第2章

病院へ

 部活から帰宅中の阿部が重傷を負い、救急車で大きな病院に運ばれ、そのまま入院する事になった──。

 と言う緊急連絡が入ったのは、そんな事件のあった最悪の金曜日から二日後、四月十日、日曜日の朝の事だった。

 聞く所によれば、阿部は昨日、土曜日の夕方、所属している野球部の練習が終わって自転車で家に戻っている途中、部室のロッカーに自分のケータイを忘れた事に気が付き、それを取りに戻りに学校へと引き返したらしい。

 その後、無事にケータイをロッカーから回収し、さあ、これから改めて帰宅だと言う、その時──。

 背後の部室の陰にいた何者かから不意を打たれるような攻撃を受け、奴が大怪我をしたのは、そんな場面での事だったと聞く。

 詳細は分から無いが、県立東浜高等学校の校内に潜んでいたその不審者の襲撃により、手酷い傷を負った阿部は、命からがら何とかその場を逃げ出し、学校の近くの「子ども110番の家」のステッカーを掲げた民家へと、満身創痍まんしんそういの状態で転がり込み、どうにか助かったと言う事らしい。

 既に地元の警察には、この事実は通報済みであり、もう被害届も出されていて、目下、高校生への通り魔的傷害事件として、捜査中らしい──。


 これらの事を、俺は春休み明けから通算五連続でやって来た朝鬱との戦いで勝利し、朝食後のテレビを妹の香織と楽しんでいた辺り……。

 そう、今朝の午前九時頃に、奴の家から掛かって来た電話を受けた、自分の母親から伝え聞かされた。

 俺は電話中の母親に、その阿部が入院した病院へ、すぐに見舞いに行っても良いか聞いて貰うと、阿部の親御さんは是非来てくれと答えてくれた。

 早々はやばやと見舞いの許可を貰えた俺は、支度もそこそこに、早速さっそく、午前十時半を回ろうと言う頃、阿部が入院したこの街の大きな病院に向かい、妹の香織とともに、急ぎ自転車で走った。

 途中、街角のフルーツ・ショップに立ち寄って、リンゴやナシなどの果物が幾つか入ったかごを見舞い品として調達し、病院へと急ぐ。


 それにしても、あの阿部が重傷を負うとは、本当に何と言う事態なのだろう──。

 状況からして、阿部を襲撃した通り魔事件の犯人は、あの金曜日の朝に起きた階段室スプラッタ事件の犯人と同じかもしれない。

 階段室の事件の第一発見者に近い人物である阿部が、後日、犯人が同じらしい別の事件に巻き込まれたのは、ケータイを忘れたと言う不運から起こった、単なる偶然の結果のようにも思えるが……。

 しかし、もしかすると、そうで無い場合も考えられるかもしれない。

 この二つの事件の犯人が共通だとすれば、ひょっとすると、あの時、現場で大声を上げた阿部に目を付け、どんな理由からかは不明だが、それを恨みがましく思い、どこからか奴の動向を監視していて、酷く痛め付ける事の出来るような隙をうかがっていたのかも知れない。

 少なくとも階段室事件の犯人は、ハイレベルな知性と強い実行力を持ちながらも、感情的でオカルト的なものを主な動機として行動しているような奴だ。

 神聖な儀式の邪魔をしたとか何とか、そんな偏執的で執拗な異常者の発想で、個人的に邪魔に思う誰かに容赦なく加害を加えたとしても、全く不思議では無い。

 ──となると、阿部と同様にその現場にいたこの俺も、その何者かに襲撃される危険性はある訳だが……。

 そこまで考え、俺は強い不安を覚えたが、とりあず、病院へと急ぐ事にする。


 阿部が収容された病院の近くに来た辺りで、救急車や見舞いの車が出入りするかも知れないので、俺と香織は漕いでいた自転車のスピードを落とし、その切らせた息を整えながら病院の敷地内へと入っていった。

