小さな楽園

九十九

小さな楽園

 暗黙のルールが有った。誰も彼もがけして口にはしないけれど、暗黙のルールが有った。

「真夜中に血を流してはいけないよ。誰の血も流してはいけない」

 小さな屋敷の中、子供達がひしめくその中で、暗黙のルールは息を潜めて獲物をうっそりと眺めていた。


「どうしてだろうね?」

 柔らかなカーブした赤毛の少女は、首を傾げて目の前で座り込んでいるブロンドを見つめた。

「何がだい?」

 ブロンドの美しい髪の青年は、ことりと首を傾げて少女を見る。青年の下からは湿った水音が絶え間なく鳴り響いている。

「どうして、君は血を流しているんだろうね」

 少女は青年の手元を眺めた。綺麗な桃色と濃すぎる赤色が青年の掌の上で踊っていた。温かく脈打っていたのだろうそれは、刻一刻と温度を失って「物」へと変わっていく。

「だって仕方がなかったじゃないか」

 青年は穏やかに笑って、其れまで弄んでいた桃色を引き抜いた。聞くに堪えない湿った音が木魂した。

「どうして仕方がなかったの?」

 少女は眉根を顰めて青年を窺う。その眼には薄い膜が張っていて、今にも眼下に嵌め込まれた美しい夕闇色から雫を落としそうだった。

「だって、こうしないと君がこうなっていた」

 こう、と青年は指さした。掌で弄ばれたそれは無造作に床に転がって、濃すぎる赤色を溢れさせている。赤色は少しずつ大きく広がって床を侵食していく。

「仕方が無いのかな?」

「仕方が無いさ」

 少女の問いに間髪入れずに青年は答えた。

「私が貫かれたなら――」

「仕方が無いんだよ」

 少女の溢した言葉を青年は遮った。

 少女は青年を見詰める。青年の口は大きく弧を描いているのに、眼はちっとも笑って居ない青年は、その先を聞きたくないとばかりに笑みを深めた。少女が頷く以外の選択肢を許してくれそうに無い。

「……うん。そうかもしれない」

 曖昧に頷くことしか出来ない少女に、一瞬眩しそうに目を細めて、青年は満足そうに笑った。彼にとっては、曖昧でも頷いてくれさえすれば良いのだ。言葉の先が少女の口から溢れなければそれで良いのだ。

 何度目だろうか、と満足げに笑む青年を見ながら少女は思った。何度目だろうか。何度、誰かを傷つけて、彼を血で濡らして、そうして彼を傷つけるのだろうか。終わらせる事さえ出来ずにいる、と「物」へと成り果てた温かかった物を見詰めた。


 持ち主に忘れられたかのように、ぽつりと取り残された小さな手の中には鈍く光る刃物が握られていた。

 少女は刃物に映る己の姿を見つめた。刃物の中の少女は歪んだ姿でそこに立っていた。刃物の曲線に合わせて歪んだ自身の姿はまるで。

「君を血塗れにする私みたい」

 少女は暫く刃物に映る己と見つめ合っていた。が、青年が鋭い指先で刃物を摘まみ上げると視線をブロンドの彼の元に戻した。ぱきり、と枯れ木を手折る様に青年の手の中で刃物が砕けた。

「君はこんな無粋な物の中に何か居ないよ」

 青年は鮮やかな、何処までも澄んだ青空が静かな眼で少女を見つめている。青年の眼に映る少女の姿は美しい姿をしていた。無垢な少女は、あどけなさの残る顔立ちで、けれど淑女の様な佇まいで青年の瞳の中に住んでいた。

