KAC6: 最後の三分間

鍋島小骨

最後の三分間

 後になってから、あああれが最後だったのだ、と分かるようなことが、人生には何度も起こる。

 声変わりする前、違和感がなかった最後の日。

 肉親との最後の雑談。

 多分このまま生きていけばそういうものがどんどん増えて、やがては箸で飯を食った最後の日とか、自力で起き上がって服に着替えた最後の日などを思い出すようになるのかもしれない。


 私もすでにいくつかの『最後』を思い出し懐かしむ身の上だ。

 中でも最も最後にしたくなかった最後の話をしよう。



  * * *

   * *



 技術的メカニカルに無理というわけでもないが、面倒くさい曲であることは確かだった。フランツ・リスト作曲『二つの演奏会用練習曲』第二曲『小人の踊り』。何が面倒くさいと言って、知られ過ぎていることだ。

 もちろん、『エリーゼのために』とか『子犬のワルツ』のように一般にまでよく知られているということではなくて、ピアノをやる人間の間では有名曲、という意味だ。だからこそ面倒くさい。

 早ければ小学校半ばから弾くような曲で、コンクールでも時々課題曲になる。つまり、何ができていて何ができていないか、弾けば知っている者にはすぐバレる。誰も知らない、何だか分からない曲ではないのである。手間の割にリターンが少ないといえる。

 急速にプレスト戯れるようにスケルツァンド。継続するスタッカーティッシモ、畳み掛ける転調、リストらしい機動的で華やかなパッセージの数々。

 それを弾くことになっていた。

 すぐに音を外してしまう速くて難しい所があるが、一度は完成させてある曲だ、ちゃんとさらえば弾ける。何より、私はこの曲が好きなのだ。

 徹夜で練習した。子供時代より遥かによく出来そうだ、という感触があった。



  * * *



 翌日会場入りすると、騒ぎが起きていた。

 梶川かじかわが来ていないという。連絡も取れないらしい。本番当日になってバックレるような奴ではないのにと、皆心配していた。私は車で来ていたから、申し出て梶川の自宅に向かった。

 チャイムを繰り返し押しても応答がない、留守のようだ、と会場に――発表会の主催である岡本おかもと先生に連絡する。

 そのまま戻ると、ホワイエに集まった人々の中から岡本先生が進み出てくる。


寺西てらにし君。実はさっき、私の携帯に梶川君からメールがあったの」


「僕にも来ました。今、車でここに着く直前に」


 岡本先生に届いたメールはこうだった。


――先生、申し訳ありません。今日の発表会ですが、急に出演できなくなりました。会場にいる寺西を代奏に立ててもらえないでしょうか。彼ならあの曲を仕上げてあります。


 また、私あてのメールはこうだった。


――今日の発表会にはどうしても出られなくなった。俺の曲目を代わりに弾いてもらえないか。岡本先生にはメールで頼んであるから話してみてくれ。大事な曲だからお前に頼むしかない。


 私のスマホ画面をじっと読んだあと岡本先生は不安そうに私を見る。もうリハーサルを始めなければ間に合わない時間だ。


「楽譜があれば最近弾いたことのある子に頼む手もあるんだけど、その子も出番が直後だし……寺西君、確かに昔レッスンした曲なのは覚えてるけど、今弾けるの?」


「一番最近、また練習していた曲です。昔、先生に褒めていただいて以来、お気に入りの曲なので。梶川にも録音を聴いてもらっていました」


 先生は躊躇ためらっているようだった。それはそうだろう。発表会レベルでは普通、急な演者の変更とか曲の変更は滅多にない。

 先生は数秒視線を彷徨さまよわせたがすぐに背筋を伸ばして言った。


「……とにかくリハーサルを始めましょう。時間はずらせない。

 寺西君。本来こんなこと絶対にしないけど、梶川君のメールが気になる。一応、リハーサルの最初に弾いてみて。梶川君の提案通りあなたを代役にするかどうかは、実際聴いて私が決めます」


 そう言うだろうと思った。

 ざわつく中、私は岡本先生にうながされて舞台袖に入る。

 暗い袖からは、ライトの当たるステージが見える。背もたれのない椅子と、スタインウェイのフルコンサートグランド。バイトの舞台係が、幼い出演者たちのために置いていた補助ペダルを取って戻ってくる。

 胸を張って、へっぴり腰にならないように、重心を高く保って歩き出す。靴底を引きずらないように。余裕をもって立ち止まり客席に向き直って、ゆっくり礼をする。椅子の側に行き左右のノブを回して高さを直す。

 座るとどこか物足りない。譜面台がないからだ。目の前がすかっと抜けている。視線を下げると鍵盤の質感が自宅のものと違う。さらさらとマットで細く見え、特に白鍵は縁が少し透ける。このホールのピアノは古く、白鍵が象牙で作られた時代のものだ。

 フルコンだから音は遠くから鳴り広がるのだろうな、と思いながら私は、前打音つきの嬰ハCisで曲を始める。



   * *

  * * *



 それが今のところ、私の最後の演奏だ。

 私の鮮烈な演奏は居合わせた人々を熱狂させた。あの厳しかった岡本先生さえもが両目に涙を溜めていた。あの日私が弾いた『小人の踊り』は長く人々の記憶に残ることだろう。

 このまま一生ここを出られないとしたら、あれが私の人生最後の、たった三分間の演奏だ。

 ここにいるとピアノが恋しい。人前で演奏しないにしろ練習だけはしたいが、叶えられそうにない。練習を一日休めば取り戻すには真剣な三日を要する。私の指はどんどん錆び付いて、今やとても演奏には耐えないだろう。