 駐輪場に二台の自転車を並べて停め、それから病棟びょうとうの一階にある受付に向かう。

 そこのカウンターで見舞いの手続きを済ませると、俺達、成海なるみのきょうだいは、病棟内を移動するエレベーターに乗り、指定の階へと向かった。

 扉が開くと、俺は香織を後ろにつかせて、左右を見回しながら、早歩きで病棟びょうとうないの清潔な通路を歩いていく。

 しばらく進むと、突き当りの角を曲がる直前で、ようやく、阿部が入室していると言う病室の番号を発見する。

 そこで俺は立ち止まった。

「あっ、ここだな。……おい、病室に入る前に、もう一度、手を消毒するぞ」

「うん」

 俺と香織は病室の前に備えられている殺菌用のアルコールを良く手に擦り込み、入室の準備を整える。

「済みません、失礼します」

 そう声を掛けてから、俺はゆっくりと病室の中へと入って行った。

 複数人が寝ている共同の病室には、数人の患者が寝ている。

 俺は阿部がいると言う奥の区画を見たが、そこはカーテンに遮られており、誰がいるのかは不明だ。

 意を決し、そこまで歩いて行く。

「お、おい。阿部、無事か? 見舞いに、来てやったぞ?」

 そんな声を掛けつつ、カーテンの内側を見てみる。

 と、果たして、俺の探していた阿部は、そのベッドの上にいた。

 見た所、奴はたった今、両手で携帯ゲーム機を持ち、熱のこもった目でその画面を見ながら、一心不乱にゲームに興じている真っ最中のようである。

 阿部は俺の声に気付き、プレイ中の携帯ゲームから目を離して、こちらを見た。

「おっ、何だ? 成海じゃねえかよ。見舞いに来てくれたんだな? ちょうど退屈してたんだ。話し相手が来てくれて嬉しいぜ」

 慌てて病室を訪れた俺と香織を出迎えたのは、意外にも、そんな元気そうな阿部であった。

 ゲームの音が周囲に響かないようにしていたヘッドホンを外し、阿部は手の中のゲーム機を休止モードにした。

 そんな風にゲームを中断したので、俺は小声で質問した。

「あ? ああ……。お前が襲われたって聞いたんだが、一体どうしたんだ? その包帯とギプス……。体の具合は大丈夫なのか?」

「まあ、大丈夫って言えば大丈夫だ。その事なんだけどよ……。とりあえず、そこに座ってくれよ」

 促されて、俺はベッドの側にあった、学校の保健室にあるようなキャスター付きの丸い椅子に座った。

 と、そこで阿部は、俺の隣に遅れて付いて来た香織の方を見る。

「──おっ、カオリンも来てくれたんだな! もうちょっと、こっちに来てくれよ」

「う、うんっ」

 そう言われて、阿部と恋人同士の関係にある香織は、はにかみながらベッドに近付く。

「よしよーし。カオリーン、元気だったか?」

「うん、えへへ……」

 阿部に頭を撫でられ、香織は嬉しそうな顔をする。

 その光景をしばらく見ていた俺は、ようやく我に返った。

「なあ、阿部……。他人ひとの妹の事を心配する前に、まず、自分をの方を心配してくれないか?」

「ん? ああ。まあ、そりゃそうだよな」

 と、阿部は少し反省したような顔をし、ばつが悪そうに上の方を見る。

「全くだ。みんな、お前の容態ようだいを心配してるんだぞ。もっと、自分が置かれてる状況を考えて行動してくれ」

「ああ、悪かったよ。心配掛けちまって。でも、俺なら、ほらこの通り、大丈夫だぜ。ちょっと下手をこいて、怪我しちまっただけなんだからよ」

「本当に大丈夫なのか? どうもそんな風には、見えないぞ? まさかその包帯をしている肩と足、折れてるんじゃ無いだろうな?」

「いや、この肩の方は、あの時に少しひねって、筋肉が傷付いただけなんだよ。骨の方までボッキリいった訳じゃねえから、心配すんなって。ただ、この足の怪我の方は、ちっとばかり骨にヒビが入っちまったから、それが治るまで、しばらくギブスをしたまま生活する事になるけどな」

 阿部が足に嵌めている骨を固定する為の治療器具の名前は、正確には全濁の「キブス」では無く、半濁音の「ギプス」だが、そんな指摘はさておき、俺は奴に言うべき事を伝える。

「そうか。じゃあ、他に悪い所は無いんだな?」

「今の所は、そうだな。まあ、まだ昼飯前の時間だから、腹が減ってるってくらいだぜ」

「……そうか。意外に傷は浅いみたいで、安心したぞ。全く、香織が心配するから、本当に気を付けてくれよ?」

「ああ、分かってるよ。俺が悪かったって」

 何だか拍子抜けではあったが、俺はそこで何か肩の荷が下りたような気持ちになり、手にしていた紙袋を阿部に見える高さまで持ち上げる。

「まあ、大事に至ら無くて、本当に良かったぞ。そうだ……親に頼まれて、見舞い品を持って来たんだ。これ、食うか?」

 俺は紙袋から、色々なフルーツの持ってある、藤で編まれたような見た目のプラスチック製の盛りかごを取り出した。

「あ、なんだ、わざわざお見舞いのしなまで持って来てくれたのかよ。へへっ、感謝するぜ」

 阿部はホクホク顔でそれを受け取り、盛りかごをベッドに近い所にある壁際の棚の上に置いた。

 香織はそんな阿部に飛び付くようにして、病状を問いただす。

「ね、ひーくん! 本当に大丈夫なの!? すぐに退院出来る!?」

「なーに、こんなのかすり傷だぜ。復帰出来無くなるほどの故障じゃねえよ。まあ、しばらく部活は出来ねえだろうけどな」

 そう言い、阿部は引き出しの上に置かれた、野球のボールを見る。

「そうか、野球の方は、復帰出来そうなんだな」

「ああ。そこら辺は心配ねえぜ。ただ、右肩を少しやられちまってな……。リハビリを一、二カ月すれば、何とか元に戻れるそうだけどよ。全く、俺は左利きで良かったぜ。つまり、全体に大した怪我じゃねえよ」

「すると、最大で全治二ヶ月って所か。学校には、戻れるんだな?」

「ああ。今週は無理だけどよ、多分、再来週ぐらいには戻れると思うぜ。足の方は骨がくっつくまで、当分、ギブスと松葉杖だけどな」

 香織も口を挟む。

「そっか。大変な怪我じゃ無くてほんとに良かったっ。ひーくん、早く治るといいねっ?」

「ああ、カオリンの為にも、治して見せるぜ?」

「しかし、野球部のエースであるお前に取って、試合に出られ無いのは、最大のダメージだろうな」

「俺としちゃそうかも知れないが、部としてはそうでも無いぜ。ま、別にうちの学校は春の甲子園……。つまり、いわゆる『センバツ』に出る訳じゃ無いしな。そう言う意味じゃ、俺がいるのが田舎いなかの弱小野球部で良かったぜ。全く」

「そう言えば、お前は左利きだったよな。野球のボールも、左手で投げるんじゃ無かったか? 足と腕が平気なら、その左腕だけでも、行けるかも知れないぞ?」

「だといいんだけどな」

 阿部は左手で枕元に置いてあったボールを取り、それを握りしめる。

「確かに俺は左と左、どっちでも投げられるし、東浜高のスイッチ・ピッチャーは俺だけだ。でも、投球の基本は利き手だろ。投げる手の左右を入れ替えるスイッチ・ピッチングってのは、俺の場合、まず右手で投げて、それから利き手の左手に切り替えて本気を出す事で、敵のバッターを混乱させてるんだけどよ。その左に切り替える前の右手がまともに使えないんじゃ、試合でろくに戦えねえよ」

「そうか……。しばらく活躍する姿が見られ無くて残念だ」

「三年生は、夏が終われば引退だからな。まあ、それまでに右肩の筋肉の故障を治して、何とか復帰してみせるぜ」

 と、我が東浜校のエースである阿部選手が、俺と香織に病状の詳細と、今後の抱負ほうふを語ったその時の事である。

 突然──。

「わわっ! よっ、とわっ! とっ、とっ! とぉっ!」

 などと奇妙な掛け声を口ずさみながら、両手に五百㏄シーシーは入ろうかと言う大型のすいくちを五、六個持って、この病室の中へ横っ飛びに乱入して来る小柄な看護婦さんの姿があった。

 すいくちとは、多くはぬるま湯などが入った、薬などを飲み下す時に使う飲み差し付きのあの容器の事である。

 阿部と俺と香織は、「一体、何をやってるのだろう?」と言う疑問に満ちた目で、その看護婦さんを凝視する。

 思うに、どうやら廊下で足を滑らせて、バランスを崩したようである。

「どっ、どぉっ!」

 看護婦さんは雑技団の演技のような絶妙なバランスを保ちながら、必死の形相で何かを口走っている。

 ど……。

 はて、一体、この看護婦さんの言っている「ど」、とは何の事だろう?

