Love is on line

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「――起きなさいよ、いつまで寝ているの?」


 懐かしい声にそう呼ばれ、私はゆっくりと目を開いた。

 茜色の空の遥か高くを、いく筋かの薄雲がたなびいていた。西にそびえる山の稜線に、金色の太陽が沈もうとしていた。少しだけ肌寒い夕暮れ時の風が、柔らかな青草の匂いを運んでいた。

 私を呼んだ一人の少女が、横たわるこちらをじっと見ていた。西陽の逆光で殆どうかがい知れなかったが、彼女が今、どんな表情をしているのか……それはすべて、分かっていた。


 彼女は今、少しむくれた顔をしている。

 紅玉ルビーのような赤い髪を風にそよがせ、少しだけつり上がった黒目がちな瞳を退屈そうにひずめ、こちらを睨んでいる。


「…………」

「どうしたの? まだ、寝ぼけてるのかしら?」

「ああ、いや……お早う、リオル」


 右手をつき上体を起こすと、視界の向こう、なだらかな丘を下った先に、よく見慣れた煉瓦造りの街の影が見えていた。街の一番の自慢だった時計塔の文字盤が、陽光を受けて輝いていた。街路に居並ぶ民家と宿屋の煙突から、白い煙が吐き出されていた。


「ああ……ああ」


 覚悟は、していた積もりだった。

 だが、実際に目を覚ましてみれば、眼前に広がる景色に目頭は熱くなり、オレンジ色に染まる一面の視界は、雨粒を浴びた画用紙のように、淡くにじんだ。

 当たり前だと思っていた景色が、いつまでも自分と共にあると思っていた景色が、もう二度と見ることが出来ないと思っていた景色が……今、目の前にあった。


「ねえ、どうしたの……? さっき・・・から、ずっと悲しそうな顔、してるわ」


 袖で目尻を拭い隣を見ると、リオルが心配そうな目でこちらの様子を伺っていた。


「ああ、今のは、ただ西陽が目に染みただけだよ。心配掛けて、ごめんな」


 真っ直ぐに視線を返しそう答えると、リオルは幾分安心したように、微笑んだ。


 ――こんなに優しい笑みをする娘だったろうか、と、私は思った。


 私の記憶にあるリオル・スワロウテイルは、颯爽と森を駆け抜け、得意の火の魔術で魔物を狩る、お転婆な少女だった。強気で、弱い者いじめが大嫌いで、行く先々の街や村で、他の冒険者と喧嘩になることもしょっちゅうだった。薬草一枚をケチるくせに、アコの実の砂糖漬けが市場に売られていれば、少しだけ顔を赤らめて「ねえ」と私の袖を引いた。父の形見のダガーナイフをとても大切にしていて、毎日手入れを欠かさなかった。


「リオル」

「なあに?」

「今日は随分、優しい顔をするね」

「……あなたの所為よ」リオルは言った。


「眠っちゃう前のこと、覚えてないの? 大変だったんだからね? あなた、ある日を境に、病気みたいになっちゃって、一ヶ月もの間、これまで冒険したいろんな場所を歩いて、最後の最後に、ここにやってきたの。そして、この丘で、あなたは泣きじゃくって、あたしの事を抱きしめたまま、良く分からない恨み言を言って、そして眠っちゃったのよ」 

「…………」


 先ほどまでのその過去・・・・・・・・・・が、彼女の笑みを優しくした原因だったのなら、それは随分と申し訳ないことをしたものだと……私は思った。


 当時、私の心には、ただただ寂寞だけが降り積もっていた。

 世界を呪い、リオルの手を引き、逃げるように、歩き尽くしたこの世界を再び巡った。

 そんな旅の末、私と彼女はこの丘に辿り着いた。

 出会った頃、まだあどけなかった赤髪の少女は、長い長い旅を経て、立派な魔術師に、美しい女性に成長していた。


 もう二度と、会えないと思っていた。

 何よりも愛おしく思っていた。

 今、こうして、私を見ている。私に話し掛けてくれる。

 だが、この感動と寂寞の意味を、彼女が知る事はない。


「さ、これからどうする? ギルドの掲示板に、いばらの森の魔物の討伐依頼が出ていたわ。もう夕方だし、今日は街の宿屋に泊まって、明日行く?」


 リオルはそう言って立ち上がり、ローブに付いた草を両手で払った。


「……いや、いいんだ」

「え?」

「もう、どこにも行かない。私が起きていられる時間は、残り少ないんだ。僅かだって、無駄にしたくないんだ。君と話したかったんだ。君に会いたかったんだ。リオル」


 私はリオルの手を取った。その手に嵌められた、金貨十枚もした、臙脂えんじ色の龍皮の手甲ごしに、彼女の暖かさの情報が、脳に伝達されてきた。


「……本当に、どうしたの? 今日はちょっと、不思議な感じ」


 私の手を握り返し、困ったように少し笑って、リオルは言った。


「リオル、覚えてる? この世界で、たった二人で、明日も見えずひたすらに魔物を狩っていた日々のことを」

「…………」

「私たちは安物の銅のつるぎけやきの杖を携えて、この丘の向こうに広がる、東の森を駆け抜けていた。最初は、灰色熊の討伐にさえ苦戦して、何度も命の危機があった。そのたびに、私は君に助けられた」

