思い出しながら、提案を話し始めた有栖川を凝視する。

 ──この今、そんな提案をして大丈夫か、こいつ?

 だが、有栖川はそんな俺の心配など全く他所に、とうとう言って仕舞った。

「この際だから、部のみんなで、あの事件の事を探ってみたらどうかなあ?」

 ……おい、止めろっ!

 朝に負った俺のメンタルな傷に塩を擦り込むような有栖川のこの発言に、俺は思わず絶句して仕舞う。

 この状況をこのまま放置すれば、そんな有栖川を先頭に、部員一同、その地雷原に深く足を踏み入れて仕舞いそうだ。

 ……って言うか、それ以前に、俺の若さゆえに負った心の傷がうずいていたたまれないので、頼むから、その話はもう止めてくれ!

「あ……なあ、有栖川。その事に付いて、ちょっと良いか?」

「ん? 何かなあ、成海君?」

「ええとな……」

 これまでの経緯からして、絶妙とも言えるクリティカルな内容の提案をして仕舞ったこの新入部員の有栖川をフォローする為、俺はそう彼女に話し掛けつつ、椅子に座っている高梨にそれとなく視線を移動させ、その顔色をうかがう。

 と、やはりと言うべきか、今の有栖川の提案を脳内で審議中であろう奴のその顔は、若干ではあるがやや曇って険しさをかもしており、何か言いたげだった。

 なので、俺は言い掛けた有栖川への言葉を続ける。

「あー、お前には、本当に悪いとは思うんだが……。あの事件をこの推小研で探るって、それはちょっと、まずいんじゃ無いのか? そう言うのは、身を守る術を殆ど持たない俺達にとっては、かなり危険な事だと思うぞ? お前も、阿部の見舞いに行って、あの野球部の星のザマを見ただろう?」

「あ……。うん、それはそうだなあ……」

「そもそも、実際に身近に起きた犯罪事件の捜査なんて、ただの高校生である俺達に、出来るようなものなのか? この俺としては、まず、そこが疑問なんだが、有栖川の方は、どう思う?」

「ああ、なるほど……。ごめん、私はそこまで、考えて無かったなあ」

 有栖川は、シュンとした態度でそう言い、反省でもしているのか目を閉じる。

 そこで話を聞いていた高梨が、俺をとりなす。

「その件に付いてだが……。部長の俺から、意見を述べても良いだろうか?」

「あ、ああ……言ってくれ」

「では。……成海の言う通り、この推小研が、あの事件の解決の為に動く事は、前述の理由から難しいだろうとは俺も思う。だが、推理小説に興味を持つ者なら、身近で発生した事件を追いたくなるのは、ある意味で当然の欲求であるだろうと言う事に付いては、全く同感だ。この東浜高の校内で起きた密室事件を捜査し、解決する……。もしそれが許されるのならば、是非ともそうしてみたい気持ちが、この俺自身にもある。──と言う訳で、有栖川。今の成海の言葉に付いてだが、そこはまあ、あまり、気に病まないで欲しい」

「あ、うん。そっかなあ……」

 有栖川は、曖昧な笑顔でそう言う。

「あの……」

 と、そこで、永瀬が高梨の方を向き、発言を求める。

「ん……? 永瀬の方も、この件に付いて、何か、意見があるのだろうか?」

 彼女はその口端に控え目な微笑を浮かべながら、副部長としての意見を述べる。

「あ、はい。その、私としては……。あの階段室の事件を探ろうと言う、有栖川先輩の提案に賛成なんです。現実に起きた事件を直接探る機会なんて、滅多にない事だと思いますし……。ただし、捜査などと言うと物々しいので、字面じづらを変えて、自主的な調査と言う名目で、あの事件の事を調べると言う事にしては、いかがでしょうか?」