「それでも君に血を流させる私は醜いよ」

 少女は夫を失った未亡人が憂う様に青年の腕を見た。ぱっくりと開いた傷口はもう閉じ始めているけれど、開いたと言う事実に変わりはない。

「それでも君を血濡れにする私は醜いよ」

 少女は罪人が罪の許しを請う様に温かった物を見た。嘗ては無垢に笑って夢を見ていたのに、今ではそれも叶わない。

「それでも美しい君が居なければ、夢を見る事さえ出来なかった」

 青年は微笑みながら一欠けらを咀嚼した。飴玉を口に含んで目を輝かせていた嘗て温かかった「物」の様に。

「どうだろう?」

 少女はポケットを漁ると飴玉を一つ取り出した。そうして赤い飴玉を濃すぎる赤の中に落とす。飴玉は溶けもせずに赤色の中に浮かんでいる。

「可哀想な子供達も、可哀想な化け物も、夢を見る事さえ出来なかった。夢に縋る事さえ出来なかった」

 青年は少女が落とした飴玉を暫く見遣った後、笑ってそれを拾うと口の中に放り込んで噛み砕いた。

「夢を知らなければ幸せだったかもしれないよ」

「夢を知らない侭より幸せだよ」

 少女は青年の青空色の澄んだ眼を見詰める。何処までも穏やかなその色に、少女の眼に張った膜が遂に決壊して、一粒の雫を夕闇色から溢した。

 青年は何時ものように少女の眦を撫でようとして、けれども今の己の姿を眺めて、じりじりとひりつく焦がれを抱きながら、唯少女を見詰めた。


 暗黙のルールが有った。誰も彼もがけして口にはしないけれど、暗黙のルールが有った。

「真夜中に血を流してはいけないよ。誰の血も流してはいけない。屋敷の中には化け物が居るから。化け物は君達の中に居るから」

 暗黙のルールが広まったのは何時だったか。子供達が囁く訳でも無いのに、どうしてだか、小さな屋敷での小さなルールは暗黙の内に広がっていた。

「真夜中に血を流してはいけないよ。誰の血も流してはいけない」

 誰も彼もが口に出さないのは恐れているからだ。隣人が化け物かも知れない恐怖に。己の迂闊な言葉が、もしかしたら免れていたかもしれない事象を白日の下に晒してしまう恐怖に。暗黙のルールの眼に触れてしまう恐怖に。

「誰の血を流してはいけないのか分からないのなら、誰の血も流してはいけないよ」

 誰を傷つけてはいけないのか分からないのなら、息を潜めて誰を傷つけることなく平穏に過ごさなければならない。大人になりたいのなら、幸せに暮らしたいのなら。

「真夜中は特にいけない。化け物が動きやすいから」

 例え昼間であろうとも「誰か」の血を流してしまったなら恐らく夜そうなるのはその者自身だ。其れでも「真夜中」と言葉を織り交ぜるのは炙り出す為であり、夜の無粋な行いを覆い隠す為でもある。

「化け物は常に目を光らせているよ。気を付けなさい」

 可哀想な子供達を集めて、そうして小さな屋敷に閉じ込めて、化け物はじっと見つめている。暗黙のルールを守れば幸せな大人になれるが、もし違えてしまったのならずっと可哀想な子供のままだ。可哀想な子供のまま、秘された悲劇の一部に成り果ててしまう。

「此処は小さな楽園だ」

 けれども、本当に大人になれるかは誰も分らない。未だ大人になって人が誰も居ないからだ。それでも子供達は希望に縋る。

 此処は楽園だ。可哀想な子供達の楽園だ。例え、暗黙のルールの中で飼われていたとしても。例え、昨日隣に居た子供が成れの果てになっていたとしても。此処には温かいベッドもお腹一杯食べられる御飯も有る楽園だ。

 だから、暗黙のルールに従って過ごさなければならない。真夜中に血を流してはいけない。誰かの血を流してはいけない。自分達がそうなりたくないのなら、暗黙のルールに従って、小さな屋敷の中で静かに、平穏に過ごさなくては成らない。大人になりたいなら。大人になるまで。

 「誰か」を見つけたって、「化け物」を見つけたって、可哀想な成れの果てになるだけだから。

「真夜中に血を流してはいけない。誰の血も流してはいけない。『誰か』を探してはいけない。『化け物』を探してはいけない。『誰か』を傷つけてはいけない。此処は楽園だから。『誰か』の為の楽園だから」

 其れが小さな楽園の暗黙のルールだ。

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