猫と鮫

 普通ならありえない、猫を助ける鮫の存在。それが現実であったから、彼女の隣を歩く男も現実の存在となってしまったのではないか。なんて、馬鹿げた想念に囚われていた僕もまた、鮫に助けられたことによって、理解し難いものであろうと現実とは常に付きまとうものであると改めて理解した。とはいえ、僕と猫と鮫がいつも暗くなった頃に海辺に集まるのは、やはり今でも夢ではないかと疑いたくなるのもまた事実なのだ。


 目を疑う光景に遭遇したとして夢だと疑うか現実だと信じるかは、自分自身と社会との関係性やその事象を起こした者あるいは物との関係性に大きく左右される。二つ例を出してみよう。あなたが家のテラスから海を眺めていて、桟橋から落ちた猫を鮫が助けるように背中へ乗せて、砂浜近くまで連れていった。それともう一つ。あなたが無職であるとして、彼氏もしくは彼女が異性と二人で、仲睦まじく歩いていた。その時にあなたはどう思うだろう? どちらも夢だと思うだろうか? どちらも現実だと思うだろうか? それとも別々? 隠す必要もないので明らかにするが、これらはどちらも先に述べたように僕の身に現実として起こったことなのだ。それなのに僕は、そのどちらもを夢だと思った。いや、どうだろう。思ったというのは正確ではないように感じる。思い込もうとした。その表現こそが的を射ている。そうして僕は絶望し、海へと飛び込んだのだった。しかし鮫は猫だけでなく僕も海から救い出したのだ。僕は今、猫と鮫と共に暮らしている。共にといってもお互いが干渉しあうことは基本的にない。僕は朝起きたら顔を洗って、歯を磨いて、洗濯物を洗う。そうしてから部屋を軽く掃除して洗濯物を干してしまうと、日がな一日海を眺めるのだ。猫はどこから来てどこへ帰っていくのか知らない。干渉しようとも思わない。ただいつも桟橋にやってきては魚を頂戴している。媚びへつらうわけでもないが、どうも釣り人たちからの人気を獲得しているらしい。鮫はいつも背ビレを海から出し、ある日は沖を、ある日は浅瀬を回遊している。それぞれが違う場所で違うように過ごしていて、どこが共に過ごしているのか、そう思われるかもしれない。けれどそうではない。日が落ちてからの数時間、その時間が僕らが共に過ごす時間なのだ。特に何時からであるとかを決めているわけではない。それ以前に猫と鮫の時間に対する概念は僕とは大きく異なっているはずだから、時間を決めることに意味が存在するとは思えない。なんとなく外が暗くなる頃、それぞれが好き勝手に集まりだす。僕の仕事はテラスに置いたランタンに火を灯すこと。灯が暗くなった空間に揺れるのを眺めていると、猫と鮫が訪れる。それとは別に、灯が揺れると猫と鮫の姿が浮かび上がることも。そうして集まって何をするのか。正直なところ、何をしているのかは僕自身も理解出来ていない。ただ僕は、毎回ある話をしている。それは今日も、同じ。

「あの男は誰なんだろう」

 欠伸をかみころす表情。猫はいつも眠たそうにしている。それは朝であっても昼であっても夜であっても変わることはない。たいして鮫はというと、宝石みたいに小さく丸い目でどこを見ているのか分からない。話をしっかりと聞いているようにも、全く聞いていないようにも、どちらにも見えるし見えない。

 そして僕はというと。

「もしかすると、ただ仲のいい男友達かもしれない。なぜかっていうと、あのあたりは彼女の地元だ。昔馴染みの友人の一人や二人、出会っていたっておかしくない。分かってる。そんなの分かってるんだ。それじゃあ確認したらいいだろっていうのかい? 猫のくせにいってくれるじゃないか。どうしてそんなに臆病なんだって? 鮫だって実際に、かわいいその目で見てみたら分かるさ。あれはただ仲がいいなんてもんじゃなかった。二人の間に流れる空気に色があったとしたら、きっと橙とか黄とかとても眩しくって見ていられやしないのさ」

 猫と鮫が話を聞いていようが聞いていまいが、理解していようが理解してなかろうが、どちらでも構わなかった。ただ僕の心を少しずつ吐露することで、自分の中にある彼女にたいする全てを整理したかっただけなのだから。一匹と一匹がどうしていつも付き合ってくれるのか、そんなことはどうでもいい。夜は長いようで短い。僕はまだ幾分喋り足りない。頭の裏を掻いていようが、突然尾びれで水面を打とうが、僕にはなんの関係もない。それは猫と鮫にとってもおなじなのだろう。僕の話なんて、猫と鮫にとっては何の関係もない。まず話が通じているのかどうかすら怪しいのは、今更いうまでもない。それでも猫と鮫に、孤独という共通項から親近感を抱いてしまう。

「その点、僕のまわりにはいつまでも、緑とか青とか寒色系の空気が漂っているんだってことは容易に想像できる。緑が羨ましいっていうのかい。それは猫だから、野原の中で駆け回るのが性に合っているからじゃないのかい? 青が羨ましいっていうのかい。それは鮫だから、大海原で泳ぎ回るのが常識だからだろう? そういうことじゃないんだよ、全く。えっ、それじゃあ僕のまわりにあるべき色は何色かって? それは、きっと、彼女と同じように橙とか黄とか……。確かに、それは彼女の色であって、僕の色ではないかもしれない。でも同じでありたいと思うことは別に罪ではないだろう」

