シャークマウンテン

 鮫が俺の左足に噛みつく。

 パドリングをしている人間が、鮫にはアザラシに見えるという話を聞いたことはあった。だからといって現実に、それが俺の身に起こるとは思ってもいなかった。鮫がぶつかり激しい衝撃がサーフボードの下から伝わった。痛みよりも恐怖が全身を貫ぬいたかと思うと、無防備な姿で海に投げ出された俺の左足を鮫が奪い取っていく。

 やめろ、返せ、足を、俺の左足を、返せ。

「うっ、ぐわっ。はっ」

 例年以上の暑さ。茹だるような暑さのせいか悪夢のせいか、どちらにしろ全身を汗まみれにして目覚めた。

「また、あの夢?」

 ウェットスーツの前に付いたファスナーを、臍の上あたりまで降ろしたナオミが呆れた声を出した。

「ああ、そうみたいだ」

 声は浜辺に集う人々の喧騒に紛れていく。数多の人で溢れかえるカリフォルニアの海。これだけの人が集まるのも納得がいく美しい海ではあるが、あの夏と同じかそれ以上に暑いせいで鮫の目撃情報が相次いで報告されていた。海水温の上昇が関係しているのではないか。砂浜に集まる人々はそんなことを語っているが、事実なのかは不明であるし、元よりそんなことはどうだっていい。何故なら俺は鮫の専門家でもなければ、鮫でもない。それにもうサーフィンをする勇気が沸き立つこともない。全身から噴き出た汗が原因なのか、今はもうない左足の先が痛んだ。

 鮫が海に出現すること。それはサーファーにとっては大層迷惑な話なのは間違いない。俺がまだ波に乗っていた頃、無骨なゴシック体で書かれた遊泳禁止の文字と妙に可愛く描かれた鮫の絵が描かれた看板は、呼んでもいないパーティーに現れてタダ飯を食らうゲスト以上に忌々しいものだった。

「足の具合はどう?」

 尋ねるナオミの目は俺を見てはいない。遥か先、ネパールと中国の境にある世界最高峰のの山エベレストを見据えているのだろう。

「悪くない」

 俺の言葉に満足したのか、普段あまり見せることのない笑顔を垣間見せた。その笑顔は初めて会った時に見た笑顔と同じくらい素敵で、俺はあの時からずっとナオミに惹かれている。

「それじゃあ、そろそろ行きましょう」

 ナオミはファスナーを一気に首元まで上げた。

「いつまでもここに居られるほど、時間はゆっくりとは進んではくれないからな」

 隣に置いた義足を足に付ける。過酷なリハビリに耐え、義足を自分の足と同様に扱えるくらいにまで努力したのは、当然自分自身のためではあった。しかし絶望で雁字搦めにされていた俺にナオミがかけてくれた、「海がダメなら山に登ればいいじゃない。山には鮫はいないわ。熊は出るかもしれないけれどね」という冗談めかした言葉に元気をもらえたこと。それに報いたいという気持ちがあったのも事実だ。プロのサーファーとして活動していた俺にとって、海は人生の全てだった。小さな小さな人生だった。そこから引っ張り上げて見せてくれた新たな人生。広い人生。俺はあの日、海ではなく山という、新たに輝ける場所へと招待された。輝かなければいけないと気持ちを新たにした。山で。新たな人生で。俺は、エベレストを新ルートで登頂する。ナオミと一緒に。


「サーフィンを愛する人間と、山を新ルートで登頂する人間には、共通点があるわ」ナオミはグラスを傾けて、カリフォルニアの海を彷彿とさせる青いカクテル――チャイナブルーに似ている――を一気に飲み干すと再び口を開いた。

「どちらも命知らず。だけど闇雲に突き進むわけじゃない。しっかりと自然の声に、耳を傾けることができるの。そうじゃないと、自然を相手にすることなんて、出来やしないんですもの。そうでしょ?」

「確かに、そうかもしれない」

 ネパールの小さな村で明日のエベレスト登頂に向けて備えていたのだが、同行するクルーが村の住人と親交を深めたことで酒を飲むことになった。あまり酒に強くないナオミは、そのせいで幾分饒舌になっている。どうしてこんな村にいくつもの酒やリキュールが揃っているのかと不思議ではあったが、その疑問はすぐに解決した。エベレスト登頂に向けて村を訪れる人間たちは、世話になるお礼にと酒を持ってくることが多いらしい。そして酒はどんどんと溜まっていき、飲み切ることが出来なくなった酒を時折こうやって振る舞うそうだ。

