それは、月曜の朝に


 学校での通り魔事件に見舞われ、暫くの間、入院する事になった阿部への見舞いを済ませた、その翌日──。

 週明けの月曜日、朝のいつもの時間、いつものように起床した俺は、これまたいつもの様に、いそいそと朝の支度を始める。

 普段と違っている事と言えば、今朝はあの朝鬱あさうつの奴も休みなのか、とうとう軽いジャブのような攻撃しか繰り出して来ず、ベッドで朝鬱対処法のストレッチなどしてグズグズする事無しにすっきりと起きる事が出来たくらいで、普段の平日の朝と、やる事は特に変わら無い。

 だが、今日はいつもよりも四十分ばかり早い時刻に出発する予定だ。

 早朝の学校に、所用がある為である。


 手早く朝食を食べ終え、制服に着替えた辺りで、午前七時と言う起床予定の時刻を過ぎても一向に部屋から出て来ない妹の事がそろそろ気になって来たので、俺は廊下を進んで、香織の部屋へと向かう事にした。

 一応、最低限のエチケットとして、ノックしてからそのドアを開けると、部屋の中にいた香織は、その目こそ覚ましていたものの、まだ眠たいのか、いまだパジャマ姿のままベッドの中で布団にくるまり、ゴロゴロとしていた。

 俺はそんな妹を洗面台まで連れて行き、うがい手洗い洗顔をさせた後、いつもの時間までに出掛ける支度を済ませる事と、余計な寄り道などせず通学バスに乗るように二言ふたこと三言みこと注意をし、俺は早朝の学校へ行く為、自分一人だけで家を出た。


 駅のバス・ターミナルへと歩いて向かった俺は、いつも乗っているのとは二本前にやって来る、四十分ほど早いバスへと乗った。

 早めの登校が必要な遠足の時くらいしか乗った事の無いこの早朝に出るバスだが、その内部は、いつも目にしている満員状態とは対照的に乗車率は低くガラガラであり、まばらに座っている大人以外はほぼ、ジャージを着ていたりバットやラケットを持っていたりするような、一見して運動部に所属している生徒しか乗っていない。

 いつもは混雑の為に吊革につかまる立ち乗りをしている俺も、今日はそんないている車内の中ほどにある、空いている座席に座る。


 妙に落ち着いた気分で座席に着いた俺は、そこで色々と思索にふけり始める。

 始業式を兼ねた入学式が終わり、今日で五日目だ。

 そんな四月中旬に差し掛かった週明けの月曜日を、香織を家に置いたまま、いつもより早くスタートさせた目的はただ一つだ。

 先週の土曜日の夕方、部活帰りの阿部が何者かに襲撃され、怪我を負った件……。

 金曜日の朝に発覚した階段室のスプラッタ事件を「第一の事件」とするなら、言わば「第二の事件」とも呼ぶべきこの件だが、俺は今日、朝の学校である人物に会い、その件に付いて、じっくりと話をしたい。

 そして、そんな会話をした上で、あわよくば、その人物に事実の究明と解決を依頼する予定だ。


 金曜の朝に発覚した第一の事件と、土曜の夕方から夜に掛けて起きた第二の事件。

 この二つの事件を起こした犯人が、もし同一であるとするなら──。

 それは、奈々美の言っているような妖精による犯行などでは無く、明らかに生身の人間の仕業である。

 第二の事件の発生当時、何者かに襲撃された阿部がその場から逃げ出した、彼は僅かではあるが、後ろを振り返ったその目に、自分を襲った人影らしきものを目撃していた。

 既に陽が落ちていたせいで、その犯人の背格好や服装は不明だが、そのシルエットと言うか輪郭線は、明らかに二本の足で歩く人間であった事が、被害者である阿部により、はっきりと証言されている。

 無論、こんな事は、今日俺が話をすべき人物も先刻せんこく承知しょうちの事だろう。

 むしろ、俺よりもずっとその証言の重要性に付いては理解している事だろうが、気難しいあいつにまともに話を聞いて貰うには、俺なりに各証拠を分析し、奴がまともに検討するような、事件に対する俺なりの解答と言うべき仮説を用意しておく必要がある。


 そんな事を考えつつ、時刻が早いせいか、いつもとは多少おもむきが異なっている車外の景色に目を奪われていると、道がいていたせいか、俺の乗ったバスはあっと言う間に学校近くのバス停に着いて仕舞った。

 俺は通学バスを降り、そこから東浜高の校舎までの短い徒歩通学の部分を、さっさと歩いて学校へと向かう。

 テニスコートの間を通って、桜の満開な坂道を昇り、校門を抜けて敷地内に入る。

 校舎一階に備えられた昇降口の近くに来た辺りで、南側にあるグラウンドを見ると、運動部の連中が練習を行っていた。

 対する校舎の方には、殆ど人気ひとけは感じられ無い。

 

 すると、最初は、どこから行くべきだろうな……?

 先程、バスに乗ってここへ向かっている途中、俺は相変わらず尾を引いている朝欝の名残を退治しつつ、校内に点在するそれらの複数の候補を回るのに、どう言う順序で回って行くのが良いかと思案していた。

 いわゆる、「巡回じゅんかいセールスマン問題」の変形版を解いていたのである。

 それは、目的の人物を探しに、校内を巡って行く為の最適解──。

 この問題が何故、純粋な巡回セールスマン問題では無いかと言うと、その理由はいたってシンプルである。

 正確な事を言えば、そうした動きは、「巡回」では無く、「探索」だからだ。

 車庫から出てバス停に向かい、再び車庫へと戻って来るバスのように、全ての立ち寄らなければならない地点を回ってスタート地点に戻ると言うのが、巡回の動きだ。

 こうした巡回の場合、その経路は輪っかになって閉じている。

 だが、俺はこれから自分の会うべき人物が見付かるまで、既に探索を終えた場所からまだ探っていない次の場所へと移動すると言う動きを繰り返さなくてはいけないが、その途中で無事に目的の人物である奴に出会いさえすれば、そんな巡回にも似たループ処理を終わらせる事が出来る。

 従って、この問題を解く手順は、先程の巡回セールスマン問題のようなループ状経路の最短アルゴリズムでは無く、データベース内で目的のファイルを探し出す処理のような、検索の最短アルゴリズムと言う事になる。

 この種の最短経路にまつわる問題は、高校で習う数学としては最もやさしい部類の数いちエーの範囲であり、大学の受験においても、その入試問題としてしばしば出題されるケースがある。

 一年生で解く事が要求される問題何てものは、せいぜいが、かつて京都にあった平城京へいじょうきょうやその後の平安京へいあんきょうののような、碁盤の目の状に四角い通路が並んだ格子こうしがたの迷宮において、スタート地点からゴール地点までの最短ルートが何通りあるか、と言う程度の簡単なものだが、流石さすがに高校三年生以上が受けるような大学入試に関しては、もう少し難しいレベルの問題が出る事が多い。

