面倒な朝食

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面倒な朝食

 午前五時、紗智さちはイングリッシュマインをスライスしてトースターに入れた。まだ火はいれない。先にオランデーズソースを作らなければ。


 絞ったレモン果汁を、卵黄、白ワインとあわせ、溶かしたバターと混ぜていく。塩と胡椒で味を整えたら完成だ。冷えて固まってしまわないように鍋に沸かした湯で湯煎しつつ、次はポーチドエッグにとりかかる。


「えっと……」


 紗智は手元のメモ帳に目線を落とした。


『フィルターは使わないこと。手間をかけてない料理は食べるに値しない』


 ポーチドエッグの項に、そう書かれていた。

 そう。そうだった。

 いつだったか横着をしてペーパーフィルターを使って茹でたら、ゴミ箱に捨てたフィルターに気付かれ、激しく叱責されたのだった。


 短くため息をつき、紗智は鍋に菜箸を差し入れかき混ぜ始めた。

 ぐるぐると渦を巻く酢水に、静かに卵を割り落とす。


 これが終わったら、次はベーコンを焼いて、トースターに火を入れ、それから……それから……コーヒーだっけ? 紅茶? エッグベネディクトに合うらしいのはどっちなんだっけ?


 紗智は朦朧とした頭を左右に振って、メモ帳のページをめくった。


『朝は薄めのコーヒーに砂糖をふた匙。ミルクを用意しておくこと。使うかどうかは自分で決める。砂糖は溶かしおくこと。けれどスティック型の砂糖を添えるの忘れないように』


 やることが多すぎて何度やっても覚えきれない。

 学生時代は要領がいいねと褒められたが、今では自分が酷く鈍くさい人間に思える。


「……あ」


 メモの確認に気をとられ、茹ですぎてしまった。仕方ない。自分用……ダメだ。残しておいて見られでもしたら、嫌味かと、貧乏たらしい真似をするなと、何をされるかわからない。


 紗智は茹ですぎた卵をキッチンペーパーで包みゴミ箱に捨てた。もう一回ポーチドエッグを作って、その前にオランデーズソースを――そうだ、イングリッシュマフィンを。


「――――ッッッッ!!」


 紗智は声を殺して叫んだ。


 嫌だ! もう嫌だ! 

 ニューヨークではどうだったかなんて知らない! こは日本だ! 

 なんで朝からこんな、

 自分は食べられないエッグベネディクトを作らなくちゃいけないんだ!


 ひとしきり声なき叫びをあげ、紗智は両手で顔をこすりあげた。右目の周りに鋭い痛みが走った。そうだった。ファンデーションで隠しておかないと。料理の前に化粧をするなと言われているからエッグベネディクトをつくったあとで、化粧をして、温め直して、それから起こしに。


 紗智は頭をかきむしりたくなった。だが、キッチンに髪の毛が落ちていたりしたら、彼は癇癪を起こすに違いない。


 もう、殴られるのは嫌だ。


 朝食の支度をすませ、紗智は化粧鏡を覗き込んだ。右目を囲むように赤黒い痣がついていた。


 昨晩、結婚してから初めて、顔を殴られた。

 それまでは腕や、足や、悪くても腹だった。

 けれど昨日、克也の帰宅を待つうちにウトウトしてしまい、酔った彼に顔を殴られた。


「痕とか、残らないといいね……」


 紗智は鏡の中の自分にそう話しかけ、上っ面の肌色で傷を塗り潰し始めた。パフで伸ばす度に微かな痛みが走った。目に涙が滲み始める。


「泣かないで」


 鏡の中の紗智を慰めながら、紗智はティッシュを一枚とって目にあてた。

 克也が紗智に暴力を振るうようになったのは、二年ほど前からだ。結婚してから一年が過ぎたころ。何があったのか正確に思い出せないが、たしか生活費の催促をしたような気がする。


 二の腕を痛いほど強く掴まれ、誰のおかげで働かなくていいのか考えろと、叱責された。

 君は家にいてくれるだけでいいよと言ったのは、誰だったのだろうか。


 克也のようにみえて、克也ではなかったのか。

 いったい、何が彼を変えたのか。


 俺は努力しているのにお前は何もしないと、何度言われただろうか。

 私も働くと言えば稼ぎが少ないという意味かと蹴られ、夕食がいらないなら連絡をしてくれと言えば専業主婦のくせに旦那を待つことも出来ないのかと髪を引っ張られた。


 毎日、毎日、少しずつ自分がすり減っていくのを感じる。

 鏡の中の紗智は、ただ無為に三年を過ごしたのよりも酷い、陰鬱な顔をしていた。


「ダメだよ。それじゃ怒られちゃうよ?」


 話し相手は他にいない。いつだったか、専業にスマートフォンはいらないからと解約させられてしまった。専業なんだから家にいればいいと、外出の時間も決められている。

 紗智という人間をすりつぶしながら、克也の妻という生き物が大きくなっていく。


「もうちょっとだから、頑張ろう?」


 克也の妻は鏡の中の紗智に言った。紗智は少しだけ笑った。痣を隠すために厚く塗ったファンデーションが少しよれ、とても美しいとは言えない笑みだった。

 顔を見せれば、朝から気分の悪い顔を見せるなと殴られるかもしれない。


 克也の妻はすっと表情を消し、キッチンに戻った。

 エッグベネディクトを仕上げ、コーヒーを用意し、最高の目覚めを提供すべく必要な道具を揃えて、克也の寝室に行く。


 克也はダブルベッドの真ん中で高鼾をかいていた。いい気なものだ。

 でもいまは、最高の目覚めを提供しなければ。

 克也の妻の躰に宿る、もうすぐ擦り切れてしまいそうな紗智のために。

 両膝を床につき、顔を伏せ、そっと克也の躰を揺らす。


「克也さま。克也さま。朝食の準備ができしました。お目覚めになられてください」


 まるで召使い。いや、それ以下だ。奴隷ですらない。

 考えようによっては手のひらの上で転がしてやっているのだと思えなくもないが、少しでもそれが顔に出れば何をされるか。ひとたび暴力を振るわれれば、最高の目覚めは提供できない。