「さすがに飲み過ぎじゃないか?」

 ビールやウイスキーくらいしかなければ、ナオミだってこんなには飲まなかっただろう。まさか粗方のカクテルが作れるほどの、リキュール類まで揃っているとは恐れ入った。とはいっても明日の午前中には、もうエベレスト登頂を開始しなければいけない。こんなに酒を飲んで、明日に影響されてはたまったもんじゃない。ナオミの持つグラスを奪い取って中身を一気に呷った。

「ちょっと、私のドリンクよ。なに? 間接キスでもしたかったわけ?」

 クルーたちの間に笑い声が広がった。新ルートでの登頂は、すでに開拓されたルートでの登頂以上に死が付きまとう。山のプロであれば、それは理解しているはずだ。だがナオミたちのクルーの中から、死人が出たことはない。それが気持ちの緩みになっていることを感じた。驕って得をすることなんてなにもない。

 笑い声に包まれながら、かつての俺自身を思い出した。海。眼前に広がる白波。風を読み、波の大きな声に紛れる小さな鼓動を読み解く。自然と向き合うことは容易いことではない。風だけを意識してはいけないし、波だけを意識してもいけない。風と波、そして自分自身の恐れと自信とも対峙して、やっと立派なサーファーになることが出来る。自然と向き合うということは、結局のところ自分自身と向き合うことだ。今の俺は当時の俺よりそれを深く理解している。鮫に足を食いちぎられたことで、自分自身へと深く深く潜り込むことが出来たから。だが深追いしすぎたことで、恐怖に打ち勝つことが出来なくなっていった。本当に俺が恐怖を感じているのは、鮫ではなく自分自身なんだ。俺はまだそこから逃げている。目を背けて逃げている。俺は本物にはなれない。でもナオミならアルピニストとして、少しでも、間接的にでも、俺に本物の景色を見せてくれるのではないかと思っていた。

「あとは好きにすればいいさ。だがこれだけは、いわせてもらう」だからこそ、クルーたちの態度が気にくわなかった。

「俺はあんたらを、ナオミを信じてここまでやってきた。だから、わざわざ死を近づけるようなことはしてほしくない。俺は一度死にかけた。それなのに神の都合かどうかは知らないが、まだ生きている。せっかく拾ってもらった命だ。無碍にはしたくないね。それも酒くらいで。俺はもう寝るよ」

 扉を開けて外に出た。エベレストから吹き下ろしてきた風は、母親が幼子に優しく触れるように、俺を撫でていく。ジーンズの尻ポケットに手を差し入れて取り出した、潰れてしまった箱。中は無事みたいだ。煙草を口にくわえる。

「悪い子どもですまないね、母さん」

 横からジャッと擦れる音がして、ジッポに灯った火が差し出される。なにもいわずに、くわえた煙草を近付けた。いっぱいに吸い込んだ煙が、体全体に染み渡る。そんな気がした。

「煙草。体力落ちるわよ」

「自分だって吸ってるだろ」

「私は特別」

「特別な人間なんて、存在しない。みんな凡人さ」

 煙を吹きかけると、ナオミはじっと煙が去るのを待った。その姿はもう酔っているようには見えない。本物の目が俺を見た。

 それじゃあ、どうして私と一緒にいるの?

 そう目が訴えている。しかしナオミは、「もう寝るわ」というと静かに俺の煙草を奪い取り、自分が寝る小屋へと入っていった。

 仕方なくもう一本煙草を取り出し口に運んだ。あらゆるところを探したが、ジッポもマッチもどこにも入っていない。諦めて煙草を箱にしまった。いつまでも、もやもやと燻っていたって仕方ない。俺は小屋に向かって歩き出す。小屋の扉を開いた時、聳え立つエベレストから聞こえる雄叫び。唸り声。いや、風の音だ。俺はまた、なにかに怯えている。体が震えた。いや、それだって少し夜風を浴びすぎたせいだろう。小屋で暖まって眠ろう。