 なので、今現在、国公立大学への入学を目指しているまごう事無き優等生である俺は、それを完全に解けるようになっている必要がある。

 ……と言うか、新入生の香織に、そんな最短経路問題に付いて教えてとせがまれて、それをきちんと教えてやれないのは、その兄として、何となく、格好が付か無い。


 そんな風な事を考えながら、俺は松の木が植えられている学校の入口のエリアから、校舎の一階にある昇降口へと辿り着く。

 そこに入り、家から履いて来た靴を上履きに履き替えると、俺はここからの行き先を考えた。

 さて、この昇降口に付いてだが、まず、ここを探ってみるか。

 目的の人物はいなくても、その居場所を探し出すのに役立つような、ヒントが隠されているかもしれない。

 慣れているとは言え、この校舎の内外を含めた学内は、一種の迷宮だ。

 適当に行動して迷ったりしていると、やらなければならない用事を済ませる前に、すぐに朝のHRホームルームの時刻がやって来て仕舞う。

 そんな訳で、奴の所属している隣のクラスの下駄箱に手掛かりらしい物は無いかくまなく調べてみると……。

 そこには毎日のように目にしている、あの人物の古びたスニーカーがあった。

 すると、少なくとも奴は、校庭やプール、弓道場など屋外の場所にいるのでは無く、この校舎内にいる可能性が高いと言っていい事になる。


 ちなみにその下駄箱の六組の所には、女子バレー部の朝練に来ているらしい奈々美の靴もあったが、わざわざ見学に行くのもアレなので、俺はこっちの方に付いては触れずに放置する事にした。

 大体、今現在、奈々美が部活をしている最中であろう校庭の端にある体育館には、同様に他の女子バレー部の部員達が体操着姿で練習を行っているのだろうし、こんな早朝に男子であるこの俺が、取り立てて用事も無いのにそんな場所へ足を運ぶと言うのは、他人の目から見た状況シチュエーションとして、極めてよろしくしく無い。

 物事には往々にして、その行動を実行すのに相応ふさわしいTPO──即ち、「時」「場所」「場合」と言うものがある。

 先週、告白に失敗して失恋の痛手を負い、その後の日曜日にはおばあちゃんの容態が急変したと言う、泣きっ面に蜂の状態にある幼馴染みとは言っても、そこに特に差し迫った危険があるとも思え無いのに、露出度の高い女子が大勢いる朝の体育館の様子を見に行くとか、そんな不審な真似をして、覗き魔だと間違えられたら大損だ。

 金曜日の階段室の事件に関連して、およそ半分ばかりとは言え、既にこの身は、警察の御厄介になっている訳だしな。

 校庭には別の運動部の朝練に参加している生徒が十何人かはいるし、どの道、あと四十分ばかりもすれば、朝のHRホームルームが開始される前の教室で奈々美と会う事になるのだから、阿部への襲撃事件が発生した夕方の事ならば兎も角、この朝、彼女に付いては放置で良いはずである。

 と言う訳で、今、これに関わるのは止めて置く。

 

 さて、まず手始めに、昇降口から程近い、俺のクラスである三年六組の教室を覗いてみた。

 が、そこに奴の姿は無い。

 隣の七組の方も見てみたが、やはり、そこにも奴はいなかった。


 ……ま、当然と言えば当然だ。

 奴は俺と同種の性格を持った奴で、無駄な動きや不必要な労力の消費を嫌うので、これと言った用事も無いのに朝早く登校して来て、教室などと言うつまら無い場所で時間を潰す様な無駄な真似をする訳が無い。

 第一、もし奴が、こんな朝の人気ひとけの無い教室にいたとしたら、それは時間の無駄とか、そんな事を考慮する以前に、単純に危険だ。

 これは別に奴の口から直接聞いた訳では無いが……俺の目で観察する限り、奴は常日頃から、意識的にそう言う容易に人目に付き、かつ、自分独りでいる状況を避けている。

 何故かと言えば、そいつは俺が出会った人間の中では最高とさえ言って良い程に非常にモテる人間だからだ。

 奴が早朝や放課後などの時間帯、独り教室でさびれており、そんな所を、奴に熱を上げている女子、あるいは異性愛に否定的な趣向を持つような男子が発見したとしたら、俺がこれまでの生涯で一度も経験した事の無いような心ときめく青春的イベント──そう、愛の告白などをされて仕舞ったとしても、全くおかしくは無い。

 もっとも、気難しい奴の事だから、十中八九の確率で、そんな浮付いた交際の申し込みなどは断るだろうが、その一方的に抱いた愛をこれまた一方的に拒絶された女子(若しくは男子)がその場で突然泣き出したり、口論になるなど、面倒な事態に発展する事は、簡単に予測出来る。

 そこはどうにか穏便に済ませたにせよ、女子のグループ同士で設定した「抜け駆けの禁止」とか言う、横並び意識の権化ごんげのような訳の分から無い悪平等ルールへの違反などが原因で、今度は、奴とは関係が薄い別の遠い所で、グールプ内での喧嘩やいじめが勃発ぼっぱつしたりなど、色々なトラブルに発展しかね無い。

 と言う訳で、この教室については、登校したばかりの俺が必ず通らなければならない昇降口から最寄りの候補地だったらから寄っただけで、そもそも奴がここになどにいる訳が無かった。

 なので、そこがハズレであったとしても、俺の方としては一向に気にする必要は無い。


 ──そう言えば、奴が唯一、そう言うリスクを冒して危険に飛び込んだイレギュラーなケースが、一応、ある事はある。

 過去を思い出してみると、それは俺と奴がまだ、この学校の新入生だった頃の話だ。

 当時、俺達が止めたにも関わらず、奴は女の園と噂の高い、この学校の文芸部へと、迅速果敢じんそくかかんに入部したのである。

 本当に、何のためらいも無く。

 そんな意味でも、奴はヒストリー・メーカーの素質に溢れているのだろう。

 それだけが、奴が無謀とも思えるリスクを取った、俺の知る只一つの例外であった。

 ……もっとも、俺の予想した通り、時が過ぎて二年生の後半、奴は部内のトラブルに巻き込まれたらしく、そこを辞め、今は俺の所属する推小研、こと、推理小説研究部の重要な部員に収まっている。

 奴は固く口を閉じて話さないが、あの時、文化祭を終えた辺りの文芸部内で、一体、何が起きたんだろうな?

 余計な事には首を突っ込みたく無いが、もし、それが知れる機会があるならば、知ってみたい気もする。


 教室がハズレだったので、俺は校舎内にある次の候補地に向かう事にする。

 俺が得ている独自の情報によれば、そこは先ほどの三年六組の教室とは違って、このHR前の朝の時間帯にもっとも奴がいる確率の高い所だ。

 仮に奴が次の行き先にい無かったとしても──現役の図書委員であるこの俺の経験からして、この時間ではまずそこが開いている事は無いので向かうのは後回しにするが──図書室か、で無ければ、職員室にはいる事だろう。

 ……その他の候補としては、階段室スプラッタ事件の現場と言う線もあるな。

 少なくとも、昇降口には奴の靴があったのだから、奴がこの物静かな校内のどこかにいる事はほぼ確実だ。

 つまり、よほど運が悪く無い限り、全ての地点を回る必要は無いだろう。

 そう楽観的に考えて、俺はほぼ人気の無い校舎内の廊下を歩き始める。

 ……もっとも、奴もこの俺と同じように、学校の内外を自由に移動出来る存在だ。

 ひたすら運が悪いと、全候補地点を当たってみても奴と出会う事無く、校内のあちこちを歩き回っただけと言う、無用の運動をした挙句に朝のHR《ホームルーム》を迎える最悪の事態になる。

 なので、結果が出そうに無い事に対して無駄な労力を費やす事や、とりとめも無い目的で行為・行動をし時間を浪費する事に慎重なこの俺は、そんな不幸による行き違いを防止する為、今朝、奴にメールでアポ取りを行って置いた。