 これには、部長の高梨もうなづける部分があったようで、

「なるほど。永瀬の意見も良い意見だとは思う……。しかし、俺も今の成海の意見に賛成だ。事件直後の段階ならともかく、阿部がああなった後では、我が部が迂闊に危険を冒す訳には行か無いと思う。これから新入生の勧誘を行う事を考えると、出来れば、その手の実際の犯罪に巻き込まれるような危険を伴う活動は、極力避けて行きたい所だ。数ある我が東浜高の文化部の中で、最も歴史の若いこの推理小説研究部が、この局面で果たすべき役割と言うは、そんな危険に自ら接近するのでは無く、むしろ、社会に潜む犯罪の恐ろしさを知り、それを分かり易く世間に伝える責務を果たす事だろうと、俺個人としては思っている」

「ああ……それに付いては、この私も頷かざるを得無いなあ」

 高梨は、そこで全員の顔を見回してこう言った。

「有栖川の理解に感謝したい。しかし……折角の提案だ。とりあえず、そう言う調査に関しては、今のこの段階で、賛成か反対の部内の議決を取り、賛成多数の場合は、部の担任である上田先生の許可を得てからその自主調査を実行する事にする、と言う事でどうだろうか?」

 そこで俺は、先ほどから胸の内に抱いていた疑問が、急に大きくなったのを感じた。

 高梨の言葉を裏を返して要約すれば──部内で賛成多数の議決を得た上で、加えてこの推小研の顧問である上田先生の許可があれば、今朝、俺が打診したような、事件の調査を行うと言う事になる。

「とりあえず、有栖川の提案を賛成一票として、残り三人で表決を取ろう。細かな論議は、その後で行うと言う方向でどうだろうか」

 これは……今朝、俺に話した事とは、大分、違って来ているような気がする。

 あれからあった朝のHRホームルームと通常の授業に昼休み、そして二限ばかりある午後の授業を経て、その高梨の考えに何か変化でもあったのだろうか?

「私は、賛成です」

「私も賛成ー」

「反対だ」

「俺も反対する」

「なあ、まだ、賛成多数とまでは言え無いんじゃ無いか? もっと、良く考えてくれ」

「あ、高梨君……。ちょっと」

 と、そこで奈々美が立ち上がり、前の方にいる高梨の側まで歩いて行って、奴に何事かを耳打ちした。

「──そうか、分かった。では、議決の結果を正式に発表する」

「我が推小研で例の一連の事件を調査する事に付いて、賛成が四の、反対が二。とりあえず部内の意見としては、事件を調査すると言う方向で決まった」

 一同、ここで拍手である。

 だが、俺はある点に気付き、異議を唱える。

「な、なあ、ちょっと待ってくれ」

「どうした、成海?」

 そこで俺は、自身の率直な疑問を提示する。

「あ、なあ……? 何で、この場の投票結果が、賛成四票の反対が二票なんだ? いや、仮に賛成が三票でも結果は変わら無いから、どうでも良いのかも知れないが……」

「ああ、それは」

 と、奈々美が声を上げる。

「……朋花ともかも、事件を調べるのに賛成だって」

 奈々美は、握っていたケータイの画面をこちらに向けた。

 その画面に映し出されて居たメールの表題に「Re:事件の調査に付いての議決の件」とあり、本文の部分に「私も、賛成……。でも、参加出来るかどうか分から無いけど……」と書かれていた。

