近江維新史異聞 水と緑の大地(花の秘剣番外KAC7版)
石束
水と緑の大地
それは、確かに三角の山だった。のどかに広がる平野の真ん中に、ひょこりと佇んでいる、背の高い茶わんをさかしまに伏せたようなその姿。
蒸せるようなヨモギの香りの向こうに、盛りの若葉に包まれて緑一色な『それ』がある。
土手に寝転んで眺めてみれば、まあ確かに、富士の姿に似ていなくもないが、自分なら、こんな小山を称して『近江富士』などと恥ずかしくて口にできない。誇らしげにいう連中はきっと、近江の外に出たことすらないのだろう。あの雄大な富士を一度でも目にしていれば、そんな妄言を吐くことなど……
「……」
かつて、天下争覇の地であった近江も、今はただの田舎だ。街道を行き来する金も人も情報も、みんな素通りして、京や大阪に上り、江戸に下る。ここは只の通り道でしかない。便が良く豊かな平野はバラバラに切り分けられて細切れになり、見るべき大藩もない。ただの米蔵。ただの道。なまじ豊かなせいか変革の心意気も時代への危機感もない。一体、この腑抜けた大地のどこに、未来を憂える志があるというのか。
「……あほらしい」
勧められるままに、一度は父祖の地を訪れてみようと来てみたが、今更、何の感慨もわかない。周旋と会合を繰り返し、都中を走り回る日々に少々倦んでいたのかもしれない。思えば、馬鹿なことを思い立ったものだ。
男は、そんな風に笑って、身を包む睡魔に、しばし身を任せ……そして。
◇◇◇◇
「―――あああああああああああっ」
全身を貫く激痛によって。無理矢理に覚醒させられた。
じめりと湿気のわく土間に打たれた二本の杭。そこに両手を縛られて腹ばいに括りつけられた。
蹴られ、踏みにじられ、殴られ、貶められ。それでも黙していると、拷問吏は大刀で彼の両手の指先を、交互に五分刻みに切り落とし始める。
その覚醒は文字通り体を切り刻まれる激痛と、男自身の咆哮によるものだった。
男は商人、枡屋喜右衛門。又の名を古高俊太郎。時に、元治元年六月はじめ。
◇◇◇◇
古高俊太郎正順(まさより)は文政十二年四月六日、古高村の代官、古高周蔵正明の長男として生まれた。古高家は平安時代末期からつづく地元の名家で、かつては近縁の支配者だった。だが、鎌倉時代には佐々木家の重臣たる三上家との二重支配になり、戦国時代をへれば一豪族。江戸時代には旗本織田家の代官。幕末の頃になれば古高家は新たな任地へ移動し生活を立てねばならなくなる。父・正明は父祖の地古高村を離れ、大津へ移り、幕府代官の手代になる。俊太郎の生地が大津であるとする説はここに由来する。さらに大津から、京都に移住し山科の毘沙門堂門跡の家士となった。当時の門跡は、後の天台座主、慈性法親王で、寺院の里坊には勤皇の志士が多く集っていたという。
慈性法親王は有栖川宮家の出身で、甥は後に幕末史に名を遺す有栖川宮熾仁親王である。志士・古高俊太郎を語る上で、この環境は欠かせない。彼は、呼吸をするように勤皇思想に触れ、父の死後その後を継いで天皇家に近い法親王家の家士となった。国学・漢学・儒学・和歌を学んで、公家や当代一流の教養人とも人脈を構築していく。
そして彼は討幕派である長州に接近する。京都屋敷留守役副役、寺島忠三郎との関係構築を手掛かりに、乃美織江、桂小五郎、久坂玄瑞と、有栖川宮家との仲介を斡旋する。
また万延元年に人の勧めで黒田藩御用商人・枡屋の家督を継いで喜右衛門を名乗るようになった。ただしいつ死ぬかわからぬ身だからと妻を娶らず、養子を迎えて枡屋の家督を継げる様にした。商人・枡屋として和歌や茶の席を設け、尊攘派志士と会合を持ち、討幕派公卿との間を取り持つ。このような芸当は、日本広しといえど、彼にしかできなかった。
この瞬間、俊太郎は乱離たる京の政局の「ど真ん中」にいた。高所から世界を俯瞰しうる立場にいた。独自路線を続ける強気な幕府。対決姿勢を強める朝廷、そして倒幕へと進む長州という構図の中で、古高俊太郎ほど「要」に相応しい人材は他にない。
それが暗転する起点は「桜田門外の変」である。対朝廷強硬路線の大老井伊直弼の突然の喪失で、幕府も朝廷も公武合体路線に舵をきった。
最大の仮想敵の喪失で、対幕府の最大戦力たる長州が切り捨てられる羽目になるなど、誰が想像できるだろう。
長州と討幕派公卿は、京を追われた。俊太郎も身を隠し息をひそめた。
風向きが変わるのを待つ他なかった。だが、密告により捕らえられた。
「……ふるだか、しゅんたろお」
果てなき拷問の末、男が吐き出したのは名前だけだった。すでに隠し持っていた武器弾薬、交された文書や連判状は敵の手に渡った。男がどこの何者かで、何を志し何を願っていたかは、百万言を費やすより明らかだ。
だが、己の名前の他に、男は、何一つ語らなかった。告げなかった。吐かなかった。
彼は周旋者だ。人と人をつなぐものだ。