 だが、早朝の校舎の中をとぼとぼ歩いている今、制服のポケットから自分のケータイを取り出し、メール・センターに問い合わせて見ても、こちらから送ったメールの奴からの返信含め、新着メールは一件も無かった。

 このままだと、この朝じゅうに奴に会う事が出来無いと言う、危惧していた不幸が訪れるかも知れ無い。

 俺に取って最悪の可能性は、奴が俺からのメールを読んだにもかかわらず、その内容を却下、或いは積極的に却下し無いまでも無視すると言う既読スルーだが、あいつは飛び抜けて律儀な性格をしているので、まずもってそれは絶対に無いと言い切れる。

 ゆえに、他のあり得る可能性としては、現在、奴のケータイは電源が切れた状態にあるか、ケータイ電波の受信強度の問題でこちらの送ったメールがまだ届いていない場合の、いずれかと言う事になる。

 ──と、そんな事を考えながら、朴訥ぼくとつと校舎内を歩き続けた俺は、とうとう目的の場所、校舎の端にある推小研の部室の前に辿り着いて仕舞った。


 部室のドアは、開いていた。

 明るいクリーム色をしたそのドアは、室内の内側に向かって開かれており、そこから白い蛍光灯の光が漏れている。

 つまり、それはこの早朝の時刻にもかかわらず、推小研の部室を利用している誰かがいると言う事である。

 ビンゴ!

 どうやら俺は、リアル巡回セールスマン問題(変形版)などと言う、誰が得するのか全く分から無いエクストリーム・スポーツをせずに済んだらしい。


 部室が開いていて明かりが見えるのに安堵した俺は、ひょいと上半身を傾げ、中を覗いて探りを入れる。

 と……彼はそこにいた。

 目的の人物は部室の中におり、入り口とは反対側の、奥の方に座っている。

 奴は部室の中心に縦長に並べられた机達の上に、蓋をするように置かれた最も奥の席、上座とも言える部分に座って、リラックスした姿勢で新聞を読んでいるようだ。

 新聞に隠れて顔は分から無いが、こんな時間に推小研の部室の中にいるような人間、そして常に紺若しくは灰色の靴下を履いているような奴は奴一人しかいないので、間違えようがない。


 拳を作った俺は、廊下側の壁をコンコンと軽くノックし、

「ああ、失礼」

 と声を掛ける。

 すると、推小研の初代部長であり、東浜高校の名探偵であり、俺と同じこの学校の生徒であり、高校入学以来の友人でもある人物──。

 高梨たかなし玲人れいとは、その顔を覆うようにして読んでいた新聞をおもむろに下げ、

「んっ? なんだ、成海か」

 と、言葉を返した。

 そして、彼は新聞の端を掴んでいた左手を放し、その手首に嵌めた腕時計をチラっと見る。

「様子を見に来てくれたのか。しかし──今朝は、随分と早い時間の登校だな?」

「……いや、ちょっとな。ここなら、お前がいるんじゃないかと思って、寄って見たんだ。二十分ほど前、俺の方からお前のケータイに、メールを送ったんだが、読んだか?」

「ん、そうだったのか。……済まない、今まで、ケータイの電源を切っていた」

 ただでさえ軽くドスの利いている低い声を持つ高梨は、いかにも済まなそうに更に低い声でそう言い、読み掛けの新聞を半分に折り畳んで自分の前にある机の上に置くと、椅子に座ったまま軽く頭を下げ、謝罪した。

 この高梨の謝罪に、俺は手を振って応える。

「いや、良いって事だ。校舎内ではケータイの電源を切っておくのが、一応、校則だろ?」

 奴はブレザーの胸ポケットからケータイを取り出し、その電源を入れる。

「それはそうだが、その規則が適用されるのは、授業中やHRホームルームの時間、それから全校生徒が参加する式典等の最中だけだ。厳密な解釈をすれば、そのいずれでも無い休み時間や放課後、そしてこのHR開始前の時間に、ケータイの電源を入れたままにしたり、メールや電話をするのは、別に校則に背く行為では無い。何か連絡があるかもしれないのに、ケータイをオフにしていた俺が悪かった」

 そう言いつつ、高梨は今しがた電源を入れたケータイを、そのままに元通りポケットへと仕舞った。

「現にこうして俺はお前を見つけられたんだ。別に気にしてないさ」

「そうか……。連絡を受けられず、済まなかった」

 そして、奴は椅子の背もたれに腕をあごを撫で始めた。

 付き合いの長い俺は、この高梨の動作が、彼が難しい考え事をする時に良くやる特有の仕草である事を知っている。

「──それはそうと。成海、良くお前は、俺がここにいると分かったものだ」

 俺は部室の入り口に近い所に置かれている机を選んで、その下に仕舞われていた椅子を引き出して座り、床に鞄を置きながら、この高梨の質問に、若干の自信の色を交えつつ、軽妙に答える。

「ちょっとした推理だ。俺は以前から、推小研は朝も部活をする事があると聞いていた。そして今日、学校に来ると下駄箱にお前の靴があるじゃないか。そう言う状況で、お前がいるような場所と言ったら──三年七組の教室にいないとなれば、その次はここか、図書室だろ」

「……なるほど。それは、名推理と言えるだろう」

 高梨は関心したように頷く。

「もし、そのどこにも高梨がいなければ、次はあの事件現場に行く積もりだった。校舎三階のな」

「上出来だ。特に、もし俺が部室に居無かった場合に付いての論理展開は素晴らしい」

 そう言って、高梨は俺に情熱を帯びた熱い視線を向ける。

「成海、やはりお前は──卒業前に一つでも良いから、小説を書いて、この推小研に残して行くべきだと思う」

 その言葉に、俺は笑って首を振る。

「あ、いや……俺はお前と違って、みんなを唸らせる小説を書くなんて言う高度な芸当は無理だ。まあ、いつか気が向いたら、考えて置く方向性で良いか?」

「そうか。じゃあ、検討しておいてくれ」

 そもそも推理小説を含めて、俺はこれまで小説を書いた事など、ただの一度も無い。

 そんな俺が一念発起してこの高梨の為に筆を取ったとしても、多分、奴が満足するような出来映えの物は書け無いだろう。

 もしこの推小研の為に、幽霊部員である俺が何か上梓するとしても、それは小説とは違った物になる。

 そう、その界隈で流行っている推理作品の、読書感想文とかな。

 そこで高梨は、もう一つ、疑問を呈した。

「所で、こう言っては何だが、部の集まりでも無いのに、お前が呼ばれるでも無く、自分からここへ来るなんて珍しい。何か、用事でもあったのだろうか?」

 疑問を抱かれるのは無理も無い。

 放課後でも昼休みでも無く、早朝から突然部室に訪れた俺の行動を、奴が不思議に思うのは当然だ。

 そもそも、最後に俺がこの推小研の部室を訪れたのは、始業式よりもずっと前、春休みに入る前の二年生の三学期の後半、期末テストが開けた辺りの事で、つまりは今年の二月中旬である。