「なるほど。つまり、ここにはいない桧藤も、事件の調査に賛成だって事か」

「そうよ。残念だったわねえ、成海」

 奈々美はそう言って、意地の悪い顔で嬉しそうに笑う。

 お前は何を喜んでいるんだ。

 俺の意見に反対するのが、そんなに楽しいか。

「何が残念だ。じゃあ、桧藤も賛成なんだな。なら、賛成が圧倒的多数とも言えるから、俺も議決の結果に文句は無い」

「え? 何よそれ?」

「……俺の立場はあくまで反対だが、この議決には従うと言う意味だ。もっとも、高梨の方はどうか分から無いぞ」

 俺はそう言葉を切って、議長席とも言える場所に座っている高梨の方へ、ちらりと視線を送る。

 何しろ、今朝がた部室におしかけた時に聞いたばかりの事なので良くは分から無いが、部長には拒否権と言う物があるらしいからな。

 ここはその拒否権を発動し、生徒による危険な自主調査など停止させるのが、部を取り纏める部長の責任と言う物だろう。

 有栖川には可哀想な事だが、この民主主義的な議決は、それを単独で覆せる権限を持つ部長の高梨の前には、全くの無意味だ。

「それに付いてだが──」

「調査に付いてはこうして部内で議論を尽くし、その後の議決で賛成と決まった以上、部長の俺としても、もはや何も言う事は無い。この件に付いては、明日にでも、顧問の上田先生に活動許可を頂きに行こうと思う」

「あ……?」

 俺は呆気に取られて、高梨の顔を見つめる。

 何なんだ、この展開は。

 今朝は確か、部長としての拒否権を行使してでも、部で調査を行う事は止めると言っていたはずだ。

 ここにいる高梨は、その姿形は高梨本人に違い無いが、本当にあの高梨玲人なのだろうか。

 それとも、俺は毎朝のあの欝のせいで、白昼夢でも見ているんだろうか?

 全く、高梨はどうして仕舞ったのだろう。

 そんな疑問が、心の底からふつふつと湧き上がる。

 ……だが、高梨はそこで次なる言葉を紡いだ。

「──ただし、仮に担任の上田先生の許可が出ても、今回、議題に上がった自主調査中に、この俺がその継続を危険だと判断した場合、部内の議決を待たずに、その時点で、俺の独断で調査活動のストップを命じる場合がある。これは、文化部部活動会の会則で定められている『安全な部活動の実現』と言う、部長に課せられた責任を果たさなければならない義務が、俺にはあるからだ。部内の安全を守る為だ、全員、それには従って貰いたい。それで良いだろうか?」

「うん。他ならぬ高梨君の指示ならば、これは二つ返事で従うしか無いなあ。と言うより、新参者の私が部長の高梨君に意見するなんて、そんなでしゃばった事は、したく無いなあ」

 この有栖川の言葉に、高梨は済まなそうな顔をする。

「まあ、有栖川の立場からすれば、そう感じているのかも知れないが、意見は遠慮なく言って欲しい。君には、我が部の方針を快く理解して貰い、嬉しく思う」

「一つ、聞いておきたいんだけど……それで、顧問の先生の許可は、下りそうかなあ?」

「……仮に調査活動に付いて許可が出なくても、既存で得られている証拠から、部員各自の推理をまとめて、部誌で発表する事は可能だろう。有栖川と同様に、この俺自身も、あの事件には、大いに興味を惹かれている。何しろ、普通の事件とは色々な部分が異なっているように感じているからな」

「それは普通じゃない事件、って事かな?」

「その通りだ。一体、誰が何の目的でこんな事をやったのか、非常に興味ある所だ」

「うんうん。私も同感だなあ」

 すっかり意気投合する二人を前に、俺は何か取り残された様な気持ちで呆然と部室に座っていた。


「……さてと、そろそろ最終下校時刻だ。そろそろ解散と行こう」

「それじゃあみんな、今日は私の為に、ありがとう。今後とも、宜しくね」

 この有栖川の挨拶に、先程まで熱心に会話を交わしていた高梨は快く応じた。

「ああ、こちらこそ宜しく頼む。それにしても、密室トリックに付いてあれほどの深い見識を持っているのは、感心した。元より人員の少ない我が部には、君は貴重な人財だ。有栖川には心置きなく、活動して貰いたい」