 何度目かの呼びかけに、克也の鼾が止まった。思わず喉を鳴らした。緊張の一瞬。第一声で克也の妻の一日が決まってしまう。


「……お? なんだ? 紗智かー? どこにいる?」

「こちらです」


 可能な限り淑やかな声調で、克也の気に障らないように、言った。


「……そんなところで何やってんだ?」

「昨日の不出来をお詫びしたくて……」

「……はっ」克也は鼻を鳴らし、せせら笑った。

「ようやくわかってきたのか。長かったー」


 克也はベッドから降り、床の上で丸くなっている背中に足をかけ、

 ぐい、ぐい、と強く押した。


「今日はちょっと気分がいいぞ。朝食の準備はできてるんだろうな?」

「はい。できています」

「エッグベネディクトは――」

「ベーコンと、ポーチドエッグに、サラダと、コーヒーには……」


 克也の妻はすらすらと今朝の献立を言い並べた。背中に乗せられた克也の足裏が、一際強く押してきた。


「ほんとだろうな? 家事もできない専業に価値はないからな?」


 足裏が離れ、足音が聞こえた。

 なんとか乗り切った、と克也の妻は面を上げた。


「おお。できてるじゃないか」


 聞こえてきた声に息をつき、紗智はエプロンの前ポケットに手を入れた。金属特有の冷え冷えとした感触を握りしめ、ダイニングテーブルに向かう。


 ぐちゃり、むちゃり、


 と、克也がエッグベネディクトを貪る音が聞こえてきた。

 結婚する前までは咀嚼の音すら嫌っていたのに、今ではいつでもだ。紗智が嫌な顔をする度に、お前がつくるメシは不味いから空気と混ぜないと食えない、とかなんとか。


 手間暇をかけたエッグベネディクトを、豚のように貪る克也。

 その、後頭。

 紗智は、するりと肉叩きを垂らし、振り上げた。


「克也さん」

「……あ? 食事中に口を聞くなと」


 振り向く顔。

 振り下ろす鉄。

 鈍い音が響いた。


「おはよう。目は覚めた?」

「お、ま……」


 克也は潰れた鼻から血を飛沫しぶきながら、お前、と言った。


「お前じゃない!」


 紗智は肉叩きを振り下ろした。


「お前じゃない!」


 紗智は肉叩きで豚を叩いた。


「私には!」


 紗智は最高の目覚めのために肉叩きを振った。


「紗智って名前があるの!」


 仕上げとばかりに、紗智は克也の潰れた顔に肉叩きを投げつけた。手に、どろりと赤黒いものがまとわりついていた。

 紗智はティッシュを何枚か抜き取り、化粧鏡を覗き込んだ。

 顔に飛んだ返り血を拭うと、一緒にファンデーションが流れた。


「……寝よ」


 酷く眠かった。当たり前だ。もう半年近くベッドで寝かせてもらえていない。寝かせてもらえるのは、克也がセックスしたくなったときだけ。それも、運が良ければの話だった。


 でも、今日は違う。

 紗智は寝室に入るなり羽毛布団を引きずり下ろし、シーツを剥がし、枕を投げ捨て、消臭剤を振りまき、安堵の息とともに横たわる。


「おやすみ、紗智」


 言って、紗智は瞼を閉じた。



 瞬き。

 むくりと躰を起こす。


 最高の目覚めだった。頭がすっきりしている。手がガビガビとしているけれど、こればかりは洗うのを忘れた自分が悪い。


「そうだ。紗智、エッグベネディクトを食べようか?」


 自分に向かって自分で言う。

 なんて気持ちの良い目覚めだろうか。

 紗智はダイニングに行った。

 

 ぶふーっ、ぶふーっ、


 と、息をつく克也がいた。

 顔面がパンパンに腫れていた。

 手に、真っ赤に濡れた肉叩きをもっていた。


 ――――ッッッッッ!!

 

 紗智は飛び起きた。

 ……居間だ。

 薄暗く、化粧鏡の中の紗智以外はいない居間。


「……夢?」


 じっとりと汗が滲んでいた。息を整えながら背もたれに躰をあずける。いつ寝てしまったのだろう。いつからが夢だったんだろう。

 今は、何時なんだろう、と顔をあげると、


 玄関のインターフォンが鳴った。


「おい! 紗智! 開けろ! 専業のくせに寝てんじゃねぇだろうな!」


 克也の声が玄関扉の向こうから聞こえてきた。

 ガン、ガン、と扉を蹴りつけている。

 紗智は時計に目をやった。

 深夜、零時を回っていた。


「……やっぱり肉叩きじゃダメみたい、紗智」


 克也の妻は、鏡の中の紗智に言った。


「じゃあ、包丁にしよっか」


 鏡の中の紗智が言った。

 克也の妻の紗智は台所に向かった。

 すべては最高の目覚めのために。

 

 克也の妻の胸のおくで、紗智が目を覚ました。

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面倒な朝食 λμ @ramdomyu

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