 今は四月の中旬だから、間に長期休業を挟んだとは言え、ほぼ二ヶ月ぶりの事になる。

 ……そういや、あの時は、学年最後の定期試験も終了し、二年生も終わりに近いので、部内で軽く打ち上げ会のようなものを催したんだったな。

 そこには下級生の永瀬真紀の他に、阿部と奈々美と桧藤もいて、割と楽しかった。

 もっとも、その時に居た高梨以外の二年生は全て創部の為の数合わせで、全員とも見事に幽霊部員化して仕舞ったが。

 他に部活動を懸け持っている阿部と奈々美と桧藤は仕方が無いとしても、元来、帰宅部であった俺までそうなって仕舞ったのは、心底、申し訳無く思っている。

 ──それはさて置き。

 高梨のした質問に付いては、俺は既に対策を用意してある。

「ああ、それはな」

 俺はそう前置きしてから、この時の為に予め用意していた建前を、自然に聞こえるよう、極力滑らかな口調で述べた。

「ほら、俺も部員名簿に名前がある以上、少しは活動に参加する義務があるだろう? たまにはここに顔を出して活動実績を作って置かないと、部活動会だとか生徒会予算委員会だとか、そう言う表向きの事で、色々と高梨や他の奴が困るんじゃ無いかと思ってな」

「ん? そうだな。それもそうか──」

 部の集まりでも無い日の早朝、俺が唐突に部室を訪れた理由について、高梨は一応、納得したようだ。

「……なら、何もわざわざこんな時間に来て貰う事は無かった。俺達が二年生の時と同じく、水曜日なら放課後も部室を開けている。部室に来て活動するのは、別に授業が終わった後でも、全く構わ無かったのだが……」

 無論、俺が早朝からこの部室に来た本当の理由、それは高梨と阿部の話をする為なのだが、その事は、今は伏せて置くべきだろう。

 それにしても、あの二年の終わりに共有したそこそこ楽しい記憶と、今置かれている状況を対比すると、全く、どうしてこんな事になって仕舞ったのだろうと思う。

 不慮の事件に遭遇して入院する事になった、野球部のエースである阿部の身の上を考えると、特に入れ揚げる部活など無い俺が、代りにその身に降りかかった災難を受けてやれば良かったとさえ思って仕舞うくらいだ。

 二週間程度の入院なんて、勉強をきちんとやっていて受験も大丈夫そうな優等生のこの俺にとってみれば、何て事は無いものだ。

 少なくとも、桧藤を含めて、校内にいる友人は全員、見舞いに来てくれるだろうしな──。

 俺はようやく、高梨の言葉に応える。

「あ……そうか? まあ、今の時間なら、ゆっくり、話が出来るんじゃないかと思ってな。じゃあ、次からはそうさせて貰う」

「ああ、宜しく頼む。もっとも、朝の時間も、成海がここを訪れたいのならば、来ても俺は構わない。他の文化部と比べて、この推小研の規模は、まだ小さい。例え三年生であったとしても、アクティブな活動をする部員の数は、多い方が良いからだ」

「分かった。じゃあ、それも考慮して置く事にする」

「ああ、そうしてくれ」

 と、高梨はそこで話題を切り替える。

「そう言えば──。少し、話は変わるが……。以前、成海の妹も、今年、この東浜高に入学する予定だと聞いた記憶があるのだが。その話は本当になったのか、聞いてもいいだろうか?」

「あ? ああ。香織は何とか入試に合格して、無事にこの学校に入学出来たぞ。クラスは、一年三組だ」

「それは良かった。そうか、成海の妹の方の名前は、香織さんと言うのか……」

「そうだが……それが、どうかしたか?」

「いや、失礼。成海のお姉さんの綾音さんとは、以前、成海の家に遊びに行った時に何度かお世話になったので、良く覚えているのだが……妹の香織さんとは、今まで話をした事があまり無かったので、その名前を失念していた」

「あ、何だ、そうだったのか」

 そりゃ、母親に似てぼんやりしている妹の香織なんかよりも、あのずば抜けて優れていて、終始、才気さいきばしった雰囲気をかもしている姉の綾音あやねの方が、どんな人の目から見ても印象に残るだろうからな。

 俺達がこの東浜高の一年生だった頃は、香織は中学のテニス部の練習で、土日の昼間や平日の放課後は、ほぼ家にはいなかった。

 なので、俺の方としても、高梨と香織は多くてもせいぜい、一、二回程度しか顔を合わせた事が無いような気がする。

「じゃあ、一応、妹の名前の字の方も教えておくか?」

「ああ、頼む」

「香織の『か』の方は、普通に香水の香で、『おり』の方は七夕たなばた織姫おりひめの織だ。普通の名前過ぎて、ウケるだろ?」

「いや……他人の名前を馬鹿にする行為は、その性格に似合わず妙にキザな名前を持つこの俺としては、何とも避けて置きたい行為の一つだ」

 と、高梨は苦い表情でそう言う。

「そうか……。まあ、お前もそんな格好良い名前を付けてもらって、色々と大変な事もあるんだろうな。俺はお前と違って平凡だから、普通の名前を付けられてて良かったと思ってるぞ」

「そうだろうか? ……では、香織さんの『おり』が織姫おりひめの『おり』と言う事は、機織はたおりのおりと言う事で良いと言う事か。言うのが遅れて申し訳無いが、俺の方からも、入学おめでとうと言わせて貰おう」

「ああ、ありがとな。香織の代わりに、礼を言わせて貰うぞ」

「……所で、今日、成海は、妹の香織さんと一緒に登校して来たのだろうか?」

「いや、今朝は俺一人だな。あいつ、寝坊助ねぼすけだから、いつものバスに乗って来るはずだ」

「そうか──」

 高梨は怪訝な顔をする。

「何か、マズかったか?」

「いや、俺も今年、この学校に新入生の妹を……それも、二人も抱える事になった手前、あまり、偉そうな事は言え無いのだが……」

 歯切れの悪い語り口で、高梨は自分の妹の事を切り出す。

「え? そうなのか?」

 と、俺は相槌を打ち、高梨の言葉の続きを促す。

「ああ。つまり、仮にも兄なら、下のきょうだいの心身が充分な成長を遂げるまで、その側に付き、見守っていてやった方が良いのでは無いか……と言う事だ」

「そうか……それもそうだな。分かった、肝に銘じておくぜ」

「分かってくれたのならば、それでいい。他人の家の事に口を差し挟む積もりは無かったのだが、つい、気になって小言のような事を言って仕舞った」

「いや、お前のそう言う他人に対してちょっとお節介な所は、俺は良い所だと思ってるからな。他にも気になる点があるなら、俺とお前の仲なんだし、忌憚きたんなく、どんどん言って欲しいくらいだぞ?」

「そうか……。とりあえず、今俺が成海に言いたかった事はそれだけだ」


「さてと、朝のホームルームまで、まだ当分、時間がある。折角、ここへ足を運んでくれたのだから、その辺に座って、適当に、ゆっくりして行ってくれ」

「ああ、じゃあ、ちょっと邪魔させてもらう。幽霊部員で悪いな。受験勉強が忙しいんだ」

 これは本当の事だ。

 志望校の入試問題は、既に過去五年分までを入手して解答に取り組んでいる。

 俺は一番手前にあった机の上に自分の鞄を置くと、椅子を引き出して座った。

「成海。俺の方としては、部の立ち上げに部員として名を連ねてくれただけでも十分ありがたいと思っている。俺もそうだが、成海の様に進学を希望しているのに、その為の勉強よりも部活動を優先するなどと言うのは、生徒の本分から言って本末転倒だ。だが、欲を言えば、成海もこの部室へ週一くらいに顔を出してくれると、俺もこの部室を確保した甲斐があると言うものだ」

「週一? そんなんでいいのか?」

「ああ、それで十分だ。本来、部活動とは、積極的に活動する気がある者だけが加入するべきものだ。去年の秋口の頃、部設立の人数合わせにこちらから無理を言ってお前を誘った以上、俺が成海に期待するのは、それぐらいの事だ。それに、お互い、もう三年生だ。勉強と部の活動の両立は、以前よりもより重視するべきものだろう」