「永瀬も、気を付けて帰れよ?」

「はい、それでは」

 そんなこんなで、年度開け最初の部活動内会議はお開きとなり、全員が荷物を持って部室の外に出ると、最後に高梨がそのドアの鍵を閉めた。

 昇降口に向かって歩いて行く。

「みんな、今日は本当にありがとう。私、こっちだから」

 調子の良い奴だ。

「ああ、お前も気を付けてな」

 有栖川は手を振り、昇降口とは反対方向に歩いて行った。

「俺は職員室に鍵を返してくる。上田先生がいれば、今日決まった事を話す時間が取れるかも知れ無い。成海、お前はバスの時間があるだろうから、先に戻っていてくれ」

「あ? ああ」

「はい、ありがとう御座います。私は、学校の近くまで迎えが来ているので、平気ですが」

 永瀬と高梨を見送り、どうにも腑に落ち無い気分で、俺は昇降口へと向かった。

 湧き上がる多くの疑問にまみれながら。 

 そもそも、部で事件の調査をするのって、止めるんじゃ無かったか?

 今朝の俺の痛恨の反省は、一体何だったんだ?

 長年の友好を重ねた俺よりも、有栖川の方が大事って事か?

 つーか──俺と有栖川で、何か、あつかい、違って無いか?

 

 先程の部活の時間中、俺は高梨にそんな疑問を問い掛けたい気持ちで一杯だった。

 ちなみに俺は正真正銘の男子高校生なので、これは別に嫉妬している訳じゃ無い。

 高梨に対して一部の女子が妄想する様な、耽美な気持ちは一切無い。

 しかし──高梨の態度のこの変遷は、何なのだろう……。

 思い当たる節なら、無いでは無い。

 そう、有栖川の持っている特徴だ。

 欧米的な食事をするイギリスからの帰国子女だからかは分から無いが、贔屓目に見ても、有栖川は、かなり体格が良い方だ。

 それも、普通の女子よりも背が高いとか、そう言う意味では無く──。

 客観的に見ても彼女は、妹の香織は言うに及ばず、その隣に座っている奈々美などよりはずっと優れている……。

 そう、転入生の有栖川すみれは、男性ならば誰しもそそられるような、女性的な魅力を持っている。

 そこそこ顔立ちが良い方であると言うのに、その身体付きはかなりグラマーな方だと言っていい。


 その事が見て取れる分かり易い例としては、まずは、その上半身の特徴を挙げる。

 こうして間近で見ても、制服のブレザーを通しても分かる有栖川のその胸は、高梨とクラスを同じくしている有名人であり、この学校のアイドル的存在である彼女──文芸部の部長である江崎えさきさんほどの規格外のサイズとまでは言え無いにしても、平均的な女子のそれよりは、明らかに一回り半程度ほど大きい。

 少なくとも、そんな女性らしい肉体美の代表格である胸のサイズの点で、妹の香織やら、幼馴染の奈々美、そしてここにはいない美少女の桧藤ひとうが完敗である事は、まず間違い無い。

 更に、視線をその下に移動すると、先週、ブレザーを脱いだワイシャツ姿を見た限りでは、肋骨が途切れている所より下のウェストの部分も、これまた健康的にしっかりと引き締まっていてセクシーである。

 これは、有栖川が以前、自分で述べた、留学先で積んだバスケットなどの豊富な運動経験と言うのが、どうやら本当らしいと言う事を示す証拠の一つでもある。

 全く、奴め、英語が堪能な帰国子女のクセに、運動もそこそこ出来やがって。

 また、彼女の女性らしい魅力は、そんな豊かな胸元だけでは無く、腰回りの方もそれなりだ。

 立ったり座ったりする有栖川の動作を後ろから見ると、その腰骨の辺りから垂れ下がるブレザーとスカートの裾を押し退ける様に、ヒップと言う第二のバストが後ろに丸く突き出しているのが分かる。

 胸は大きいので、お尻の方もそれなりって事か。

 更に、そのスカートの下に見える足の筋肉も、個人的には素晴らしいと思う。

 妹の香織は中学時代、熱心にテニスをやっていたせいか、他の同年代の女の子に比べて割と良い足の形をしているのだが、有栖川の二の足も、何かそんなスポーティな感じである。

