それは、三分前の世界に戻れるアプリ

かみたか さち

最後の「三分間」

 坂を上った風が、エミの制服のスカートをめくり上げた。

 可愛くない悲鳴をあげ、手で押さえる。誰かに見られたかと、辺りを見回した。幸い、閑静な住宅街を歩いているのはエミと、数メートル先を歩くクラスメイトの詩織だけだった。

 ホッとしたのも束の間。さっきより酷い風が襲い掛かった。

 土埃がぶつかってくる。ぎゅっと目を瞑った。

 前方で、何かが割れる音がした。


「詩織?」


 詩織が倒れていた。

 駆け寄り、エミは足をすくませた。

 詩織の見開いた目は、瞬きをしていない。

 道路沿いの塀に置かれた植木鉢が、さっきの風で落ちたのだろう。割れて、土が散らばっていた。そこへ、詩織の頭部から流れ出たどす黒い液体が流れ込んでいく。

 エミは、震える手でブレザーのポケットをまさぐった。スマホを手にして、混乱した頭で、119番って何番だったっけと考える。

 推しアイドルの画像を背景に並ぶアプリのひとつが目に飛び込み、エミは唾を飲み込んだ。

 一ヶ月前、妖しげな老婆からもらったアプリ。鮮やかなピンクの地に、白い左矢印が五本ならんだアイコンをタップした。

 グラリと眩暈に似た感覚に包まれ、目を閉じる。深呼吸をしながら、平衡感覚が戻るのを待った。

 強い風が吹き付ける中、エミは、交差点の信号脇に立っていた。そこは、三分前に通り過ぎた場所だった。

 青信号が点滅している。その先を歩く詩織の背中があった。

 学校を出る前、彼女とちょっとした口論をして気まずかったこともあり、さっきは無理な横断をしなかった。けれど、二回目のこの時間、エミは全力で横断歩道を駆け抜けた。


「ねぇ、待って。さっきは、ごめん」


 謝るのは癪だった。それでも、気まずいまま詩織が目の前で命を落とすよりマシだと、堪えた。

 何度か声をかけるうちに、詩織はようやく足を止めた。うるさそうに振り返る。


「もう。しつこいなぁ」


 文句を言いながらも、エミの、わざと遅くした歩調に合わせて歩いてくれた。

 そして、件の塀を通り過ぎる。アスファルトに散らばる土と陶器の破片を踏みつけ、詩織が顔を顰めた。


「ここ、前から危ないって思ってたんだよね」

「そうだね。誰にも当たらなくてよかったけど」


 危険は回避できた。エミは密かに胸を撫で下ろし、ポケットのスマホに触れた。


 その日は、酷く寒い日だった。塾の帰り道、通りかかったコンビニの壁にもたれるようにして、老婆が座っていた。

 油気の無い白髪はぼさぼさで、皺だらけの肌は黒ずんでいた。着ているものも薄汚く擦り切れており、近付くとすえた臭いがした。

 通りすがる誰もが、嫌そうな顔で、老婆を避けるように歩いていた。

 エミも、道路の反対側に逃げようと考えた。しかし、運悪く、運搬のトラックがコンビニに横付けされ、エミは仕方なく老婆の脇を歩いた。

 老婆は、空ろな目で手元を見つめていた。枯れ枝のような両手で、しきりと何かをいじくっていた。

 エミが横を通るとき、それが足元へ転がってきた。

 近くで見ても、何とは分からない。卵型をした金属製の何かが、カラカラ音を立てて転がる。

 老婆が慌てて腰を浮かそうとしたが、動きを止めて呻いた。腰を押さえ、痛そうに顔を皺くちゃにした。放っておけば、金属の卵はトラックの下へ入ってしまう。

 エミは、卵を追いかけ、拾い上げた。

 黙って老婆へ差し出した。老婆は満面の笑みで、臭い息を吐いた。


「ありがとうよ。お礼に、いいものをあげよう」

「いえ、大丈夫です」


 恐怖すら覚えて、足早に立ち去った。

 けれど、家でスマホを見て驚いた。宛先不明のメッセージが届いていた。しかも、開封済みになっていた。


『さっきのお礼に、アプリを差し上げます。三分前の世界に戻れるアプリで

 す。尚、使用回数は十回まで。自分のためではなく、他の誰かを助けることに使用してください』


 気持ち悪くて、アプリを消去しようとした。しかし、何度操作をしても消えなかった。

 可能な限りアプリを無視して過ごし、不気味さが薄らいだ、ある日曜日。出張に出かける父と、駅へ向かった。ギリギリの時間になっているに関わらず、父はのんびりとしていた。おまけに、駅へ着くと売店でお茶を買うと言い出す始末。