「そうか」

 と、俺の目の前の部室の壁に、四隅をセロハンテープで留めた横長の白い紙が張り出されているのが目に留まった。

 そこに複雑に書き込まれた矢印やら付箋の日付などの内容を分析する限り、推小研の発行する部誌、「クォーツ」の進行予定表のようだ。

 推小研の部誌、「クォーツ」は過去にまだ一回きりしか発行されていないが、今年度は年四回程度、刊行する積もりのようである。

 その証拠に、予定表に書き込まれている予定として、「クォーツ 夏号(Vol.2)」「クォーツ 秋・学園祭特大号(Vol.3)」「クォーツ 冬・新春号(Vol.4)」となっている。

「これ、前に春休みの前に出したのと合わせて、通算で年に四回か。随分出すんだな? この初夏号の部誌の制作って、順調か?」

「ああ、割と順調だ。夏休みの前に出す予定の今年の夏号に付いては、今の所、配布に問題は無いだろう」

「その作業をするのって、平日の放課後になるか?」

「基本的にはそうだ。だが、長時間の作業は、土曜日に行う事もあるかもしれない」

「そうか。なら、土曜日の授業の後なら、俺も何とか手伝えそうだ。気兼ね無く呼んでくれよ」

「良いのか? なら、悪いが、部誌の製本作業を手伝って欲しい」

「製本? それって、どんな事をやれば良いんだ?」

「具体的には、印刷し、帳合ちょうあいの終わった物をステープラーでじ、更にその綴じた物のノド……つまり、背表紙に当たる部分を、製本機を使ってテープ留めする作業だ。両方ともかなりの力仕事であるせいか、男手おとこが無ければ、綺麗な仕上がりにならない。ある程度の根気の要る、割としんどい作業だが、頼まれてくれて良いだろうか?」

「なあ、それって、要は、同じ手順を繰り返すだけのルーチン・ワークだろ?」

「まあ、そうなるが……」

「それなら、お安い御用だ。俺に取っちゃ、執筆とか編集みたいな、綿密でデリケートな調整が必要な作業より、そんな力さえあればすぐにでも出来るような単純作業の方が、余計な気を使わ無くて良い分、むしろ好都合だからな。まあ、任せてくれ」

「じゃあ、頼んだ。三年になってまで、俺の我がままに付き合って貰って済まない」

「良いって事だ。俺もして見たかったからな、部活。──さて、残りの時間、どうするかだな……。読ませて貰って良いんだろ、これ」

 俺はそう言って、さっきから気になっていた、机の上に置かれた本箱を指差した。

 ティッシュの箱を切って作った本箱に、文庫サイズの書籍が沢山が収まっている。

「無論だ。その本達は、学校から支給された部費を使って、その辺の古書店から二束三文で調達した物だ。確か、全部で千円し無かったか」

「この数でか? どう見ても全部で二十冊以上はあるぞ……。それは良い買い物をしたもんだ」

 俺は本棚から一冊の書籍を選んで手に取り、ページをパラパラとめくった。

 ふと、高梨は気が付いたように言う。

「そうだ、成海。コーヒーは飲むだろうか?」

「いや、もう家で飲んで来た。と言う訳で、今日は遠慮して置くから、別に、構わ無くていいぞ?」

「そうか。じゃあ、適当にくつろいでいるといい。ささやかではあるが、茶菓子も用意してある事だしな。それは、そこの大きな缶の中に入っている」

「でかい缶って、これか?」

 四角い金属製の缶の蓋を開けると、その中には、煎餅だの、チョコレートだの、クッキーだのが乱雑に入っていた。

 また、そのお菓子の中に、洗濯バサミで止めてあるコーヒー豆の袋も見える。

 だが、俺が見た所、その粉の残量は、せいぜいがあと二回分と言った所だ。

「これ、コーヒーの粉の残りが少ないな。今度来る時に、うちにストックしてある豆をいて持って来るから、ちょっと待っててくれ」

「そうか? 済まん、では頼んだ」

 ……例の話をする頃合は、そろそろだろう。

 高梨の気を良くした所で、俺は本題を切り出す。

「所で、阿部の件も合わせて、例の一連の事件の事なんだがな……。改めて意見を聞きたいんだが、高梨としてはどう思っている?」

 俺の言葉に、高梨は苦渋を舐めたような顔をする。

「阿部は、本当に残念だった……。この俺の周囲で、まさか、ああ言う目に遭う奴が出て来るとはな」

「病院に見舞いに行った時、俺は本人から事件当時の話を詳しく聞かせて貰った。それによると、野球部の遅練をやった後、校舎に入ろうとして中庭を通った時の事らしいのだが」

「──あいつ、本当に無茶をしやがって」

「無茶と言うか……大怪我を負って、しばらくの間、入院しなければならなくなったと言う結果から見れば、無鉄砲な行為だっただろう」

 俺は、本題を切り出す。

「なあ、高梨。その事なんだが……」

 高梨の目を真剣に見据える。

「……俺達で事件の手がかりを探し、阿部を襲った犯人を見付ける事は出来無いか?」

 すると、何か心の琴線に触れる様な事を言ったのか、高梨は虚を突かれたように固まる。

 やがてその表情は、次第に悲壮なものへと変わって行き──。

 高梨は深く溜息を吐くと、その顔を見つめる俺の目を見据え、口を開いた。

「そうしたいのは……俺も山々だ」

「じゃあ、」

 そう言い掛けた俺の言葉を遮り、高梨は言った。

「だが──。こう言うと非情に聞こえるかもしれないが、この推小研のメンバーで犯人を探り出して警察に突き出すと言うような、阿部の弔い合戦のような事をするつもりなら……それは駄目だ」

 俺は、この高梨の予想外の態度に面食らって、押し黙った。

「……その理由に付いてだが、主に二つある。まず、ただの高校生である俺達には、刑事事件に関する捜査権が無い」

「犯人の割り出しに役立つような証言や証拠などの手がかりを得るのは難しい」

「もう一つの理由は、安全面での問題だ」

「一般的に言っても、どんな事件だろうと、犯罪への対処と言うのは、相当の危険を伴う事なんだ。事件の発覚を逃れ、或いは逃亡する為に、犯人は目撃者など自分を知る者や、それを捕まえようとする者に抵抗し、場合によっては殺害を試みるかもしれない。だから警察官は、警棒や手錠だけで無く、そう言う相手に対処出来るだけの武器、つまり銃を持っているんだ。相手は既に阿部をやった凶悪犯罪者だ。こう言う事件に置いて、拳銃の様な十分な制圧力を持った武器の携行が許されていない、単なる高校生である俺達には、犯人の脅威に対抗しえるだけの合法的な手段が殆どない。つまり、俺達の出る幕は無い」

「そうか」

「どうしても、と言うのなら、部内の会議で、成海はその事を提案する事も出来るが……」

「そう言う部内の議決に掛ける所までは認めるとしても、俺はその意見に強力に反対せざるを得無い。成海が知っているかどうかは知ら無いが、部長である俺には、文化部会の規則によって与えられた、拒否権と言う物がある。部員が部内での会議や投票の議決で決めた事項に付いて、その実行を不許可とする、各部活動の部長と担当の先生だけが持つ特別の権限だ。これは運動部も同様だろうが、文化部活動会規則には、部活動の実施に置いて危険を伴う活動に付き、部長、そして副担任含む担任教諭は、その拒否権を適切に行使しなければなら無いと定められている。事件に付いて部内で意見交換をする事は許す事が出来ても、近年の実際に起こった犯罪に付いて、捜査めいた事をするのは、部長である俺の意見がどうであれ、まずこの推小研の担当教諭である上田先生が許可を出さ無いだろう。仮に先生の許しが得られたとしても、この俺は拒否権を行使し、実際の捜査活動は許可し無い」