 俺はまだ見た事は無いが、多分、有栖川の足については、そのスカートの内側に隠された太腿の部分も、見えている二の足と同じく、きっと骨と筋肉と脂肪が生み出した美しい脚線美を備えているに違い無い。

 最後に、その腕の方も、常人には分から無いだろうが、今を去る事数年前、中学生時代に二年間ほど空手教室に通っていた俺の目から見れば、それはまるで格闘技か何かを習っていたかのような、実にたくましい筋肉の付き方をしている

 この四月の頃に着ている制服の冬服は、ワイシャツの上からブレザーを着るタイプだが、そんな服の上からでも、おおよそ、そんな筋肉の付き方が見て取れる。

 そして、そんな有栖川のどちらかと言えば長身の体躯たいくと、明るく柔和な表情はいずれにしても割と整った顔立ち、そこにアクセントとして添えられているミディアムの綺麗で真っ直ぐな黒い髪も、彼女の総合的な魅力を倍増している。

 こうした数々の点を考慮すると、俺の好みとしては少々、体育会系的なボディで性格もおちゃらけ過ぎている嫌いはあるが、彼女なら、漫画雑誌などの巻頭に良く載っているグラビアのモデルくらいならば、軽く出来そうな感じだ。

 俺の有栖川すみれの外見に関する詳細な分析はこんな所だが、して見るに、彼女の口から少しだけ聞いた学園アイドルの江崎さんとの友達としての関係性と言うか間柄も、類は友を呼ぶと言う奴で、自然と出来たに違い無い。

 それにしても──。

 二年生の秋頃まで、文芸部と言う或る意味での女の園にあって、一切の色恋沙汰と無縁であった我が東浜高校の名探偵、高梨玲人とあろうものが、そこを抜け出した途端、少しばかり身体付きの良い外国からの転入生などに魅了され、変節漢になって仕舞ったのだとしたら、それは非常に情け無い事であり、実に嘆かわしい事である。

 まあ──まさか、そんな事は絶対に無いとは思うが。

 俺は釈然とし無いまま、悶々とした気持ちで昇降口に向かう。

 上履きを脱ぎ、下駄げたばこから取り出した靴を足元に投げると、俺はもはや湧き上がる自身の疑問を放置していられなくなり、ケータイで高梨にメールして、直接聞く事にした。

 事件の調査って……あれ、拒否権を使って止めるんじゃ無かったのか?

 何か、状況の変化でもあったのか?

 こんな内容を、簡単に要約したメールを送る。


 ──と、すぐに返信は返って来た。

 高梨曰く、 

「俺は、先ほどの議決で決まった内容に、心から賛成した訳では無い」

「新入部員の有栖川の提案を、あの場で拒否権の発動によって却下する事は、彼女の面子を潰す事になり、適切では無いと判断した」

「これから新入生の勧誘などをする我が推小研にとって、彼女は必要な得難い人材だ。これからの活動が円滑に出来る様、新しい仲間である彼女には、推小研に対して良い印象を持って貰いたい」

「議決に付いては、先ほども部室で話した様に、顧問の上田先生の承認を仰ぎ、危険を理由に不許可として貰う形を取る事にする」

 との事だった。

 なるほど、それで、八方丸く収める事が出来る訳か。

 全く、高梨は本当に頭のキレる奴だ。

 それに、やっぱりお前は、有栖川の方では無く、俺の味方だったんだな。

 もし俺が女なら──。

 高梨、俺は今にもお前に惚れそうだっ!


 と、高梨からのメールを読み終えた俺は、嬉々として靴を履き替え、校舎の外に出た。

 どの道、高梨は自転車通学なので、昇降口で待っている事は無いのである。

 昇降口から外に出て校舎を後にし、芽摘みの終わった松の木の間を、縫う様にして歩く。

 それにしても、有栖川の奴め……。

 お前は一体、高梨の何なんだ?