 ドレミファソラシド……とか?

 それはつまり、この病院内で使われている何かの合い言葉か、もしくは俺のような素人には分からないドイツ語か何かの医学用語で――。

 この突然の事態に、呆けた頭でそんな間抜けな事を考えていると、その看護婦さんはどうにかこうにかバランスを保った体勢で、片足でけんけんをしながら、相変わらずこっちに向かって接近して来る。

 その姿はさながら、いつか音楽の授業でテレビ画面の中に見た、舞台袖ぶたいそでから登場する歌舞伎かぶき役者やくしゃのようでもあった。

 不思議な視線を向ける俺達の方を向き、看護婦さんは叫んだ。

「どっ……どいてぇええええええええ!!」

 ……先程から言っていた「ど」と言う言葉の正体は、それかっ!

 と、次の瞬間、看護婦さんが危うく保っていたバランスが、ぐらりと崩れる。

 その何かにすがる様に宙を泳ぐ白魔はくまの手が、座って驚いている俺の肩の辺りに伸びる。

 ふと我に返った俺は、ここぞとばかりに、ゲーセン荒らしだった中学時代の反射神経を発揮し、素早い動作で床を蹴って、俺を乗せていたキャスター付きの丸椅子ごとベッドの正面にある壁の方に自身の体をスライドして、体当たりして来そうに接近して来るその看護婦さんを避けた。

 それと同時に、香織も元テニス部らしい機敏な動きで、ぴょんとばかりに横跳びし、同様にそれを避ける。

「えっ! ちょっ! そっ、そっちにどかない……! わぁああああ!」

 乱入して来た看護婦さんは、その足をもつれさせながら、ついにベッドの柔らかい布団の部分に衝突し、そこへ倒れ込むようにして、ついに転倒した。

 看護婦さんは阿部のいるベッドへ、上体を突っ伏す様に倒れ込む。

 ベッドの上に視線を移すと、白い布団に突っ伏す看護婦さんと、倒れた瞬間にすいくちから漏れて飛び出したのか、水を頭から被ってズブ濡れになった阿部がそこにいた。

 阿部のベッドの白い布団の上に、割れ難く軽量な強化プラスチックで出来ているらしい、すいくちが幾つか散乱している。

 苦々しい表情で睫毛まつげから水滴を滴らせる阿部の目は、口は出さぬものの、今にも「何やってんだよ、おめーは!」と怒鳴らんばかりの強い批難の色を帯びてこちらを見ており、俺はその視線を受けて苦笑いをするより他は無かった。

 非難の声をありありと感じつつ、俺は阿部をとりなす。

「いや、まあ、なんだ、これはその……。つい、反射的に、な? あはは……」

「おい、成海ぃ! つい反射的に、じゃねーだろっ! このダホ!! 反射的にってお前な!? この倒れそうになった変な看護婦さんを全力で避けんなよっ!」

 全くその通りである。

「悪いな……。このチキン野郎を友人に持ってしまった事を恨んでくれ」

「ったく、お陰で、俺はずぶ濡れだぜ……?」

 とりあえず、阿部は上半身が濡れ鼠になっただけで無事のようなので、俺はベッドの上に倒れ込んだまま、ウンウンとうめいている「変な看護婦さん」に声を掛ける。

「あの、すみません。大丈夫ですか?」

 その看護婦さんは起き上がり、周囲を眺め回すと、

 患者に飲ませるものだから、まさか熱湯ではあるまいとは思ったが、すいくちの中身は、やはりただのぬるま湯だったようだ。。

「あ……。そいつの方は、別に平気だとは思うんですが……」

 阿部は、ポタポタと水の垂れる顔を、その辺に掛かっていたタオルで拭いつつ、引き攣った笑顔を作って言った。

「ああっ! 患者さんっ! 済みませんっ!!」

 看護婦さんは謝りながら、猛烈な勢いで頭を下げる。

 俺はそんな風に必死に謝罪する彼女をとりなした。

「いや、水ぐらい何とも無いですよ。しかし、こいつの方は、ちょっと濡れちゃったみたいなんで、何か、大きめのタオルか何かを貰えるとありがたいんですが」

「ああ、そうしてくれると、俺も助かるぜ」

 側に置いていた携帯ゲーム機の裏表を見て良く確認し、ようやく阿部は穏やかさを取り戻す。

 どうやら、阿部が今まで心配していたのは、自分では無く、ゲーム機の水濡れの方だったようだ。

「ほ、本当にごめんね! 今、タオル持って来るから!」

 そう言って、看護婦さんは走り去って行った。

「やれやれ」

 阿部はゲンナリとして、溜息を吐く。

「しかし、別の物で無くて、本当に良かったな? 今のが、使用済みの注射器が入った容器とかだったら、大変な事になってたぞ」

 濡れた頭をガシガシと強く拭き、阿部はタオルをそのまま横に置いて言った。

「はぁ、本当に全くだぜ。注射器だとか消毒液とか、そんな物が飛んで来たら、おちおち入院なんかしていられねえよ」

「ね、にーやん。これ、拾おうよ?」

 香織は付近に散乱しているすいさしを拾ってそう言った。

「ああ、こっちの方にもあるぜ、それ」

 俺達はあちらこちらからすいさしを集め、ベッドに付属した机の上に積み重ねる。


 ──そして、しばらくの後。

「お、お待たせー!」 

 不始末をしでかしたそのドジな看護婦さんは、新しい掛け布団と毛布、カバー付きの枕とシーツを抱えて、よろよろとした足取りで現れ、空いている隣のベッドにそれを置いた。

 そして、一緒に運んできたらしい、俺が所望しておいた大きめの清潔なバスタオルを持って、阿部に渡した。

「はい、これ!」

「ん? あ、ありがとうございます……」

 阿部は濡れた小さいタオルをその辺に置き、渡された方を頭にかぶせる。

「ね、君。今、ベッド・メイキングするから、悪いけど、ちょっとこっちに座ってて」

「あ、はい……」

「おい、支えようか?」

 そうしてベッドから起き上がった阿部は、俺と看護婦さんに支えられながら、隣のベッドへと腰掛ける。

 と、そんな看護婦さんの胸元でプラプラと窓の外からの光を反射して動く物があったので、それを良く見てると、そこにはヘルメスの杖のような物をあしらった病院の徽章があり、同時に名札がつけられていた。