 今年の夏が例年以上に暑いのは、カリフォルニアだけに限った話じゃない。アメリカ全土ひいては全世界どこもがそうらしい。ここエベレストにおいてもその影響は強く、いつもであれば白いカーペットに覆われているはずの場所ですら、土足でぐちゃぐちゃにされた雨の日の庭みたいな黒い山肌と大きな灰色の岩が剥き出しになっていた。それは異様な光景だった。白いカーペットの雪と氷が溶けたということは、それによって隠されていた色々なものが現れたということでもある。エベレストのような高い山では、登頂に失敗するものもいる。失敗した人々は、死体として山に残されることになるのだが、気温が低いこともあって死体は腐り果てていくことはない。冷凍保存されたように、亡くなった時の姿を維持していた。しかしそれは過去の話だ。現在ここには死体がいくつも転がっている。それだけでも異様な光景だというのに。

「あれ、なにかしら」

 ナオミが気にしているのは、死体じゃない。動く黒い山肌。跳ねる黒い山肌。今までに何度も見てきた、それでいてなにかが決定的に違うもの。魚。それは間違いなく魚だった。しかし俺が海で見たことのないような、図鑑の中でしか見たことのないような、古代の魚に似た様相。

「おいおい、夢じゃないよな」

「顔でも引っ叩いてみる?」

「いいや、勘弁しておくよ」

「それにしたって、一体なにが起こっているっていうの」

 あまりにも不可思議な現象にナオミは困惑の色を隠せない。隠そうともしない。その間にも俺はいくつか仮説を立てる。一番しっくりくるものが一つ。しかし、こんなことが本当にあるというのだろうか。

「ナオミ。これはあくまでも仮説だ、想像でしかないということを念頭に置いてくれ。マンモスが永久凍土の中から、ほぼ完全な状態で発見されたことがある。完全な状態とはいっても、さすがに生きてはいない。そんなの当たり前のことだ。でも、もしも、しみったれたSF映画みたいに、氷河期の急激な低温の中で、コールドスリープをされたみたいになっちまった魚がいて、それが偶然、徐々に、徐々に、解凍されていって、偶然にも命を吹き返したとしたら?」

「ちょっと待って。もしそうだったとしても、どうしてこんな山の上で? あなたの住んでるカリフォルニアとは違うのよ? ここはエベレスト、どれくらいの標高だと思う?」

 そういわれるだろうと予想はしていた。それに対する解答は一応用意できている。ただ俺だって突飛すぎる発想で、普段なら右から左どころか、まず耳にすら入れないレベルの想像。それを口にするのは少し憚られた。しかし、それ以外になんの発想も浮かばないとしたら。

 それを一番の解答にするしかない。

「山っていうのは、どうやって出来るか知っているだろ? 一つは火山だ。噴火して溢れ出た溶岩が固まり、また噴火して固まり、それを繰り返して積み重なって山になる。でもここは、ヒマラヤ山脈は違う。断層と断層がぶつかり合ってできた盛り上がりの部分。いうなれば紙を左右から押して、近付けてったら出来た皺の部分。だから、昔からこの標高だったわけじゃない。もしかしたら昔は、ここだって海の底だったのかもしれない」

「そんなことがあるの」

「じゃあこの状況をどう説明するっていうんだ? これ以上に的確な仮説をご教授いただけるっていうなら、神に中指だって立ててやるさ」

 強い風が吹いた。その風に乗る、地を揺らす唸り声にも似た音。

「なんの音?」

 周囲を見回すナオミ。

「風さ。このあたりは、よく強い風が吹くんだ。急いで抜けた方がいいぜ。ここから転げ落ちたくなけりゃあな」

 クルーの一人――シュンという名前だった気がするが、日本人の名前を覚えるのは苦手なので定かではない――が、右側の崖に顎を向ける。また強い風が吹いた。その時、なにかの影が、視界の端を横切ったような気がした。目を向けてそちらを見やるが、前に広がるのは黒い山肌と大きな灰色の岩、それに死体と多くの魚。そこにあるものは、なにも変わっていない。それなのに妙な違和感を覚えた。胸騒ぎがする。

「ナオミ。なにか、変じゃないか?」

「なにか、って、なにが……」

 ナオミは口を噤んだ。

 大きな灰色の岩の向こうから、人のような影が倒れ込んできたのを見たからだろう。人だったはずのそれは、上半身の一部と頭を欠損していた。そこから覗く赤黒い血を滴らせる内臓。その中で嫌でも目を惹く白い部分は骨だろうか。