「でも、二年生の時のあの事件では──」

 高梨の視線が窓の外へ移る

「……成海。あれは、窃盗犯だ。それもせいぜい数千円と言った少額の。学校内で起こったその程度の事件なら、警察が本気で捜査をするような事件では無いし、教育の観点から、警察が直ちに関与する事が、適切であるとも思わ無い。……だから、俺が始末を付けた」

「だから、阿部の事件は放置するって言う事か? どうしてそんな事が言えるんだ」

「その理由は、例えばこう言う事だ」

 高梨は説明を始める。

「同じネコ科の動物でも、ヒトと一緒に生き、進化して来たイエネコと、サバンナなどに住んでいるライオンは、全く別の生き物だと言える。阿部を袋にした今回の事件の犯人は凶悪犯で、多分、学外の人物だろう。学内での窃盗事件のようなネコ退治程度の事しか出来無いこの俺に、今回のようなライオン狩りにも似た捜査を実行する事は、不可能だと言う事だ」

「ぐっ……」

「ただ、少なくともこの推理小説研究部の活動に関係する限り、その部長と言う責任者たる俺は、所属する部員達を犯人との遭遇などのような想定し得る危険から遠ざけ、その安全を現実に確保する義務があるだろうと思う。それは、他の部員だけで無く、俺の掛け替えの無い友人である、成海、お前も含めての事だ」

「それは……」

「そう言う訳で、阿部の事件を捜査すると言う今の成海の提案だが、その期待に応えられ無くて、本当に済まない。だが、それがまだ高校生である俺達がする事の出来る行為の限界と言う事なんだ。済まないが、その辺りの事情も含め、理解して欲しい」

「じゃあ……。俺達は阿部に対して、見舞いに行く事しかしてやれないって事か。通り魔にって、不幸にも試合に出られずに、本当に残念だったなって」

「まあ……結論としては、おおむねその通りだろう」

 高梨の放った言葉と、事の次第が実に不愉快だった俺は、その不愉快さの余り──。

 その時、思わず椅子から立ち上がり、語気を荒げて、叫ぶようにこう言って仕舞った。

「なら! 本当にみじめだよな!? 阿部も野球部も!! 俺も! お前も!」

 それは聞いた高梨は、幾分悲しげな顔をし、視線を窓の外に向けて答えた。

「──本当に、そうだ……」

 現実はアニメや小説のようには行か無いものだ……。

 そんな高梨の仕草は、その事を全身で物語っているように見えた。

「くそっ! 畜生っ!」

 俺は握り締めた両方の拳を机に置き、悪態を付いた。

 良く考えてみれば、阿部の遭遇した事件は、警察が現に捜査中の凶悪事件だ。

 そんな大それた事柄に付いて、単なる一介の県立高校の生徒に過ぎ無い自分達に、一体、何が出来ると言うのだろう?

 もし意味のある何かをするのだとしたら、科学的捜査や推理や分析の能力……それから、そう言ったものを可能にする法的な権限が必要だ。 

 つまり、仮に前者の能力がこの高梨怜人に備わっており──いや、実際に備わっている事は、この学校でかつて起きた過去のささいな事件とその顛末てんまつにおいて、証明済みだが──現場に残された証拠などから犯人を割り出して事情聴収をし、或いは逮捕状を、はたまた訴追して刑事裁判の法廷に立たせるなどと言う事は、完全にそれを専業としている専門家達の仕事なのであった。

 ここにいる高梨玲人は、能力としては十分にそれが可能であったとしても、それを行うだけの法的な権限を持ってい無い。

 つまり、幾らその卓越した頭脳と推理能力を持っていようと──。

 あるいは、既に学内の事件を幾つも解決し、東浜高校の名探偵と周囲から称されていようと──。

 ただの勉強熱心な男子高校生の一人でしか無い俺自身と同様、人一倍頭脳明晰で、推理と犯罪心理学の分野に驚くほどけている人物とは言え──。

 その置かれている地位としては、ただの一介の公立高校の三年生に過ぎ無い高梨玲人に、推理小説研究部という文化部の部長に過ぎない彼に、既に警察が捜査に乗り出している建造物侵入・傷害事件の犯人探しやその解決を図る事など、最初から、出来るはずも無かったのだ。


 ……結局、俺は、この周辺の地域では随一ずいいちと言ってもいい実績を持つ、この学園の名探偵が、合法的に行う事の出来る行為の範囲に付いて、非現実的なまでに過剰な期待をしていたようだ。


「──済まん、大声を出した」

 俺は今の振る舞いに付いて彼にそう謝り、まるでしいれた雑草の如きゆっくりとした動作と気分で、力無く椅子に腰掛けた。

「いや……俺の方こそ、長年の友人である阿部の件に対して、その通りだろうなどと、まるで他人事たにんごとのような口を利いて仕舞った。反省している」

 と、この名探偵は、心からの謝罪の言葉を述べる。

 自分では同じ年頃の連中と比べて随分大人びた考えを持っていると思っていたが、この俺の中にもまだ、無謀とほとんど変わりの無い事に執念を燃やす、意気盛んな子供臭い部分が残っていたようだ。

 無鉄砲と言う言葉の意味が、今ほど噛み締められた時は無かったかもしれない。

 ……じゃあ、この俺は一体、どうすれば良いんだ?

 このまま黙って、受験勉強をしたり、推小研の部誌を作っていろとでも言うのか。

 もう部活での活動期間が残り少ない三年生だと言うのに、練習はおろか、試合にも出場出来無くなって仕舞った阿部のかたきを取りたい俺に取って、その現実はあまりにも辛かった。

 そんな現実に打ちのめされ、黙っている俺を同様に押し黙って見ていた高梨は、やがて、重々しく口を開いた

「成海。人は……」

 俺は垂れた頭を起こし、ハッとして高梨の方を見た。

 彼は冷めたコーヒーの入ったマグカップを持ち、それを沈んだ様な目で静かに見下ろしている。

「人は、その時に与えられた自分のわきまえて、生きるべきだと、思う」

 その核心を突いた言葉に、反論する材料が何も見つからず……。

 俺は、ただ、黙りこくるしか無かった。

 きっと高梨の奴は、警察ですら手をこまねいているであろう今回の事件に付いて、捜査権を持たないただの高校生の集団である俺達がそれをどうにかして解決しようと言うのは、明らかに自分達に与えられたを超えた事だ……。

 と、そう言いたいに違いない。

 一呼吸置いて、俺は心境を吐露する。

「確かに、単なる高校生の分際で、あんな事件を何とかして貰おうとしていた俺が、間違ってた。幾らこれまでの実績があるとは言っても、今回みたいな新聞に載るような大事件を、お前に解決して貰おうなんて、俺は、どうかしていたんだと思う」

