墜落までの三分間または永遠

木古おうみ

第1話

 機体が揺れ、もう何度目か数えもしなくなった墜落が始まる。

 傾く視界も、身体にかかる重力も、警報の音も同じだ。

 ただし、最初の墜落では乗客全員が奪い合うように求めた酸素マスクは、今では誰にも手を伸ばされることなく、死人の腕のようにだらりと垂れ下がって揺れている。


「またなの……」

 座席の隙間から小さな呟きが聞こえた。


 誰もマスクをつけないのは、皆知っているからだ。そんなものがあってもなくても助からないということを。



 僕たちの搭乗する333便はエンジンの不調からコントロールを失い、三分間上空でもがき続けた挙句、海に墜落した。

 瞬間の衝撃と、鉄板に叩きつけられたような水面の固さと冷たさ、目前に迫る赤く膨らんだ炎の熱さ。

 それを苦痛だと処理する前に、僕の意識はブラックアウトした。

 そして、気がつくと僕はまた揺れる機体の座席にシートベルトで縛りつけられている。


 333便は名前による因果か、墜落までの三分間を永遠に繰り返している。

 二度目の墜落は戸惑いの内に終わった。

 三度目は異変が自分の妄想でないことを確かめ合った。

 四度目では何とか状況を打開し、助かろうとした。

 五度目以降も奮闘は続き、十を越えたあたりで脱落者が出た。

 二十に届く頃には、どうあがいても結末は変わらないと悟った。

 それからは酷かった。皆、自暴自棄になり、海面に接触する前に機内は血痕と悲鳴で溢れた。


 そして今、僕たちは絶望すらも手放しそうになっている。



 窓の外に目をやると、右翼が黒煙で覆われて、巨大な鴉が羽を際限なく伸ばしながら飛んでいるようにも見える。代わり映えのない光景だ。

 せめて毎回違う国の上なら景色を楽しむ慰めもあっただろうか。だとしても、この高度で見えるのは空と雲と落ちゆく機体の一部しかない。

 荒れに荒れた三分間は地獄絵図だと思ったが、この状況自体が実は地獄の責め苦の一環なのかもしれない。


 変化があるのは機内の方だ。


 いつかは母国語で叫んでいた最前席の外国人は、無表情に手持ちのプレイヤーで音楽を聴いている。

 喘息持ちらしい老人は、最初の墜落で薬を失くし、苦しんだ恐怖からか、小さな吸入器を握りしめる。

 その隣の席の少女は、暗い目をして自分の爪先を見つめるように蹲っていた。


 三度目の落下の最中、彼女は老人の飛ばされていく吸入器を掴もうとシートベルトを外した。制御を失った彼女の身体はそのまま吹き飛び、ちょうどふたつ前の座席で身を乗り出していた僕に衝突した。

 柔らかいはずの身体が硬く、僕の肋骨とその下の肺がひしゃげる感覚を覚えている。

 その頃の彼女の勇気は、度重なる墜落の最中で振り落とされてしまったようだ。


 三分経てばまた元どおりの機内で、乗客の感情だけが衝突の度削がれていくが、本能に残る死への恐怖と痛みだけはしがみついて離れようとしない。


 子どものすすり泣く声が響く。

 斜め後ろの少年が耳を塞いで、足をばたつかせていた。

 隣の席の男が一瞬それに目をやり、また俯いた。


 スーツ姿の二十後半か三十程度に見える彼は、僕が五歳のとき死んだ父に酷く似ていた。

 無言で彼が隣に座ったとき、居間にある遺影の中の父が現れたのかと思った。

 まるで翌年は行けないとわかっていたように、風邪を引きかけていた僕を海に連れて行った翌日、交通事故で死んだ父に似たこの男との巡り合わせも、思えば不吉の前兆かもしれない。