 その名前欄には、振り仮名つきでただ一文字、「くすのき」とだけ書かれている。

 どうやら、この背の低いドジっ子看護婦さんは、楠さんと言うらしい。

 流石にベテランなのか、手早くベッド・メイキングが終わり、濡れた寝具を抱えた看護婦さんは、またそれを両手で抱えて移動しようとする。

「あっ、それ、危ないので、俺達も手伝いますよ」

 そんな重たい物を持って、またさっきのすいくちと同様の事をやられては、敵わない。

「え? そ、そう? じゃあ、お願いっ!」

 看護婦さんがそう言ったので、俺と香織は布団を持って行くのを手伝う。

 無事に通路の端にあるリネン室に寝具一式を運び込み、俺はその楠と言う看護婦さんに挨拶をした。

「それじゃ、俺達はもうしばらくしたら帰りますが、阿部を宜しくお願いします」

「あ、うん! ありがとうね!」


 そんな風にして看護婦さんと別れ、俺と香織は阿部のいる病室へと戻る。

 すると、中から阿部の驚く声が聞こえて来た。

「うわー! 今度は何だ!?」

 阿部はそう叫びながら、不自由な体勢で頭を抱え、防御姿勢を取る。

「なっ、何よ、その反応……。折角、お見舞いに来てやったってのに」

 と、そこにいたのは──。

 病院まで阿部を追ってきた襲撃者でも何でも無く、何と、私服姿の奈々美だった。

 俺の家と同様の連絡を受けて、早速見舞いに来たらしい。

 そんな奈々美の着ている服は、普段、彼女が出掛ける時に着ているような、ラフでファッショナブルなそれとは違って、割とフォーマルでシックな、きちんとした格好である。

「って何だ、松原かよ。変な格好してるから、誰かと思ったぜ。タオルで頭を拭いてたら、突然、そばに見慣れない奴が立ってたから、あいつが俺を殺しに来たのかと思ってびっくりしただろ」

「は? 誰よ? あいつって?」

「……何だ? 聞いて無いのか?」

「いや、誰かに襲われたって聞いたけど、元気そうだから、自分だけ春休みを続ける為の仮病だと思って」

「んな訳があるか! 病院の関係者でも無い奴が、仮病で入院出来る訳が無いだろう。こいつは、全治二ヶ月の重傷なんだっ」

「えっ? そんなに酷い怪我なの!? ……ごめん、私、変な事言って」

「あ……お、おい、松原、そんな真面目に謝るなよ……」

 この奈々美の態度に、阿部は面食らい、何を言ったら良いか分から無いようだ。

「まあ、怪我の全体は全治二カ月は掛かるらしいが、とりあえず、再来週には学校に戻れるそうだ」

「え! そうなの? じゃあ、それ、早く言いなさいよねっ!」

「お前には良い薬だっ。……所で、松原は何か、見舞いの品は持って来てるか?」

「ううん、今日は持って来てないけど」

「そうか。じゃあ、また今度だな」

「またお見舞いに来るのは良いけど……。阿部君は何が良いの?」

「ん? 俺か? うーん……」

 希望の品物を聞かれ、阿部は考え込む。

「……そだ、ひーくん。私、これ、いてあげるね」

 香織は早速、紙袋の中から先の丸いフルーツ・ナイフを取り出し、持って来た果物篭からリンゴを出して剥き始める。

「おっ、カオリン、剥いてくれるのか? と言っても、俺、これから食事があるから、半分こにして食べようぜ、それ。リンゴ、食べるだろ?」

「うん、食べるよ!」

「さて、見舞い品……そうだな。やっぱ食い物が良いぜ。見舞いの品をくれるなら、何か、食べる物をくれよ」

「良いわよ。じゃあ、阿部君へのお見舞いの品は、食べ物で決まりね。って言っても、果物はもうあるみたいだから、おせんべいとか、どら焼きとかで良い?」

「ああ、そう言うので頼むぜ」

「じゃ、希望の品は分かったから、今日の所は、これで失礼させて貰うわよ。それじゃあ、お大事に」

 と、奈々美はかしこまった挨拶をして、その場を離れようとする。

「ん? 松原、もう帰るのか? 毎週のように四時間でも五時間でも俺の家に居座る、いつものお前らしく無いじゃ無いか。見舞いで長居するのは問題だが、二、三十分程度なら、失礼には当たらないぞ?」

「うーん、それが、私としてもそうしたい所なんだけど……。この後、私、家族と行く所があって、あんまり長居出来無いのよ」

「あ、そうなのか。じゃあ、仕方ないな」

 阿部は

「そんじゃ、食べ物の差し入れを宜しくな」

「うん、任せて。……あ、そうだ。言い忘れてたけど、この後、有栖川さんがお見舞いに見えるから、私の代わりに、成海がそこに付き添ってあげなさいよね?」

「ん? 有栖川の奴も、見舞いに来るのか? それは分かったが、そう言う役目は、女のお前の方が良いんじゃないかと思うぞ?」

「それはそうなんだけど、それが私、抜けられない予定があるのよ。って言うか、もう駐車場の車にお父さんとお母さんが待ってるから、今日はこれで失礼させて貰いたいんだけど」

「薄情な奴だな。どこに出掛けるのか、聞いても良いか」

「それが……実は、岩手に住んでる私のおばあちゃんの容態が悪くなっちゃって……。これからみんなで新幹線に乗って、そっちのお見舞いにも行くのよ。だから、阿部君には悪いんだけど」