「なんなの、あれ。それにあの服。マックスと同じだわ」

 俺たちは全員が周囲に目を配った。今ここにいるクルー達の人数は、俺を含めて六人。一人足りない。マックスの姿がない。いつ、いなくなった。それより、どうしてマックスはあんな姿になってしまったんだ。

「みんな、やっぱりなにか変だ。音を立てない方がいい」

「熊だ。熊が岩の向こうにいるんだよ! 留まっている方が危険だろ、こんなの。オレは山を降りるぞ!」

 ウィルソンは、「単独行動は危険よ」と引き留めるナオミの声を無視して、一人で山を降りていこうと山肌を踏みしめていく。大きな灰色の岩に反響して、二重に聞こえるジャリジャリという音。唸り声が聞こえる。風の音じゃない、本物の唸り声。

「ウィルソン! しゃがめ!」

 俺の声は、大きな灰色の岩に阻まれた。ウィルソンが先程まで立っていた地点へ、岩は移動していた。そして岩の奥から吹き出す血が、一帯を赤く染める。岩だとばかり思っていた。岩であって欲しかった。

「メガロドン……」

 大きな灰色の岩だと思っていたもの。

「なんなのこれ……なんなのよ!」

 それは、すでに絶滅したはずの超巨大鮫メガロドン。

「走れ! こいつから少しでも遠くに。行け。行け!」

 胸騒ぎと違和感の原因はこれだったんだ。しかし原因が分かったところで、それがなくなるわけではない。むしろ先程までより、それらは拡張していく。眼前に迫る本物の鮫を見たことで、恐怖に付随する怯えが胸騒ぎをひどくした。小さな魚が山頂付近にいるというだけで違和感を覚えていたというのに、メガロドンがいて更に地を這い人を襲っているなんて。B級パニックムービーよりひどい現実。

 無理に走ったせいで、義足との接続面がひどく傷む。

「ジェイコブ、急いで!」

「いわれなくたって、急いでるさ」

 ナオミたちは俺より前を走っていき、本物の岩の後ろに身を隠していた。後ろに迫る唸り声が次第に大きくなっている。後ろを振り返る余裕なんてない。

「ヘイ! こっちだ、デカブツ!」

 日本人クルーが、岩の後ろから飛び出し駆け出すと大声を上げた。メガロドンが声に反応して俺から意識を離したのを、後ろから漂っていた濃密な殺気の気配が去ったことから認識した。

「シュン、そっちは危険よ!」

 メガロドンが、日本人クルーのシュンを目掛けて地を這っていく。その時になってようやく、メガロドンの全体像を見ることができた。今までに何度も近くで鮫を見たことはあったが、メガロドンの大きさは鮫というよりは鯨の方が近い。いや、もしかすると鯨よりも更に大きいかもしれない。それに歯の一本一本がゆうに三〇センチを超えている。あの歯で噛みつかれたら、どんな生き物だってひとたまりもないだろう。大きな口は人間どころか牛だって丸呑みにしてしまいそうだ。それに、鮫の肌にできたいくつもの傷。これだけ大きければ、集団で狩りをするような賢い水生哺乳類に襲われることも、ままあったのではないだろうか。そんな死線をいくつもくぐり抜けてきたからこその威圧感は、さながらベルトを死守するヘビー級からミニマム級まで全階級のボクサー十七人と対峙しているようにも思えた。

「クレイジー」

 ナオミたちの下に辿り着いた時、無意識に漏れた言葉。

「鮫がシュンに気を取られている内に、なるべく遠くへ向かうわよ」

「山を降りていく方がいいのか? それとも登るべきか?」

「当然、登っていくに決まってるでしょ」山頂を振り返り、ナオミは少し目を細めた。

「マックスとウィルソンを、無駄死にさせるわけにはいかないわ。彼らに手向ける花は、登頂成功以外にあるはずないもの」

 クルー一同が頷いた。

「その為には、あのメガロドンをどうにかしないといけない……か」

「そういうことね」

「メガロドンを倒そうなんて、本当にクレイジーだ」

 呆れたように、わざと肩を落として首を振る。

「そうかもしれないわね。でも今は、一旦距離を置いて作戦を練った方がいいわ。無闇に飛び込んだって、あの鮫の歯に挟まる肉の破片になるだけ」

「ああ、ナオミのいう通りだ」

 ナオミと頷きあい、急いでその場を離れた。シュンに助けられ、生かされた俺の命。無駄にするわけにはいかない。まずは作戦を考えないといけない。メガロドンを始末するための作戦を。


