最高の三分間

冬野ゆな

3:00

「それでは、イリュー……ジョンッ!」


 マイクで増幅した内藤の声で、緊迫の三分間が幕を開けた。

 水中脱出マジックのはじまりだ。

 大きな三分タイマーが動き出し、表示された時間が一秒ずつ確実に減っていく。

 イリュージョン志賀はここからまた飛躍するのだ。


 イリュージョン志賀こと本名・志賀知明は、テレビ界では若きイケメンマジシャンとして有名だった。脱出マジックで有名な幻影師・睡蓮に師事し、若くして才覚を現わした天才だ。キザで芝居がかった物言いと甘いマスクで、女性を中心に人気になった。もちろんそのマジックの素晴らしさも折り紙つきで、外見だけでなく中身でも話題だった。

 ネットに押され気味のテレビ業界も僅かに気力を取り戻したと言われるほど。


 ――それがなんだってあんなことに。


 ひとつ、ふたつ。

 両手両足に取り付けられた鍵が開けられていく。


 志賀の転落は、ありがちなマジックの失敗なんかではなかった。

 たまたま居たファンの女と飲み会で盛り上がったあげく、ホテルに行ってそういう関係になったのだ。女はまさに志賀好み。二十代で合意もあった。女性スタッフを自分の好みで選んでいた志賀は、助手にしたいくらいだと言ってやった。

 だが女に子供ができたと知るや、あっさりと掌を返したのだ。志賀にそんなつもりはなかったのである。

 それどころか堕胎を嫌がった女をひっぱたき、腹を執拗に蹴りあげ、殴りつけた挙句、むりやり堕ろさせたのだ。そしていくらかの口止め料を払っておしまいにしてしまった。

 当然というべきか、女はSNSで告発した。

 そしてバッシングの嵐が起きた。

 テレビに関しては歯に何か挟まったような物言いで擁護したものの、SNSではそうはいかなかった。深夜のインタビューに対して「解決済みですから」と他人事だったのも手伝い、「腹パンマジック」だの「子供が消える奇術」だの揶揄されて動画や写真をコラージュされた。

 それどころか、女が後に自殺したことも拍車をかけた。堕胎の影響で子供が埋めなくなったとか、そんな理由だった。

 やがて自らのマジックショーが延期になると、テレビも次々に企画を取り下げた。

 こうして志賀は表舞台からあっさりと転がり落ちてしまったのだ。


 ――こんなつまらないことで!


 志賀の助手を務める内藤もそう言った。

「こんなつまらないことで!」

 まさか助手の座を奪われる寸前だったと思いもせず、内藤はそう憤った。だが、たったそれだけの過ちが運命を決めてしまったのだ。

 メディアは既に二匹目のドジョウを探していて、変わったマジシャンは発掘されてきていた。宝塚もかくやというボーイッシュな女性マジシャンや、マジック芸人、双子の子供マジシャン。志賀がいなくてもブームは形成され、忘れ去られた。


 そんな志賀が再起を賭けて挑んだのが、この水中脱出マジックだった。

 追放寸前で腐っていた志賀に、内藤が企画を持ってきたのだ。

「志賀さん。水中脱出マジックをしましょう」と内藤は言った。「志賀さんのような人がマジックから離れて、腐って終わりなんて納得できません。あなたはマジックの中にいないといけない。あなたはマジックに生き、マジックに死ぬべきです」

 内藤の熱意に絆されるように、志賀はこの危険なマジックに挑戦する事にした。

 志賀は両手両足を鍵付きの鎖で縛られ、水のたっぷり入った拷問箱に入れられる。客席からは布で目隠しをし、三分以内に脱出して布の中から出現するのだ。もちろんその直前のパフォーマンスもあるから、実際は水の中にいるのは五分間。残り一分になれば命の危険を伴うし、一歩間違えれば窒息して死ぬ。

 内藤と何度も協議を重ね、練習を重ね、いざというときの合図を作った。

 完璧だ。

 志賀はここから再び天才マジシャンとしての名を欲しいままにするのだ。


 三つ目の鍵を外したあたりから、脳がぼんやりとしてきた。

 だが順調だ。四つ目を外そうと鍵を探す。ところが、鍵がうまく入らない。焦るなと自分に言い聞かせ、体勢を変えてもう一度鍵を入れた。

 だが、それでも入らないのだ。


 ――なんだ、故障か?


 そんなはずはない。練習でも何度もやって、鍵はこれであっているはずだ。次第に焦りが先行してくる。

 ――ちくしょう、こんなところで!

 息が苦しくなってくる。タイマーは一分を切った。本来は脱出できている時間だ。もはやタイマーを見ずとも、体が苦痛を訴えている。

 裏手にいる内藤に合図を送った。何らかの間違いがあったときの合図だ。

 ――助けてくれ、内藤!

 だが不思議なことに、内藤はまったく動かなかった。合図が伝わらなかったのか、突っ立ったままだ。

 ――早く! 気付け、気付いてくれ!

 もはや合図というより助けを求めて硝子を叩いているだけだ。時間がない。自分の命の時間が。そこでようやく内藤の視線が志賀を捉えた。

 助手の女は尊敬と憎悪の入り交じった表情で、何かを取り出した。


 内藤と自殺した女が一緒に写った写真だった。

 二人はとてもよく似ていた。

 そういえば内藤は、離婚した父についていった妹がファンだと言っていたな――頭の片隅で、そんなことを思った。


 ――あなたはマジックに生き、マジックに死ぬべきです――


 生気の消えた顔は客席からは隠されたまま、やがてタイマーがゼロを示した。

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