「そうなのか、道理でいつに無くきちんとした格好をしてると思っていたが、そう言う訳だったのか。それなら、仕方ないな。それにしても、悪い事は重なるもんだな……」

「そうだな。まあ、お大事にしてくれよ」

 そう言って、阿部は香織の剥いたリンゴの欠片の乗った皿を受け取る。

「うん、ありがと。何か、急いで帰るみたいで、ごめん」

「いいって。他人の俺なんかより、家族を優先してくれよ」

 と、俺はそこで大事な質問をして置く。

「おい、松原。帰るのは分かったが、その前に、有栖川が来るのは、いつになるのか教えてくれ」

「あ、えーと……。さっき、ケータイのメールでそろそろ来るとは言ってたんだけど、正確には分から無いかも。いま十一時半過ぎだから、多分、すぐに来ると思うけど」

 阿部は咀嚼していたリンゴを飲み込み、奈々美に声を掛ける。

「分かった。じゃあ、松原も気を付けて行って来いよ?」

「うん。日帰りだけど、お土産みやげ買って来るから、待ってて。それじゃ、またね」

 と、奈々美は神妙な顔付きで挨拶を終え、病室を後にした。

 

 見舞いが奈々美が帰った後も、俺達はそこで談話をし続けた。

 そして、十五分ほど経った後。

「あ、そうだ。俺、ちょっと、手洗いに行って来るぞ」

「ああ、トイレなら、そこの角の所にあるぜ」

 と、香織と赤外線の通信対戦でゲームをやり始めた阿部は、通路の方を指差す。

「さっき、布団を運んだ時に見て分かってるから、大丈夫だ。じゃ、すぐに戻って来る」

 そして、俺がトイレから戻って来ると、先程とはまた別の人物が、俺の座っていたあの丸椅子に腰掛けているのが、ベッドの周りのカーテン越しに見える。

 ……あれは、一体、誰だ?

 阿部は、その女性と会話をしているようだ。

 俺は警戒しながら、カーテンの横からそいつの顔を覗く。

 と、そこにいたのは、これまでも教室などで何度かしゃべった事のある、海外の学校から転入して来て早々に、俺達の交友グループに入った帰国子女、高梨と同じ三年七組にいる有栖川すみれだった。 