「そんなの、うまくいくとは思えないわ!」

「大きな声を出すんじゃない。メガロドンの餌になりたいのか」

 山頂を目指して進んでいけば、メガロドンは追って来ないと考えていた。しかしそんな考えは甘かった。メガロドンは器用に胸ビレを動かして、地上を這いずりながら山を登ってきたのだ。じっくりと作戦を練っている時間はない。かといって所持品で役に立ちそうなものといえば、アイゼンとアイスアックスくらいのもので、これではどう足掻いてもメガロドンに立ち向かえるとは思えなかった。

 そこで考えた作戦が、誰かが囮になってクレバスにメガロドンを落下させるというものだ。いくら例年以上の暑さとはいえ、クレバスのような大きな氷の塊は全て溶けきってはいなかった。この作戦を実行するには、事前にクレバスにラダーをかけておき、メガロドンをそこまで誘導する必要がある。そして囮役がラダーを渡りきれば、メガロドンがラダーに乗ったところでラダーは重量に耐えきれずクレバスへ落ちていくというものだ。ただしこの作戦には、いくつものクレバス以上に深い穴といえる問題があった。まず一つ目に果たしてメガロドンを落とせる程の幅があるクレバスが存在するのか。二つ目にもしそのサイズのクレバスがあったとして、メガロドンに追いつかれるより早くラダーを渡り切れるのか。三つ目にもしラダーを素早く渡りきれたところで、メガロドンが不用意にラダーへと足を踏み入れる――便宜上、足と表現しているが、メガロドンに足はない――のか。そして本来であればこれに四つ目の、誰がその囮役をするというのかが追加されるわけだが……。

「仕方ないだろ。他の作戦がすぐに思いつくなら、こんな無茶はしないさ。だがどうだ? 誰も別の作戦を思いつきやしない。これじゃあ日が暮れちまう。いや、日が暮れるのを拝む前に全員メガロドンの腹の中だ。何もしないで、やつの腹に収まるのか? 俺は嫌だね。惨めだといわれようが、生きるための努力はさせてもらうよ。とはいっても、俺の命なんて、本当ならもう無くてもおかしくない命だ。一度は海で神に助けられて、さっきはシュンに助けられた。人に繋いでもらった命だ。それなら他の人間の命を繋ぐために使いたい。俺がメガロドンをクレバスに叩き落としてやる」

 囮役は俺がするから、四つ目の問題については解決済みといえる。幸先がいい。

「ジェイコブ……」

 不安そうにこちらを見るナオミやクルーの姿を目にすると、無意識の内に気が引き締まった。この間にもメガロドンは、山肌に転がっている先人たちの死体をなぎ払いながら、刻一刻と近付いてきている。急がなければならない。距離を置いて見ても変わらない、メガロドンの威圧感。今はもうないはずの左足の爪先に疼痛が走る。俺は覚悟を決めた。

「ナオミたちは、近くのクレバスにラダーをかけてきてくれ。なるべく大きなクレバスだと助かる」

「分かったわ」ナオミが俺の手を握る。

「無理はしないで……」

「無理をしないと勝てない相手だ。ただ、無茶はしない。約束する」

 手を離して岩の後ろから飛び出す。大きな声を出して気を引こうとしたが、そんな必要もなくメガロドンは俺の気配に気付いた。風の音に似た唸り声。先程こっそりと準備しておいた使い捨てカイロの中に入った鉄粉に水をかけたものを、ナオミたちとは逆方向に投げる。噂で使い捨てカイロに水をかけると発火すると聞いたことがあったからだ。しかし使い捨てカイロは、なにも反応を起こさないまま山肌に落ちただけだった。メガロドンは首を傾げるようにしてから、カイロの方に向けていた顔を俺の方にゆらりと動かす。