密告されて囚われの身となり託された機密を奪われたのは無能の証。だが戦友や恩人を売るのは唾棄すべき裏切りだ。
己の生涯を無に帰す堕落を、断じて己に認めてはならない。
裁きの相手側になど乗ってはやらぬ。何一つ認めてやらぬ。何一つ語ってやるものか。殺れるものなら殺ってみよ。不正の刃で無残に闇討ちに斬り捨てるがいい。この古高俊太郎は裁くに裁けぬ未決の囚徒として死んでやる。
都を巡る情勢が、いよいよ予断許さぬ中、男の身柄は『屯所』から六角獄舎に移された。
◇◇◇◇
「いったい、外はどうなっている!」
堀川通の西、六角通に面して設けられた監獄『三条新地牢屋敷』。移設後、通りの名をとって『六角獄舎』は、騒然とする洛中をよそに静まり返っている。
現在、攻め上った長州と守る薩摩・会津との間で激しい戦闘が行われ、火も放たれている。
単に監獄なら、囚人どもに三日以内に帰るなら罪一等を減ずると言い含めて、解き放てばよい。だが、今の六角獄舎にはそれをできない事情があった。
「お奉行からは?」
「……今だ。なにも」
「むううう」
六角獄舎に収監されているのは、安政の大獄で捕縛された者、生野の変の首謀者、そしてつい先月の池田屋事変の関係者だ。物取り強盗ではない。世に放てば必ず、再犯をおかす国事犯どもである。帰ってくるわけがない。
解き放ちは脱走を容認するようなもの。いや、むしろ牢内で語らって『破獄』に及ぶ可能性すらある。
都に潜伏する長州藩の手勢が、囚人の奪還に動いているという情報すらあった。
「この上はかねての手はずどおり」
「いや、ぬぬぬ。それは、しかし」
実のところ、方針は決まっている。
京都西町奉行、滝川播磨守は、新選組に出動を命じた上、獄吏たちに「獄舎に火が及ぶようなら、特に重罪な者をすべて斬り捨てよ」と命じていた。
そして、みやこ全域を嘗め尽くすような大火が六角獄舎のすぐそば、堀川通の向こうまでせまっている。にも拘わらず。
「新選組はまだか? 奉行所へやった使いはなぜ帰ってこない!」
六角獄舎からは「このままでは破獄の恐れあり」とすでに奉行所に報告し、その判断を待っているのに、その返事が返ってこないのだ。
あまつさえ、会津が鷹司邸を焼き討ちしたとか、薩摩の大砲で火事が起こっただのという噂まで聞こえてくる。
誰も彼もから遮断されているかの様に六角獄舎だけが孤立し、情報が錯綜する。
「三十三名ぞ。刑の執行と一口に言って、一体どれほどかかると……」
がん。と土塀を殴りつけて、獄吏は己に言い聞かせるように、喚いた。
その時、駆け込んでくるものがあった。
「し、新選組が」
今頃か?と詰所内の皆が振り返ると
「罪人を引き取る、と。その、池田屋の件のものどもはこちらで始末をつける、と」
……この忙しい時になんだそれは! と思ったが、相手は奉行所の命を受けている。
不快であった。まったく不快に過ぎる。
混乱している。困惑の最中にある。迷っているその最中に、さらに手を突っ込まれてひっかきまわされる様な不快感があった。
「勝手にしろ!と伝えろ。この期に及んで何を全く何を勝手な! いずれ、お奉行に申し上げてきつく罰してくれる! あの壬生狼どもめ!」
こうして、幾人かの囚人が獄舎から連れ出された。
なお、迷っている内に火事が堀川通で止まったため、罪人の処刑は沙汰止みになった。京都西町奉行・滝川播磨守は、禁門の変における沈着果断を京都守護職・松平容保から直々に激賞され、のち大目付に就任。天狗党の乱、第一次長州征伐において幕府軍の陣頭に立つことになる。
◇◇◇◇
ゆるやかな。揺蕩うような。何かに揺られていた。なんとなくそれが船の上であるとわかった。
海ではない。川でもない。この穏やかさは……ああ、淡海か。
ゆっくり。まるで水面を漂うような、意識の覚醒。明るい日差しが瞼に感じられる。
「……慌てずともよい。もう、心配ない。だれも貴様を追ってはおらぬ」
都の、なべ底の炎熱ともちがう、温かな湿った風。遮るもののない伸びやかな青空。
「よく耐えた。よくぞ、生きていてくれたな……」
よいしょと、抱き上げられ上半身を起こされる。見慣れぬ景色だ。周囲を囲む山と建物、あふれほどに人影ばかりの京の都。そんな男の知っている日常とは隔絶した空と風と視界いっぱいの水面。
「……あ、あ、あ」
懐かしむほどの記憶はない。思い入れはさらに、ない。馬鹿にして侮りさげすんだ、その水と緑の大地。
なのに、不思議とその風景が、胸に迫った。ああ、あの山を、覚えている。
「み、かみ、やま」
「! そうだ! 三上山だ。『近江富士』だぞ。古高っ!」
男の視線のはるか先。銀の水面の向こうに、つつましく佇む三角の山が見えた。
終
近江維新史異聞 水と緑の大地(花の秘剣番外KAC7版) 石束 @ishizuka-yugo
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