 入部したと思ったら、早速、俺の分から無いトリックについて高梨と楽し気に会話を楽しみやがって、

 お前はまだ知り合いになったばかりだが、高梨は阿部と同じく、俺の親友なんだ。

 その辺の女子より、ちょっとばかり顔が良くて胸がデカいからって、新参者しんざんもののお前が調子に乗るなよ?

 推小研の活動に付いて、今までの俺はは殆ど幽霊部員みたいな消極的な関与しかして来なかったが、今朝、奴とした話を境に、それは少し変える事にした。

 今まで青春らしい事何てして来なかった俺は、部活と学校を休む事になった阿部の代わりと言う訳では無いが、少し本気を出して部活をしてみる積もりだ。

 そうする事で、現在、副部長をしていて高梨の右腕である永瀬の次くらいにはなるであろう俺の部内でのおおかぶと言うかナンバー・スリーの立場は確固たるものになるはずだ。

 それを、新入部員であるお前何かに、易々やすやすと渡してなるものか。

 永瀬があいつの右腕だと言うのなら、その左腕に俺はなってやる。

 と言っても、その時期になれば部活を引退する訳だし、それも、これから半年くらいの間の話だけどな。


 ……しかし、有栖川と来たら、単にグラマーでそれなりの美人と言うだけでなく、性格が明るくて、英語がペラペラで、バスケットが得意で、顔も美人とか、これはどう言う事なんだ?

 いずれにせよ、あの高梨との付き合いは、一年生の時にクラスが同じだった俺の方が、お前何かよりもずっと長いんだからな?

 そんな優等生グループをかき乱すような闖入者ちんにゅうしゃであるお前に対し、俺はあいつとお前との関係性に付いて、何か複雑な心配を抱かざるを得ない。

 これは、奴と長年の親友である身の立場として、お前と高梨が妙な事にならないよう、しばらくの間、一緒にいて監視して置く必要がありそうだな?

 と、そんな嫉妬しっとまみれたような腹黒い事を考えながら校門の近くまで歩いて行く。

 全く、そんな事を延々と考えていると、まるで自分がお耽美たんびな世界の住人になった気分がして来る。

 が、恋愛の趣向としては、これまでと同じく、今後も男性より女性と付き合いたいと言う考えは変わらないはずだ……多分。

 さて、帰ったら阿部から借りたジェリー・パラダイス2の攻略でも進めてみるか。

 今日は、どんなヒロインと仲良くなろうかな?

 何だか好みで無いので今まで手を付けないで置いたが、あの金髪で胸が大きい、ちょっと性格がビッチそうな、あのキャラにしてみるか。

 パッケージの裏面のキャラクター紹介では、何だか高飛車で偉そうな台詞を吐いているようだが、少し仲良くなった後は執拗なデートとプレゼント攻撃で好感度を上げ、仕上げに、陥った窮地から男らしく救ってやったりして、すぐに俺のとりことしてメロメロにしてやるから待ってろよ。

 当然、今日の授業で出た宿題を終わらせた後、香織の宿題と授業への理解に対するそのを進捗を見てやり、今年から始まったグループ・ワークとか言う自主的に取り組むタイプの課題に付いて、奈々美とのチャットでの話を終わらせたらな。

 などと、よこしまな考えを抱きながら歩を進めていると、後ろの方から。唐突に自転車のベルが鳴った。

 俺はその音に反応し、後ろを振り向く。

 白ヘルを被り、真新しい制服のスカートをなびかせて、立ち漕ぎをしながら自転車に乗って現れたのは、先ほど校内で別れたあいつ……有栖川であった。

 自転車の有栖川は、俺を轢き殺さんばかりのスピードで迫って来ると、その直前、音も無くブレーキを掛けて、乗っていた自転車を止める。

「やあっ、成海君!」

「ん? なんだ。誰かと思ったら、有栖川だったのか」

「ヘルメットを被ってたから、分から無かったかなあ」

 ……全く、お前は三億円事件の犯人か。

 俺は彼女の乗っている自転車に視線を移す。

「そうか。有栖川って、自転車通だったんだな。自転車置き場はあっちだから、道理で帰る時の方向が違う訳だ」

「うん、そう何だなあ。最初はバス通学の予定だったんだけど、私の家からだと、ちょっとバス停が遠くてなあ……。どうせならバス代を浮かせて、その分、お小遣いを増やして貰おうと思って」