「勿論、覚えてるわよ。随分昔の話をするわね」


 きっと私が寝ぼけていると思っているのだろう。

 リオルは微苦笑を浮かべながら、私の言葉に相槌を打った。


水晶すいしょうの洞窟を初めて踏破した夜は、本当に楽しかった」

「あなた、あの日は飲みすぎたのよ。酒場に来た人みんなに奢り出しちゃって……結局、宝箱から見つけたお金、全部使い果たしちゃって、いっとき安宿暮らしだったの、あたし今でも根に持ってるんだからね」


 リオルは苦笑した。だが、私の手を離したりはしなかった。


「あの頃、サービスがまだベータ版で、至るところにバグが残っていた」

「……?」

「リオル」

「なあに?」


 私は、彼女の手をより一層きつく握りしめた。

 もし彼女に痛覚があったなら、きっと怒り出すだろうほど、きつく、強く握りしめた。


「ギルドに貼られたクエストの情報、高価な報酬が貰える新しいイベントの告知、街の裏路地にある秘密の武器の噂話……この世界で、君は私に数えきれない程の事を教えてくれた。……だけど、私が本当に聞きたかったのは、残念ながらそうじゃないんだ」


 リオルは首を傾げながら、私の方を見るだけだった。


「一言でも、よかったんだ。ほんの数秒でも、よかったんだ」


 私は言った。


「遠い未来、君が、あらかじめプログラムされた言葉ではなく、君自身の言葉で、私に何かを伝えてくれるのを、そういう時代が来ることを、私はずっと待っていた」


 視界の右下を見ると、薄水色に表示されたホログラムの文字盤が、この僅かなひと時の終わりを知らせていた。

 この為だけに設定してもらった専用のタイマーの残りは、もう二分を切っていた。


「時間だ」

「時間? やっぱり、街に戻る?」

「いいや。ここで良い。ここが、良い」


 私は立ち上がり、肩ほどの位置にあるリオルの、その滑らかな頬に手を添えた。

 頬は一切の抵抗なく、指先を受け入れた。


「おやすみ、リオル」

「…………」


 リオルは静かに、首を傾げていた。

 その蒼く澄んだ綺麗な瞳を、私はずっと、ずっと、見つめていた。


「おやすみ、リオル。愛している」


 私は言った。


「私は、これまでずっと、これからもずっと、君を愛している。君がゲームの中の存在だと分かっていても、君が本当の意味で私に笑いかけることがないのを知っていても、これからの未来、もう二度と、私と君の運命が交錯することがないと分かっていても、それでも……私は君を愛している。ずっとずっと、覚えている」


 私はそう、リオルに伝えた。

 不思議と、涙は押し寄せなかった。

 約束の時間が訪れて、私は世界からログアウトした。

 視界は一面の白に塗りつぶされた。

 …………


✳︎✳︎✳︎


「…………」


 ベッドから身体を起こしヘッドセットを外すと、程なくして手元の携帯が着信音を響かせた。

 液晶には、ここ最近で随分見慣れた人の名前が表示されていた。


「お疲れ様でした」

「ええ」

「いかが、でしたか?」

「…………」


 私はしばし、口をつぐんだ。


「うまく、言葉に出来ません……懐かしさ、悲しさ、興奮、寂しさ、感動、怒り、驚き、安らぎ……あらゆる感情が押し寄せてきて、今もまだ、波打っているんです。ただ」

「……だた?」

「……嬉しかった、です。ありがとう、ございました。まさしく、最高の目覚めでした」


 私と、電話越しの彼の間に、数十秒の沈黙がよぎった。


「もし、宜しければ」彼は言った。

「はい」

「本当は、こういう提案をする積もりはなかったのですが……もし、宜しければ、あなたのセーブデータだけでも、どこか他のサーバーに移し替えておきましょうか?」

「…………」

「ゲームのデータを保存するストレージ・デバイスは、サービスが提供されていた当時よりずっと安価です。サーバーをレンタルする費用は、平均的なサラリーマンの給与でも賄える程度です」


 スピーカー越しに、彼は言った。


「無論、もう我々には、新しい冒険や出会いを提供する事は出来ません。ですが、データさえあれば、ゲームの中の街の人は、当時と同じ笑顔で接してくれます。市場で買えるアコの実の砂糖漬けの味だって、忠実に再現出来ます。あなたが、そのお手元にある旧型のヘッドセットを捨てぬ限り、ゲームにログインしてくださる限り、あの世界はいつだって、リオル・スワロウテイルはいつだって、あなたと共にあります」


 また、数十秒の沈黙が、私たちの間をよぎった。


「……凄く、凄く、心惹かれる提案ですが、遠慮しておきます」

「……ほんとうに、いいのですか?」

「いいんです」私は言った。


「これまで、あなた方がくれていた最高の目覚めは、そして、今しがた、あなたがくれた最後の目覚めは、きっと」


 電話の向こうに居るはずの、顔も知らぬ一人の優しい技術者に、私は言った。


「きっと、過去を慈しむためではなく、明日を見るためにあるのですから」


✳︎✳︎✳︎


 電話を切り、私は自室の、八畳間のワンルームのカーテンを開けた。

 鮮烈な朝の光と、目まぐるしく動く現実の人の世界が、視界いっぱいに広がった。


 今が朝で良かったと、改めて思った。

 そうして、一杯のコーヒーを淹れるべく、私は台所へと歩き出した。


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