 警戒心に満ちた俺の視線と、有栖川のその柔和な視線がぶつかる。

「やあ、成海君。こんにちは」

 有栖川は、俺の顔を見ると、屈託の無い笑顔でそう挨拶して来た。

「何だ……。誰かと思ったら、有栖川だったのか。お前も、見舞いに来てくれたんだな」

 ほっと胸を撫で下ろした俺は、辺りを見回し、自分の座る椅子が無い事に気が付く。

「ああ、成海。あっちのベッドの壁際に、別の椅子があるぜ?」

 俺のそんな様子を見た阿部は、さっき楠と言う看護婦さんが布団を置いた、隣のベッドを指した。

「あ、ここ、さっきまで成海君が座ってたんだなあ……。道理で、なんだか生暖かいと思った。勝手に座っちゃって、悪かったかな?」

 と、有栖川は立ち上がった。

「いや、有栖川は、今来たばっかりなんだし、構わないから、そこに座っててくれ。椅子なら、別のがあるから、俺の事は気にし無くて良いぞ?」

「そっかな? じゃあ、成海君のお言葉に甘えて」

 と、そう言って有栖川は、そのキャスター付きの丸椅子に座り直した。

 それから、俺は病室の奥の離れた場所に置かれていた別の椅子を持って来て、阿部のベッドの側に座り込み、有栖川と阿部の病状などに付いて色々と話した。

 ついでに、香織と有栖川は初対面なので、軽く紹介もして置いた。

 そして俺達の話題は、ついに阿部が襲撃者に攻撃され、怪我を負った時の話になった。

「──で、お前が襲われた時の話だがな。そいつって、どんな奴だったんだ?」

「それが……分からねえんだよ」

「は? じゃあ、犯人の姿は、見無かったのか?」

「ああ。もう気が付いた時には、地面に寝っ転がされてたぜ。丸太みたいにな」

 阿部は身振り手振りを交え、俺達に襲撃時の状況を詳しく説明する。

「こう、背後からいきなり攻撃されて、ドーン、バーンって感じで」

「ね、ひーくん。今、言ったハイゴって何? それって、モビル・スーツ!?」

 と、ゲーム機をいじっていた香織は、途端に顔を輝かせる。

 何がモビル・スーツだ、夕闇の部室にケータイを取りに来た野球部員が、そんなものに襲われてたまるかっ。

 阿部も香織の質問を全力で否定する。

「いや、ハイゴッグじゃねえよ! 背後だって! 背中の後ろの事だろ! モビル・スーツとかじゃねえよ! もう、しっかりしてくれよ、カオリン!」

「あ、そっか……。そだね、エヘヘ」

「モビル・スーツかあ……。もし、そうなら、面白かったのになあ」

 と、有栖川は笑う。

「って言うか、有栖川! お前も面白がって無いで、もっと病身の俺を気遣ってくれよ! ギャル・ゲーのヒロインみたいに見舞いの品をあーんしてくれると、なお助かるぜ」

「おい、阿部。お前の方こそ、このリアルの彼女の前で、変な気を起こすなっ」

「ひーくん、私の前でそう言う事言ったら、駄目なんだよっ」

 有栖川は、握り締めた右手の拳を自分の肩の辺りに掲げる。

「う~ん、今の発言がもしマジだったら、このこぶしで叩いちゃおっかなあ」

「あ、止めろ! 冗談だって! 暴力はマズいだろ? 止めてくれっ!」

「あれ? じゃあ、今のは本気じゃ無かったのかな?」

「いや、どう聞いても今のは、マジじゃ無くてジョークだろ! ちょっとした、つかの間のおたわむれだろ!? 頼むぜ!」

「本当? 本当に冗談……?」

「ああ、本当だとも。ごめんよカオリン。マジじゃ無いから、安心してくれよな?」

「うん! 安心した!」

「いやあ、みんなが集まると楽しいなあ」

「そうだな。誰かさんの不用意なジョークのせいで、危うく、若いカップルが破局になり掛けたがな」

「いや、反省してるって。悪かったぜ、カオリン」

「うん、私はもう良いよ」

「……じゃあ、一段落した事だし、そろそろ、マジな話に戻して良いか? 襲撃された時の話の続きを聞かせてくれよ」

「ああ、良いぜ。それで、地面に倒された後はな……」

 それから阿部は、襲撃当時の詳細を語った。

 その話を、有栖川は感心した様子で聞いていいた。

「──しかし、そんな状況で、良く阿部君は逃げ出せたなあ。それは、物凄い体験をしたんじゃ無いかな」

「全くだぜ。まあ、部活で体鍛えてたからな。全く、民家に辿たどり付いた時、生きてるのが不思議って言うのは、こう言う事を言うんだと俺は思ったぜ……」

 聞き役に回っていた俺も、そこで口を挟む。

「それにしても、とんでもない怪力を持った奴だな、そいつは。それは多分、一昨日の金曜日にあった、あの階段室の事件と同一犯かもしれないぞ」

「ああ。姿はこれっぽっちも見えなかったが、俺をこんな風にした犯人は、かなりの大男だろうぜ、多分だけどな」

「それ、警察にもちゃんと話したか?」

「当然だろ。鞄を取りに来ただけの俺をこんな風にしやがってよ。そんな奴、黙って許せるかよっ!?」

「そうか、それもそうだな……」

 と、そこで有栖川は別の質問をする。

「所で、阿部君にもう一つ聞いても良いかな。犯人の使っていた凶器は、どんなものだったのかなあ?」

「あれは警棒……いや、もっと大きかったんじゃねえか? 多分、その辺の大きな木の枝か何かだと思うぜ。衝撃はでかかったけど、割と柔らかくてしなやかな感じだったからな」

「大きな衝撃があって、かつ、しなやか……」

 そこで、有栖川は考え込む様子を見せる。

「それはもしかして、大きくて太いロープとか、そんな物だったりするかなあ?」

「ああ、感触としては、それでもおかしくはねえな。例えば、この足の骨にヒビが入ったのも、あいつのその凶器で足元をすくわれて転んだせいなんだけどよ。ここの医者が言うには、硬い物で殴り付けられたにしては、それらしい外傷が殆どねえんだそうだぜ。俺の足」

「ふうん。じゃ、何か、そう言う特製の武器でも持ってたのかなあ……?」

「あいつは、あの血みたいな液体で事件を起こした異常な奴だろ。特製の武器って言う、有栖川の考えてるその線は、俺としては十分あり得ると思うぜ」

 俺もこの阿部の発言に同意する。

「そうだろうな。誰かと遭遇した時、あまり硬い物だと、当り所が悪いと殺して仕舞うかも知れないから、えて一撃では死なないような武器を作り、持ち歩いていた可能性は十分あるだろうな」

「ふーん……こわいね、それ」

 阿部と通信対戦でゲームの相手をしていた香織は、呟くようにそう言った。

「所で、高梨の奴は見舞いにくるとか言ってたか? もうそろそろ、俺達は帰った方が良いと思うんだが……」

「ん? そう急いで帰るこたーねえだろ。もうすぐ成海の母さんも、俺のおふくろと一緒に俺の見舞いに来るって言うし、もうちょっとゆっくりしてけよ。つーか、あいつなら、お前らが来る前に、真っ先にここへ来たぜ?」

「え? じゃあ、今の話も、もう高梨にしたって事か?」

「ああ。もうすっかり全部話したぜ。特に見舞い品とかは無かったけどな、丁重な言葉を掛けて貰ったぜ」

 グヘヘ、と、阿部は顔を緩めてそう言う。

「はい、私の番は終わったよっ? ひーくんの番」

 香織は自分の手番が終わったらしく、持って来た自分の携帯ゲーム機から手を放し、手をブラブラさせて疲れを取る。

「おお、カオリン。良し、じゃあ次は、俺のターンだな」

 俺と有栖川は、病院でも仲の良いこのゲーム好きなカップルを眺めながら、ひそひそと話す。

「それにしても、一番早く見舞いに来ていたとはな……。常々、あいつの行動の速さには、驚かされるぞ」

「本当に驚きだなあ……。高梨君って、いつも、そうなのかな?」

「そうだな。あいつ、普段は大人しく、極めて物静かにしているんだが……時たま発揮するここぞと言う時の行動力は、並々ならぬものがあるぞ」

「そうなんだなあ……。それじゃ、お邪魔みたいだし、私はこれで失礼させて貰おっかな?」

 有栖川がそう言うので、俺はゲーム機を手にしている阿部と香織に言葉を投げる。

「なあ、香織はもうしばらく、ここにいるか? 有栖川が帰るって言うから、頃合いだし、俺の方は、もう帰るぞ?」

「うん。まだここにいる」

「なら、他の入院してる人の迷惑になるから、病室であんまり騒ぐなよ? 走るのも駄目だ」

「うん。私、静かにして待ってるよ」

「よし。じゃあ、阿部。しばらく香織を頼んだぞ? 時間が取れれば、もう一度くらいは来るから」

「ああ、またな。成海、見舞いと見舞い品、ありがとな。有栖川も、暇ならまた来てくれよ」

「うん。それじゃあ、時間が作れたら、そうしよっかな。それじゃ、阿部君の快癒を心から祈ってるから、元気にしててね」

「ああ、全く、ありがたい言葉だぜ」

「……それじゃあ、私もこれで。ではまた」

 有栖川は、阿部と香織に手を振った。

「さて、用件も済んだし、帰るか」

「……そうだなあ」

 そうして、俺は香織を阿部の側に残し、有栖川と病院を出た。


 有栖川も、俺と同じように自転車に乗って病院に来たので、病院の正面にある出入り口からそこまでのルートを一緒に歩く。

 彼女は、案外、早く学校に復帰しそうな阿部の様子に、至極ご満悦の様子だ。

「いやあ、阿部君が割と元気そうで良かったなあ。もし瀕死の重傷を負ってたら、どうしようかと思った」

「全く、本当に、世話の焼ける奴だ」

「そうだ、松原さんに聞いたんけど、成海君と阿部君は、中学校の時に知り合ったんだってなあ?」

 ……あいつ、有栖川に余計な事を話して無いだろうな?

