お湯を入れる、ただそれだけ
松尾 からすけ
お湯を入れる、ただそれだけ
空腹。
それは生物が生きている以上避けられない感情。食物を摂取し、養分を吸収し、排出する。何者にも平等に訪れる生のスパイラル。それは、休日だからといって昼近くまでベッドでゴロゴロしていた自分にも同じことが言える。
ぐぅー……。
胃袋が悲鳴をあげる。敏腕借金取りのように飯を食べろと私に催促してきている。
私はゆっくりと身体を起こすと、チラリと窓の外に目を向けた。外は生憎の雨模様。これでは外食に行くのがめんどk……費用対効果が釣り合わない。
気怠さを振り払い、キッチンへと向かう。何かを作る元気はない。そもそも材料がない。うちの冷蔵庫は何もない空間を虚しく冷やしているのだ。
私はため息をつきつつ、レンジの下にある戸棚を開いた。そこには眩いほどの金銀財宝が……あるわけもない。だが、今の私にとっては金と同値の物が眠っている。
カップラーメン。
手間なく食欲を満たす究極の簡易料理。必要なものはお湯と箸、ただそれだけ。まさに食のイノベーション。宝石箱とはよくいったものだ。
まとめ買いしていた子達が私にアピールをしてくる。あっさり醤油、濃厚味噌、魚介豚骨……それぞれに違った魅力があり、パッケージだけで私の食欲を刺激してくる。
だが、今日の私の気分はラーメンではない。
昨日、たらふくアルコールを摂取した私は、母親のように優しく胃を包みこんでくれるような物を所望している。
ならば選択肢はうどんかそば。
そこまで絞っても、未だ数多の誘惑は途切れない。
かき揚げ、油揚げ、豚汁、カレー、鴨。真に贅沢な時間と言える。私の意思一つで食べるものを決められるのだから。
せっかくだから私はこの赤いうどんを選ぶぞ。
そうと決まれば心は一瞬にして魅惑のきつねうどんに埋め尽くされた。それまでの緩慢な動きが嘘のように、素早い動作でヤカンに水を入れ、火にかける。
お湯が沸く間にビニールの包みを丁寧に剥がし、上蓋は半分まで開ける。中から粉末スープの素を取り出すと、一箇所に固まらないように満遍なくまぶしていく。付属の七味は食べる直前に入れるために、脇に置いておく。
全部入れ終わったところで、容器の側面を手のひらでトントン、と叩き、粉が均一になるようにする。ダマになってはせっかくのスープが台無しだ。下準備にも愛情をかけてやらねば、完成した時のクオリティに大きな差が出てしまう。
こちらの準備が整ったというのに、ヤカンはまだ汽笛を鳴らさない。カップラーメンを選んでいる時ならばいざ知らず、決まってしまえば、待ち時間など煩わしいことこの上ない。
技術は常に躍進している。黒電話から携帯電話、携帯電話からスマホと、より便利に、より早く、よりスマートに進化してきた。だと言うのに、水を一瞬にして沸騰させる文明の利器がない。いや、あるのかもしれないが、私の知る狭い世界では存在していない。どこぞの天才よ、早く発明してくれ。そして、私をこの無駄な時間から解放してくれ。
……ピーッ!!
至極くだらない事を考えていると遂に福音が訪れる。いつもならモスキート音にも似た不快な音に顔を顰めるが、今は祝福のファンファーレに聞こえた。
即座に火を止め、ヤカンを持ち、トクトクとお湯を注いでいく。容器の内線まで入れたところで、フタを閉じ、重石となる小皿を上に置いた。
さぁ、ここからが最後の三分間だ。
だが、この三分が長い。M78星雲からやってくる光の戦士は三分間しか地球に滞在できないが、それでも怪獣をきっちり倒していく。逆に言えば、それを成すことが出来るだけの時間なのだ。飢えている人間を焦らすには十分な時間と言える。
はっきり言って私の頭の中には出来上がったカップラーメンのことしかない。それがまた時間を長く感じさせる。
そわそわしながら時計に目をやった。先程は「2」の位置にあった秒針が今は「4」の位置にある。まだ十秒しか経っていないというのか?おそらくこの部屋の時空は歪められているに違いない。
待ち時間という意味では先ほどのお湯を待つのと変わらない。だが、この二つには大きな差がある。
容器の中にお湯を注いだ。これが意味すること、それは粉末スープが溶け出し、その魅惑的な香りが仄かに私の鼻腔をくすぐるのだ。口の中はよだれで溢れかえり、否が応でもその味を妄想させられる。
まさに生き地獄。『熱湯3分』という名の拷問。
秒針が一周目を終える。
まだ一分しか経っていないことに絶望を隠せない。一体どうなっているんだ?私の家にある掛け時計は円形のどこにでもあるようなもの。ただし、サイズは一般家庭にあるものよりも若干大きいかもしれない。
半径は約20センチメートル。円周は125.6センチメートル。ゆとりであれば120センチメートル。
なるほど、円周が長いせいで一周に時間がかかっているのかもしれない。これは早急に時計の買い替えが必要になる。
人間、お腹が空きすぎると頭がおかしくなるらしい。
秒針が再びスタート地点に戻ってきた。残り六十秒、カウントダウンの始まりだ。
ここまで来ると期待感が上回ってくる。しかも、一秒経つごとにうなぎのぼりに上がっていくのだ。同じ一分待つのでも最初の一分と最後の一分はまるで違う。初めはただただ苛立ちしか募らなかった。
残り三十秒。
ダイニングテーブルの上を片付け、台布巾で拭き取る。カップラーメンといえど待ちに待った食事なのだ。綺麗にしてから食べたいのが人情。
残り十五秒。
コップに麦茶を入れ、カップラーメンの隣に置く。右に食べ物、左に飲み物。これが私の食事における完全武装。
10……
9……
8……
7……
蓋を剥がしたくなるのを必死に我慢する。ここまで来たなら待つとこまで待とう。
6……
5……
4……
重石であった小皿をどけ、いつでもフタを取れる準備をする。小皿の代わりに置いた手に伝わる熱気が心地よい。
3……
2……
1……
カチッ。
秒針が3度目の『12』の時を刻む。
待ちに待った時間がやってきた。嵐は過ぎ去り、私を祝福するように雲間から輝かしい光が差し込んでくる。心なしか身体が軽くなったような気がする。今なら何でもできそうだ。
もう誰も私を止めることはできない。
逸る気持ちを必死に抑えつけ、汁を零さないよう慎重に蓋を剥がそうとする。
そして、目にした。
目にしてしまった。
残酷な現実を。
無慈悲な宣告を。
『熱湯5分』
私は静かに小皿を蓋の上に戻したのであった。
お湯を入れる、ただそれだけ 松尾 からすけ @karasuke
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