 案の定、父がレジに並んでいる間に、乗車予定の電車は出発してしまった。


「まあ、次のでもどうにかなるさ」


 この、父の能天気さにはいつもながら呆れる。ため息をついていると、アナウンスが流れた。


『次に到着する電車は、先ほど発生した人身事故の関係で運転を見合わせております。運行再開の目処は、今のところたっておらず……』

「えっと、お父さん、社運をかけた大事な会議には間に合うんでしょうか」


 冷たいエミの言葉に、父は結露したペットボトルを取り落としそうになった。

 頭を抱える父に、ふと、例のアプリを思い出した。半信半疑で起動させた。激しい眩暈に、使用したことを後悔もした。けれど、三分前に交わした会話が再生され、エミは即座に行動した。

 のんびり歩く父を急き立て、売店へ行こうとするのを叱咤して改札へ押し込む。

 変な汗が出た。喉の渇きに、売店でお茶を買い、その場で一気飲みしていると、アナウンスが流れた。


『次に到着する電車は、……』


 アプリは、本物だった。


 それからも、エミは人のためにアプリを使用した。命を助けたのは、詩織が初めてだった。アプリを使えるのは、残り一回。

 最後の一回は、どんな場面で使うことになるだろうか。また命に関わるようなことに遭遇するのは、嫌だった。

 だが、成り行きとはいえ、詩織を助けた自分は凄い、とエミは思っていた。時間を戻せることは誰にも知られていないので、褒めてくれる人も居ない。

 ならば、自分で自分にご褒美を買おう。丁度、コンビニで数量限定のスイーツが販売されている。お高めだが、あれにしよう。

 なけなしの小遣いを握り、スキップしながらコンビニへ入った。

 目的のスイーツが置かれている棚の前で、エミは悲嘆にくれた。数量に達したので販売終了した旨をしらせる紙が置かれたところだった。

 あまりに悲しい顔だったのだろう。店員が、申し訳なさそうに頭を下げた。


「ついさっき、最後の一つが売れたんですよ」

「さっき、て、何分くらい前?」


 呆然としながら、口走った。店員は怪訝な顔をした。それでも時計を見上げ、首を傾げる。


「一分くらい、ですかね」


 後悔に襲われた。のんきにスキップなどせず、走ってくれば間に合ったのに。

 アプリを使えば。しかし、自分のために使ってはならない。貴重な、最後の三分。

 葛藤する間にも、時間が過ぎていく。最後のひとつが買われて三分以上経過してしまえば、時間を戻ってもスイーツは戻らない。

 心を決め、アプリを使用した。

 家からコンビニまで走り、スイーツを手にする。透明なケースの中で、スイーツはキラキラと輝いているようだった。

 満たされた思いでコンビニを出たエミの前に、あの老婆が立っていた。


「自分のために、使ってしまったね」


 残忍な笑みが目前に立ちふさがる。


「でも」

「言い訳は聞かないよ。それなりの罰を与えよう」


 どんな酷い仕打ちを受けるのか。命だけは助かるのか。死んだほうがマシなくらい不幸に見舞われるのか。青ざめるエミへ、老婆が手を差し出した。


「まず、その菓子をもらおう」

「え」

「ほれ。あんたが持ってるそれだよ」


 せっかく手に入れた最後の一つ。エミは、思わずスイーツを胸へ引き寄せた。だが、老婆の手も、物理的な距離では信じられないほど伸びてスイーツを奪われた。


「まあ、己のためといっても、これしきのこと。可愛いもんだよ。本来ならあんたの時間を全部没収するところだが。この菓子に免じて、罪を軽くしてやろう」


 ぺろりとスイーツを丸呑みした老婆の満足そうな顔が、視野一杯に広がった。眩暈がして、エミはその場に崩れ落ちた。

 が、気がついたとき、エミは売り切れを知らせる紙の前に立っていた。何が起きたのか、分からない。

 恐る恐る、スマホを手にした。思わず、悲鳴を上げた。

 振り返る店内の人々に愛想笑いで頭を下げたものの、激しい動悸は収まらなかった。震える指で設定を直そうにも、直らない。酷い呪いだった。

 壁紙にしていた推しアイドルの笑顔は、老婆のそれに変えられていた。


〈了〉

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