 私の望みは一日も早く練習できる環境に戻ることだ。



 満足して話し終わると、インタビュアーである記者は何とも微妙な顔をして言った。


「裁判の時とおおむね同じお話ですが、裁判のことは覚えてますか?」


 覚えてるに決まってる。あのいんちきの茶番劇。


「あの時、逮捕時の経緯も説明ありましたが、あなた止められてそのまま逮捕されてるんです。覚えてません?」


 あの時、私は弾き切って喝采を浴びた。


「リハーサルのビデオがあるんですよ。あなたが袖から舞台に走り出て、ピアノをめちゃくちゃに鳴らし始めた後、警察官が踏み込んで来てあなたを逮捕するまで全部映ってます。あなたが『最後の三分間』っていうタイトルでインタビュー依頼をくれたから念のため計りましたけど、音出してた時間は一分二十一秒。演奏というより鍵盤を掌でぶん殴ってて、五十七秒目にピアノの弦が切れてものすごい音がしました。あのピアノの破損についても訴えられてますけど、それも記憶ないってことですか?」


 何の話をしている。私は三分間、練習通り心を込めて演奏した。『小人の踊り』は指定速度イン・テンポで大体三分かかる曲なんだ。急速にプレスト戯れるようにスケルツァンド。あの速さで三分間は、なかなかの運動量なんだよ。





    *

   * *

  * * *





 寺西てらにしあつし死刑囚とはその後も何度か面会したが、彼の希望通りの記事は出せなかったし、彼の手記も全文は掲載しなかった。彼は夢しか語らない。


 寺西は当時、大学院生。学業不審をあげつらった社会人の弟と母親をかねて用意のサバイバルナイフで殺した後、近所に住む同い年の友人である会社員、梶川の自宅を訪れ、彼も殺した。

 寺西の犯行直前まで被害者梶川はピアノ演奏の録音をしており、そこに残された会話内容から犯行のきっかけがうかがい知れる。かつて二人ともが通っていたピアノ教室の発表会に梶川が復帰しており、翌日の発表会に出るという話だ。親友と思っていた梶川が復帰も発表会も教えてくれていなかったことに加え、梶川の弾く曲目が『小人の踊り』であることにも寺西は激昂した。

 『小人の踊り』は僕の曲だ、と録音の中で寺西は繰り返していた。

 独自調査によると、寺西は岡本ピアノ教室の発表会でその曲を弾いたことがある。中学二年生の時だ。その時初めて評価された、岡本先生は滅多にこの曲を弾かせないが自分にはやらせてくれた、この曲は僕のための曲、僕が弾く曲だ、何で梶川おまえが弾くんだ許さない、とわめき散らしたあと鈍く湿った打撃音が続き、録音は途切れる。寺西は梶川の死体の転がるその部屋で朝まで『小人の踊り』を練習したらしい。

 翌日、寺西は発表会のリハーサルに現れる。この時点ではピアノ教師の岡本や古株の生徒たちも、古いOBが聴きに来たにしても時間が早すぎるな、くらいの認識だった。当時会場は出演者の梶川が来ないことでざわついており、寺西は家を確認しに行くと申し出て一旦会場を離れる。時間を潰し、ホールに戻る直前に、前の晩から奪っておいた梶川のスマホで岡本と自分に偽装メールを送る。

 代役の件については、岡本ははなから相手にしなかったという。辞めて十年近くになる元生徒を急に本番の舞台に上げるわけがない。しかし寺西はこれを承服しなかった。断ったにも関わらず寺西はリハーサルの舞台に勝手に上がりめちゃくちゃに鍵盤を殴り回して弦を切り、駆け付けてきた警察官に逮捕された。

 梶川の撲殺死体と事件当時の録音が見付かり、すでに逮捕状が出ていた。また同日中に寺西の自宅から、母親と弟の死体も見付かった。


 寺西の物語には、真実と虚偽が混ざり合っている。それが作為的なものなのか、寺西自身が信じ込んでいるのか、確かめることは困難だろう。

 何にせよ突出しているのは、『最後の三分間』と記事の見出しまで指定して取材を誘ったその自意識だ。彼の中でその幻想の三分間は果てしなく理想化された夢の時間としてもはや消し難い成功体験になっているのだろう。

 それにしても、入手した音源を聴く限り、中二当時の寺西の演奏は他の生徒に比べてつたなく、途中で暗譜落ちさえしていて時間は四分半も掛かっている。何故それを、僕の曲だ、とまで思い込んでしまったのか。大体、高三で教室を辞めて以来練習もしていなかったはずだ。寺西の住んでいた実家にはもうピアノはなかった。

 寺西はどの時点から気が狂っていたのだろうか? それを確かめることも一記者の私には不可能である。

 彼が、ピアノの才に恵まれた自分という幻、生涯最後の名演を奏でた三分間という心地よい幻から目覚めることは、恐らく二度とないだろう。






〈了〉

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