 それを聞いて、高梨は俺と同様のその疲れた顔で、緩やかに首を振った。

「先程の提案なら、気に病む事は無い。もし俺がお前と同じ立場だったなら、きっと同じような事を考え、実行しただろう」

「ん……そうか?」

「ああ。東浜高の名探偵めいたんていなどと、他人たにんに呼ばれる立場にいながら……まるで力になれ無くて、済まない。内心、忸怩じくじたる思いだ」

「そうだったのか。こっちこそ、悪かったな。責めるような事を言って。正しいのはお前の方だ。俺が間違ってた」

 高梨だって、やるせ無い気持ちは俺と同じなのだ。

 この賢明なる友人に現実をさとされた俺は、その時、心底、そう思う。


 してみるに、昨日、病院のベッドで包帯やギプスなどを巻いて大人しくしている阿部の姿を見てからと言うもの、ここ連日のように見舞われた事件や朝鬱などによるストレスも相まって、俺はいささか冷静さを欠いて仕舞っていたようである。

 良く考えて見れば、例えば、妹の香織が探偵気取りで事件を探るなどと妙な事を言い出したら、まあ確かに、俺はあいつをひっぱたいてでもその頭の中に宿した幼稚で駄目な考えの修正を試みるに違いない。

 そう納得し掛けた俺に、高梨が畳み掛ける。

「成海。あの事件は、既に翌日に警察が来て、現場を捜査している。更に阿部の怪我の具合の分析から、凶器の特徴や、押さえられるだけの証拠は、ほぼ全て押さえたはずだ。また、俺が知る限り、近隣の住民への聞き込みも実施されているようだ。残念ながら、そんな警察の動きを援助する為に、ただの高校生である俺やお前に出来る事は、殆ど全く無いと言って良い……」

「ああ……」

「──だが、もし、俺達が警察がまだ得ていないような証拠を発見したら……。それを慎重に確保し、警察に報告する事は出来る。そうした未発見の証拠があれば、事件の解決に、役立つかも知れ無い」

「……じゃあ、そんなものを見付けた場合、お前に報告すれば良いんだな?」

「ああ、そうしてくれ。直接、警察に連絡してくれても良い」

「分かった。今日、俺が話した件に付いては、みんなには内緒にして置いてくれ無いか?」

 若気の至りによる失態と言うのは、おおっぴらに披露したくは無いものだ。

「ああ。この胸の内に、密かに仕舞って置くとしよう」

 それを聞いて安心した俺は、壁に掛けられた進行表を眺める。

「……部誌、上手く出来ると良いな」

「ああ。お前の手伝いがあれば、前よりもずっと立派な物が出来る」

 それを聞いて、俺は少しまぶたをこする。

「その時には、連絡してくれよ。俺なんかでも、頭数の一つにはなるだろうからな」

「ああ」

「後、前々から頼まれてる小説の執筆の件だが──ここにあるような推理小説の、読書感想文みたいな物でも良いか?」

「そうだな……。兎に角、今の我が部の部誌には、冊子として世に出すだけのボリュームが不足している。そうした読書感想文のような論評でも、無いよりは幾らかマシだろう。出来れば、数冊分は欲しい所だ。成海がそれを書き上げてくれたら、その内容を査読するから、五月に入るまでに、一冊分で良いから、こちらに上げて欲しい」

「それじゃあ、とりあえず、今月末に始まるゴールデンウィークの前までには上げるから、その時は頼んだぞ?」

 そう言って、俺は机の上に置きっぱなしだった、本箱から取った本を、再び読み始めた。

「ああ……」

 高梨もそう返事をし、畳んで置いていた新聞を再び広げ、片手でコーヒーを飲みながらそれに目を通し始める。


 ──授業が始まる前の朝の部室に、意気消沈した男子高校生が二人。

 俺に相応しい青春何てものは、やはりこんな物だ。

 それを悪いとも思わ無いし、嫌だとも思わ無い。

 むしろ、購買で売っている、胡桃と甘いチーズの入った、しっとりした食感のフランスパンのように、何のケレン味も無い素朴な味わいがして、いっそ清清しい。

 何かと地味な俺にはぴったりだ。

 いっそ、クラシック音楽でも掛けたくなる。


 ──と、そんなアンニュイな気分に浸っていると、部室の外に繋がる廊下の方から、軽い足音が近付いて来るのが耳に入った。

 誰かが歩いて来たようだ。

 ……その足音は、すぐ近くで止まる。

「あらっ?」

 声のした方向を見ると、部室のドアの前に背丈の低い女子生徒が立っていた。

 眼鏡の奥のその小さな目を丸くさせている。

「あ。ど、どうも。おはようございます」

 俺と目が会うなり、彼女は軽くお辞儀して挨拶した。

 誰かと思いその顔を良く見れば、推小研の副部長であり、二年生の永瀬真紀だった。

 高梨も新聞を下げ、そちらを見たようだ。

 永瀬は小柄な容姿に、高校生にしてはやや幼く見える童顔で、その髪型はまるで昭和時代のおかっぱに近いボブカットと呼ぶスタイルにしている。

 それに加えて、更に彼女は、横長な楕円形の大き目のレンズが付いたメガネを掛けていた。

 ゆえに、その華奢な声質と相まって、愛くるしさすら感じる、知的で極めて柔らかな印象を受ける少女なのであった。

 俺はメガネには詳しく無いが、永瀬が掛けているそれのレンズの光沢、そして薄さからして、きっと体育の授業などで着用しても邪魔になりにくいような、軽量なプラスチック製のものに違いない。

 フレームはと言うと、これはどう見てもメタルな光沢を持っている。

 その構成元素は不明だが、メーカーのロゴが刻印されている事からして、間違いなく金属製だった。

 形状記憶合金と言う奴かもしれない。

 永瀬は目で部室の中を見回すと、慎ましくも、

「もしかして、お取り込み中でしたか?」

 と聞いて来る。

 高梨はそれに答え、

「なに、適当に喋っていた所だ、気にするな。遠慮無く入ってくれ」

 と応え、手で永瀬に入室を促した。

「……それでは、失礼します。先輩方、お二人でいらしてたんですね。お邪魔して済みません。フフ」

 と言って、永瀬は微笑した。

 進行表を背にして向かい側の机の椅子に着いた永瀬に、俺は仏像のように曖昧で柔和なアルカイックスマイルを浮かべ、

「しばらく振りだな、永瀬。……二月の打ち上げ会以来か。俺の方こそ、推小研をほったらかしにしていて済まない」

「いえ、先輩方は皆、お忙しいでしょうから」

 なにぶん、不意の事だったので、俺は突然にやって来た永瀬に、それ以上、話し掛ける言葉が見付から無い。

 十数分前に、突然、俺の訪問を受けた高梨も、おそらく同様だっただろう。

 さて、何かこの二年生女子の後輩と話すような、適当な話題は無いだろうか──?