「ああ。それと、松原も、俺達と一緒の学校だ。まあ、松原と俺は、昔から友達と言うか、知り合い何だけどな」

「へえ」

「そう言えば、うちの香織と阿部が付き合い始めたのも、あいつが中三ぐらいの時だったな。大体、その頃は、松原を入れた俺達四人で遊んでたな」

「ふぅん。……良いなあ、そう言うのって」

 有栖川は、すこぶるうらやましいと言った口調でそう言い、歩を進める。

「流石に有栖川は帰国子女だから、この近くに、昔からの知り合いはいないか……。お前の地元は、ここら辺とは、別の地方なんだろ?」

「うん。もっと南の、近畿きんき地方の方かなあ。お父さんは転勤が多いから、通っていた学校とかは、その時によってバラバラだったな」

「そうなのか。近畿地方って言うと、関西の方か。それは、心細いな……」

「全くだなあ……」

 と、有栖川は相槌あいずちを打つ。

「まあ、何か困った事があったら、遠慮無く俺や松原に言ってくれよ。微力だが、そこそこ頼りにしてくれてて良いと思うぞ。こう言っては何だが、どちらかと言えば、松原よりも先に俺に言ってくれた方が、解決が早いと思うぞ」

「ああ、それは実に心強い申し出だなあ……」

 会話をしながら歩いていた俺達は、病院の駐輪場に着いたので、立ち止まる。

「さて。それじゃあ、ちょっと、早速、成海君に頼りになって貰おっかな?」

「ん? 有栖川は、今、何か困った事でも抱えてるのか?」

「うん。二つぐらいあるかなあ」

「二つもか。じゃ、物のついでだし、とりあえず、今、話して見てくれ」

「さっき聞いたんだけど、阿部君の好きなゲームって、どんな風のなもののかなあ?」

「あ、なんだ、有栖川も見舞い品に、ゲーム・ソフトを買う積もりだったのか」

「あ、分かっちゃったかな? うん。成海君もそうだったのかなあ?」

「ああ。今朝は、急な事だったからな。その辺で適当に買ったかごの果物とか、そんなつまらない物しか用意出来無かったからな……」

「それは、お見舞いの品としては、妥当な方だと思うけどなあ」

「一般的にはな。でも、入院中は退屈だろうし、阿部には漫画とかゲームの方が、阿良いだろうと思うんだ」

「同感だなあ」

「ここの病院の購買で漫画雑誌は売ってるみたいだったから、ゲームの方が良いだろうな。そうだ、ちょっとぶしつけな事を聞くようだが、阿部に贈る見舞い品の、そっちの予算を聞いて良いか?」

「うん。私の方は、五千円くらいかなあ」

「えっ、そんなにあるのか。驚いたな」

「今朝、友達の見舞いに行くって言ったら、たまたま家にいたお父さんが、見舞い品を買うお金を私にくれたからなあ。でも、何を買おうか決めてる時間が無くて、とりあえず、お見舞いだけ先に行く事にしたって感じかな」

「そうか。まあ、今日来た松原も同じような風だったな」

「うんうん。ああ、そっちの方は何か御不幸になるかも知れないから、注意しないといけないな」

「松原のお婆さんの話は、有栖川も聞いてたんだな」

「うん、今朝、メールで聞いたかな」

「そっか。所で、阿部の見舞い品の話に戻るが……。有栖川の方の予算がそんなにあるなら、良ければ俺と割り勘で、阿部に贈る為の新作のゲーム・ソフトを一本買わ無いか? 中古品を幾つか見繕ってやるより、話題の新作を買った方が、阿部も喜ぶと思うんだ」

「ああ、それは良いかもなあ。私としても、阿部君の好みに合わ無い変なゲームを見舞い品を買っちゃうより、その方が断然良いかな。うん。一緒に買った方が、きっと良いと思う」

「そうか、それはありがたい。後で親から幾らか貰うとしても、俺一人で見舞い品のゲーム・ソフトを調達するのは、正直、手痛い出費だと思ってた所なんだ。生憎あいにくと、今日のこっちの手持ちは四千円くらいで、どうしようかと悩んでた」

「それは、財布がピンチだったなあ。じゃあ、成海君の持ち合わせを合わせると、二人で九千円だから、それだけあれば、発売したばかりの新作を選んでも、十分足りるんじゃ無いかなあ」

 と、有栖川はそこでニッコリと笑う。

「そうだな。じゃ、それで行くか。早速、その辺の店でソフトを見繕おう。有栖川の方は、今、時間大丈夫か? もしこの後、暇が無いなら、お前から予算を預かって、俺一人で適当なソフトを探しても良いが……」

「阿部君の好きなゲームに付いて、私は良く分から無いから、是非、一緒に探して欲しいな」

「よし、じゃあ決まりだ。上手くすると、今日中に持って行けるかもな」

「そうだなあ」

 そんな予定を組み、それから俺達は、有栖川とゲームが置いてある店を幾つかハシゴした末、ようやく、適当な見舞いの品を選定する事が出来た。

 阿部への見舞い品として購入した新作のゲーム・ソフトは、どうしようか悩んだ末、結局、ギャル・ゲーに決まったのだが、無論、それは俺がいつも阿部から借りているようなブツ、即ち、成人向けのものでは無く、せいぜいR15とかそう言う、もう少し低年齢層でもプレイ可能な、控え目の奴だった事は言うまでも無い。


 その日の午後、俺と有栖川は病院に戻り、食事を終えていた阿部に、一種のジョークとして、仰々ぎょうぎょうしくもそのど真ん中に「御見舞おみまい」と毛筆で書かれた、贈答用の包装紙に包んだギャル・ゲーを手渡した。

 残念な事に、香織の奴は、後から車で見舞いに来た俺の母親と一緒に帰っていていなかったが、見舞いに贈ったソフトの内容を考えてみると、むしろ、そっちの方が良かったかもしれない。


 病院から出た後、俺と有栖川は途中まで帰り道の方向が同じだったので、自転車を押しながら、歩道を歩きつつ話をする事にした。

「──そうか。じゃあ有栖川は、これまで二回くらい、海外に留学してるんだな」

「うん、そうなるかなあ。中学の時は、一年生の時、オーストラリアに半年くらいいて、それから、卒業後はイギリスに二年かな」

「そうなのか。なら、もう随分、海外慣れしてるんだな」

「うん。でもまあ……私は元から日本の生まれだし、血統もハーフとかじゃ全然無くて百パーセントの日本人だから、やっぱり、この国にいるのが一番安心するなあ」

 血統って……お前は、ペットか何かか?