「小遣いか……。それって、毎月、幾らぐらい貰ってるんだ?」

「そうだなあ、浮いたバス代を足すと……合計でだいたい一万円くらいかな」

 ちゃっかりした奴だ。

「へえ、月一万円なのか。まあ……俺もそんくらいだな」

 自分が貰っているお小遣いの額は、実は一万円よりも三千円少ない七千円ぴったりなのだが、何か対抗心にかられていた俺は、その詳細で正確な額に付いては伏せて置く事にした。

「へえ、本当に?」

「……と言いたい所だが、本当はその半分の五千円だ。やっぱり帰国子女って恵まれてるんだな。ひと月一万円も小遣いを貰える何て、俺からしてみれば全くうらやましい御身分だ」

「私は正直な額を言ったのに、自分から振った話題で、そう卑屈にならないで欲しいなあ……」

「ぐ……。まあ、そりゃそうだ」

「あっ、そうだっ。折角だし、バス停まで、一緒に行って良いかなあ?」

「ああ、そうだな。いいぜ。そうしよう」

 すると、有栖川は乗っていた自転車を降り、それを押して歩き始めた。

「さっき、私のお小遣いは月一万円って言ったけど、それには一応、バイト代も入ってるんだけどな」

「バイト? 有栖川はアルバイトをしてるのか?」

「うん。前にも言ったけど、私の家はクリスチャン教会だからなあ。その手伝いをすれば、一応、お金が貰えるんだけどな」

「家の教会の仕事か。儲かるのか、それって?」

「毎週日曜日は三、四時間労働。それが月四回だから──計算して見ると、時給三百円くらいかなあ」

「それは大変だな。……さっきは嫌味な事を言って悪かった。大変ご苦労様な事だ」

「帰国子女様が意外に勤労奉仕していて、ちょっとは見直してくれたかなあ」

「そうだな。推小研に入ってるとは言え、殆ど帰宅部みたいな俺の方が、そんなのよりずっと気楽だ」

「所で、さっきの部活の事だけど……いきなりあんな事を言って、ちょっと、軽蔑しちゃったかな?」

「いや……むしろ尊敬する。全校生徒の前で愛の告白をするほどアホな事では無いにしてもだ。みんなの前で堂々とそんな事を提案する何て事は、小心な俺には出来無い事だ。伝説の校内放送レベルで無くてもな」

 何か後ろめたさを覚え、俺は敢えて話題を逸らす。

「伝説の校内放送?」

「ああ。この県立東浜高校には、かつてそんな出来事があったらしい」

「うわあ、それ、凄く興味あるなあ」

 興味津々の有栖川に、いつか奈々美から聞いた話の受け売りを話してやる。

「そうだな、それはこんな話だ……。或る日の放課後、放送委員の仕事をして居た生徒が、下校時刻を知らせる放送の後、マイクのスイッチを切り忘れ、そのまま同じ放送室に居た意中の相手に告白をしたらしい」