 考えに考えた俺は、これ以上無いほどのタイミングの良さで、まるで閃くが如く、今朝ここへ来たもうひとつの用事を思い出した。

「そうだ──。今日は一つ、用事があって来たんだった。すっかり忘れていた……。高梨、あと永瀬も聞いてくれ」

「はい」

 永瀬は柔和な笑顔で応じる。

「ん? 用事? なんだ?」

 高梨は怪訝そうな顔付きで、俺の方を見た。

「実は、新しい部員の件なんだが……。一人、入部希望者を見付けたんだ」

「……なんだ、もう新入生を勧誘してくれたのか。仕事が早いな」

「いや、期待を裏切って済まないんだが……それが、三年生なんだ」

「三年か……。別に入部を希望する者が何年生であろうと、来る者を拒む気も権利は俺には無い──。詳しく聞かせてくれ」

 俺は話し始めた。

「ああ。──何年生だろうが、入部希望届を出しさえすれば、一応、どの部活動でも入部し、活動する事が出来るのは、俺も知っている。けど、俺達三年はあと半年もすれば引退するのが普通だよな? つまり、二年生への引継ぎを早めに終わらせて、有終ゆうしゅうの美を飾るってやつだ。だから、先方も気を遣って、一応、この推小研に所属するみんなから、事前に了承を得て置きたいと言う事なんだが……」

「なるほど……。確かに、三年生の身分で新しい部活に入ると言うのは、ごく稀なケースだろうし、その新しい部員希望者が、既に形成されている部内の雰囲気を自分が壊さ無いかどうか、不安を抱くのは当然とも思える。永瀬の方は、どうだろうか?」

 高梨の問い掛けに、永瀬は微笑みながら、考えを述べた。

「先輩方のお知り合いが入部を希望されると言う事でしたら、私としては、全く異存はありません。遠慮は無用ですので、どうか、ご存分に活動されて下さい」

「──だそうだ。と言う訳で、その入部希望者が現在、三年生であったとしても、特に、問題は無いだろう」

「そうか。それじゃあ、みんなの都合が良ければ、さっそく今日の放課後にでも、顔合わせをセッティングして良いか?」

 すると、永瀬は自分の鞄から、可愛らしいペンの挟まったスケジュール帳らしき物を取り出し、中を開いて確かめた。

「──ええ。私の方は大丈夫です」

「俺も今日の放課後には、特に予定は入って居無い。是非とも呼んで来てくれ」

「……何だかお見合いみたいですね、フフ」

「全くだな。じゃあ、宜しく頼んだ」

 一仕事を終え、気楽になった俺に、高梨から追加の質問が上がる。

「所で──その三年生だが、名前は何て言うんだ?」

「……有栖川だ。ほら、七組の有栖川すみれ。知ってるだろ?」

 すると高梨は、安心した様に頷いた。

「ああ、何だ。有栖川か。前々から、誘いは掛けていたのだが……。ついに決断してくれたと言う事か。彼女なら、この推小研への入部には何の問題も無いだろう。俺としては大歓迎だ」

 と、高梨の方は、何の突っ掛かりも無く、あっさりとそれを快諾する。

 ここにあいつがいたとしたら、「何だとは、失礼しちゃうなあ」などとと言いそうではあるが。。

 奴は一体、どれだけ高梨に信用されていると言うんだ。

 高梨と付き合いの長い俺としては、全くもって不可思議である。

 俺はそんな有栖川に、軽く嫉妬すら覚えて仕舞った。

「歓迎って、そんなにあいつに入部して欲しかったのか?」

「永瀬はどうか分から無いが……。これから何かと忙しくなる俺としては、副部長を任せている永瀬や、これから始まる新入生の部活への勧誘の為にも、それを十分にサポート出来るような放課後に活動出来る女子の先輩は、いた方が良いと思っている。有栖川ならば、問題無く、それが出来るだろう」

 そう言って、高梨は新聞を読む作業に戻る。

「そうですね。私としても、女子の先輩方は、多い方が安心です」

 と、永瀬も高梨の意見に賛同した。

「うーん、そんな、ものか……?」

 俺は、何か得心とくしんが行かず、首を傾げる。

 しかし、それはそうなのだった。

 確かに有栖川は、その性格として、三年生にしては若干、いたずらっ気が多過ぎると言う嫌いはある。

 が、その通りの良いしっかりした声色と絶やさぬ笑顔には、何となく人を朗らかにさせる所があって、彼女と会話している時に感じる安心感は、一種、驚異的なものがある。

 また、有栖川は体育と英語が得意なだけで無く、他の教科の成績も悪く無いと聞く。

 この俺から見ても、有栖川は、流石、イギリスに二年ほど行っていた帰国子女だけあって、その基本的なコミュニケーション能力、いわゆるコミュりょくは高い方だと思える奴である。

 真面目で実直な性格が受ける本邦ほんぽうなどとは違って、欧米の方ではきっと、次の世代を継いで行くリーダーとしてああ言うのが望まれているのだろう。

 有栖川なら、下級生同士などでちょっとした揉め事などが起こっても、多分、双方の言い分を聞いて、丸く収めて仕舞えるはずだ。

 推小研には、他にも三年生の女子はいるが、桧藤はこの推小研よりか、部長もしている美術部の活動をメインにしているし、どちらかと言えば、人見知りするタイプだしな。

 それがどう言う訳なのだか全く納得行かないが、いみじくも女子バレー部の部長などをしている奈々美に至っては、もはや論外だ。

 あいつがバレー部の部活をしている所をこの目で見た事はほとんど無いが、あんなバカで感情的なミーハー女にトラブルの解決を任せるなど、まったく火に油を注ぐようなもので、和やかなる解決に至る想像が全く出来ない。

 良くも悪くも、奈々美にはそう言ったシャイな部分は少ないが、そもそも暇であったとしても、そそっかしいあいつに推小研を監督させるのは、少々、心許無い。

 ……いや、悔しいが若干訂正する。

 一応、奈々美はバレー部の部長をやっているんだよな、あれでも。

 なので、部活動の勧誘くらいには使えるかも知れ無い。

 それにしても、有栖川の推小研の入部に付いては、高梨の方から誘っていたとは意外だ。

 もしかすると、入学式の日には、教室にいた見知らぬ顔の一人である、転入生である彼女に、早速、一声ひとこえ掛けていたのかもしれない

 とりあえず、阿部を見舞った病院からの帰りに有栖川から任された依頼をこなした俺は、事の成り行きに気を良くし、読み掛けの本をみたび読み始めた。


 ──その後、朝のHR《ホームルーム》十分前の予鈴のチャイムが鳴るまでの数十分間、永瀬は新たにれた薄めのコーヒーを飲み、ニコニコと笑いながら、静かに俺と高梨との会話に相槌を打っていた。

 以前、俺がまだ二年生だった当時、彼女が放課後に開催された部内会議に置いて自分の意見を積極的に開陳するのを見た事があるが、今朝は俺と言う珍客がいるので、聞き役に徹する事に決めたようである。 

 それにしても、こうして見ると、永瀬は今や、高梨の妹分とすら言って良い存在かも知れ無い。

 けれど、高梨には実の妹が、それも二人もいた筈だ。

 この場にはいない高梨の妹二人の名前は思い出せなかったが、その存在だけは話に聞いていて覚えている。

 確か、我が不肖の妹である香織と同じぐらいの歳だったはずだが、この東浜高校に入学したのだろうか?

 もしそうだとしたら、この先、永瀬と高梨の実の妹との間で真の妹分の座を巡って、あるいは、周囲の目からは、高梨と親しくするあの新入生は誰かと言う件を巡って、ひと悶着起こりそうな気配ではある。

 ひょっとして──いや、十分に考えられる事だが、学内にいる他の多くの女子と同様、この長瀬も、高梨に惚れている可能性があるな。


 さて、高梨玲人は、この俺がびっくりするほど、骨の髄まで論理と理屈のみで構成されているような、本物の堅物である。

 そんな高梨の妹とは、一体、どんな奴なのだろう?

 まあ、それは別に、今すぐに聞か無ければならないような事でも無いので、後のお楽しみとして取って置く事にしよう。

 今度、それに付いて話題にする機会があれば、その時に聞いておこうと思う。

 高梨の妹の件に付いて、俺はそれ以上、余計とも言える考えを巡らすのを止めた。

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