 まあ、確かに、明らかな日本人顔に、やや茶色がかった黒いひとみ、そして鉛筆かシャープペンの芯のようなツヤを持つ黒髪と言う、有栖川の風貌ふうぼうは、留学から帰ったばかりの英語が堪能な帰国子女と聞いて世間が想像するような、金髪碧眼のハーフやクォーターなどとは程遠いからな。

 着物などを着ても似合うであろう、その純和風の容姿は、さぞ、留学先でも目立った事だろう。

「……そうか、有栖川は運動も出来るんだな。血を分けた娘のお前がそんなに優秀だと、お前が一緒に暮らしてる父さんの方も、鼻が高いだろうな」

「あ……。私って、今のお父さんと血の繋がりは無いんだな」

「……そうだったのか。悪い、無神経な事を言って仕舞った。済まん」

「そんな、別に、構わないけどなあ。成海君が悪い訳じゃあ無いから」

「なら、良いが……」

「あ、でも、その事は、みんなにはあんまり知られたい事でも無いから、二人だけの秘密にしていて貰えるかな? 成海君と私の」

「ああ。そんな事なら、お安い御用だ。誰にも言わないと約束する」

「ありがたいなあ。そうだ。所で、成海君にもう一つ頼みたい事があるんだけど、いいかな?」

 それは、頼み事の中身にもよるが……。

「他にも、何かあるのか」

「折角、日本の学校に戻って来られたのに、何もしないのもちょっともったいないから、そろそろ部活に入ろうかと思ってるんだけど」

 ああ、なるほど、そう言う方面の話か。

 なら、この俺でも、何とかなりそうだ。

「それで、入りたい部活は決まったのか」

「そこで、君達がいる推小研に入ってみようと思うんだけど、現に推小研に所属している成海君としては、どうかな? 本当は部長の高梨君に聞きたかったんだけど、何だかいきなりだと、話し辛くてなあ……」

 高梨の奴は、男女関係無くとっつき辛い所があるので、それは分かる。

 まあ、将を射んとすれば、まず馬を射よ、と言う事なのかもしれないが。

「ああ、確かに、それはあるだろうな……。あいつ、もう二年もの付き合いがある俺であっても、時々、生真面目きまじめ過ぎて話し掛け辛い所があるからな」

「うんうん」

「しかし、あいつは元からそう言う性格で、別に悪気がある訳じゃないんだ。だから、そう言うのは長い目で見ると言うか、許してやってくれ。ま、高梨の事だから、お前の入部に付いても、多分、歓迎してくれると思うぞ? どうしてもと言うなら、俺が間に入って取り次ぐが、直接、有栖川の方から、その入部希望の意思を伝えて見ても良いんじゃないか?」

「ううん、それがなあ……」

 と、有栖川は何か戸惑うような曖昧な笑顔を浮かべる。


 そもそも、学校側から存在する各部活に支給されているその活動予算、正式名称「活動助成費」と言う名の配布金は、その部に入っている部員の人数で異なる。

 特に新春のこの時期に確保出来た部員の数が、一学期分の配布額に多分に影響するのである。

 よって、数日前に新入生の入学式が終わったばかりと言う昨今さっこん、運動部であると文化部であるとを問わず、我が東浜高の各部は、まだ部活が決まっておらず入部への誘いをし易い一年生、つまり、学校に入学したばかりの新入生の獲得を狙い、様々な手段を用いての勧誘に躍起になっている。

 そして──そんな中、我が推小研に入部予定の新入生は、現時点で活動見学を申し込んで来た希望者が総計わずかに一名と苦戦中なのだから、部の存続と拡大、そしてその為のより多くの配布金の獲得を望んでいる高梨は、新たな入部希望者が例え三年生の有栖川であったとしても、決してその機会を逃したりはすまい。

 と言うか、そもそも部活動への入部の可否は、各部の担当顧問の先生が決める事で、正式な入部希望の意思表示である入部届の提出先の窓口となっているのも、各部の部長では無く、その顧問の先生である。

 つまり、その実質はどうあれ校則などによる手続きの形式上、各部の部長や副部長などの生徒に、他の生徒が顧問に提出した入部希望を拒否する権限は全く無いので、色々な理由で明らかにそれが迷惑がられていると言うのでも無い限り、入部届を書いて提出するのを躊躇ちゅうちょする事自体がナンセンスな事だ。

 そんな具合だから、入部を希望している者は、正式に入部届を出す前に、活動見学とか仮入部などをしてみて、そこで自分のやりたい活動が出来るかどうかとか、他の既存の部員のかもす雰囲気は自分にあっているかとか、そう言う形式的な部の活動目的を見ただけでは分から無いような、曖昧でファジーな部分のマッチとミスマッチがどれだけかを判断すれば良い。

 してみるに、有栖川が心配しているのは、多分、こっちの方だろう。

 高梨とはクラスメートだし、金曜日の放課後の時間がそうであったように、同じ交友グループ内で普通にしゃべっているので、何かの事情で、それを直接言い出し難い理由でもあるのだろう。

 しかし、それが何かは敢えて問わない事にする。

「じゃあ、そうだ、こうしよう。明日、月曜日の放課後は空いてるか? 俺から高梨に連絡して置くから、見学に来いよ。入部届けを提出する前に、一応の挨拶周りと言うか、自己紹介代わりの顔見せくらいはしといた方がいいだろう」

「ああ、そう言ってくれると、助かるなあ」

 それから俺は、推小研への入部を検討している有栖川に、他の部で重要な立場にある松原と阿部、桧藤ひとうも、名前だけ推小研の部員である事、二年生の部員に次期部長候補の永瀬なが真紀まきと言う女子がいる事、兄の俺としては妹の香織もそこに入部させる積もりである事、部員数は予算獲得に重要で、その創部から活動期間が半年程度と短く、いまだ弱小とも言える推小研では、その名前を貸して貰えるだけでもありがたい事などを、色々と解説した。

「そっか。良く分かったなあ」

「これで大体、推小研の部内の事に付いては、把握出来ただろ。他にも部活はあるし、とりあえず、今は仮入部で良いと思うぞ」

「そうだなあ。じゃあ、そうさせて貰おうかな」

 大きな交差点で分かれ道に来たので、俺と有栖川はそこで立ち止まった。

「じゃあ、何か分から無い事があれば、メールでも聞くから、後で連絡してくれ。今日は助かった」

「うん、こっちこそ、お見舞い品選びに付き合ってくれて、ありがとう。それじゃあ、また明日、学校で」

「ああ、またな」

 俺と有栖川は、別れの挨拶を笑顔で交わし合うと、それぞれ家路に就いた。

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