「へえ、それはドラマティックだなぁ」

「放課後とは言っても、全学校中に聞こえるような形で公開告白して仕舞ったって事だ。不幸中の幸いか、その告白は成功して、今じゃ、放送委員会に代々伝わる伝説だそうだ」

 それを聞いて、有栖川は苦笑いを浮かべる。

「ふうん──でも、伝説なんて、ロクなもんじゃ無いんじゃ無いかなあ?」

「俺も同感だっ。この伝説は多分、せっかちな奴の起こしたミスが広まって行く内に、色々な事実が話題に相応しい様に面白おかしく変形したデマだろう」

「それにしても放送委員か。転校して来たばかりだから、まだ委員会は決まって無いんだけど、私も放送委員にしようかなあ」

「俺ならそんな委員に入るのさえ嫌だ。全校生徒に俺の声を聞かせる何て注目を浴びる様な真似は、一切したく無い」

 放送部には、奈々美の様なミーハーな奴が丁度良い。

「成海君は、そんなに人に声を聞かれるのが嫌かなあ?」

「ああ、そうだな。友達同士の会話ならともかく、例えばクラス内でのグループ発表とか、先生が他校へ移転される際のスピーチとか、そう言うのは全部遠慮したい。芸能人でも無いのに、目立って何の得があるんだ? 俺は高梨のようなスーパースターにはなれ無い。俺のような凡庸な奴は、そうやって目立つ事で得する事何てのは一切無いと思うぞ。何かの拍子でそう言う状況に置かれたとしても、何か失敗をしでかして、恥を掻くだけだ」

「全く、君は心底、目立つ事が嫌いなんだなあ……」

 有栖川は良い意味で気安い奴なので、俺は意図せず、こんなひねくれた言葉を吐いて仕舞う。

「軽蔑するならしろ。俺はそう言う奴なんだ」

「別に軽蔑はしないかな。うん。私もあんまり目立ち過ぎて、周囲の視線に疲れる事もあるからなあ」

「まあ、帰国子女なんてそんなもんじゃ無いか」

「そうかなあ」

 有栖川は笑う。

「それにしても放送委員か。確かに有栖川の声ならぴったりかもな。それで、放送委員に入る事になったら、どうする積もりなんだ?」

「まだ放送委員にするかは決めて無いんだけど……私なら、許可されるなら、全校生徒の前で歌でも歌いたいけどな」

 こう言う事を考える辺りが、如何にも帰国子女って感じだ。

「歌って、英語の歌か?」

「洋楽も歌えるけど、近頃はアニソンが好きかな」

「アニソン……アニメソングの事か。あっちでも、アニメとかやってるのか?」

「うん。でも、イギリスのアニメはあんまり無くて、殆ど日本のアニメの英訳版だけど」

「そうか。それなら阿部と話が合うだろうな。あいつが退院したら、是非、あいつに向こうのアニメ事情を話してやってくれ」

「君は、歌とか歌わ無いのかなあ。向こうに行く前、中学校の卒業まではずっと日本にいたから、その頃は良く友達とカラオケとかに行ったけどな」

「仮に知っている歌だったとしても、俺は有栖川や松原とは違って、そう言うのはちょっと駄目だ。人前で歌を歌うと言う事自体が、全く俺の性に合わ無い。阿部と同じく、俺と同じ中学だった松原は、良くカラオケに誘ってはくるけどな」

「それは、良いなあ……。そうだ」

 有栖川はそこで立ち止まった。

「ねえ、成海君。もし君が苦手とする、そんな目立つ様な事をする破目に成ったとしたら──」

「そんな時、可能ならば、僭越ながら私が君の役目を代わってあげようかなあ。バッター成海君の代打、ピンチヒッター」

「代わるって……良いのか?」

「うん。ピンチヒッター、私がこの学校の推小研に入部する渡りを付けてくれたお礼」

「そうか。うん、それは好都合だ。もっとも、部活動が同じとは言え、有栖川とはクラスも違うし、そんな事が都合良く出来る機会があれば良いが」

「確信までは持て無いけど、この先、きっと、あるんじゃ無いかなあ」

 奇妙な提案だが、もしもの時の保険として、無いよりはマシだ。

「そうだな。じゃあ、その時は、是非とも頼んだ」

 なんだ、有栖川の奴、やっぱり、案外といい奴じゃ無いか。

 先週の金曜日までは知り合い程度の仲だったが、日曜には一緒にゲームも買いに行った事だし、これからは友人として、付き合って行く事が出来そうだ。

 その後、バス停に着き、自転車で走り去る有栖川を見送った俺は、到着したバスに乗り、自分の家に帰った。

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