勘弁しHolyてくれよclap

 大きく開いた口蓋。血の付着した歯。生温かい息。二〇メートル以上も離れているのに、全てが鮮明に俺へと迫り来る。使い捨てカイロを投げた方とは逆方向に、急いで駆け出した。メガロドンが忙しなく胸ビレを振って移動する。早い。少し先でクレバスにラダーが渡されている。いつも以上に迅速な設置ではあるが、間に合いそうにない。メガロドンは当然のように、こちらの都合などお構いなく進行を続ける。これでは全員がメガロドンの腹の中だ。そうなるわけにはいかない。とても得策とはいえないが、俺は意を決してアイスアックスを手にした。背後に迫るメガロドン。生温かい息よ濃度をより濃密に感じる。もうすぐ後ろに迫っている。その気配を感じながら、俺はクレバスに飛び込んだ。

「ジェイコブ!」

 向こう側に届かないことは分かっていた。それで良かった。後ろのメガロドンを、クレバスの底に落とすことができるなら。俺一人の犠牲で、ナオミたちが生き残るなら。それなのに本能とは、それが上部うわべの感情べあることをあっさりと見抜いてしまう。手に持ったアイスアックス。これは俺が生きたい証。眼前に広がる溶け出している氷の壁面にアイスアックスを打ち付けた。左手。そして右手。左手側はうまく壁面に打ち付けられず宙ぶらりんになってしまったが、右手側は奇跡的に深く打ち付けることができた。後方上部に目をやるとメガロドンはしっかりと後を追ってきている。それを確認すると、右手に一層の力を加え全身を支えた。左手を義足へ。焦らず、しかし迅速に義足を外した。

「お前みたいに息の荒い犬っころは、骨でもしゃぶってな」

 俺から離れた方角へ義足を投げると、メガロドンの興味がそちらに向いた。その一瞬の隙。落下するメガロドンはどんどんと加速していて、ちょうどその隙は俺の横を通る瞬間に訪れた。メガロドンが俺に向き直ろうとして、身をよじっている。しかしその巨躯は無慈悲にも落下を続け、俺との距離を伸ばしていった。尾ビレや胸ビレが壁面に当たったことで作り出される小さな氷のダスト。この状況で湧き上がる感情としてはそぐわないかもしれないが、きらきらと光を反射して輝く様子がとても美しく思える。俺は再び左足を失ってしまったが、前回とは違い清々しく、そしてなにより誇らしい気持ちになっていた。

「大丈夫!? 今、ロープを降ろすわ。それまで、なんとか耐えて!」

 ナオミたちが溶け出した氷の壁面の端からロープを垂らしている。ロープを体に巻きつけてから、しっかりそれを握った。ナオミたちがロープをひっぱり上げる時、なぜだか数日前にカリフォルニアの浜辺で見た光景が頭をぎった。ナオミがウェットスーツの前面に付いたファスナーを、首元まで一気に上げたあの光景が。


 鮫が俺の左足に噛みつこうとする。

 パドリングをしている人間が、鮫にはアザラシに見えるという話を聞いたことはあった。だからといって現実に、俺の身にそれが起こるとは思ってもいなかった。鮫がぶつかり激しい衝撃がサーフボードの下から伝わった。俺は左足の義足を外して、下へと落とす。鮫はそれを追いかけ、海底へと沈んでいった。左足を奪われることへの恐怖は、もうどこにもない。

 例年以上の暑さ。茹だるような暑さのせいで、全身を汗まみれにして目覚めた。

「また、あの夢?」

 ウェットスーツの前に付いたファスナーを首元まで上げて、ナオミが呆れた声を出した。

「ああ……いや、違うな」

 汗を拭い、隣に座るナオミの手に触れる。左手の薬指に光るリング。

「もう怖くない?」

「そうだな。もう大丈夫だ」立ち上がり、ナオミとは反対側に置いたサーフボードを手に取る。

「海に入ってくる」

 屈んで左手の人差し指を、ナオミの唇に押し当てる。だか、その指は軽く振り払われた。

「もう、やめてよ。ちゃんとキスして」

 本当のことをいうと、今でも海と山の両方に恐怖を覚える。だが、俺の横にはいつもナオミがいてくれる。それだけで俺の恐怖は、下へ下へと落ちていく。海底か、クレバスの底かへ。深く深く。