 果たしてそうだろうか。悲観するわけではないが、同調しなければ彼女に近付けないのであれば、彼女に近付くという行為自体が嘘で塗り固められたものであって、それを彼女が迎合するとは思えない。嘘というのは罪だ。極論ではあるが、誠実に生きる日々と嘘に塗り固められた日々を並べ立てた時に、どちらが罪深いかと問うたら多くは嘘で塗り固められた日々だと答えるだろう。罪には罰が伴う。この一連の出来事は、罪に対する罰なのだろうか。ここは懺悔の場。少しはこれで罪が軽くなったりするのだろうか。少しは神に許されたりするのだろうか。


 何日目のことだろう。猫が右の後ろ脚を引き摺るように歩いていた。それから更に数日経って、鮫の尾びれに傷を見付けた。

 それらが自分の姿に重なる。

 猫はいつもと同じように欠伸をかみころしているが、灯の先に伸びる影がいつもより激しく揺れていて、鮫も周囲にいつもより高い波を立たせている。それらは僕の心にずっと居座っている、動揺と怒りそのものであった。僕は気付く。表層化された動揺と怒りを見つめて、気付く。それらはあまりに表層的すぎて、道化師や仮面を被った人間を見ている時と同じ、深層にあるものを悟られない為の演技であるのだと。

 僕が猫と鮫に語った話の全ては、僕を庇護している。そして彼女を打ちのめそうとしている。自分自身の精神的健康を快方へ向かわせようとするあまり、僕は僕以外の全てを締め出した。だから猫の声だって聞こえないし、鮫の視線だって感じない。周りの全てを自分の都合に付き合わせ、それでいて利用して、僕は醜く歪にひん曲がった心を守ろうとしていた。猫と鮫はしっかりと現実へと、僕を回帰させる神の使いだったのかもしれない。

「分かった。君たちがそこまでいうなら、僕にも考えがある。今ここで彼女に電話して、あの男が誰だったのか聞いてみよう。これで少しは君たちだった納得いくだろう?」

 猫と鮫が僕を見ているのを、しっかりと感じ取った。

「も、もしもし。僕だけど……」

 それ以降、猫と鮫の姿は見ていない。


 僕はいまだにだれかに助けられる人として存在している。彼女は気まぐれで、円らな瞳で。それはまるで神の使い。神の使いが、間もなく天使を連れてくる。あと一ヶ月もすれば、彼女のお腹にいる子は生まれているだろう。言葉にしてしまえば、あっという間に終わってしまうようなことではあるけれど、一生心の深層に根付く出来事というのは確かにあるのだ。しかしながら、それは本人にとっての貴重でしかない可能性が高い。今、僕の話を読んであなたがどう感じたのか。僕が猫と鮫と出会ったあの日々が、あなたにとってなんてことないものであればあるほど、僕にとってあの出来事が貴重であったという証明になるようなそんな気がする。

 僕と彼女の間に流れる空気の色を、あえて口にする必要もないだろう。夢のような日々。これは現実だろうか? それだって、あえて口にする必要もないのだろう。

 

 あの幾つかの夜を過ごした猫と鮫に。


(了)


 【編集・翻訳者解説】

 この作品を鮫小説とすることに抵抗のある方もいるだろう。なぜなら、この作品に登場する鮫はモチーフではないからだ。


 「猫と鮫」というタイトルであることで、あたかもこの猫と鮫に対してスポットライトが当たるのではないかと勘違いしてしまうが、彼らは主人公の心情の具現化であり、さらに作品中の言葉を使うとすると、それらはあまりにも表層的すぎるのだ。これが何を意味しているのか。

 少し考えてみよう。小説においてビジュアルイメージを掴ませるには、丁寧かつ仔細な描写を用いる方がよいと考える人もいるだろうが、そうではない。誰もが知るものの固有名詞をぽんと提示するだけの方が圧倒的にビジュアルイメージを掴ませることが出来るとは思えないだろうか? 例えば『繁華街の裏路地で黒い毛並みをしっとりとした雨で濡らした手足の短い猫が、人間を毛嫌いするような剣呑な目をこちらに向けて歯を剥き出している』なんてまわりくどい文より『繁華街の裏路地で体の濡れた黒猫が僕を威嚇している』の方が万人にとっては理解されやすいとは思えないだろうか?

 しかし、最初の文と後の文には明確に違う点がある。それは、『繁華街の裏路地』で『しっとりとした雨で濡らした』猫が『人間を毛嫌いするよう』にと描写することでビジュアルイメージだけでなく、その裏にあるこの猫と人間の確執のようなものを感じ取らせようとしているのが分かる。後の文についてはそのような確執については読み取れない。

 この「猫と鮫」という作品ではあえてその表層的な部分のみからビジュアルイメージを読み取らせることで、関与を浅くしようとする作者の意図が汲み取れる。これは当時の主人公の社会に対する反応、そのものでもあるのだということに気付くだろう。この作品の面白いところはまさにそこである。表層的な要素を用いることによって、逆に深層を語ろうとする手法。これは普段沖で生活していながら、なぜか人間を襲う時に浅瀬にわざわざやってくる鮫を描く、そんな鮫映画の逆をいくような構造だとは思えないだろうか。古い作品でありながら、今読んでも新鮮さや考えを提供するコンテンツとして、この作品は残っていくのではないだろうか。

 たまにはこのような鮫小説も必要だと、私は考える。

 

 余談ではあるが、作者のエンリケは日本に訪れた際に出会った猫をとても気に入ったらしい。この作品に現れる猫のイメージはその時の猫なのではないだろうか。


【原本】

 Gato y tiburón

 Enrique Collado Villa

 1983年

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ノベルシャーク〜鮫小説アンソロジー〜 斉賀 朗数 @mmatatabii

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