 僕は久しぶりに母のことを思い、僕の姉が唯一母の元に残っていることに少し安堵した。


 キャビンアテンダントが通路を横切り、中央に座る男の膝の上に、当然のように腰を下ろした。

 まだ、この便が空を直進し続けていた頃、連絡先を書いた紙を彼女に渡していた男だ。

 そのときは義務的な笑顔を返しただけだったのが、男は墜落のたび、落下物から守るために彼女に駆け寄り、ふたりの距離は近づいていった。


 死の恐怖を味わう三分間は長いが、愛を交わすには短い。キャビンアテンダントがスカートの裾を捲ったとき、

「子どもがいるのよ!」

 と、どこからか声が上がった。胸に下がったペンダントを握りしめた中年だった。

 中央の座席のふたりは微かに視線を彷徨わせた。

 耳を塞いだ子どもの足は一層大きく震えている。


「もう関係ないだろ」

 そう言ったのは、僕の隣の男だった。少年が何を見ようと、それが成長に影響することはもう有り得ない。


「好きにさせてやれよ」

 呟くような言い方に、中年女性はひと筋涙を零した。

「貴方には子どもがいないからそう言えるのよ」

 彼女はへたり込むように、座席の背もたれの間に消えた。


 男は被りを振って、

「……いるよ」

 隣にいる僕にだけ届いたほどの声で言う。

「本当に?」

 僕は思わずそう尋ねていた。男が小さく目を見開いてから、

「本当だよ」

「男の子ですか」

 彼は怪訝な表情をしてから、静かに首を振った。

「わからない。帰ったら嫁の検査結果が出てるはずだった」

 僕が何も言えずにいると、男は小さく笑った。

「何で子どもが男だと思った?」

 何となくと答えて、僕は席を立つ。


 彼の膝を跨いで通路に出ると、機内が大きく揺れた。どこからか紙束が舞って散る。

 気を抜くと飛ばされそうになる風圧の中、僕は座席に捕まりながら進み、空席だった老人の横の少女と通路を挟んで隣に座る。

 彼女は本を読んでいた。

「何を読んでるの」


 少女は顔を上げた。

「私が押し潰したひとだよね」

 僕は笑ってそうだと答えたつもりだが、笑顔を作れたかわからない。彼女もくたびれた笑みを返した。


 彼女の手に収まる、朱色の革のブックカバーには、四つ葉のクローバーが刺繍されていた。

 視線に気づいて、少女はその糸をなぞる。

「お守りなの。何の意味もなかった。どうせ捨てても三分後は元通りだからムカつくけど使ってる」

 そう言いつつ、彼女は大事そうにそれを胸に押し当てた。


 背中を突き飛ばされるような衝撃があり、とうとう飛行機が垂直になる。


 操縦室からのアナウンスが聞こえなくなったのは、何度目の墜落からだろう。

 機長は最初は何としてでも乗客を救うと誓い、自分の不手際を詫び、罪悪感の悲鳴が劈くようにスピーカーから響いた。

 荒れに荒れた三分間のとき、数人が操縦室のドアを破ろうとしたが開いたかはわからない。


 少女が静かに呟いた。

「本を持ってきてよかった。記憶は三分間繰り返し続けるなんて無駄だもの」

「強いんだね」

 僕が言うと、彼女は目を伏せて、しばらく黙って、口を開く。

「本当は怖いの。この本を読み終えたらどうなるかって、気が狂いそう。だからすごくゆっくり読み進めてる」


 誰かのイヤホンが外れたのか、激しいロックが数フレーズかかった。機内を這うような祈りの声と泣き声に混じり、ざらりとした音がスピーカーから流れる。

 機長からのアナウンスだ。


 僕と少女はその続きを待つ。音は続かなかった。

 顔も知らない機長は、マイクをONにして、何を言おうと思っただろう。


 僕の視界の端を小さな何かがかすめる。

 僕と少女はほぼ同時に手を伸ばし、それを掴んでいた。

 互いに息を呑み、ゆっくりと指を開くと、白いプラスチックでできた喘息用の吸入器だった。


 ぼんやりとそれを見ていた僕の手から、吸入器を抜き取り、少女は老人に返す。

 それから僕たちは目を見合わせて笑った。


 墜落まで一分を切った。

 前を見ると、スーツの男が耳を塞いでいた少年の隣に移動して何かを話しかけている。

 彼の妻の腹の中の子は、やはり男の子ではないかと思う。


 少女が震えていた。

 重力で息が詰まりそうになりながら、僕は言う。

「本を読み終わったらこのループが終わるかも」

 少女は驚いて僕を見る。

「君が読み終わるのを待ってる可能性もあるよ」

 彼女は呆れたように眉尻を下げた。

「それは、楽しみ」


 いよいよ飛行機は速度を増し、耳鳴りも尖る。

 少女はそっと手を握った。

「次は落下が始まってすぐこっちに来て。この便に何で乗ったか聞かせて」

 僕はもちろん、と答え、

「それからお互いの名前も」

 少女が微笑む。


 あと十秒で333便は海面に衝突する。

「それまで、本は読み切らないでおいてくれ」

 僕の声は震えていた。少女も強張った表情で、それでも前を見つめたまま頷く。


 機体についたすべての窓が黒い海を写す。

 僕は少女の手を握り返した。

 じっとりと汗ばんで仄かに熱い。


 僕たちは手を取り合って、来るべきときに備える。

 それは何度目かもわからない死の瞬間ではない。また巡り会い、話をする次の三分間のことだ。


 そう考えると、僕たちはまるで永遠に生きられるようになったようだと、彼女に話したら笑ってくれるだろうか。


 僕は夢から目覚めるように、始まりを待つ。

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墜落までの三分間または永遠 木古おうみ @kipplemaker

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