 ただ今でも恐怖が急浮上してくる瞬間がある。エベレストの山頂付近で遭遇した、メガロドンのことを考える時だ。本来、鮫はえら呼吸をする生き物だから、陸上に長い間留まるのは難しい。それなのに、どうしてあのメガロドンはあれだけ陸に留まれたのだろうか。もしかすると今でもクレバスの下で、メガロドンは生き続けているのではないだろうか。

 そんな考えを振り払うように、押し付けた唇をそっと離す。今では毎日見ることになったが、いまだに飽きることのない笑顔をナオミは見せてくれた。その笑顔は何度見ても、初めて会った時に見た笑顔と同じくらい素敵だ。メガロドンのことなどすっかり忘れて、俺の心は幸福に包み込まれる。

 響く風の音。響く波の音。今年のカリフォルニアは、例年以上に暑い。


(了)


【編集・翻訳者解説】

 今これを読んでいる読者がどれだけ鮫小説に詳しいかは存じ上げないが、このアンソロジーで初めて鮫小説に触れたという読者であっても、タイラー・A・ラッセルの名前を聞いたことがあるという方は少なくないだろう。

『JAWS』という映画が鮫映画の先駆けであるとするなら、この『シャークマウンテン』が収録されている『サメザメとした毎日(原題:Days of Sharks)』は鮫小説の先駆けである。そしてタイラー・A・ラッセルは鮫小説のパイオニアと称されて然るべきだろう。

『シャークマウンテン』は、無理のある設定や無茶な行動などB級の要素を色濃く出しながらも、主人公のジェイコブがトラウマに立ち向かう姿勢や比喩表現の独自性などという点で、A級的な要素も滲ませている。この絶妙なバランスが、タイラーを鮫小説界の名手と呼ばせる所以だろう。


 この作品は、なによりメガロドンという古代の巨大鮫が山に現れるという設定が突飛でありながら、それらしい説明を一応つけている点に好感が持てる。しかし最後のあたりでジェイコブがメガロドンに対して疑問点をあげるように、不可解で説明のつかない部分がある。これは勘のいい読者であれば分かるかもしれないが、続編への布石なのだ。続編が気になる方は、『マウンテンシャーク〜海へ帰る〜』を読んで欲しい。こちらもまた名作である。

 今作におけるメガロドンとの一戦。これは数多ある鮫小説――とはいっても、ゾンビ小説には劣るが――の中でも随一の面白さではないだろうか。使い捨てカイロに水をかけて投げるが、なにも起こらずHoly clapと呟くシーンなどはにやりとしてしまった。すでに読了した読者なら、私の意見に頷いてくれることだろう。


 物語冒頭の夢のシーンと似た展開が、物語終盤で繰り返される。しかしメガロドンとの心理戦に打ち勝ったあとであるから、精神的な余裕を持って悪夢を乗り越えたと思わせておきながら、実際は隣に愛するナオミがいることで恐怖に打ち勝っていることが分かる。同時にそれは、ナオミがいなければ恐怖はまだジェイコブの中に残っていることを意味する。そう簡単に恐怖は消えないし、消す必要もない。しかし、それに囚われて本当に大事なものを見落としてはいけない。そんなタイラーのメッセージが夢のシーンに込められているように思える。

 もう一つ印象的なシーンといえば、ナオミのウェットスーツ前面にあるファスナーではないだろうか。これについては、あまり書くと野暮な気もするが、端的にいうならば女心といったところだろう。どういったところでファスナーが上がっているか、意識して読んでみると面白いかもしれない。

 いやはや、野暮なことをいってしまうのは、鮫界隈の人間にありがちな悪い癖だ。B級作品の野暮な台詞を聞きすぎているせいかもしれない。これについては反省である。

 そして私は、話が逸れやすい点についても反省すべきだろう。


 前述したように『シャークマウンテン』と『JAWS』の関係は似ている。実はこの二作には切っても切れない関係があるからだ。それはどちらの作品も発表された年が同じであることからも想像に難くないだろう。この話をすると、この本がアンソロジーではなくただの鮫小説・鮫映画解説本になってしまうので、これくらいにしておこう。出版社のお偉方が、こちらにサメた目を向けているのを無視するわけにはいかないのでね。


【原本】

 Days of Sharks

 Tyler A Russell

 1975年

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